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明治13年 厚別水車器械所と「器械所通」
1.「厚別水車器械場」について
「あしりべつの滝」のすぐ近くに、開拓使が米国から水車による動力の製材器械を輸入して、明治13年2月に「厚別水車器械場」が設けられました。
札幌の町づくりのための木材が必要となり、早急に使える建材を造るために設置されました。地下には水車の動力を備え、1,2階を工作器械場としました。
建坪は、12間×8間の96坪の建物でした。
昭和54年の地図に「厚別器械所凡千分壱之圖」を重ねてみました。(概略図です。)
「器械所」の位置は、現在の滝野すずらん丘陵公園の「あしりべつの滝」から250m ほどの所に在り、導水して器械所のタービンを回す動力としました。
「滝野の森ガイド」の吉田裕二氏に依りますと、「器械所」の原図(北大所蔵)は、傾斜地に依る誤差が生じているとの事でした。確かに現地は、かなりの崖地となっています。
2.器械類の購入と厚別器械所の建物
明治十三年三月 取裁録 厚別器械所
<簿書3948> (北海道立文書館 所蔵)
「取裁録」には、厚別器械所に設置された器械類の種類と大きさやその価格が記されています。
どのような製品が設置されていたかを記してみます。
「開拓使事業報告」には、器械所に、柾挽が3個、大圓鋸が1個、柾鉋が2個、小圓鋸が1個、横切鋸が2個、鏇床が1個の計10個の機械があると記してあります。
<器械所について>「札幌工業管理局引継書類」(簿書 7764)より
器械所の大きさは、桁行(長)12間×梁間(幅)8間、建坪が96坪の2階建造りでした。付属の施設として、土留板柵・水引掘・水溜堀・水吐口・掘割板・水門4ケ所・平高欄付槗4ケ所 等の設備が各所に据え付けられていました。
注:槗(キョウ・ハシ)の意味は、「つるべの横木」のことで、水門の開閉に使用したと思われます。 1間は、約180㎝、1尺は、約30㎝ です。
この様にして「厚別器械所」に機械類が搬送され設置されました。「開拓使事業報告」第参編の物産には、次の様な経過が記されています。
〔明治十三年〕二月 厚別水車機械所建築成ル
厚別の機械所は、資本金12、198円32銭4厘で、明治13年2月に竣功しました。
「滝野小学校閉校記念誌」(昭和46年3月31日発行)には、「器械所」が出来ての状況を次の様に記しています。
ただでさえ冬季になると仕事のない札幌の労働カが、どっと出稼のかたちで、冬山造材中の厚別水車器械場におしかけたのです。山々にこだまする仙夫たちのかけ声、馬のいななき、密林をきり開く活気は北海道の造材を見た人でなければ感得できない情景でしょう。とにかく、水車器械所をとりまく働く人の動き、尾根伝いに木材を運ぶ馬車でいっぱいだったのです。 (以下略)
周辺には、芝居小屋・商店・飲食店が建ち並び、かなりの盛況であった事が窺えます。
<水車元車について>「札幌工業管理局引継書類」(簿書 7764)より
水車元車は、地下を掘り下げて動力の水車タービン2基を据え付けました。
水車タービンは、径35インチ(88.9cm) と、径28インチ(71.12cm)で、元車の水枡は、幅13.5尺(約4.05m)・長 22.5尺(約6.75m)・深 26尺(約7.80m)の中に備えられました。
注:1インチは、2.54 ㎝、1尺は、約 30 ㎝
この事から、厚別川の水を引き込み、落差が約8mで元車を回した事になります。
上記の写真は、現在でも滝野周辺に残っている「厚別器械所」の痕跡です。
「明治十六年 札幌工業管理局引継書類 管理局」(簿書7764 道立文書館)より
器械所全体の建物についての記載です。
「柾庫」110坪(1棟)及び、「人足溜所」52坪(1棟)と記しております。
3.製品の柾と柾庫との人足溜所について
