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厚別の人々が歩いた「坂の上」の道のこと

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厚別の人々が歩いた「坂の上」の道のこと

1.「坂の上」の道
 「坂の上」の道については、「郷土誌あしりべつ」には、次のように記しています。

 北通りも南通りも坂の上も道らしい道(で)はありませんでしたから、大木の間をぬって通りやすい所をえらんで自由に歩いていました。明治の中ごろになって、このふみつけ通が、いつの間にか一定してきて、だんだんと道らしくなりました。
      (中略)
 坂の上
 はじめはほかと同じ(厚別川沿いにしぜんにできていった道)ですが、大正八年厚別駅へ通ずる坂の上道路が完成しました。今は道道となって昭和四十五年から改修工事が進められ舗装通路となるのは近々です。 (注:昭和45年当時)

 開拓当時、道路を造る余裕などありませんでした。移住者の人々は、けもの道を利用して道路としていました。樹間をぬって必要な箇所へ行くような生活だったのです。

 「郷土誌あしりべつ」(P50)には、「大正8年、厚別駅への坂の上道路完成」とありま す。大正8年(1919年)になって、ようやく道路の造成が完成したとしています。

 「坂の上」の道は、厚別地域の生活道路から、大正8年には、厚別駅を利用する人々の需要に応えての道路へと変化していった事が窺えます。

2.「厚別(あつべつ)駅」について
 明治13年(1880年)11月28日、「官営幌内鉄道」が札幌~手宮間の鉄道を開業させました。その後、手宮(小樽市)~ 幌内(三笠市)間の鉄道路線となっています。
 それを引き継いだのが、「北海道炭礦鉄道」で、明治22年(1889年)に譲渡され開業しました。
 明治27年(1894年)8月 1 日 「北海道炭礦鉄道」は、札幌~野幌間に「厚別(あつ べつ)駅」を新設しました。駅名は、「あしりべつ」ではなく、漢字で厚別と記して「厚別(あつべつ)駅」と銘々したのです。
 明治39年(1906年)10月1日「北海道炭礦(たんこう)鉄道」が鉄道路線国有化により、官設鉄道に移管しています。

 明治の末頃より、旅客の運搬が行われるようになり、厚別地域の人々が駅まで足を運んだ のでしょう。厚別(あしりべつ)地域の人々がどれ程利用したのかは不明ですが、札幌の市街や小樽に行く時などに乗車したのではないかと思います。
 厚別(あしりべつ)地域には、雑貨店はあったにしても多くの品物はなく、必要なものは札幌まで行って購入したのだと推察します。

3.「坂の上の道」を探る
 国土地理院の大正5年(1916年)の地図より
 当時の清田(あしりべつ)地域の人々の利用した道(径)を探ってみます。

  上記の地図では、「坂の上」の道の認識が難しいため、当時の「坂の上」の道に彩色を してみました。
 国土地理院の1916年(大正5年)の地図より
 大正5年測量
 大正7年8月30日発行の地図ですが、厚別駅が 記されてあります。

 厚別駅から、「国道12号線」までの道路が造られています。そこから、当時「広島道路(現、西の里共栄通)」と称された道まで伸びている事が確認できます。

 一方、厚別(あしりべつ)地域の道は、旧国道36号線から平岡の地域を通り、「広島道路」まで伸びています。

 この地図では、未だ、厚別駅への道が造成されていないため、12号線(釣橋)ヘ出てから、厚別駅へ向かう道まで行き、左折して、駅にたどり着いたと考えられます。

 「郷土誌あしりべつ」に記してあるように、駅に出来るだけ近い距離で行けるように行程を選んだのでしょうが、かなり屈折の多い道であったように思われます。

 「坂の上」の道付近には、「三里塚北通」が記されてあり、この道も「広島道路」まで伸びています。地図には「學田」「厚別演習場」「陸軍地」等が記してあります。
 厚別地域に関係の深い、事柄の記載となっています。

