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吉田善太郎の農場(牧場)と邸宅

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吉田善太郎の農場(牧場)と邸宅

はじめに
 吉田善太郎は、明治4年岩手県より父に伴われて月寒の開墾地に移住した44戸の1戸であった。父の没後「吉田用水の開削」「白石用水の開削」「月寒学校の創立」「大谷地簡易教育所の創立」「月寒歩兵第25聯(連)隊の誘致」「農商務省種蓄牧場(現在の農業研究センター)の誘致)」「日露戦争に際しては、多額の軍費を献納」等々多くの功績を残されています。
 ここでは、彼についての人物像と「農場(牧場)」の概略を記して置きたいと思います。

 文久元年(1861年)4月14日に,父 吉田善治の6男1女の長男として,陸奥国南岩手郡上田村(現在の岩手県盛岡市上田町)に生まれました。

 吉田家は代々南部藩に仕える藩士でしたが,明治維新で藩が廃止(廃藩置県)されたため,職がなくなり、生活が非常に苦しくなり、明治4年(1871年)3月北海道開拓史の移民募集に応じ,移住して岩手を離れることとなりました。

1.吉田善太郎の人物像
 「北海道開拓五十年史」(大正十年八月)にある吉田善太郎氏の人物像は、彼の残した功績と人柄等について、簡潔明瞭且つ的確に記述してありますから転載します。

    豊平村の開祖(藍綬褒章受領者)
                吉 田 善 太 郎
 豊平村開発の功勞者なり、文久元年四月奥州南岩手郡上田村に生まる、農善治の長男なり、明治四年父に伴はれて札幌郡豊平村字月寒に移住し開鑿及製炭に従ふ、十四年父善治没す善太郎年二十一、當(当)時先代の遺産僅かに家屋一棟に宅地及耕地を合して一町歩飼馬五頭に過ぎず、善太郎初め其遺産に依りて農業に従事せしが、二十年月寒と白石村との両村に跨れる大谷地の未開地十六萬餘(余)坪を譲受け、更に隣地七萬坪の貸下を得専ら開墾に励み、厚別川の上流より潅水溝を掘鑿(削)して水田百餘町畑六十餘町を墾成し、多数の小作人を移して一部落を形成す、其間に於ける投資實(実)に二萬圓に及べり、是れより善太郎公共に力を致し、率先資を投じて大谷地小学校を設立し或は戸町役場設置に當り廳(庁)舎一棟を寄附す、殊に月寒歩兵第二十五聯隊の新設せられんとするに際し、最初陸軍當局者は位置を平岸村に餘定せり利に敏き輩は怱(たちま)ち土地の買収に奔走し毫(ごう)も當局者の利便を顧みず、善太郎之を聞き慨然蹶起(がいぜんけっき)して部民を指導し自ら土地百町歩を寄附せんことを申出で或(あるい)は當局の為めに諸種の利便に應(おう)ぜん事を約して遂に月寒に位置を變(変)更せしむるに至れり、多年月寒村總代人、学務委員、村會議員、月寒郵便局長等を勤め常に率先して公私各般の事業に尽瘁(じんすい)せり、日清戦役の際所有の馬匹全部の献納を申出でたるも官之を許さず、一頭丈けを上納せり、官善太郎が多年公共に尽力せる事を賞し三十二年勅定藍綬褒章を賜ふ、又日露戦役に多額の軍費を献納し戦役當時奉公議會長として熱心奉公の實を挙げ其功に依り當勳局より一個を賜ふ、又郵便局長として戦時の通信事務に與りし功に依り勳八等に叙せられ白色桐葉賞を授けられる夙(つと)に牧畜業を経営し男善助を米國に渡航せしめて優良畜牛多数を輸入す現に数十頭の良牛を所有して牧畜を兼営し本道有数の畜産家たり、善太郎躯幹大質卒直にして剛氣且公共慈善の精神に富む月寒村の祖にして又一代の成功者として他の模範たり今は故人なり。

2.吉田善太郎の開墾の始まり
 左図は、「札幌近郊地図 月寒村之図」の部分 (北海道立文書館 所蔵)
<上が南>  筆者:模写・彩色図
 明治15年頃と思われる地図です。

 左下のほぼ長方形の区画に留意ください。
 当時の土地所有者は、札幌の三島・大橋両人の共有地と推定します。
 後にこの土地区画は、吉田善太郎が所有する事となったと思われます。
(土地については、検証が必要です。)

