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2025/02/01  明治期 厚別台地の流れ三里川
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2025/01/08  「あしりべつ郷土館だより」第7号を発刊いたしました
2025/01/01  厚別川に架かる「橋名」について

明治15年 岡山県より厚別への移住者

はじめに
 明治15年、岡山県の移民主導者岡久曹と惣代岡本祥一によって北海道・月寒村の厚別(現在の清田区真栄及び清田)に移住が行われました。<二人の生国を記して置きます。>
 ☆ 岡  久曹 岡山縣下備前國児島郡小川村 平民農 安政四年五月十五日生
 ☆ 岡本 祥一 岡山縣備中國浅口郡乙島村  平民農 安政四年五月十二日生

 それは、明治天皇が明治14年に北海道をご巡幸された翌年となります。
 ようやく北海道が居住できる土地であると国民に知られる事になっての移住と思われます。
 岡久曹は、明治13年、地所撰定のため親族一名を伴い渡道し、月寒村厚別を移住地と定めて一先ず帰国し、準備を整えた後、明治15年7月に私費をもって、戸数23戸人員62名(内訳 男36名・女26名)「明治十六年七月 移住民戸口明細簿農務係」(簿書7894より)で厚別に移着しています。

1.移住者と移住の理由
 移住者の住まいしていた郷里は、岡山県下備前国児島郡小川村他で、現在倉敷市の一部となっています。児島港もあり、地名として、「児島小川」も現存しています。
 岡山県からの移住の目的は、「岡山県移民厚別移住景況取調」に記してあります。
 児島郡小川村の住民の多くは、半農半漁の生活をしていました。しかし、近海の漁業も芳しく無くなって来た状況にあり、その打開策として北海道開墾を目指し移住の決意した事に依るものでした。移住者の代表は、岡久曹及び、岡本祥一で、岡久曹は、東京製錬場社長をしており、移住に関する提言と財源的な補助を行いました。渡航者の代表は岡久曹に代わって岡本祥一が、すべての采配を行っていたと思われます。

  札幌学院大学 図書館所蔵 「戸籍関係書類外」 地崎文庫 簿書68 より

 小屋掛及び種物料として「貳百九拾九圓也」を現金にて受け取っています。
 26戸に対して、給与の品が形式的に16挺ずつ与えられた事になっていますが、実際は給与の品代として現金で支払われました。

2.岡山県から月寒村へ移住した人々
 「明治十六年七月 移住民戸口明細簿」(北海道立文書館 所蔵)には、明治15年に岡山県より月寒村厚別に移住した人々の名が記されてあります。
 「明治十六年七月 移住民戸口明細簿農務係  甲号」(簿書7894)より

   「明治十五年度上半期分移住民給与物品給与下付戸口表」より

 以上、岡山縣からの総数は、戸主が26戸・人員が62名(内訳 男36名・女26名)となっています。
 注:氏名の前野半次郎は誤記で、前野平次郎が正しいと思われます。(訂正が見られる。)

3.移住した土地と住まい
 居住地は、厚別川沿いの両側、現在の旧国道36号線(室蘭街道)の南側に当たる地域でした。
 地番では、現在の真栄1条1丁目・2丁目、真栄2条1丁目・2丁目、真栄3条2丁目・真栄4条1丁目及び清田2条2丁目・3丁目、清田3条2丁目・3丁目、清田4条2丁目・清田4条3丁目の周辺となっています。
 厚別川の川沿いで、土地はほぼ平坦な箇所である事から、移住者は、水の便の良い個所を選定したものと推定されます。(詳細は後述します)

4.開墾の様子
 明治16年10月21日の「岡山県移民厚別移住景況取調」には開墾の様子が記されています。
 ここでの、移住者の家族構成についてまとめて置きます。
 ・1人家族 12戸  ・2人家族 2戸  ・3人家族 6戸  ・4人家族 4戸
 ・5人家族  1戸  ・7人家族 1戸   全 26戸 です。
  (注:戸数は、資料により異なり、23戸としている資料もあります。)
 ほぼ半数が1人家族での渡航でした。後にこの移住者が離散する事になりますが、その要因が(主因とは別に)、ここにもあった様に感じられます。

 〇開墾地の住まい及び牛馬「岡山県移民厚別移住景況取調」より(抜粋)