製品の柾は、屋根柾で、葺足2寸5分(約7.5cm)の柾でした。製品は、長柾ばかりでなく他の製品を製作していました。主製品が「長柾」だったようです。
「さっぽろ文庫23 札幌の建物」(昭和57年12月15日発行)には、「(厚別水車」器械柾」について詳細を記していますので転載します。
長柾の大きさは、(長さ)45cm×(巾)12cm×(厚さ)1.5㎝の製品でした。
そして、製品の柾を保管する倉庫「柾庫」は、110坪もある建物となっていました。
相当な大きさの倉庫と言えます。
図面を基に、仮に<5.5間×20間>とすると、約10m×約36mとなります。
製材運搬の「人足溜所」(52坪)もまた大きな造りとなっています。
備考として、雪隠(便所)が4坪程であった様で、総坪数が56坪との記載です。
図面から仮に<4間×13間>とすると、約7.2m×約23.4mとなります。
内部の造りがどの様なものであったか分かり兼ねますが、52坪ですから104畳あります。かなりの人数が寝泊り出来るよう配慮された建物であった事が窺われます。
ここに居住まいして、必要に応じて運搬したのであろうと推測されます。
馬屋の設置が記されていませんが、「豊平町史」<P900>に「当時牛や馬で運搬したそうである。」との記載が有ります。トーマス・W/ブラキストン著「蝦夷地の中の日本」<明治16年(1883年)2月から10月日刊新聞>では、「木材はその場で鋸で板にひかれるか、屋根板材用に割られるかする。さもなければ、建築用として牛車で札幌へ送られる。」と記し、「滝野小学校閉校記念誌」<P40>では、「この木材が馬車で澄川を通り札幌に運ばれたわけです。」と記されてあります。
山地の径路(細い山道を上り下りする)ですから、牛馬を使用したのでしょう。「人足溜所」が広いのは、その対応が在ったのかも知れません。
この「長柾」は、豊平館ばかりでなく、当時の多くの建築物(清華亭・藻岩学校・開拓使博物場・始審裁判所・経王寺本堂・札幌師範学校等)に使われたと思われます。
その製品を運んだ道が「器械場(所)通」でした。
「器械場(所)通」については、数葉の古地図に径路の記載が有ります。そこには、1 本の径ではなく2本の「径路」が設定されていました。
当初は、器械所から月寒村(室蘭街道)へ至る径で、そこから札幌本府の必要箇所に運ばれていたと推定しています。(詳細は後述します。)
その後、器械所から平岸村(平岸街道)への径が開削されました。この径は、どちらかというと直線に近い径で、札幌本府へも距離的に近かったので、開削後は、ほとんどこの径を使うようになったと思われます。
それでは、器械所の製品である長柾等を運んだ径「器械場(所)通」について、その径路を辿って見る事とします。
4.「厚別官林」の測量と「器械所通」の設定の調査について
「厚別官林」の測量について、「開拓使事業報告」<P311>に次の様に記しています。
「開拓使事業報告原稿」号外二 工業課報告(簿書7141)にも、同じような記載がありますから、明治12年(1879年)に行われたと思われます。
そして、器械所が設定されるのを見越して、器械所の多くの機械類及び完成後の製品を運搬するための道路の開削が行われています。
「開拓使事業報告」土木<P532>に次の様に記しています。
「厚別山路」は、6,480間ですから、約11,664m(約12km)となります。
この月寒村から札幌本府まで、約6kmの距離がありました。
明治13年2月に「厚別水車器械場」が設置されましたが、その機材類がこの道を運んでの竣功となりました。「厚別山路(器械所通)」によって出来た製品を運んでいたのですが、もう少し近道が無いかを測量し、選定する事が行われました。
「開拓使事業報告原稿」号外二 工業課報告(簿書7141)及び「開拓使事業報告」<P314>に次の様に記しています。