 左図(上が北)は、区画を現在の地図に写してみました。この土地が吉田善太郎の区画ではと推測するには、理由があります。
〇吉田善太郎の邸宅(池に面した2階建ての大きな家で、しゃれた洋館風の作り)であった土地が含まれています。(現在の栄通18丁目7番、吉田善太郎居住地跡の掲示板があります。●の場所です )
〇「吉田用水」の経路(清田通沿)が土地の左側を流れています。
〇現在、旧千歳線が廃線となり、サイクリングロードとなっていますが、この土地の敷地に、路線が敷かれていたのです。そして、大谷地駅(現在は「白石東冒険公園」となっている)の側に、吉田善太郎の雑貨店(吉田商店)が開業していました。
 上記の「吉田農場」の土地が基盤となって大谷地・北野・二里塚・月寒の土地を払下げを受けたり買取りをして、開墾地や農場を拡大していったと思われます。

 「豊平町史」(昭和34年3月発行)<P453>に、「吉田農場」について記しています。
 農場の位置がほぼ一致するような状況であったことが記されています。

    吉 田 農 場
 この農場は吉田善太郎が明治二六、七年頃、月寒、白石(大谷地)にわたる広大な面積に開いたもので、以前は札幌市の三島(写真屋)大橋両人の共有地であつたものを譲りうけたという。最盛時は水田七〇町歩、畑六〇町歩、小作人三〇数戸が入っていた。
 大正五年当主善太郎死亡し、その後を子息善助が相続したが後社台(白老)に移った。

 三島は、三島常磐(ときわ)の事で、南3条西1に在った武林写真館を引き継いだ人です。
 この記載内容がいつの年代であるか明確ではありませんが、「月寒、白石(大谷地)にわたる」と記しています。吉田善太郎が月寒・白石の土地を取得したのは明治20年頃と推定します。
 ※吉田善太郎が大谷地に居住したのが明治21年で、明治27年、彼が33歳の時に邸宅が完成したと記しています。(郷土史家 兼子武敏氏から筆者が頂いた文書より)
 土地は、「最盛時は水田70町歩、畑60町歩」あったとしています。

 また、「北海道農場調査(大正2年)農林水産省農業総合研究所蔵本 複製」によりますと、大正2年の「吉田農場」の規模は以下のようになっていたことが分かります。
 沿革として、「明治十八年十一月十六日(父の)吉田善治(が)未開墾地ノ払下ヲ受ケ、六月吉田善太郎之ヲ譲受ケ、順次払下ヲ受ケテ拡張シ現今ニ至ルモノナリ」としています。(上記「吉田善治未開墾地ノ払下ヲ受ケ」は誤りかも知れません。)
 「仮定縣道」は南郷通りで、「国道」は、12号線を指していると思われますから、「遠カラサル地」にしては、図面の土地状況がほぼ一致していると言えます。

 所有地については、1町歩は、約10,000㎡(1ha)ですから、この当時所有していた面積は60町歩、約60haとなります。「豊平町史」の記載の時より、大幅に減少しています。
 但し、先の「月寒村之図」(明治15年頃)の箇所の月寒・白石(大谷地)土地を概算すると約30町歩、約30haです。明治20年代には、大幅に土地を取得したと言えそうです。
 明治26年「大谷地簡易教育所」を創立した土地(白樺郵便局周辺・黒沢牧場周辺など)は、吉田善太郎の所有地でしたから、かなりの土地を数年で得たこととなります。

3.室蘭街道の月寒川付近にあった「吉田牧場」
 吉田善太郎の「吉田農場」とは別に、明治30年には「吉田牧場」を月寒に開設しています。
 「吉田牧場」は、現在の八紘学園の牧場地で、牧畜・農耕業を営むこととなりました。
明治43年1月印刷
「月寒歩兵第二十五聯隊製圖」より

 月寒川の南側、そして「向ケ岡」の地名の傍に、「吉田牧場」との記載があります。

 吉田善太郎氏が、明治20年頃には、この地を少しずつ下国皎三より買い受けて所有し、牧場経営に関わったと思われます。

 克修社の下国皎三は、この地の開墾を進めましたが、売却の後、この地を去り由仁町(古川に入地)で新たな開墾を始めています。

 ※「克修社の下国皎三」について
 室蘭街道の北側・月寒川とアラウツナイ川に挟まれた開墾の土地は、下国皎三の克修社による開墾地です。明治11年に月寒村の土地の払い下げから始まり、明治12年から明治13年にかけて更に払い下げを受け、土地13万余坪に及ぶ広さであったといいます。
 農業の機械化・大規模経営の先端を行った人物であったようです。
 明治40年(1907年)頃になると、(吉田善太郎46歳)子息の善助をアメリカに酪農留学させております。そして、牛15頭をアメリカから一度に輸入した記念として、明治42年に洋式の家(別荘)を月寒の「吉田牧場」内に竣工します。
 (旧吉田家別邸は、木造2階建てでした。現在は,サイロとともに「栗林記念館」として保存されています。)八紘学園は、栗林元二郎によって、 昭和6年(1931年)4月創立しています。
 子息の吉田善助の土地(吉田牧場)を、栗林元二郎が購入し、農業専門学校としました。

