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2025/01/01 厚別川に架かる「橋名」について
明治期 厚別台地の流れ三里川
~ 三里川周辺、平成30年9月6日の地震で被害 ~
1.はじめに
三里川は、厚別(あしりべつ)川の支流で、「厚別台地」を流れている川です。
厚別台地の地質は、支笏火山の活動による支笏軽石流堆積物が成層されたものです。
地層の厚さ(深さ)は、里塚霊園(標高 約100㍍、)、真栄高台(同 約90~80㍍)、平岡・北野4~5丁目-北星学園大学(同 約70~30㍍)と続いています。
この様な地質(火山灰)と厚さのため、降雨や積雪の融けた水流によって浸食され、深い谷状の地形が形成されました。(現在は、造成されて余り土地の状況を知り得ません。)
また、湧水のあった事が明治期の古老の方々によって語られています。各所の湧水が土地の浸食に関わり、現在の様な土地が形成されたと考えられています。
2.三里川の名称ラウネナイ川のこと
左図は、明治29年(1896)頃の国土地理院地図です。
この地図では、三里川を「ラウネナイ」と記してあります。
現在の東月寒地域に流れている「ラウネナイ」と同じ名称となっています。
また、「北海道廰 明治廿四年印刷 大正三年三月十日 七刷」の地図では、「ラウ子ナイ」ですが、「ネ」が「子(ネ)」となっています。
大正5年の地図になると、「ラウネナイ」から「三里川」と変化しています。
「アイヌ語地名の研究第二巻」山田秀三著(平成7年7月27日発行)P26には、「ラウネナイ川」の説明があります。
語義は、「沢の両側が高くなっている地形の処を流れている川」であるとしています。
峡谷の川(V字谷の川)と表現すると良いと思われます。要は、浸食の激しい川であったと捉えられます。
<山田秀三氏の「三里川(ラウネナイ)」についての洞察>
山田秀三氏のラウネナイの解説では、「平地が川の流れによって浸食され、川筋の両側がいつしか残り、高い崖の状態になった川のこと」であるとしています。
実際、平岡8条3丁目の厚別中央通りの橋から下を眺めて見ますと、川の細い流れとは対照的に、その深い崖状になった形状から、山田秀三氏の説に納得させられます。
3.「札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)による三里川
下記の地図は、国土地理院による、「 札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)です。
・昭和36年(1961年)撮影の空中写真を判読したものです。
「札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)による三里川の部分図です。
<地図の作製の経過について>
2018年(平成30年)9月6日3時7分59.3秒(日本時間)に、北海道胆振地方中東部を震源として発生した地震(北海道胆振東部地震)によって、札幌市清田区の里塚地区周辺において大きな被害が生じました。
その事態により、国土地理院により、清田地区を重点とした「 札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)が作成されました。古くからの河川・地盤を見直すためです。
それが、左の地図(部分)であることを付記して置きます。
トリミングし、三里川筋を主に掲載するように致しました。
(平成30年10月12日配信・公開されたものです。)
4.三里川の水脈(湧水)について
「札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)によって、三里川の新旧河川の水脈・湧水起点の概要を把握することが出来るようになりました。
そこで、「札幌市清田区地形復元図」を基に、三里川の河川の水脈・湧水起点を探ってみる事と致します。
三里川には、水脈写による現在図の三里川水脈(湧水らしき起点)がかなり多く所在しています。