詳しい内容については、「管内道路実測復命書留 從明治十一年六月至十八年九月 本廳地理課」北海道立文書館蔵(簿書9413)に記してあります。
概略について記して置きます。
地理課八等属の若山恒道に「厚別水車場への道路測定」の命が下りました。
明治13年11月上旬出張調査し、明治13年12月16日付で復命書を報告しています。
地理課八等属 若山恒道の復命書 (北海道立文書館蔵)
本郡厚別水車場ヘノ道路測定トシテ去月上旬出張先ツ該方域ハ字精進川ト厚別川トノ中間ナルモノト仮定シ平岸村及月寒村ノ両地ヨリ現路ニ沿ヒ左右山澤ノ形状ヲ測量シ或ハ月寒川ト精進川又ハ精進川ト厚別川之間タ山脉渓流ヲ縦横数回跋渉シ以テ良好ノ地勢ヲ発見スルヲ努メタリ然シテ撰路ニ適スル好地形ヲ指要スルニ寧ロ現時往復道路ノ地勢ニ劣トスルモ斯ニ優ルノ良地アルヲ観ザルナリ (以下省略)
「管内道路実測復命書留 從明治十一年六月至十八年九月 本廳地理課」より
要は、精進川と厚別川の中間地点に設定するよう仮定して、平岸村及月寒村の両村の山脈や渓流を踏査してみましたが、適した好地形の道路を選定出来ませんでした。寧ろ、現在使用している往復道路が地勢的に余り良くありませんが、この径以上に優れた道路(径路)は発見できませんでした・・・との報告となっています。
その事で「器械所通」は、報告文の通りに使用する事となったようです。
それでは、その「器械所通」は、どの辺りを通るような道であったのかを探っていきたいと思います。
結論からすると、「器械場」より「月寒村」に至る道路(現在の水源池通)となります。
「水源池通」は、北上すると月寒西2条8丁目で、国道36号と交差する径です。
当時、月寒村の人々が生活のために山に入り込むための道だったと思われます。
明治13年頃、月寒村の人々(あしりべつ地域の住人も)が「伐木願」を提出して、建材・炭焼・生活用の柴や燃料を確保するために、この山地(焼山周辺や奥地)に入った記録が、「明治十三年山林願 取裁録 自四月至九月 地理課」(簿書03863 北海道立文書館蔵)に残されています。
この径は、当時「器械所道」<径1>と呼称として、地図等に記しています。
ところが、この「器械所道」を利用すると、札幌市街に至るにはかなり遠過ぎたため、新たに、ほぼ直線に近い道路が開削されました。それが「厚別新道・器械場道路」で、「器械場」から「平岸の天神山付近」に至る道路でした。
滝野の森ガイド 吉田裕二氏に依りますと、内村鑑三著『余は如何にして基督信徒となりし乎』に、「キリスト信徒によって測量され、キリスト信徒によって建設された道を、私たちは最初に踏んだ・・・」と記してあり、明治15年9月頃、内村鑑三氏は、キリスト教布教のため、この開削の道「高速道路(尾根の道)」を経由して器械場を訪れました。
この道の距離は、概略ですが約12km余でした。ですが、札幌中心部まで約5kmとなります。直線に近い道のりと、多少ですが札幌本府まで距離的に近くなりました。
その直線に近い「高速道路」を「器械場道」<径2>と呼称しています。
それでは、当初の「月寒村」に至る「器械所道」<径1>と、「平岸村」に至るほぼ直線の「器械場道」<径2>を地図等の資料により確認する事と致します。
5.古地図による「器械所通」の経路について
注として、古地図は有るのですが、地図製作の年代が明確でない図も有ります。
古いと思われる順に転載し、付記する事といたします。
下図<1 図>がそれとなります。
「厚別山林 大約四万分壱之図 飛朱点大約千弐拾壱万五百五坪」 (北海道立図書館蔵)
「厚別山林」図は、「厚別官林」図とも言えます。
この地図に、器械所や 「器械所通」が、記されてあります。
注:「厚別山林」については、別項をご覧ください。
左図には、月寒川沿いに「器械所通」(細赤線)<径1>が、器械所まで、記されています。
