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昭和19年 清田地域の地名の変更について

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昭和19年 清田地域の地名の変更について

1.「太政官布告」明治2年己巳(つちのと み)

明治2年8月15日、太政官布告によって「蝦夷地」を「北海道」と改称し、同時に11国86郡としました。
ここにはじめて石狩國(いしかりのくに)札幌郡が誕生しました。

北海道11の國(くに)には、渡島(ヲシマ・七郡)・後志(シリベシ・十七郡)・石狩(イシカリ・九郡)・天鹽(テシホ・六郡)・北見(キタミ・八郡)・膽振(イブリ・八郡)・日高(ヒダカ・七郡)・十勝(トカチ・七郡)・釧路(クシロ・七郡)・根室(子モロ・五郡)・千島國(チシマノクニ・五郡)がありました。
※根室(子モロ)は、(ネモロ)です。

「北海道史附録」(大正7年発行)より 「明治二年末 使省藩士族寺院管轄圖」

石狩國には、石狩(イシカリ)・札幌(サツホロ)・夕張(ユウハリ)・樺戸(カバト)・空知(ソラチ)・雨龍(ウリウ)・上川(カミカワ)・厚田(アツタ)・濱益(ハマヽシケ)の九郡がありました。

注:左図には筆者の加筆があります。

「管轄圖(図)」には、開拓使・兵部省・佐賀藩・片倉小十郎(士族)・佛光寺(寺院)等々の名が記されて土地を管理し、開拓使が北海道のすべてを統轄していない事が分ります。
新政府が、まだ混迷の統治状況であった政治的な様子が窺える「管轄圖」となっています。
明治4年頃になって、政府は各諸藩の土地を取り上げて、開拓使の管轄となっていきました。
尚、左上の樺太(カラフト)には、「日露雑居なり」と記され、國にはなっていません。

2.清田地域の地番・地域の名称
明治2年当時、清田地域は、札幌郡の「千歳道」と呼ばれていましたが、明治4年5月25日に「月寒村(つきさっぷむら)」と「村名御改正」となりました。
明治35年、二級町村制がしかれ、豊平村・月寒村・平岸村の3村が合併して、「豊平村」が誕生しました。
明治40年4月1日に、一級町村制がしかれました。
明治41年6月、「豊平町」と改称し、札幌郡 豊平町 大字(おおあざ)月寒村(つきさっぷむら)字(あざ)厚別(あしりべつ)と記載するようにしました。
明治43年4月、大字豊平村の横町以北を分離して、「札幌区」に編入しています。
(詳細は、「豊平町史」昭和34年3月31日発行 P65他を参照ください。)
<明治43年以後、「豊平町」の時代が、長く続きます。>
そして、昭和19年に、「字名・地番の改称」が行われました。
昭和36年になり、豊平町が札幌市と合併し、「札幌市 豊平区」となりました。
平成9年に、豊平区から分区して、「札幌市 清田区」となり現在にいたっています。

(清田地域は、古くは月寒村の端にある集落で、その後、豊平村の一農村となり、次いで豊平町の一農業地域となりましたが、それほど特色ある目立った地区ではありませんでした。
平成9年になり、ようやく清田区として、札幌市の1つの区としての位置に至りました。
余り歴史のない住宅地域<昔は水田地帯>と思われがちですが、多くの歴史遺産に所在する区であることを「あしりべつ郷土館」のHPで知っていただきたいと思います。

3.字名(あざめい)・地番の改称の見直し
前述しましたように、「清田区」の「清田」の地名は、昭和19年(字名・地番の改称)以前は、月寒村の「字(あざ)厚別(あしりべつ)」と呼ばれていましたが、昭和19年12月1日より、字名改称により変更となりました。
豊平町が改正したのには理由がありました。
それは、当時「月寒」と漢字で書いて「つきさっぷ」と月寒村の人々が呼んでいたのですが、読みが難しいとの「月寒歩兵第25連隊」の要請によって「つきさむ」としました。
また、清田区の「厚別(あしりべつ)」と、白石区の「厚別(あつべつ)」の区別が難しい事が多くなってきました。その上、「厚別(清田)」地域の戸数が増えて、1,000戸以上となりました。
土地の地番を地域ごとに付けていませんでしたから(土地の届け出の順番に地番を付けていたようです。ですから、離れて遠い箇所の土地であっても、次の地番が付きました。)、郵便局の人は、配布物を届けるのに大変苦労しました。
漢字の「厚別」を「あしりべつ」と読むことが難しかった事も変更の理由の1つでした。
それらの事を受けて、豊平町役場(議会)で豊平区全体の地名・字名(あざめい)が見直されたのです。
昭和19年10月15日付けの「北海道廳告示」