厚別川と大曲川の間にある三里川の水脈起点・流れの起点を、厚別川側から順次記してみる事とします。
<水脈1>~<水脈6>は、「平岡公園」で合流しています。
その後の水系は、ほぼ現在の道央自動車に沿っての流れとなり、水脈(湧水)は、平岡公園東5丁目の周辺と平岡公園東6丁目の周辺のみで、道央自動車へと集中しています。
このように、雨水の川筋ばかりでなく厚別丘陵からの厚別川水系による湧水によって三里川の数多い水脈が火山灰地を浸食し形成したと推測できます。
(豊平川に多くの湧水が在ったと同様の事が、三里川の周辺にもあったと思われます。)
湧水の在った箇所は、清田区では平岡地域と里塚地域に集中していたと言えそうです。
平岡地域の二里川の起点が7か所ほどに対して、里塚地域の三里川の川筋又は湧水と思われる起点は20箇所ほどあり、地形の形成に大きな影響を与えたと考えられます。
水系は、単に厚別川(空沼岳 標高 約1,251mの麓が源流)の流ればかりではなく、白旗山(321m)・島松山(512m)・高山(233m)・三別山(220m)などの南側に位置した山々が影響しているのではないかと推測できます。
三里川周辺について、上記の事から考えられる事は、現在の厚別川から大曲川までの区間に多くの地下水系が走っていたと言う事です。
水系(湧水の水脈の流れ)は、地表に出たとたん地盤に多くの痕跡を残しながら流れていたと言えます。岩石に依る地盤とは違い、火山灰による堆積の地質ですから容易に水勢によって浸食された事は至極明らです。
水量・水勢により、その形跡に大小はあったでしょうが、土砂を容赦なく削り取り流し去りⅤ字谷を形成したと想定されます。
昭和の宅地造成をする際、浸食の激しいⅤ字谷の痕跡の大きい箇所について、埋め立ての規制が緩い段階で安易に埋め立てた事に依り、その後の地震で土地の<液状化・陥没・沈下・隆起・地割れ・土砂崩れ>などが発生する要因となりました。
5.清田地域の「札幌本道」の状況と新国道36号線
上図は、「札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)を、国道36号線を中心として切り取り、「札幌本道(旧国道36号線)」及び「羊ケ丘通り」を彩色したものです。
明治6年(1873年)開削の「札幌本道」(室蘭街道・旧国道36号線)(函館~札幌まで)は、明治5年から1年間半程で道路の造成・港の設置・橋を架ける等の工事を行っています。
清田地区では、かなり蛇行の多い路線となっていました。当時のこの道路を設計した人々の配慮を窺うことの出来る径路となっています。
大曲から札幌に向けて、河川を渡る回数が6回ほどです。平岡の平坦な道を選び、厚別川を渡る箇所は、多少緩やかな川下に設定し、清田川・トンネ川については、急流を避ける川筋を選んでの道路開削であったと思われます。
出来るだけ難所を避けて道路造成が進められるよう設計されています。
次いでこの道路筋の工事を行ったのは、昭和28年(1953年)竣功の「弾丸道路」でした。
<昭和28年 正式名称「札幌・千歳間道路」(弾丸道路)の開通>
昭和27年(1952年)10月に起工し、昭和28年(1953年)11月に開通した(俗称)「弾丸道路」(正式名称「札幌・千歳間道路」)も、1年足らずで完成しています。
右の写真は、俗称「弾丸道路」です。
島松付近で、恵庭方面から島松方面を見るような撮影となっています。(昭和29年撮影)
この工事においても、後の「新国道36号線(北野~里塚間)」を直線化することなく終えています。
造成する際、土地を買収し多くの企業が参画し機械力を駆使した工事に、北野~里塚間の道路の造成を行わなかったかという事は、三里川の浸食した崖(谷)状の地形を散見し、工事が難航すると予想しての見送りであったと推測します。
因みに、北広島の大曲の橋周辺などの道路は、直線化されています。
<昭和46年 「新国道36号線(北野~里塚 間)」の直線道路の開削>
昭和44年に起業し、昭和46年に開通した「新国道36号線(北野~里塚 間)」の直線道路は、3か年の歳月をかけての開削・直線化となりました。