現在の「水源地通」(月寒西2条8丁目で、国道36号と交差)となっていますが、器械所までの径は、かなり曲線の多い道となっています。
右図に、「器械場道」(太赤線)<径2>を記してみましたが、かなり直線に近い径となっています。高速道路(尾根の道)と銘打つような径です。
尚、薄いタッチで、「器械場道」の道程が、描かれているように感じました。
次の図は「厚別山林」大約四万分壱之図 (先の「厚別山林」の拡大図です。)
「厚別山林」
飛朱点大約千弐拾壱万五百五坪
(北海道立図書館蔵)
「厚別山林」図は、「厚別官林」を工業局属地と第二特選官林とに分けています。
この地図に、器械所や「器械所道」則ち、<径 1>が記されてあります。
「器械所道」は、器械所から厚別小川(現在の山部川)の「三ツ股川」の付近を通って月寒方面への道となっています。
「月寒川沿い」の道で、この地図においては、高速道路(平岸街道・平岸天神への道)が記されていません。
当初は、この径を通って製品を運んでいたと推測されます。
ところが、「厚別山水車器械所属地」「開拓使事業報告原稿 号外二工業課報告札幌」(簿書7141)より
(北海道立文書館 所蔵)
「厚別山水車器械所属地」図は、器械所の所有する土地図です。
この図面には、器械所や「厚別新道」<径2>が、記されてあります。
器械所から平岸方面への道路が付けられた事が判ります。
この径は、モツキサップ川と精進川の間を通るように開削された道路となっています。
最早、月寒村へ向かう道「器械所道」は、途中で切れたように記されています。
近道の「器械場道」が開削されると、距離的に近いこの径が専用に使用され、月寒村方面への道が使われず衰退していった状況が推測されます。
6.「器械場通」が設定された地図について
「札幌近郊地図 月寒村之図<請求番号 番外33の8>」(北海道立文書館 所蔵)
精進川と月寒山・望月寒川の間に「厚別器械所街道」<径2>と記されています。
この「月寒村之図」の作製年代は、明治15年頃と北海道立文書館のメモに記載されていますから、内村鑑三が開削した年と一致する図面となります。
尚、月寒村へ通じる道「器械所道」<径1>は、月寒山系を記していますが、判然としません。(水源・字高尾臺からの線は、アラウッナイ川の川筋となっています。)
同じく、「札幌近郊地図 平岸村之図
<請求番号 番外33の8>」に於いては、「厚別器械場通」<径2>が平岸村と隣接して記されています。
左図は、「国土地理院 明治29年」地図です。
望月寒川の西側に「器械場通」<径2>が、厚別川下流・器械場の在った箇所から、道が開けたように記されています。
一方、月寒川東側に所在した「器械所道」<径1>は、西岡水源池まで記されていますが、その後の径路は、全く記されてありません。尚、明治19年5月には、器械所は、稼働停止となっています。
先ずは、この道がどのように図示されているかについて記して置く事と致します。
先ず、明治29年国土地理院地図を参照ください。
但し、大正5年頃の地図は、「器械所道」の部分が未記載となっていますので、省略する事としました。
7.現在の地図上での「器械場通」について
<現在図 その1>
本来であれば、器械場からの出発にすると良いのですが、地図上の配置により、北から南へと向かう事と致します。
<注:かっこ内(概略)の数字は標高です。>
到達点が「平岸通り」(標高54m)「平岸山天神緑地」(65m)とし、「器械場」への径を辿ります。
地下鉄「澄川駅」の東側の斜めの道を南下し、「福住桑園通」に至った後、澄川小学校(69m)の前を通り、「澄川北緑地」の西側の道を進みます。
その通りには、東側に「澄川中学校」(92m)・ 西側に「札幌新陽高校」が所在していますから、その間を進むと「澄川通」に出ます。
