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明治30年頃 トンネ川とカクサボシ橋

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明治30年頃 トンネ川とカクサボシ橋

1. 清田団地内を流れるトンネ川
 古くから清田団地内を流れていた「トンネ川(トンネウシナイ)」といっても、清田区の人々に余り馴染みの薄い川となってしましました。それというのも、田んぼは無くなり、現在のトンネ川は清田川の川筋に一本化されて、区別が付かなくなっているからです。
 注:トンネはアイヌ語で楢の木のこと。トンネ川は、楢の木が生い繁る川の意です。
 川の流れだけを見ても、清田川かトンネ川か掲示の川名を見て分別する状態となっています。
 しかし、清田団地が造成される以前は、清田川(無名の川で、後から命名された。)よりもトンネ川の方が地域の人々に知られていました。稲作の農業用水に利用されていたからです。

下図は、昭和25年 国土地理院の清田地域である。
 地図には、厚別川・清田川・トンネ川の流れがあり、トンネ川の流域全体が水田であるように記してあります。
 清田川より広い流域(川筋)が稲作地帯であったと言えます。
 トンネ川の流れは、上流から現在のヤマダ電機(馬背山)の台地を囲むようにして旧国道36号線に達すると国 道沿いに進み、現在のコカ・コーラ工場の中央付近から道路を横断(この箇所に架かっていた橋が「カクサボシ橋」でした)して流れ、厚別川に合流していたのです。
 合流地点は、吉田用水と交差する形となっていました。
 左の地図にも橋の記号が記されてあります。
 上流の流れが旧国道36号線と出会った箇所には、「星ノ池」が在ったように古い地図には記されています。
 ところで、「カクサボシ橋」というのは、耳慣れない橋名です。何に由来しているのかについて「地域史・地誌研究家」杉浦正人氏によると「カクサボシ橋」の名前は、新田織之輔(助)の屋号 ● に依るであろうと推測されました。私も氏と同じように推察しています。
 そこで、新田織之輔(助)について少し記す事とします。

2.新田貞治・織之輔(助)について 
 明治4,5年、南1条西1丁目南側に、旅宿「秋田屋」に替わり、「秋田屋」の一室を借りて開いた店がありました。函館から進出した新田貞治の呉服商で、屋号が  ●「カクサボシ」でした。
 明治前半期の札幌を代表する大店です。新田呉服店からは、※(屋号)今井藤七(呉服、洋物)をはじめ、※(屋号)後藤半七(米穀荒物)、※(屋号)岡田佐助(文具)などが独立し、名だたる商人に育っていきました。

「札幌繁榮圖録」には、札幌区南2條西1丁目13番地  ● 本舗 新田織之輔 とあります。
 新田貞治は、南1條西1丁目の本舗を拠点として、南2條西1丁目店を構える程に拡充させ、米穀荒物商を営み、大きな利益を上げていました。当時の様々な情報誌には、その盛況ぶりが窺えます。
 しかし、子息の織之助は商業を厭い、借家貸金の監理に従事し、商務を一族に委ねて雑穀の投機売買を始めていました。小豆の暴落のため多大の損失を招く事態にも至っています。
 新田貞治(織之輔)の隆盛期は短く、明治34年以降衰退の一途を辿っていきました。
 注:屋号の  ●「カクサボシ」は、当時、札幌では新田貞治(織之助)商店のみです。

3.新田織之助に払い下げられた厚別の土地
 ところで、新田織之助が土地の払い下げを受けた文書は、現在3件あります。
・1つ目は、「地域史・地誌研究家」杉浦正人氏による、「新札幌市史」(P709)記載です。
 新田織之助へ「払下土地墾成調」「月寒村」の土地<54,243歩(坪)>の下付です。(地名は月寒村とありますが、月寒村の何処なのか特定して記していません。)
・2つ目は、「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」(あしりべつ郷土館所蔵)の図面に記載があります。・新田織之助4,565坪 ・新田織之助4,565坪 ・新田織之助52,000坪 以上の3箇所で  合計が、61,130坪 となっています。
 (図面の年代が確定できていませんが、明治30年代前半と思われる図面です。)
・3つ目は、北海道立文書館に所蔵の、「札幌郡月寒村売払実測図(明治28~明治32年)」(簿書A7-2・1552-2)明治31年8月27日付けで、新田織之助が月寒村字厚別に土地(6万1631坪)の払い下げを受けた文書です。
 そこで、2つ目の「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」(あしりべつ郷土館所蔵)と3つ目の「札幌郡月寒村売払実測図」 (文書館所蔵)の図面をご覧いただきます。清田団地のトンネ川の東側に新田織之助と記された<図面1><図面2>です。
比較対象するために、図面の方向の向きを同じにしてみました。(上が南側です。)
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<図面1>
「厚別一帯連絡図」より
連絡図の上部中央に記載があります。

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<図面2>
「厚別749番地」文書館所蔵
注:図面は、筆者の模写図です。
色抜きの中央の土地は新田織之助の所有地ですが、右下部分も織之助の土地となっています。

