アイヌ語研究の先駆者 白野夏雲について
1.白野 夏雲について
白野夏雲は、才能が豊かな方で、様々な方面での研究や著作が見られます。居を移すと同時に、その地において、自ら課題をもって研究に打ち込み、また、万難を排して徹底して行う人として、その秀でた能力をかわれ、多方面から求められて任に就き、尽力し精進する人であったと言えます。人物の概略について、以下の事典より転載する事とします。
さっぽろ文庫66「札幌人名事典」 (1993年9月21日発行)
札幌神社宮司、探検家。甲斐国都留郡白野村に生まれ初名は今泉耕作。当時旗本の子しか入れない甲府徽典館(きてんかん)に入学を許され、学頭岩瀬肥後守忠震に見出され江戸に出る。日本外交の先覚者として活躍した岩瀬(のち外国奉行)に用人として仕え幕末の外交を案じながら青年期を過ごす。岩瀬の失脚で幕府軍隊に入り、維新後静岡藩に入った。十勝開業に携わり、開拓使・内務省・鹿児島県庁・農商務省を経て再び北海道に戻る。札幌神社(現北海道神宮)六代目宮司を拝命。官幣中社・大社に昇格させ、その奉告祭の笛の音を耳にしながら七三歳の生涯を閉じた。前人未踏のトカラ列島に足を踏み入れ、十勝では親しくアイヌと接触し民俗学者の柳田国男が絶賛する「十勝図譜」、魚博士の末広恭雄が評価する「尭海魚譜」ほか「普通蝦夷捷径」など多くの貴重な著書を残す。アイヌ研究の第一人者として半生を北海道開拓に捧げた。現在、北海道神宮境内に顕彰碑が残る。
2.アイヌ語研究の先駆者
著作「白野夏雲」(白野仁著・1984年出版)には、明治の初期よりアイヌ語研究に取り組まれた夏雲の実像が窺えます。それは、江戸期の松浦武四郎に次ぐものであります。
夏雲の「蝦夷地名録」は、明治20年(1887年)頃に完成をしていますから、その後、明治22年(1889年)にジョン・バチュラーが「蝦和英三対辞書」を、明治24年に永田方正が「北海道蝦夷地名解」を表す先駆けとなったと言えます。
アイヌと交わり、アイヌの発音を直に聞いて、明治期にアイヌ語の著書を出された方は数少なく、白野夏雲、バチュラーと永田方正の3名かも知れません。
ほとんどが昭和期になってからの出版となります。
山田秀三先生は、アイヌ語辞典を出された知里真志保先生と親交を持った方です。明治期の生まれですが、北海道の地名研究の出版は、昭和になってからです。
山田秀三先生にして、そのような状況です。音声の録音機があったならばと悔やんでも、どうしようもありません。
先駆者の出版物や記録(メモ)を基にアイヌ語の研究をするより方法が無くなりました。
先ずは、その白野夏雲の経歴の一端を転載して置きます。
白野仁著「白野夏雲」<P293>より
当時の十勝地方は、海岸線や川沿いにアイヌ部落が点在し、海岸の大津へ和人が鮭漁の季節に集まって来る程度の淋しいものだった。夏雲らは、笹や葉で屋根を葺き、雨露を凌ぐだけの粗末な小屋に寝泊りするという厳しい生活を強いられた。調査のため、奥地に入るにも、満足な道らしい道が無く、アイヌの操る丸木船で川を渡り、獣みちを分けて進む状況だった。奥地の調査をはじめ、原野を切り開く作業には、山野を家とし、秀れた方向感覚を持ち、簡易生活に耐えるアイヌの力を借りずには、不可能であったし、夏雲らが生きていくことすら容易でなかった。十勝の開業は、彼らの力無くして到底考えられなかった。
「十勝を知るには先ずアイヌを知ること」と、夏雲は、進んで未知の世界へ飛び込んだ。アイヌ語通訳の岩五郎や嘉助を頼りに二、三人のアイヌを伴い、古老を訪ね、時には言葉の勉強のため、一人ででもコタンに出掛け、泊り込んで風俗、風習を見聞きし、本格的にアイヌ語を学んだ。
『北辺・開拓・アイヌ』(高倉新-郎著)によると、「コタンとは、アイヌ部落を謂ふ。〝KOT=住居、AN=在る〃といふ意義で、彼等からいはせれば、部落も、村も、町も、総てコタンなのだが、今日(昭和十七年)コタンといふと、彼等が集団生活を営んでゐる部落を意味する。そして、このコタン生活こそアイヌの生活で、その生活を知ろうとするならば、コタンを訪れるのが一番である」と述べている。夏雲は、これよりずっと以前に、すでに実行していた。 (後略)
アイヌの人たちと親交を持ってアイヌ語研究に取り組んでいます。
3.白野夏雲の「厚別(あしりべつ)」の語源の著作
北海道大学北方資料室の公開の白野夏雲の著作「蝦夷地名録」は、次のような形となっております。北大の公開文書に所在します「蝦夷地名録1~3」及び、その原本(下書き)と思われます「蝦夷地名録」の構成を記して置きます。