 旧国道36号線(札幌本道・室蘭街道)が開削されていたのですが、何故「12号線」や「広島道路」まで道路を伸ばしたかについては、札幌市街までの距離が約10キロメートに対し、厚別駅までは3キロ弱で行け、汽車で行くと疲労が少なかったからでしょう。

4.国土地理院の1935年(昭和10年)の地図より
 昭和10年修正
 昭和12年3月30日発行 の地図です。
 昭和10年頃の「坂の上」の道です。

 厚別(あしりべつ)から厚別駅への道が、かなり直線的となり、近道を通るような道路となっています。

 緑色の線で囲った土地は、「山鼻屯田給与地」です。先の地図で「陸軍地」と記され、所管された区画でした。明治27年7月30日に、140万4千坪が、山鼻屯田兵の各戸に下付されました。

 緑線の上部は、白石村で、下部は、月寒村でした。

 その「山鼻屯田給与地」を縦断するように、「坂の上」の道が走っています。
 地図の「平岡」と記された箇所は、当初の屈曲した道からほぼ直線となっています。

 厚別駅が開業したのが明治27年(1894年)8月 1 日ですから、昭和10年(1935年)まで、ほぼ40年間で道路が一変した感があります。

 「坂の上」の道は、それだけ厚別(あしりべつ)地域の人々に需要があったと思われます。
 道路造り(資金を出しても)をしても、それに見合うだけの利便性が要求されての事だったと言えるでしょう。
 では、どの辺りを改修したのかを見て行く事と致します。

5.「坂の上」の道の改修
 国土地理院の1916年(大正5年)の地図より
 大正5年測量
 大正7 年8 月30 日発行の地図です。

 昭和10年発行の地図の、「坂の上」の道を付加してみました。

 三里川を渡るルートが、大正8年に完成したものと推測しました。

 「広島道路」まで行かずに、三里川を渡り、厚別駅に直結する道路に連絡するように造成したようです。

 その後、「広島道路」から「厚別(あしりべつ)」への道路(けもの道)を少しずつ直線化したと考えられます。

 「坂の上」の道を直線とする改修工事は、大正8年(1919年)から昭和10年(1935年)までの年月を掛かけたとは考えられません。三里川を渡るルートが完成した後、それほどの年月をかけずに直線化された事でしょう。必要に迫られ、道路づくりを住民が納得しながら推進したと考えています。(吉田用水は、半年ほどで灌漑路を開削しています。)

 尚、厚別川左岸の北野地域や清田地域の人々は、「厚別(あしりべつ)北通」(上図の緑線)を通り、国道12号線まで至り、厚別駅へと向かったものと推測しました。
明治20年代後半になると、大谷地方面が水田化され、排水溝や暗渠が敷設され、必要な道路を造る事が可能になったからです。

6.現在の道で行く「坂の上」の道

 現在の「厚別駅」から信濃小学校の西側の道路を南下し、信濃中学校の東側の道路を通り、国道12号線に至ります。
 更に南下し、市営ひばりが丘団地の西側を通り、現在の南郷通に行き着きます。
 そこから、馬場公園の東側を通り、平和通に至ります。
 そして、交通局高速電車東車両基地の東側を南下すると、国道274号線に至ります。
 その箇所より陸上競技場厚別公園の西側を掠めるように進むと、三里川に出ます。
 この川を渡るために、昔の人々は、苦労して橋を架けた事でしょう。

 三里川を渡ると最早平岡地域です。
 平岡小学校のグランド辺りを通りながら南下すると、現在の平岡地区会館の周辺に行き着きます。
 平岡地区会館からは、平岡中央バス営業所の東側を通り、北野通に到達します。
 北野通からは、旧道であった清田緑地の東側(道道真駒内御料札幌線は、後に開削された新しい道です)を通り、旧国道36号線にたどり着きます。

 旧国道36号線は、「坂の上」の道の出発点であるとも言えます。

 この様にして、「坂の上」の道は、暮らしの潤いを求める人々が、豊かさが得られる架け橋であった厚別駅への道として、少しずつ開削されて行ったのでした。

記:きよた あゆみ(草之)


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