明治3年 厚別(あしりべつ)に建てられた「休泊所」
この図面は、「あしりべつ」地域の一番古い検地図になるのではないかと思われます。
アシヽヘツ(あしりべつ)を明治6年7月7日に戸別調査した図面です。
2棟続きの「休泊所」の建物とその側にもう1棟(納屋など)あったように描いています。
(現在の真栄地区に建てられた「休泊所」の周辺を調査した図面です。)
1.はじめに
アシリベツの古老談として、古道(札幌越新道・千歳新道)が、現在の国道36号線の南側に迂回するようにあった事や、その道筋の小高い丘の上に(現在の真栄地区に)「通行屋(休泊所)」があった事が話され、記録として残っています。
2.休泊所の記録
「豊平町史」P254には、厚別(あしりべつ)に通行屋があり、木村某が関わっていた事が記されてあります。(それ以上の詳しい内容は書かれていません。)
この厚別の「通行屋(休泊所)」の設置について、北海道立公文書館の「開拓使事業報告原稿 札幌」の中に、その詳しい内容が記されてありますので要約してみます。
「開拓使事業報告 原稿」より要約
〇 建て始めたのは、明治3年12月で、建て終わったのが、明治4年12月でした。(1年間をかけての「休泊所」の建設・設置でした。)
〇 建物の坪数(大きさ)は、始め15坪で、その後14坪7合5勺を増築し、完成した時には29坪7合5勺の建物でした。
〇 経費は、384円59銭で、農家の4~5倍の費用をかけています。
場所は、現在の真栄地域の小高い丘の上(真栄中学校の辺り?)に建てられました。12月に急いで建てたので、始めは「15坪」の(アシヽベツ小屋)建物でした。雪解けを待って約15坪増築し、約30坪の「休泊所」となったのでした。
3.厚別(あしりべつ)に「休泊所」を建てた理由
「休泊所」が置かれた理由は、西村貞陽(さだあき)権幹事が、函館から札幌に出向く際、ここ芦別(厚別)で、明治3年11月29日、大雪のため宿泊・休憩する様な施設がなくて遭難しそうになったためでした。
西村貞陽(さだあき)権幹事は、開拓使の偉い役人でしたから、開拓使の人と相談して直ぐに、「アシヽベツ小屋」を建てて、番人を置く事にしたのです。
「北海道志」という本には、「奨助シテ休泊所ヲ此ニ設ケシム 是千歳札幌間移住民ノ居ヲトスル始ナリ」(開拓使によって、休泊所を設けました。これは、千歳と札幌の間において、移住民のために建てた建物の一番初めです。)と書かれています。
建築を行った大工頭取の福原亀吉さんは、明治3年12月、建てた「アシヽへツ通行家の雪除」を行っています。
4.休泊所の番人(守り)について
「休泊所」の番人(休泊所を管理する人)には、「豊平町史」の木村某ではなく、大隅安蔵という名前の人が明治4年2月に任に就いています。番人の大隅安蔵さんの家族は、5人でした。
「大隅安蔵」さんについては、明治6年頃には、「中西安蔵」と名前に変えています。(名前を変えた理由の詳しいことは分かりません。何か事情があったのかも知れません。)
中西安蔵さんは、明治6年7月7日の調査では、「休泊所守」となっています。そして、休泊所の周りの土地(耕地)を約40畝(1畝は30坪ですから1200坪)所有していました。様々な作物などを育てていたと思われます。
5.移転する事になった「休泊所」
ところが、「休泊所」は、完成して2年もしない明治6年に「札幌本道(室蘭街道)」が開削された事によって、移転する事になりました。
「札幌本道(室蘭街道)」というのは、函館から札幌までの道で、道巾(5間)が広い今までにはない立派な道路(車馬道)が完成したのです。
「札幌本道」は、明治5年3月工事に着手して、明治6年6月に竣工しました。道筋は、あしりべつの地域では「札幌越新道」とは全く別のコース(現在の旧国道36号線です)をたどる道でした。
「開拓使事業報告」には、「休泊所」引直(移転)の記録があります。
〇 移し始めたのは、明治6年9月で、移設の完成が、明治6年11月でした。
〇 建物の坪数(大きさ)は、前より少し大きい 31坪2合5勺でした。
〇 経費は、200円44銭で、「休泊所」ですから、かなり費用をかけています。
「引直」というのは、前の建物を分解して、他の場所に立て直す事です。
この「休泊所」の番人には、引き続き、中西安蔵さんがなっています。
それでは「休泊所」は、どのような構造になっていたのでしょうか。それが分かる史料があるのです。それは、幸いな事に、「厚別休泊所」を改造して「月寒小学校厚別分校」が造られましたが、その開校当時(明治32年)の分校の見取り図が残されています。
4.5間×7間の大きさでした。1坪の便所が備えられていました。計32.5坪の建坪となります。
便所1坪を除くと、校舎の全体は、31.5坪です。(休泊所とほぼ同じ大きさです。)
おおよそ上図のような大きさの休泊所で、教室部分が仕切られて宿泊の部屋になっていたと考えられます。
簾舞の通行屋が厚別の休泊所と前後して完成しています。筆者の予想図を掲げて置きます。
<簾舞と厚別の休泊所の比較>
明治5年に設置された簾舞の小休所の経費は、527円で、坪数は、24,5坪でした。明治3年に置かれた厚別の休泊所の経費は384円で、明治6年の引直に200円を掛けて、合計584円です。坪数は31.25坪ですから簾舞の小休所より少し大きい造りと言えます。
「休泊所」が移された翌年の明治7年4月に、ここを通った船越長善さんが、休泊所やあしりべつ川・あしりべつ橋を描いています。(この「休泊所」に泊まったのかも知れません。)
当時の様子がとてもよく分かる絵図です。
札幌本道の「札縨郡 アシヽヘツ」の「休泊所」の絵図
絵図の中央の建物の上に、小さく「休泊所」と記してあります。
2棟続きの「休泊所」で、玄関(入口)の辺りに人が立っているように見えます。
※ アシリベツの「休泊所・通行屋」の名称ですが
「十文字日記」では、「アシヽへツ通行家」「通行小家」
「明治三年仕上ヶ御勘定帳」では、「アシヽベツ小屋」「アシヽヘツ休泊所」「厚別休泊所」
「開拓使事業報告 原稿」では、「小休所」「休泊所」
「開拓使事業報告」では、「小休所」「休泊所」 等と資料により様々です。
記:きよた あゆみ