公開の「蝦夷地名録」(北海道大学北方資料室 記載)
< 著作について>
「蝦夷地名録1~3」の装丁は、和綴じでしっかりとしたものとなっています。
表紙・題字を整え、北海道帝國大学の和紙の原稿用紙を用いています。
北海道アイヌ語の地名解
白野夏雲著作 「蝦夷地名録」より
壱 函館ヨリ宗谷方面ニ至ル(地名数2457)
貮 函館ヨリ十勝方面ニ至ル(地名数2340)
三 宗谷ヨリ十勝ニ至ル (地名数1560)
<「蝦夷地名録」の作成年代について>
「蝦夷地名録」の作成年代について、「北海道大学北方資料室」には、その事に関して何も記載はありません。
「蝦夷地名録」の年代について記載があるのは、著作「白野夏雲」(白野仁著・1984年出版)の著書の項<P457>に、次のように記してあります。
作成年代を、夏雲が道庁の地理課勤務の頃の明治20年としています。
確かに、原稿用紙は、「北海道帝国大学」及び「北海道廰」が使用されています。
「北海道帝国大学」の原稿は、「蝦夷地名録」の下書きに用いられ、「北海道廰」の原稿は、「蝦夷地名録」の清書に用いられております。
夏雲の経過を記すと、道庁勤務は、明治19年7月6日付けです。その年の11月8日には、「蝦夷地名取調ヲ命ズ」の指令を受け、その後、地理課に明治20年4月5日に配属となり、「沙流土人問答ノ記」等の著作を出しております。
以上の経緯から、「蝦夷地名録」3冊は、明治19年に「蝦夷地名取調ヲ命ズ」の復命書としてまとめられたものと思われます。明治20~21年頃清書し、完成させた著作となると推測されます。ジョン・バチュラー先んじての著作です。
尚、夏雲は、明治30年2月4日発行の『札幌沿革史』を著作した札幌史学会の会員でした。札幌史学会は、明治25年当時、札幌に在住する文化、自然科学の権威者によって組織され、定期的に研究会を開いていました。明治29年、「札幌沿革史」編纂計画が起り、菅菊太郎、河野常吉、永田方正、新渡戸稲造、進龍男、高畑宣一、高岡熊雄各氏、そして、夏雲が委員として編集に当たりました。夏雲は、地理の部を担当し、内容は、地理から始まり、維新前、開拓使時代、県政時代、現況(明治30年頃)、札幌近村の沿革からなっています。
この年代と相前後するように、その後、明治24年3月8日、札幌史学会会員の永田方正によって、「北海道蝦夷語地名解」が発行されました。「八年纔(わずか)ニ脱稿セリ」と記しているように、やっと出来上がったものでした。
夏雲の研究が多少なりとも関与しているかも知れません。
4.白野夏雲著「蝦夷地名録」中の「厚別(ハシュシヘツ)」
(1) 公開されています「蝦夷地名録 壹 函館ヨリ宗谷方面ニ至ル」<P37>より
(北海道大学北方資料室 所蔵) 注:掲載の許可を得ております。
罫線を4段に区切って書き留めています。
「蝦夷地名録」の記載は、およそ、上段は夏雲氏のメモ(国・郡・川の水源の山岳名・発音の起源等)が記してあり、中段を二段に分け右岸左岸の川に区別し、下段に夏雲がその語の解釈・説明を記述しています。
(2)「蝦夷地名録」<1の37丁>より
「蝦夷地名録」には、原本(下書き)と、推測される著作が別にあります。
「北海学園大学 北駕(ホクガ)文庫 所蔵」の「蝦夷地名録1~3」です。
北海道大学には、その複製本(コピー本)があります。<P41>と記されてあります。
しかし、北海学園大学には、北海道大学のコピーとは別に、「北駕文庫」(1の37丁)の文書が公開はされていませんが「北海道廰」の原稿用紙を用いて現存していました。
下に記した文書で、北海学園大学の(公開の)許可を得て掲載致します。
欄外と罫線を3段に区切って、アイヌ語について表しております。
北海学園大学「北駕文庫」所蔵
(2)の「蝦夷地名録」を基に清書したものが、先の(1)「蝦夷地名録」であると思われます。どちらの記載も同じ内容となっております。
5.「蝦夷地名録」の「あしりべつ」
(1)の1ページ分を転載する事といたします。
注:上記の「カウナイ」の項、意味不詳であるため、「永田地名解」より補注すると、
との説明があります。夏雲の記した「鹿等ヲ掛ル處」は、「係蹄」を意味していると思われます。因みに、「係蹄」は、「わな」ですが、縄や糸を輪にして,その内に動物の体の一部が入ると締めつけるくくり「わな」の事を意味しています。
落し穴式のものや竹や木の弾力を利用したばね仕掛によって矢を射る「わな」とは異にしています。
