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大正期 清田区平岡のリンゴ栽培

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大正期 清田区平岡のリンゴ栽培

1. 平岡地区のリンゴ栽培
 平岡地域は農業が盛んな土地柄でした。明治中頃より低地は稲作、台地はキャベツ・馬鈴薯・大根などの作物つくり、そして、酪農が行われた地区でした。

リンゴの樹の下で(昭和41年頃)

 平岡と言えば、リンゴが盛んな所というイメージですが、それは大正期になってからの事です。

 リンゴを植え付けたのは、大正10年頃と「清田区百年史」に記されてあります。
 明治ではなく、大正も後半です。盛んとなるのは昭和に入ってからになります。

 「清田区百年史」(昭和51年9月発行)<P319>より

 この丘にはリンゴが多く栽培され、大正一○年頃三ッ屋宇太郎が幼木を植付たのが始りで、その後北川七三郎等も大いに盛んにした。平岡台のリンゴの花はきれいだったとよく聞かされる。

 清田地域のリンゴは、北野地域の三ッ屋宇太郎が幼木を坂の上に植えたのが始まりとしています。幼木が育ち実を付けるまでに年月が掛かりました。
 良いリンゴが出荷できるようになったのは、昭和になってからです。

  「とよひら物語 ~古老をたずねて~」(平成11年10月発行)<P108>

  <堀合作治の話より>
 平岡の辺りにリンゴ園ができてきたのは、戦争のちょっと前だったね。それから、畑や山を持っている人は、ほとんど全部リンゴを植えたものだ。戦時中には、リンゴを物々交換し、着る物には不自由しなかったね。種類は六号が主体で、旭、四十九号もあった。どの家でもレンガ造りのリンゴ倉庫を持っていたよ。

 「平岡の辺りにリンゴ園ができてきたのは、戦争のちょっと前だった」と述懐していますから、昭和10年代頃のようです。
 品種は、六号とのお話ですが、「紅玉(六号)」の品種となります。この種が主体で、旭、国光(四十九号)がそれに次いで栽培されたようです。
 リンゴを保管するレンガ造りの倉庫は、清田の平岡地区その他に今も現存しています。

住所 平岡1条2丁目12番
  北川宅 「煉瓦倉庫」

レンガ造りのリンゴの倉庫として造られました。
当時の面影をしっかりと残しています。

 


住所 平岡2条3丁目1番

  荒井宅「煉瓦倉庫」

レンガ造りのリンゴの倉庫が現在もその姿を留めています。

 

 

 リンゴの栽培について「ひらおか」(平成4年3月発行)<P180> には、詳細に記されています。転載する事といたします。

  平岡のリンゴ栽培あれこれ
 平岡にリンゴ栽培が導入されたのは、大正時代になってからと言われていますが、豊平町内の平岸や月寒で作られていたものが、導入されたと言う事が出来ます。
 平岸でリンゴが栽培され始めたのは、明治十七、八年頃と言われその後年々盛んになり、平岸では果樹組合が明治四十一年に組織されるまでになりました。これに対して同じ豊平町の中で、明治二十四年に増山福太郎が試験的に植えたのが月寒地区での栽培の喘矢とされています。大正八、九年頃に平岸から、厚別北通りに移住して来た三ツ屋宇太郎が、リンゴの幼木を坂の上に植えたのが平岡のリンゴ栽培の発祥となりました。
 三ツ屋宇太郎の場合は北通り(北野)に入地して、そこで農業を営む傍ら、平岡にリンゴの苗木を先に植えたと言われています。森田伊作の場合は厚別坂の下(今の清田)から坂の上に上がって来た昭和十一年の後に、リンゴを作り始めたと聞きます。
 何れにしても、大正から昭和にかけて平岡のリンゴ栽培が始まっています。

 平岡のリンゴの始まりは、三ツ屋宇太郎が、平岸から厚別北通り(現在の北野地域)に移住し、リンゴの幼木を坂の上(注:桜井鉄工所のよこ・現在のパチンコライジングの横に土地を求めました。)に植えたのが平岡のリンゴ栽培の発祥となりました。
 三ツ屋宇太郎は、中の島でリンゴを栽培していましたが、広い土地でリンゴ栽培をしたいという思いがあり移住して来たのです。