北海道廳告示第千四百二號
札幌郡豊平町ノ各大字ヲ癈(廃)シ 字名ヲ左ノ通 改稱(称)シ 其ノ字界區(区)域ヲ
別紙圖(図)面ノ通 變(変)更シ 昭和十九年十二月一日ヨリ施行ノ件許可シタリ
尚 之ニ伴ヒ 地番ヲ 別紙圖(図)面ノ通 變(変)更ス 但シ 別紙 調書圖(図)面ハ
豊平町役場ニ備置ク
昭和十九年十月十五日    北海道廳(庁)長官  坂  千 秋

清田地域は、「厚別(あしりべつ)」の名称から、「清田」「眞榮(真栄)」「北野」「平岡」「里塚」「有明」の6つの名称に変更されました。
厚別(清田)地域に関係する地名(新規地名と従来の名称)は、以下の通りです。
※「厚別」の読みは、当時「アシリベツ」と呼称されていました。

○「清田」・・・ 厚別・厚別北通・厚別南通・厚別川上・厚別焼山
○「眞榮」・・・ 厚別・厚別南通・三里塚・器械場・焼山・厚別西山
○「北野」・・・ 厚別・北通・二里塚・厚別北通・二里塚奥・大谷地・北通厚別川
○「平岡」・・・ 厚別・三里塚・北通
○「里塚」・・・ 厚別・三里塚・三里塚北通・米山・大曲川尻・大曲川沿・野津幌・大曲・土橋
○「有明」・・・ 厚別・厚別南通・厚別西山・厚別川上・ニンベツ・三瀧ノ澤・ニーベツ・西山・厚別上流

「北海道廰公報 第千四百二號」より(部分) (北海道立文書館 所蔵)

以上のような多くの名称が厚別の地域にあり、居住の人でさえ把握出来なくなっていました。

4.地域名を付けた願いや理由

5.「豊平町史」よる区域地図

左記の地図は、「豊平町史」(昭和34年3月31日 1959年 出版)<部分>巻末の附録地図によります。

北より、北野・平岡・里塚・清田・真栄・有明という地域となります。
真栄・有明は、山間部があり広い地域となっています。
当時は、北野から里塚に至る直線の国道36号線が完成していませでした。
広島村(現在の北広島市)との境界は、大曲川(野幌川)です。
北野地域については、吉田川が東月寒地域との境界となっています。

農業研究センターの東側が清田・真栄・有明の境界となっています。

現在は、上記の地名の他に、「平岡公園東・平岡公園・里塚緑ヶ丘・美しが丘」の地域名が住宅地や公園の造成によって付けられ、清田区の生活空間が広まっています。

<参考として>  豊平町の字名(あざめい)

「豊平町史」(昭和34年3月 発行)参照  <P15 他>

〇 昭和19年3月27日の町議会において、
「月寒」(つきさっぷ)を、「月寒」(つきさむ)とする事を決定しています。
※当時の千歳線の「月寒駅」は、「つきさっぷ」のままで変更しませんでした。
〇 昭和19年4月21日の町議会において、
「御園」を「美園(みその)」に、花ケ岡を「簾舞(みすまい)」と修正しています。
〇 更に、昭和22年5月31日の町議会(認可は6月1日施行)において、
「八紘(はっこう)」を「東月寒」に、修正されています。

このような経緯によって、現在のような地域の名称が定着していきました。

記:きよた あゆみ

<本編>昭和19年 清田地域の地名の変更について

<外伝>アイヌ語の先駆者 白野夏雲について

 


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