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厚別(あしりべつ)神社の「碑」について

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厚別(あしりべつ)神社の「碑」について

1.『厚別神社地 寄附者』の「碑」のこと
(1)「百年記念碑」の傍にある「石碑」
 下記の写真は、「清田地区開基百年記念碑<拓>」の直ぐ傍にある「石碑」です。
 いちいの木の下に隠れるようにひっそりと目立たない状態で、たたずんでいます。

「碑」には次の様に刻されてあります。

『厚別神社地   一五六三(番地)
    寄附者  林 由太郎 』

 厚別神社は、大正6年4月、現在地に本殿を遷座していますが、その年に寄贈された境内の敷地の「碑」と思われたのですが、そうではありませんでした。
 宮司の三橋國昭氏にお聞きしたところ、昭和6年に林 由太郎氏が寄附された土地の「碑」である事が判明しました。

 この「碑」について記して置きたいと思います。

(2).「厚別神社沿革史」による土地の記載

 厚別神社には、「厚別神社沿革史」が編纂され残されております。
 その中に、この「碑」(土地)についての記載が在りました。

『 昭和六年十二月 植林地の寄進
厚別神社の基本財産として 林 由太郎氏が豊平町三里塚一五六二の自己所有地壱町七反七畝歩を寄進されたが 戦後マ司令部より強制買収された 』 と記されてあります。

 「碑」は、三里塚に所在した「植林地」の「碑」でした。

 「碑」に、地番を「一五六三」と刻してありますが、「厚別神社沿革史」では、「一五六二」となっております。(「碑」の地番が正しければ、「厚別神社沿革史」が誤記と思われます。)
 「植林地」は、神社の補修・再建などを見通して木を植え、成長した時期に売却し、その得た利益を基に、社のための助成金としての財源の土地と言えます。

(3)「マッカーサー(米軍)の司令部」による土地の接収
 この土地は、戦後「マ司令部」により強制買収されたとありますが、「マ司令部」は、「マッカーサー(米軍)の司令部」による強制買収であったと推測できます。
 当時、豊平町近隣だけでも「マッカーサー(米軍)の司令部」により多くの土地が接収されています。弾丸道路を造成する際にも、強制買収があったようです。
 「豊平町史」(年表)には、次のような記載があります。
・1945年(昭和20年)〇九月旧軍射撃場(現月寒公園)を米軍射撃場として接収。
・1947年(昭和22年)〇米軍が真駒内種畜場を接収し、豪華なキャンプクロフォードを建設、月寒から移住、さらに月寒種畜牧場用地七〇〇町歩を演習場として接収。
・1949年(昭和24年)〇七月(豊平)町内の山林開拓地二六〇〇町歩を米軍が接収。
 以上のような接収が行われた記録が残っています。
 記載されないで接収された土地が数多くあったことが考えられます。

 林由太郎氏の「厚別神社の植林地」もその1つかと思われます。
 林由太郎氏の自己所有地「壱町七反七畝歩」は、5,310坪となります。
 (注:1町は、3000坪、1反は、300坪、1畝は30坪)
 この土地がすべて接収(強制買収)されたという事です。

(4)土地の接収(強制買収)が行われた理由(推測)
 接収(強制買収・取り上げられた)された土地は、現在の「チキンのモモセ」商店(所在地:清田区美しが丘3条3丁目3-15)が経営する敷地の一部のことで、第二次世界大戦後に、「里塚開拓団」が入地したところです。

 林氏が土地を取り上げられた理由というのは、推測ですが、この地の近隣には、「厚別演習場」があり、演習場に接する各所が「月寒歩兵25聯隊」によって使用されていました。ですから、「25聯隊」の演習場が米軍の演習場として使用される際、支障が出ないようにするため、演習に必要な土地という事で接収されたと考えられます。
 「25聯隊」の演習場が在った事によって、この地が接収されたと思われます。