左図は、1975年(昭和45年)国土地理院地図です。
機械化が進んだ時代にあっても、3年間もの工事期間が必要でした。
ゆっくりと工事を進めたにしては、短い距離
(4~5km)の割に長い工期であると思われます。
ついに開通した新国道36号線の直線化道路は、明治6年(1873年)の「札幌本道」の開鑿から、昭和46年(1971年)まで、凡そ100年間(1世紀)の歳月が必要であったと言う事になります。三里川の川筋の浸食の激しさを感じざるを得ません。
尚、付則として、「羊ヶ丘通」については、昭和48年(1973年)に整備を開始し、平成2年(1990年)に開通しました。(市道9903号、平岸6条10丁目から美しが丘4条10丁目までの10,05kmの区間です。)
その後、平成13年(2001年)に羊ヶ丘通・美しが丘と大曲の間が開通しています。
6.まとめとして
三里川の形成については、地盤が火山灰のため、川による浸食が凄まじかったと特定されます。それは、清田台地(支笏軽石流堆積物)の清田川・トンネ川周辺においても同様の事が窺われます。長い年月による自然の圧倒的・激烈な力を感じざるを得ません。
それを、人間が自分たちの都合の良いように変えるには、慎重さが必要だと言う事です。
地球は生きています。何百年に一度の地震があるからとか、何十年に一度の降雨があるからとかではなく、自然の摂理を考慮した対応が必要です。
平成30年(2018年)9月6日午前3時7分に、「北海道胆振東部地震」が胆振地方中東部を震央として発生しました。
震源地に近い箇所は勿論の事、札幌市内でも様々な被害が報告されました。
土地の液状化・道路の陥没・地盤の沈下・住宅地の地割れ・崖に近い箇所の土砂崩れ・建造物の倒壊などです。特に里塚地域の被害が大きく報道されました。
左の写真は、<里塚霊園での墓石倒壊>の様子です。
被害は、里塚霊園の墓石の倒壊に止まらず、厚別台地の三里川周辺全般に亘りました。
地下に埋没した上水道管の破損、至る所に生じた道路の陥没隆起、家屋の傾斜やゆがみ、壁のひび割れ、塀や電柱の倒壊等々、挙げつらうと枚挙にいとまがありません。
土地の造成を行う際の盛り土の高さの禁止条項等もありますが、更地を見て素人が判断をするのは至難の業です。先ずは、十分な土地の地盤の形成の情報の収集をお勧めします。
そして、今後被害に遭わないためにも、盛り土(地盤が弱い)の状況などに詳しい宅建業者に土地の造成の見極め・確認を行って頂きたいと願っております。
今回の地震に被災された方々には、お見舞い申し上げますとともに、これからこの様な被害が起こらない事を願っております。
「里塚中央ぽぷら公園」には、「伝承碑」が建立され、未来に生きる人々への警鐘として碑に、次の様に刻んでいます。それを記してこの項を終えたいと思います。
<付記>
三里川について、明治初期の名称が「ラウネナイ川」と記しました。
しかし、江戸時代後期頃の名称が「ウヱンナヰ」であったとする記録があります。
2つの例を紹介します。
(その1)
安政4年(1857年)「入北記」(玉蟲佐太夫)に、三里川付近の様子の記述と思われる箇所があります。関係の文書だけを抜粋すると、次のような内容となります。
(その2)
安政5年(1858年)村山家資料「場處境小名理数 秋味鮭漁業高見込ヶ所 鯡場出稼人数 土人年中撫育方 材木伐木ヶ所書込」の「イシカリ御場所里数小名書上覚」に「三里川と三里塚」と思われる記載が見られます。
関係の文書だけを抜粋すると、次のように記してあります。
「ウヱンナヰ」の語義については、「悪い川」の意味です。「魚が川にいない・獲れない」「水が悪くて飲めない」「沢中が悪く通行しにくい」等々で付けられたとしています。
「モツキシヤフ」は、「札幌本道」の里程標からすると、現、望月寒川のことで、周辺に一里塚が在りました。「ラウネナヰ」は、現、ラウネナイ川で周辺に二里塚が所在しました。
「ウヱンナヰ」は、三里塚の里程標が在った「三里川」の名称と言う事となります。
記:きよた あゆみ(草之)