 注:早魅(かんばつ)虫害は、水不足、イナゴの害であると思われます。

 家屋や物置、厩の建設、牛馬を買い求めて開墾の周到な対応がなされています。
 居住の家屋は、1棟で、間口が10間(18m)×奥行5間(9m)でした。1棟を間仕切って、全員が雑居するような住まいでしたから、62名が住まいするにはかなり居心地の悪さを感じたのではないかと推察されます。
 月寒村に明治4年移住した家族には、開拓使によって1戸ずつ15坪の広さの住居が与えられたとはかなりの隔たりがあります。

5.開墾の状況
 「明治十七年九月丗日 八等属 小原辰輯の復命書」(北海道史編さん資料」(北海道大学北方資料室所蔵)「札幌県 拓殖」には、開墾の状況を次の様に記しています。

 「開墾費用等ハ悉皆岡久曹私財ヲ抛(なげう)チ一ケ月平均七十円ツヽ仕送配下ノ者ニハ別ニ衣服等ニ至ル迠相渡シ聊(いささ)カ不自由無之趣」であるよう配慮していました。岡久曹の補助と給与物品・種物料・仮屋作料の支給により、当初は全員が開墾に勤しみ、伐木に依って大きく土地が開けた様でした。明治15年7月に移住して、「各熱心業ニ従事シ凡十町歩余ヲ伐木シ世人皆之ヲ賞讃セシカ」と記されているように、精力的に開墾を進めていたようです。
 岡久曹も、代理人の岡本祥一の指導の成果を確認すると共に、一緒に汗を流し開墾に勤しんでいたものと言えます。

6.文書不備による瓦解離散
 しかし、突然「間モ無ク代理者ヲ置イテ久曹及祥一ノ両名ハ上京セシヨリ食料其他準備ニ欠乏ヲ来シ遂ニ昨年春瓦解シテ移民ハ諸方ニ出稼ヲ為シ僅ニ四戸ヲ存スル耳(のみ)ナリシカ」という状態となりました。
 わずか6か月(7月~12月)ばかりの開墾で移住者の仲間は、離散・瓦解の憂き目に曝される事となったのです。残った世帯が「僅ニ四戸ヲ存スルノミ」という追い詰められた状況となったのです。
 岡久曹・岡本祥一両名の力なくして開墾が挫折するのは火をみるより明らかと言えます。
 その瓦解の原因は、明治13年に岡久曹が渡道して下見をした際、開拓使と約束した土地文書の不備が原因でした。明治13年12月15日に、30万坪が「御許可相成候地所」であった筈が、「該地ハ飯高正胤の願地」と重なって登記され、別の文書では、外に一名北岡一直の名前も挙がっていたのです。二名の土地が岡久曹の願地と重複を生じていたのです。
 そこで、再度土地の「願い出」文書を提出することとなりました。
 そのことを知った移住者が、岡久曹・岡本祥一両名が上京したのを機に不信感を抱き離散し、瓦解の状態となったのでした。
岡本祥一は、半年を経て、明治16年6月に厚別に戻って来ました。代理の山岡寿三に任せた書類関係は、無事役場で処理されたであろうかと考えての帰村であったようです。
 ところが、状況は、とんでもない方向へ進んでいたのです。
嘆願書には、「同行移民ノ内僅ニ三戸ヲ除クノ外殆ト離散行先不明ノ者モ往(多)ク有之」と記しているように、移住民の多くが厚別の村に残っていないという惨状でした。
 それから岡本祥一は、必死になって離散した移住者を探し求めました。
 再び開墾地に戻るよう各戸に説得のため奔走しました。その結果、移住者の26戸の内、15戸を帰村させる事に成功しています。しかし、残りの11戸は、他郡村ヘ転居するなどして行方も分からない状態となってしまいました。

 <離散し、戻らなかった人々>
森 福三郎 ・ 武下 六衛 ・ 三宅 嘉四郎 ・ 久山 定太郎 ・ 久山 廣次郎
阿部 槌五郎 ・ 城山 峰作 ・ 土井 近三 ・ 河和 國治 ・ 中村 長次郎
森  吉次郎    以上11名「送籍証」より
 「送籍証」は、明治15年の6月中に各戸が用意し、月寒村に全戸が送付しています。

左記の古文書に「厚別」移住の経緯が記されております。
「明治十八年八月 札幌縣治類典 土地測量第貳第貳拾六號 地理課」 (簿書9636)
(北海道立文書館 所蔵)

「明治十六年札幌縣治類典目次 地理課」
「第三 月寒村字厚別移民岡本祥一外十四名地所仮渡願ノ件九拾七葉」より

 