 米軍は、土地ばかりでなく、必要な建物も接収の対象として使用していました。

 上図は、現在の清田区に在った「演習場」(面積 約20万坪)の状況(位置の概略)です。
 (「ももせ」の土地は、演習場である「美しが丘公園」の東側に当たります。)

 <注:「厚別演習場」は、元「学田地」で、明治17年頃に付与されましたが、明治34年頃に25聯隊の「演習場」となった土地です。広さが68町8反20歩あり、近隣には、弾薬庫や塹壕など、軍の様々な施設が所在したとの証言があります。>

(5)接収された土地の開放について
 1954年(昭和29年)米軍が真駒内キャンプクロフォードを撤退すると、その後、自衛隊の駐屯地となりましたが、「厚別演習場」(元25聯隊の演習場)は、多くの人々の助力によって自衛隊の演習場とはならないで、一般に解放されることとなりました。
 林氏の土地も開放の土地となりましたが、個人に返還されることはなかったのです。
 そして、昭和21年「厚別演習場」の土地に「平岡開拓団」が入植して開墾が始まりました。
 また、「里塚開拓団」によって林由太郎氏の土地(「植林地」)の開墾がなされたのです。
 「里塚開拓団」は、里塚墓地周辺の開墾も行っておりますから、この周辺の土地も接収された可能性が推測されます。
 明治30年代には、厚別の土地全体(「厚別一帯連絡図」を参照)が、個人または屯田兵の公有地や給与地などとなっていることを考慮すると、所有者の無い広い土地が昭和20年代に在ったとは考えられないからです。

 ※「開拓団」は、戦後、里塚・真栄・平岡・有明の開放された土地や開墾が困難な箇所に入植しています。
 「百瀬(ももせ)」氏の土地も、戦後に開墾された土地という事が出来ます。
 (「観霊院」と同じく、1万5千坪位の土地面積があったと類推します。)

(6)「百瀬(ももせ)」氏より「碑」の移設の依頼
 『厚別神社地 一五六三(番地) 寄附者 林 由太郎 』の「碑」は、所有者が変更となっても、昭和6年12月から、ずっとそのままの状態で置かれていたと思われます。
 「百瀬(ももせ)」氏が土地を開墾してからも、手を付けずに残っていたとの事です。
 そして、2000年(平成12年)頃、百瀬氏より厚別神社に移転した方が良いのではとのお話があり、神社境内(「鎮座壱百年の記念碑 -拓- 」の傍)に移設されました。

 この神社地の「碑」をご覧になられた方が、最初の境内の敷地は「一五六三(坪)」あり、それから少しずつ敷地が広がっていった等との、誤った理解をされるのではと憂慮しました。
 ここに由来を記す事によって、「碑」の経緯がお分かりになられたのでないかと思います。
 神社に参拝された際、上記のような様々な「碑」の変遷過程を思い起こされて頂けたならば幸いです。

2.「上相撲記念碑 島千鳥」の碑のこと

 厚別神社には、多くの記念碑や鳥居・燈篭等が数多く見受けられます。
 その中に、「上相撲記念 島千鳥」の碑が土俵の傍に建てられてあります。
 この「碑」(上相撲記念  島千鳥)についての経緯を、記す事と致します。

   碑には、次の様に刻されてあります。
 碑の「上相撲記念」の「上」とは神様へのお供え物や格上の方を神様のように敬う場合に用いられる言葉です。
 相撲は神事でありますから、その関係の記念碑と思われましたが、確たる経緯が不明でした。
 ところが、「真栄第四町内会設立40周年記念誌 あゆみ」(平成29年・2017年発行)により、そのいきさつが記され明かとなりました。