さて、「あしりべつ川」ですが、上段の「ハシユシユヘツ也」は、川名を原音に出来るだけ忠実に記そうとした考慮が感じられます。
中段は、「〇アシユシヘツ」と記していますが、最初の発音「ハとア」の違いと、「シユ」が上の段では2回繰り返していますが、ここでは、2回目の「シユ」が、「シ」となり、省略された形となっています。
わずか2つの文言において、発音と表記に大きな違いが出ているのです。
「〇アシユシヘツ」の左側には、「ホンアシユシヘツ」と「ホロアシユシヘツ」が列記されていますが、そこにも記載の違いがあります。
「ホンアシユシヘツ」と「ホンアシシユヘツ」で、「シユ」の位置のずれが見て取れます。
2つの語を列記しているのは、発音が様々あり、その例を付したと受け止めました。
「ホロアシユシヘツ」にて、ようやくその川名についての意味が付された形となりました。
下の段の「あしりべつ川」については、「ハシユ」は「細木也」とし、「ユシ」は「立てる」を意味していると明確に言い切っています。解釈は、それ(細木)を立てて魚止を作製する」が語源であるとしています。すなわち、アイヌが魚を捕るための「梁(ヤナ)」を設置した川の意であるとしているのです。
それは、江戸期の厚別川を記録した松浦武四郎と同じ語源説を唱えた事になります。
説明の中の「ユシ ハ 立ル」の「ユシ」が、どうも「ハシユシユヘツ」の中からだけでは説明が付きません。
普通は、「ハシユ / シユ / ヘツ」と発音し、「アシユ / シ / ヘツ」と省略化されますから、発音をアイヌの方々から聞き取り、正確を記して記述したと推測します。
「ユシ」は、日本語に記載するには限界があったとしか思えません。
そのように意識すると、連続して発音する際、「ユシ」の音が聞こえるような気がします。
「地名アイヌ語小辞典」では、yusは見当たらず、usは群生する群在する になります。
多数の小枝を立てて「ヤナ」状にした為に「群生・群在」となったとしたいのですが・・先ずは、記載された通りに解釈をします。
白野夏雲の「あしりべつ川」の表記を整理して再度掲げて置きます。
何か1つの表記にできなかったのでしょうか。それ程に難しい発音であったという事なのだと思います。松浦武四郎の表記も1つではありません。
この川を表記した1人が、複数の表記をしている位、面倒な発音だったと考えます。
ここで、永田方正著「北海道蝦夷語地名解」より、参考のため表記を転載します。
6.永田方正著「北海道蝦夷語地名解」による語の解釈 (ローマ字の発音表記は省略)
「ポン ハシウシュ ペツ」「ポロ ハシウシュ ペツ」の項に、「今人厚別(アツベツ)ト云フハ非ナリ」と記しています。発音は、決して「アツベツ」ではないと、強調しています。
それは、漢字表現が「厚別」であるが「アツベツ」と発音する事は、本来の発音ではないとしています。
ところが、その後、明治27年8月1日に、北海道炭礦鉄道が札幌~野幌間に「厚別(あつべつ)駅」を新設しました。そして、「厚別(あつべつ)」と表記してルビを「あつべつ」としたのです。当然、地域の人たちは、その様に表記し、発音するようになります。
最初に移住して住んで居た人たちも、新しく移って来た人たちも、漢字の表記と読みに従「アツベツ」と発音をするようになり、広まっていったと思われます。
永田方正の「ハシウシュ ペツ」の表記は、発音に止まり、その本来の意味にまで追求しなかったのが残念です。文字数の関係もあったのでしょう。
7.山田秀三著による見解
ところで、その事を補完するような内容の説明が、「札幌のアイヌ地名を尋ねて」(山田秀三著)に記されておりますので、転載します。 (P145より)
≪備考≫ 松浦氏「西蝦夷日誌」の清田に当る処に、『アシニウシべツ(小川)、名儀『昔し樹枝もて梁(はり)を架(かけ)しといふ儀なり。』と書いてある。
「ニ」は「ユ」の誤りかとも疑われる・・・・(以下略)
アシュシペッは、「アシ・ウシ・ぺッ」で、「ウシ」は、白野夏雲の主張する「ユシ」に通じます。発音の仕方が難しいことにより、数多くの表現がある「あしりべつ」です。
そして、山田秀三は、「札幌のアイヌ地名を尋ねて」の中で、清田の厚別(あしりべつ)の事をかなり詳しく追及しています。
(一)ハシウシュ ペツ (二)ハシスベツ (三)アシュシ べツ
(四)アシベツ (五)アシリベツ (六)厚別(あつべつ)
と、かなりのページを割いて記しています。
(六)厚別(あつべつ)では