その「澄川通」(104m)を進みますが、「澄川五差路記念公園」の中央を突っ切るように進む事となります。この道路は、かなり複雑ですが、左右に折れながら南下すると、西側に「澄川南小学校」(124m)が見えます。
その道を進むと、南区と豊平区の境界(望月寒川沿い)の道路(131m)に行き着きます。
境界の道路は、ここから「器械場通」となります。ですから、更にこの径を進む事とします。
境界の西側には、精進川の支流となる「澄川」の川筋があり、「紅桜公園」(90m)に至ります。
東側に、「光塩学園女子短期大学西岡キャンパス」(132m)を東側に見て、その通りを直進します。
更に進むと、少し離れていますが、東側には「西岡水源池」(134m)が所在しています。
<現在図 その2>
東側の「西岡公園」は、「西岡水源池」を含む公園ですが、月寒川の川筋となっています。
「西岡公園」は、キャンプ場が敷設されてあり、 自然を有効に利用した施設となっています。
その箇所から、更に、南区と豊平区の境界の道路を突き進む事とします。(180m)
境界の道の東側には、「陸上自衛隊真駒内駐屯地・真駒内射撃場」がありますが、主だった建物・目印なるような施設は見当たりません。
望月寒川と澄川の間を南下します。
すると、西側に「北海道科学大高駒岡総合運動場」(180m)が所在しています。
更に、豊平区と南区の境界を南下します。
この地域は、豊平区では「西岡」に当たり、南区では「真駒内」に相当します。
西側に「駒岡小学校」(200m)があり、豊平区と南区の境界は、「澄川厚別滝野連絡線」と地図には記されてあり、市道と思われます。
この地域の境界の東側には、「陸上自衛隊大演習場西岡地区」があり、西側には、「定山渓カントリークラブ駒岡コース」(250m)が広がっていま す。
この地域まで南下すると、望月寒川・澄川の上流は尽きて、月寒川と精進川が豊平区と南区の境界の両側を流れています。
<現在図 その3>
「札幌南GC駒丘コース」の南端(272m)に至ると、境界が東に折れます。
東側に真駒内滝野霊園(252m)を見渡しながら、更に東側に南下して行きます。
すると、器械場が設置された箇所(224m)に至り着きます。
「あしりべつの滝」(220m)から、ほぼ300m付近に到着する事となりました。
人足溜所・柾庫は、現在の道々341号・真駒内御料札幌線の北側に設置されていました。
その柾庫から柾の束を運び出し、平岸までの尾根の道(器械所通)を伝っての遠い道のりを運搬するかなりきつい労働であったと思います。
どれ位の賃金が支払われたか気になるところですが、詳細は未詳です。
因みに、器械所の営業収益(2213 円.36 銭 2 厘)より、営業諸費用(5729 円 68 銭 9 厘)が掛かりましたから当然損益はマイナスで、損失が(3516 円.32 銭 7 厘)となりました。
器械所の職員(係員4名・職工16名)が、総計20名でしたが、人足の人員も多く、その賃金に経費が結構かかったのかも知れません。
運搬費が嵩んだのでしょうが、「諸工場ハ素ヨリ公共ノ便ヲ計リ設立セルモノニシテ、敢テ損益ヲ算勘シ其利ヲ射ルノ工場ニ非サレハ」(「新札幌市史第二巻」(P242)として、採算が無くとも断行するのが開拓使でした。(成功に導きましたが、浪費・徒費もあったのです。)
ですがその計画・竣功によって、現在札幌本府の建物の屋根を葺いた懐かしの文化財がいくつも残っているのです。
そんな歴史のある「器械所」と「器械場通」であった事を記してみました。
この項をまとめるに当たり、「滝野の森ガイド」の吉田裕二様に、器械所の地形図の提供・ 滝野周辺地域の歴史(寺社・未開墾地売り払い図面等)・研究されました各種関係文書類の提供、そして・多くのご教示を頂きました事に対しまして謝意を捧げます。
記:きよた あゆみ(草之)
明治13年 「水車器械所」の設置と「厚別官林」(2021/5/1)