まとめとして

 吉田善太郎について身近に感じられるものとしては、白石区栄通18丁目7の住宅の一角に<白石道しるべ>「吉田善太郎居住跡」の掲示板が設置されてあります。
 しかし、人通りも少なく樹木の陰になり、ほとんど気付く人がいません。

 掲示板の文末には「明治32年(1899年)3月藍綬褒章受賞,明治38年(1905年)勲8等に叙せられ,白色桐葉章受賞・大正5年(1916年)12月24日没した。享年56歳。」と、記してありますが、時代の流れとともに関心が薄れていくことを感じます。

 しかし、近隣の多くの箇所に「吉田」との銘が付く、多くの道路・川名・公園などがあります。
 その一部を紹介しておきます。
 左図は、大正5年国土地理院の地図です。
 元「柏山」と呼称されましたが、現在は道営住宅が造成されて建ち並んでいます。
 一時は、「吉田山」と月寒歩兵25聯隊の連隊長が命名したことがありました。
 その他に「吉田山道営住宅線」「吉田山公園」「吉田山2号公園」「吉田川公園」「吉田川」などは、往時いかに地域に対する貢献度が大きかったことを物語っています。
 現在に至っても、「吉田」を冠した名を残されていますので、地図・資料などから探し出してみるのも一興かと思います。
 また、吉田善太郎の末裔に当たる方々によって、社台ファーム・早来ファーム・追分ファームにおいて、軽種馬の育成に専心され今日再び隆盛を極めているようです。

記:きよた あゆみ(草之)

<付記として>

 吉田善太郎  大正 3年(1914年)53歳
 3月31日 農商務省による優良種牛飼育奨励金下付者として、石狩国札幌郡豊平町大字月寒字北通 吉田牧場主 吉田善助が選ばれました。下付金額50円 (殖産公報79号)

 東京大正博覧会(6月13日)において、吉田牧場(代表 吉田 善助)の牛(サー・ホームステッド・デコール12世)が名誉大賞牌を受賞し、日本一となりました。(殖産公報80号)には、入賞の事の他に、【吉田牧場】について記してあります。内容は、下記の通りです。

  【 吉 田 牧 場 】
明治三十年三月豊平町大字月寒村大谷地に於て牛舎一棟を建設し本廳種畜場より種牡牛十二頭の払下を受け牧場を開き三十六年札幌区北一條西九丁目に牧場分譲を設け専ら搾乳業を経営し三十九年以来巨資を投し二回渡米してホルスタイン種畜計十五頭を購入し同種の純粋蕃殖に努む四十二年月寒北通りに転し四十三年十一月白石村に於て百町歩の牧場を購入す現時ホルスタイン種八十七頭同種牡牛二頭計八十九頭を飼養す牧場総面積二百三十三町歩内耕地十町歩牧草地六十町歩牛舎二棟百五十坪あり場主吉田善助は本道実業功労者として藍綬褒章を受領したる厳手縣人吉田善太郎の長男にして農商務省の産牛奨励金を受くること前後二回に達せり

 ※ 「吉田牧場」は、子息の善助の所有となっています。「札幌区北1條西9丁目に牧場を設け専ら搾乳業を経営し」とあるので、現在の北大植物園の南側に牧場を設置していたことが判ります。吉田善太郎の後を継ぐように励んでいる様子が如実に窺えます。

 吉田善太郎 大正5年(1916年)55歳  12月24日午前9時 逝去
 「北海タイムス」(大正5年12月25日付)に死去の記事・死亡広告が載っています。
 死亡記事の内容は、下記の通りです。

●吉田善太郎氏逝く 札幌郡豊平町の篤農家吉田善太郎氏は、二十四日午前九時札幌病院にて卒去せりとの報あり、惜しむべし。氏は文久四年岩手縣岩手郡上田村に生れ、明治四年父に伴なはれて豊平町月寒に移住、二十一歳にして父の遺業を継ぎ、奮闘努力能く巨産を興し、未開地十六万坪・隣地七万坪を開墾、水田百餘町歩畑六十餘町歩を作る。
戸長役場設置には廳舎を、歩兵第二十五聯隊の新設には土地百町歩を寄附したるあり。
爾来、総代人・学務委員・村會議員・郵便局長を務め、三十二年藍綬褒章を賜る。
日露戦役の際金杯一個、更に勳八等白日桐葉賞を賜はる。実に豊平町殊に月寒に於ける成功者にして篤実者として推称さる。

 この三次元の世界の中に限定された時間が挿入されています。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人也」と芭蕉「奥の細道」にあります。刻々と流れる時間の中に身を置きながら、どう処しなければと問いかけてきます。
 希代の篤志家吉田善太郎の先見性・意志力・行動力・慈善性等々について、多くのことを学ばずにはいられません。

<本編>明治25年頃 「吉田用水」の開削

<外伝>吉田善太郎の農場(牧場)と邸宅

<外伝>明治25年頃 開削した「吉田用水」諸々のこと

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