札幌市清田区の町内会連合会でつくる「あしりべつ郷土館運営委員会」が管理運営しています。

明治18年頃 「学田地」と「厚別演習場」

  • HOME »
  • 明治18年頃 「学田地」と「厚別演習場」

明治18年頃 清田にあった「学田地」と「厚別演習場」

「大日本帝国陸地測量部 大正5年測量 2万5千分の1地図」より

 

 左記の地図は、大正5年(1916年)頃の清田地域の地図の一部です。

 この地図の中ほどに、「學田」と記されてあり、すぐ右横に「厚別演習場」と、記してあります。

 

1.「学田」(がくでん)<学田地>とは
 小学校や大学など学校が所有した山林・田畑のことです。
 北海道の開拓初期の学校は公立の学校であっても、主に住民の拠金によって子弟の教育が維持されていました。そこで開拓使は、教育運営の補助のため、各学校(村)に土地を与え、そこから上る収益をもって学校運営(教育費)の安定化を図ろうとする施策をとりました。
 そして、明治15年5月23日には「学田の規則」等が作成されたのです。
 学田の付与は、明治17年(1884年)頃から始まりました。

2.月寒村に依る「学田地」願出書の図面

「明治十八年六月 札幌縣治類典 土地測量第貳地理課」(北海道立文書館 所蔵)より

 

 明治17年頃月寒村への学田の付与が予定されましたが、土地の関係で決定しませんでした。
 学田として40万坪の願出をしています。
 真栄(20万坪)と平岡(20万坪)です。(これ以前にも願出を行っていました。)

 

 

3.「月寒村厚別一帯連絡図」に依る「学田地」

「月寒村厚別一帯連絡図」 あしりべつ郷土館 所蔵

 

 明治30年代前半の地図と思われます。
 左図は、明治18年4月21日付けで下付されたと思われる「学田地」です。(上が南側になります。)

 土地は、20万坪(間口400間・奥行500間)の広さです。
 場所は、あしりべつ橋から東側の登り坂を越え、室蘭街道路の南北(現在の平岡地域)に所在しました。

 

 札幌本道(現在の旧国道36号線)の厚別地域に「月寒村學田地」と記してあります。
 北側(地図の下側)約8万坪・南側(地図の上側)約12万坪 計 約20万坪となります。
 左角が「平岡南小学校」に当たります。右側の道は、「美しが丘自動車学校」の通りです。

4.「月寒歩兵第二十五聯隊」による学田地の交換(練兵場用地・厚別演習場)
 月寒村の学田地が与えられて、収益を基に子どもたちの教育の充実を図ろうとした時、思わぬ事態となりました。学田地を「練兵用地(厚別演習場)」とする事が決まったのです。

<明治34年12月26日付 「北道タイムス」より>

○國有未開地交換の認可稟請
札幌支廳部内札幌郡月寒村学田地六十八町八反二十歩は今回歩兵二十五聯隊に於て練兵場用地として必要に付き要求ありたる處同地は地味粗悪耕地に適せず将来の見込みなきに依り、國有未開地の相當地積と交換認可の儀を昨日同村戸長より久保支廳長に稟請せり

 記事には、『平岡にあった月寒村学田地68町8反20歩のすべてを、月寒歩兵第二十五聯隊の「練兵場用地」とする事を決めました。他の土地と交換して月寒の学田地とします。』と書いています。

※ 月寒歩兵第二十五聯隊について
 月寒村に、明治29年、「独立歩兵大隊」が新設されました。その後、明治32年に「歩兵第二十五聯隊」と改編された兵隊の組織です。
 兵員は、平時で2,000人、戦時で6,000人が常駐していました。

5.厚別演習場の図面 <「厚別一帯連絡図」と一致しています。>

札幌法務局南出張所 「昭和7年8月・9月調査・昭和8年8月・10月調査 昭和55年1月再製」の図面より

 札幌法務局南出張所法務局の係の方のご協力により、本来の「厚別演習場」の敷地を復元する事が出来ました。
 左図がその図面となります。
 斜線の土地に、「陸軍省」「字厚別」の記入があります。「学田地」の土地(広さ・位置)とぴったり一致しました。
 それでは、交換した月寒の「学田地」は、どこにあるのでしょうか。そのことについて、「記念誌ひらおか」には、北広島市の土地(ニンベツ)であると記してあります。(予測は付くのですが、詳しいことは分かりません。)

6.終戦後の学田地(陸軍地)の解放
 「厚別演習場」(元陸軍地の演習場)は、終戦解放され昭和21年に、「平岡開拓団」が設立されて開墾が始まりました。その事により、現在は開けた土地となりました。

現在の清田区にあった「学田地」の状況(位置の概略です)
 学田地の広さは、206,420坪ありました。
 右角(東側)は、平岡南小学校の裏手となります。
 そこから北側に道筋が走り、頂点の角地に達します。途中にはイオンの平岡店があります。
頂点から西へ向かう道筋は、北野通・旧国道36号線を横切り、国道36号線に至ります。
 その西側の境界は複雑なので、図を参照ください。
 東側は、平岡南小から南への道筋があり、旧国道36号線に達し、更に美しが丘公園までほぼ直線です。そして、公園から西側の崖地に達する区画となります。
 「学田地」には、旧国道36号線から美しが丘公園までの小径があり里塚霊園まで続いていました。
 以上のような「厚別演習場」(練兵場)が戦前まであったという事です。
 先に掲載した地図ですが、大正5年頃には、平岡の「学田地」は既に「厚別演習場」なっていました。「学田地」として存在しなかったのですが、国土地理院としての調査では、「学田」が未だあると思い込み、二重に地図に記載されたものと思います。

記:きよた あゆみ

<本編>明治18年頃 清田にあった「学田地」と「厚別演習場」

<外伝>「学田地(厚別演習場)」であった「真言宗 至勢山 観霊院」

<外伝>「学田地(厚別演習場)」の境界を示す不思議な風景と径

<外伝>「厚別演習場」の境界を示す径  その2

<外伝>厚別演習場(平岡)の弾薬庫のこと


最近のトピックス

イベント案内

リンクサイト

アーカイブ

PAGETOP
Copyright © あしりべつ郷土館公式ホームページ All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.