 リンゴの栽培については、長文になりますので、要約して記述する事と致します。
 <多忙を極めたリンゴ栽培>

 リンゴ栽培の最初の頃は、技術の低劣さから、所謂、星(傷)だらけの粗悪品ばかりで、仲買人に卸すまでには至らなかったと言われています。

 <リンゴの品種について>

 平岡で栽培されていたリンゴの品種は、紅玉(こうぎょく・六号)、祝(いわい・十四号)、国光(こっこう・四十九号)、旭(あさひ)、黄早生(きわせ)、甘露(かんろ)、紅絞り(べにしぼり・十二号)などで後年デリシャスやインドなどが作られるようになりました。(リンゴ以外の果樹としては、梨や梅、桜桃も作られています。)

2.平岸と清田のリンゴ栽培の盛衰
 札幌市のリンゴ栽培の草分けは、平岸地区で、1881年(明治14年)平岸村に、ヨーロッパ種としては国内初のリンゴが実りました。
 現在の平岸街道沿いの平岸3条から丘陵地一帯にリンゴ農園が拡がり、その後、旧豊平町一帯にまで広まり、道内有数の生産地となっていきました。
 大正期になると、青森県から学んだ技術を改良して、袋掛けや薬剤防除を行い収穫増に繋がりました。昭和期に入ると独自の貯蔵法、販売方法も確立していったのです。
 こうして、りんごの最盛期を迎える事となりました。
 しかし、昭和20年半ば頃から、札幌市の発展による人口増加、都市計画区域指定、木の花団地の建設などで急激に都市化が進み、リンゴの木も次第にその姿を消して行きました。

 先にも記しましたように、清田のリンゴ栽培が緒に付いたのは、大正の10年頃ですから、かなり遅れての栽培でした。それでも、平岡の一帯がリンゴ園となり、平岸に次ぐ収穫を得るようになります。

リンゴの収穫風景(昭和40年頃/森田)

 ところが、清田地区も人口の増加と合わせて、車社会の様相が急速に進んでいき、国道沿いのリンゴ園は、その排気ガスの影響を受けるようになっていました。
 こうした環境の悪化、品種改良の立ち遅れ、嗜好の変化、価格の低落等がありました。
 それとは反対に、野菜の価格が高騰して、畑作農家は、野菜の栽培に指向が強まっていったのです。

3.リンゴの木の伐採
 リンゴ栽培を取り巻くこうした状況の中で、リンゴの木を切り倒す事が始まりました。
 リンゴ栽培の最盛期は、昭和初期から30年代と言う事になります。
 しかし、その跡地が宅地化されると言う事はありませんでした。

 そして、平岡のリンゴが、昭和47・8年頃には栽培されなくなりました。
 リンゴの木を伐り、根を取り除く作業は、大変でしたので、昭和40年後半から始まったリンゴの木の抜根作業は、強力なトラクターを有した、斉藤智(リンゴ栽培を行っていた仲間)の手によって、その殆どが引き受けられたと言われています。

 この様にして、リンゴの栽培も、約50年間で、幕を下ろす結果となったのです。
 歳月の流れの中で、平岡に新しく住いした人たちの多くは、平岸と並んでリンゴ栽培が盛んな地域であった事を知る人はどれ程おられるでしょか。

 平岡のどの辺りで栽培されたかについては、次の地図をご覧ください。

 国土地理院発行地図  昭和25年(1950年)
 リンゴを栽培していた地域の地図です。最盛期の頃と言えます。

 現在の地番では、平岡1-2(北川)、平岡2-1(石田・池田)、平岡2-2(笹出・荒井・森田),平岡2-3(三ツ屋・相馬)、平岡3-1(坂東)、平岡3-5(塚辺)平岡4-1(水上)、平岡4-2(斉藤)、平岡4-3(大藤)、平岡5-1(木下)、平岡6-2(西川)、平岡6-3(畔原)平岡6-4(畔原)、平岡8-3(泉)、清田1-3(石田)等の地域でした。 <注:地域は、概略の位置となります。>

 平岡の地域は、湧水の箇所や二里川が流れていて、湿地であった土地が多くありました。
 地盤がしっかりとした地質の箇所に、リンゴが植えられていたようです。
 ごく当然の事なのですが、平岡の厚別演習場(元学田地)の地域には、地図上でも、リンゴが全く植えられていない状況にありました。

記:きよた あゆみ(草之)

 


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