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 どちらの図面も、トンネ川上流に位置し、 <図面2>では、下流域まで達していたようです。
 <図面1>では3か所あり、<図面2>では、畑6万1631坪とトンネ川下流域です。
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 文書館所蔵の<図面2>は、以下のような記載となっています。

月寒村字厚別749番地 新田織之助 所有地図面(道立文書館所蔵)

札幌區南二条西壱丁目十三番地  新田織之助
明治丗一年八月廿七日払下  七四九番地
明治三十一年八月十六日
連絡図謄写 事業主 石井簾吾

(左図は、筆者の模写図です。)

 

4.新田織之助に払い下げられた厚別の土地状況
 新田織之助の所有地を、現在の図面に位置づけすると、以下のようになります。

<注:上が南です。>

 現在の厚別川の西側に位置し、国道36号線の南側に当たる付近となります。
 昔日のトンネ川の本流筋を青色で記してみました。

 新田織之助氏の所有地は、左図の緑線の枠内他南側2か所ですが、 「札幌郡月寒村売払実測図」では、緑線の枠内ばかりではなく、西側(図の右側・トンネ川沿いの土地)に所有地があるように記されてあります。

 トンネ川の川筋は、清田中央公園の辺りを通ってヤマダ電機付近で蛇行して、コカ・コーラ工場の中央付近から道路を横断し、厚別川へ流入していました。

 新田織之助の所有地は、トンネ川の下流の川筋一帯を含むような敷地(358番地、359番地、360番地、361番地)となっていたようです。そして更に、トンネ川に沿って旧国道筋付近まで所有していた可能性が考えられます。そのような事から、稲作のために便宜上、橋を架けたであろう事が十分に考えられる状況です。
 新田織之助は「カクサボシ橋」を架けるに十分な資金と立地の条件が揃っていたと言えます。

 注:「カクサボシ橋」については、「札幌のアイヌ地名を尋ねて」<P142>に『見上権治郎さん・・・コカ・コーラの工場のそばに、国道にカクサボシ橋という小さな橋があります。』と証言しています。

5.「カクサボシ橋」と「清田1号橋」
 ところで、この「カクサボシ橋」が清田川に架かる橋になってしまう事態が発生します。
 それは、弾丸道路を造成した昭和28年の事です。
 弾丸道路を施工する際の「道路の平面図」で、厚別川(橋)と清田川(橋)の箇所です。

「国土交通省 北海道開発局 札幌開発建設部 札幌開発部 公物管理業務課」所蔵
「一級國道三十六號線 月寒 広島間 区域変更 平面図」より

現在の厚別川の厚別(あしりべつ)橋(右)と 清田川のカクサボシ橋(左)

 厚別橋のメモには、鉄筋コンクリートT桁、橋長(ℓ)21m 幅(W)7.5mと記してあります。
 厚別橋の周辺は、道路拡幅のため川の両側の用地が買収されました。厚別川は、直線化以前の、蛇行した状況の川筋です。

 現在の清田川に架かる橋について、「カクサボシ橋」(現在の清田1号橋)と記してあります。
 カクサボシ橋は、鉄筋コンクリート函渠(かんきょ)で、幅 W=7.5m ・ 橋長 ℓ=3.5m とメモ書きされてしています。
 この図面には、本来のトンネ川の「カクサボシ橋」についての記載がありません。
 最早、この当時、橋としての形状ではなく、暗渠化され普通の道路となっていたようです。
 札幌開発建設部の方は、「カクサボシ橋」の事を調べようと出かけた私に書類を提示しながら、「カクサボシ橋は、現在の清田1号橋の事です。」とお話しされました。

6.明治と令和の架け橋としての「カクサボシ橋」
 弾丸道路を施工した昭和28年からかなりの歳月が流れましたが、地域の方の中には、清田川に架かる橋を「カクサボシ橋」と記憶されている方もおられるようです。
 しかし、いつから名称が変わったのかは分かりませんが、清田川に架かる橋の名称については、現在「清田1号橋」(旧国道の橋)となり、2号橋はなく、「清田川3号橋」「清田川4号橋」「清田川5号橋」とあります。厚別川に架かる(国道36号線)の橋名は、「清田橋」となっています。

 「カクサボシ橋」は、遠くなりにけりという感は否めません。
 明治初期に盛況を極めた新田織之助の架けたであろう(架橋の資料は未確証です)「カクサボシ橋」は、夢のまた夢となってしましました。けれども、地域のために、稲作のために、行き交う交通のために架けた橋名を留めて置きたいと願っております。歴史を追い求める中での事績(足跡)として、また明治と令和の架け橋としての浪漫としてです。どこかに、記念碑を設置できないだろうかとも思っております。 よろしくお願いいたします。

記:きよた あゆみ

<本編>明治30年頃 トンネ川とカクサボシ橋

<外伝>昭和51年頃 トンネ川が清田川と合流


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