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今月のきよたのあゆみ

明治期 清田地域の稲作について

 明治初期の清田地域の移住で、一番早かったのは、明治4年、岩手県から月寒村に移住者した戸数44戸・人員185人ですが、故郷では農業を営んでいた人がほとんどです。
 ですから、開墾が進むにつれて畑作に努めながらも、主食の稲作に関心を持ち「陸稲」の試作を行っていました。

1.明治7年 陸稲(りくとう・おかぼ)の作付け
 「明治七年 開拓使公文録 勧業 會計 賞典 札幌本廳」(簿書5989 北海道立文書館所蔵)には、開墾当初の「月寒村」の陸稲の段別の調査の結果がまとめられています。
 移住して3年目の明治7年(1874年)における「陸稲」の作付けの記録となります。

 注:陸稲は、(りくとう)・(おかぼ)と呼ばれ、水稲に比べ収穫・食味は落ちるものの、水田を作らずに畑に作付け出来る事から、育成が容易であることが特徴です。

 記載の人々は、全て月寒村の方ですが、月寒村の範囲が「望月寒川」から「島松川」までありましたから、広範囲の地域となります。

 注:「明治七年 開拓使公文録」の記録の中で、中西 安蔵は、厚別(あしりべつ)・矢浦甚太郎は、輪厚、そして、中山 久蔵は、島松の地域に住んでおられた方です。その他は、明治4年岩手県から移住した関係者となります。

 中山久蔵の1,100坪から鈴木宇太郎の6坪まで、段別は様々です。また、月寒村に移住した人々がすべて陸稲の作付を行ってはいませんが、多くの方が試みています。
 水稲に対する思いが強く、却って陸稲の生産を思い止まった人もいたと思われます。
 ただ、抜きん出て中山久蔵の作付面積の多さが目を引きます。稲作に対して、真摯に向き合おうとする姿勢が感じ取れます。努力家だった事を窺う事が出来ます。

 中山久蔵は、この調査の前年の明治6年に、稲作(水稲)栽培に成功しています。その事もあって、より収穫できそうなものへの挑戦を目指したのであろうと推測します。

 

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