7.再度の文書提出と再開墾
 遅ればせながら再度の土地願い文書提出は、明治17年10月30日付けで行っています。
 文書に添えられた願い出の図面2葉を記して置きます。

 明治17年10月30日付け 岡山縣移住民 代表 岡本祥一の願い地 図面①です。
図面右側・若沢七之介の耕地
図面下側・古舘金太郎の耕地

瓜生 徳蔵 願地 壱万坪
野崎秀五郎 願地 壱万坪
磯邊 梧一 願地 壱万坪
岡本 祥一 願地 壱万坪
須々木安吉 願地 壱万坪
(願地)   壱万坪
注:左願地氏名 間野 榮です。

計6名

 明治17年10月30日付け 岡山縣移住民 代表 岡本祥一の願い地  図面② です。
図面下側・長岡重治の耕地
図面下側・長岡徳太郎の耕地
内田岩吉  願地 壱万坪
山本円太郎 願地 壱万坪
岡 久曹  願地 壱万坪
岡 〆松  願地 壱万坪
前野平次郎 願地 壱万坪
岡野善太郎 願地 壱万坪
笠山 杉松 願地 壱万坪
三宅照太郎 願地 壱万坪
岡崎寿(願地)壱万坪
合計9名
 図面①と図面②の合計人数15名の願い地は、15万坪となります。

 図面②の岡 久曹の願い地に、「岡山縣移住民小屋」と記され、3棟の設置があった様に図示されてあります。3棟は、居家・物置・廏(うまや)と思われます。

 < 付 図 >
 現在図による岡山県からの移住の土地割り当て図です。

<凡 例>
① 茶色 ━━ 図面下側・明治6年開削の「札幌本道」・旧国道36号線
② 水色 ━━ 厚別川
③ 緑色 ━━ 緑線の左右は山地、中央は厚別川河川敷及び低地帯
④ 赤色 ━━ 岡山縣の移住者の割り当て地・区画

 再配分された区画地で開墾が始まりましたが、この地厚別(あしりべつ)に居を構えて根付いた人々を「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」等で追ってみましたら、岡久曹・岡本祥一・山本円太郎・岡野善太郎以上4名の名前を突き止める事ができました。
 その他の家族は、ほとんど他の地へと離散して行ったものと推測します。
 月寒村に明治4年に岩手県より移住した人々の多くも、味噌醤油などの3年の給与が終えると他の地へと移住して行ったのですから無理もありません。
 「致し方ない」と簡単に決めつける事ではないでしょうが、現実は過酷だったのです。

8.まとめとして
 岡山県からの移住者の瓦解の原因は、農民主体の移住であり、充分な調査もなく移住した事に依るもので、指導者にその一因があったと考えていました。
 しかし、事実関係をまとめてみますと、単に指導者や農民の側の不備ばかりでなく、役所の土地管理の不徹底ぶりが要因となっていた事が判明しました。
 移住した農民にとって開墾する土地が最も重要な問題であり、だれの所有であるか不明確な状態で開墾に力を注げる筈はありません。
 移住者の地域は、その後、稲作の水田地帯へと変化し、洪水や旱魃に見舞われる事があっても、豊かな恵みをもたらす重要な生活基盤となって行きました。
 岡山県から移住した頃、辺り一帯は樹木林であり、伐木に追われる日々であったと想像されます。初期段階で明確な土地給与があったならば、協力体制を整え更に開墾地を広げて行ったであろうと想像されます。そして、あと10年も辛抱し額に汗したならば、艱難辛苦を乗り越え、水田地帯として恩恵を受ける事が出来たに違いないと推定します。
 それを考えると、何とも過酷で惨めな結末に言葉を失ってしまいます。
 再度集まった15戸は、夢を託した厚別の地で開墾を始めますが、大きな収穫が望めないと感じ、その後定住することなく離散して行った様です。その消息は不明です。
 森林を伐木し農業地へとする開墾は、非常にきつい作業が連日続き、切り株を伐根をして何とか農地とする事が出来るのですが、それまでには数年を要したようです。
 小屋掛料として260円・種物料として39円、その他の農機具が支給されてはいますが、それだけで多くの家族の衣食住を賄う事は出来得ません。

 北海道へ夢をもって岡山県から移住しましたが、様々な行き違いが生じての瓦解となってしましました。
 当時移住した人々のすべてではないでしょうが、この様な状況に追い込まれ、実を結ぶことなく埋もれた人々(移住者の第一世代)が少なからずいた事を記して置きました。

記:きよた あゆみ(草之)


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