 「島千鳥」の碑については、「真栄第四町内会40周年記念」として、川島 亨氏が、佐々木勝宏氏のお話(回想)を取材した記録として記されてあります。

 ※ 川島 亨氏は、元北海道新聞社の記者をなされ、現在は、「ひろまある清田」を主宰され、清田区の様々な行事や歴史などについて情報発信をされておられます。

 佐々木勝宏氏は、厚別神社の例祭の時の相撲大会に勝敗を決める行司もされておられたそうです。そのような事で、「島千鳥」の碑にご縁があった方です。

 以下に取材の内容を転載します。
 「真栄第四町内会設立40周年記念誌 あゆみ」より

   厚別神社の「上相撲記念 島千鳥」の記念碑について

   佐々木勝宏さんの話  祖父は草相操の横綱

 祖父の喜太郎は、北海道の草相撲で活躍、横綱級の強さだったようです。しこ名は「島千鳥」といいました。厚別神社の境内の土俵脇に祖父の石碑が建っています。
 神社には決まって土俵があって、道内各地の神社で行う相撲大会に出場し活躍していたようです。
 祖父は、若い時少し農業をやりましたが、その後は石材や木材の仕事をしていました。
 樺太に渡って木材、材木の仕事をしていた時期もありました。私が子供のころ、びっくりしたことがあります。
 祖父は米俵を、足に2つ、手に2つ、口に1つ、計5つを持って歩いたのです。力持ちでした。
 昭和30年に祖父は石の鳥居を厚別神社に寄贈しました。当時、うちに三輪車が1台あり、私が免許を取って有明でとった軟石を三輪車で神社まで運びました。祖父がその石を積んで鳥居を建てました。その後、その鳥居は十勝沖地震で倒れてしまい、今の鳥居になりました。

 上記の取材によって、「上相撲記念 島千鳥」の碑は、真栄地区(第四町内会)の佐々木喜太郎氏を記念して大正13年に創建されたものである事が判明しました。
 佐々木喜太郎氏は、当時神社の奉納相撲に出て横綱級の力士だったらしく、多くの神社の相撲大会(上納相撲)にも参加していたと記しています。

 <佐々木家と地域の関係について>
 佐々木家は、明治初期から月寒村・真栄に関係が深い方である事が解ってきました。
 北海道へ移住した初代の佐々木吉太郎氏は、福井県より明治の初め頃に月寒村(六軒村)に移住した方でした。碑は2代目の佐々木喜太郎氏についてです。
 佐々木秀雄氏(3代目)は、真栄町内会の初代会長(昭和37年発足)をなされた方です。
 真栄町内会は、その後5つの町内会に分かれています。
 「あゆみ」の佐々木家についてのお話をされた佐々木勝宏氏は、4代目に当たります。

 勝宏氏の祖父である佐々木喜太郎氏は、その当時、真栄に住まいされておられた事で、碑には居所が「厚別(あしりべつ)住人」となっています。<住所:真栄221番地>

 ※「六軒村」は、明治4年岩手県から月寒村に44戸・185名が入植しましたが、月寒川東側に六軒だけ入地したためそのような呼称が付けられました。
 その後、月寒川の東側の開墾地全体が「六軒村」との地名となっています。

 初代の佐々木吉太郎氏は、月寒の六軒村の地域に入植しましたが、水田が出来ない地であったため、その後真栄の地を求めて移住されました。
 そして、上納相撲を通して鳥居の寄進や碑の設置に繋がっていったという事です。

 尚、上記の「十勝沖地震」は、1968年(昭和43年5月16日09時50分頃発生)の地震です。現在は、石積みの鳥居ではなく、鋼板に覆われた鳥居となっています。

 佐々木喜太郎氏は、大正から昭和にかけて綱を張った人生であったのでしょう。
 川島 亨氏の取材による記念誌「あゆみ」によって、「島千鳥」の碑の由来が明らかとなりました。

 古来より相撲は、日本の伝統として受け継がれてきましたが、明治の末頃より、札幌・道内各地ではこのように相撲が盛んとなり、神社の相撲大会においては、かなりの盛況であった事をうかがい知ることが出来ます。

記:きよた あゆみ(草之)

<本編>明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建

<外伝>厚別(あしりべつ)神社の「碑」について

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