然るに、漢字を当てて地名を書くようになってからは「厚別」である。駅の名も厚別(あつべつ)と定められた。どうして厚別になったのか、これまた判らない。
清田の部落で古老に尋ねたら、ここは昔からアシリベツで、「あつべつ」というのは遠い駅の方のことだ。あすこだって、土地のほんとの名は「あつべつ」ではない、と云う。 (後略)
ここまで突き詰めながら、漢字表記の「厚別(あつべつ)」の壁に突き当たってしまったのです。それほどまでに、駅名「厚別(あつべつ)」は、強烈な浸透力を持っていたのです。
「ハシウシュ ペツ」「ハシスベツ」「アシュシ べツ」「アシベツ」まで辿り着きながら残念でたまりません。
それほどに、難しい表記と発音の「言葉」であったと言う事に尽きます。
先ずは、白野夏雲の『ハシユハ細木也 ユシハ立ル 夫ヲ立テ魚止ヲ成ス』の意味合いは、「梁(ヤナ)のある川」という事となります。
それは、松浦武四郎の『名義昔し樹枝を以てウラエを架しが故に号(なずく)ると』の語源説を引き継ぐ形となります。
筆者も、厚別川の意味は、松浦武四郎・白野夏雲両名の見解に賛同致したいとの思いです。
何かお気づきのことなど、様々なご意見をお聞きしたいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
記:きよた あゆみ(草之)
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<付記として>
札幌の北海道神宮境内(神宮より少し離れた箇所)に、白野夏雲の碑が建立されています。
札幌史学会の会員であり、札幌の歴史を掘り起こし、アイヌの人たちとの親交を持ち、札幌神社の六代目の宮司として、神社を官幣中社・大社に昇格させた方です。
札幌の方に余り知られていないような気がしますので、碑文を「白野夏雲」(白野仁著)より転載を致しました。関心を寄せていただけたらならば幸いです。
碑文は、「白野夏雲」白野仁著を引照いたしました。
碑文については、他に「さっぽろ歴史散歩」山崎長吉著(昭和59年3月1日発行)に記載されてあります。参照ください。
尚、白野夏雲の墓石は、別に札幌市中央区南4条西28丁目の円山墓地に在ります。
墓石の高さは、283cm、正面「故官幣大社札幌神社宮司 従六位白野夏雲墓」とあり、背面には、「明治三十二年九月八日歿 崇敬講中建之」と刻されてあります。
傍には、妻・小林貞子(明治三十一年四月一〇日歿)の墓が寄り添うように建てられてあります。
上記は、(「北海道ゆかりの人びと 墓碑を訪ねて)高木崇世芝著 2015年6月15日発行)を参照させて頂きました。
白野夏雲の碑文と伴に、札幌神社が官幣小社から官幣中社に昇格し、奉告祭が行われた際の「祝詞」を掲載します。神社は、明治32年(1899年)に官幣大社となっています。
その後、昭和39年(1964年)、明治天皇を増祀し、北海道神宮と改めました。
白野 夏雲「彰徳碑碑文」<P282>より
注:上記の來及び達は、筆者の補としています。(正確な文言は、未詳です。)
文言の流れから、推測したものです。
「請干官」の、干は「もとめる」。「干請(かんせい)」は、「請託する」の意。
依って、「請干官」は、「官に依頼して」と意訳しました。
現地の碑と、刻された碑面の検分をお願いいたします。
夏雲は、明治三十二年九月八日に亡くなられましたから、碑の建立は、1年後に設置されたものとなります。
「さっぽろ歴史散歩」山崎長吉著には、碑の説明として次のように記してあります。
白野夏雲は初名今泉耕作、文政十年甲斐国都留郡白野村に生まれる。
慶応三年(一八六七)蝦夷他の守備について以来、北海道に関心があり、開拓使にも出仕した。明治二十三年札幌神社の宮司になって以来、社格を高め、また神域を整備し、三十二年には官幣大社に昇格した。しかし病にかかり、七十二歳で没した。
白野は自然の理をわきまえ、行動力があり、意志強固で多大な業績を残したり。
この功績を哀慕してこの碑を建てた。
上記の内容に従い、以下、筆者の意訳といたします。
明治27年元旦、札幌神社は、官幣中社として新年を迎えた。そして、1月14日、北海道長官の北垣国道氏を迎え、中社昇格奉告祭が執行された。夏雲は、官幣中社として、初めて、神前に祝詞(のりと)を言上した。<P259>より
著作「白野夏雲」より 昭和59年(1984年)6月5日発行 参照
国字が数多く用いられているため、読みが漢字とそぐわない箇所あります。
以上