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大正13年 「高倉牧場」創設と「たかくら緑地」

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大正13年 「高倉牧場」創設と「たかくら緑地」

1.「豊平町史」に記された「高倉牧場」
 「たかくら緑地」は、現在、清田区民及び札幌市民の公園・緑地として、季節を通じて散策出来る憩いの場となっております。

下の写真は、現在の「北野たかくら緑地」です。

 整備された「たかくら緑地」ですが、鬱蒼と生い繁った大木が林立した原始林に近い状態です。清田区の住宅地では、ほとんど目に出来なくなった森林地域と言う事が出来ます。

 昭和34年(1959年)3月31日発行の「豊平町史」には、「高倉牧場」について次のように記されてあります。創立・設置が、大正13年(1924年)7月としています。

   「豊平町史」(昭和34年3月31日発行)<P492より> 「高倉牧場」について

     高倉牧場   場主 高倉 左輔     北野
  創立大正一三年七月
 ここは他と異った構想のもとに経営されている牧場である。それは場主が空知農業学校卒業後、真駒内種畜場、軽川の極東牧場、岩見沢郊外の北村牧場等に数年間実習生として勤務し、将来の牧場経営はいかにあるべきかを考えながら身をもって体験し、たゆまない努力と創造性を遺憾なく発揮して寒地酪農経営上画期的な構想を打出したのである。そして「明かるい、楽しい、豊かな酪農生括」をモットーとして精励し、その夢を実現したのである。このすばらしい経営ぶりを見学する人々は道内はもちろん奥羽各地に及び応接にいとまなく、かつ講師として招へいを愛け、道内外東奔西走という状況である。
所有地二〇町歩、畜牛十二頭、耕馬二頭、成豚三頭、めん羊七頭、鶏六〇、あひる二〇羽。

  注:所有地二〇町歩 1町歩=3000坪=約1ha ・ 20町歩=60,000坪です。
    昭和34年(1959年)頃の高倉牧場の面積は、約20haの広さでした。

 「豊平東部農業協同組合 30年史」(昭和35年9月15日発行)<P464>の組合員名簿では、高倉佐輔氏は。福岡県出身で、明治35年(1902年)3月8日生となっております。高倉牧場を創立した大正13年(1924年)当時、22歳でした。

 下図は、昭和44年度版「ゼンリンの住宅 地図」札幌市南部(その二)部分です。

 西側に厚別川が流れ、東側には二里川が流れています。その中央部に「高倉左輔 牧場」と記されてあります。「高倉牧場」の位置がお分かりになると思われます。
 当時、栄通り(堺通)、東北通りが直線ではなく、湾曲した形で通じていました。
 また、未だ、「北野団地」が造成される以前ですから、辺りには居住の家もなく、広い牧草地が広がっていた事を窺い知ることが出来ます。
 現在の「北野団地」周辺一帯は、放牧場となっていたと思われます。

2.「高倉牧場」のサイロのこと
 牧場ですから、冬場に備えて牧草を蓄えるサイロが有りました。
 そのサイロの1つは、国道36号線にあった嵯峨牧場のサイロを移設したものでした。
 このサイロは、嵯峨牧場に出来た当初は、直径18尺・高さ23尺の軟石造りで、当時全道で二番目の大きさで有名でした。

 下のサイロの写真は、嵯峨牧場のサイロです。(高倉牧場移設前のサイロとなります。)
 「嵯峨牧場」については、嵯峨半蔵が、明治19年(1886年)頃より日糧製パンの辺りから北野に跨がる63町歩に及ぶ土地を買受けて造ったものです。
  注:63町歩=約63ha
 現在の国道36号線以北・光円寺以東・豊平体育館・吉田川公園の一部を含む北野地域に広がる牧場でした。
 しかし、「嵯峨牧場」がゴルフ場となるため、高倉左輔は、昭和6年(1932年)サイロを買取り翌年の昭和7年に復元して、使用されました。

3.高倉牧場のサイロの経緯
 さっぽろ文庫3「札幌風物誌」昭和53年1月発行(牧場とサイロ P97)には、「高倉牧場」のサイロの移設について、次のように記されてあります。

 札幌周辺に古いサイロが多いのは、北海道酪農のメッカが真駒内牧牛場であり、真駒内に隣接する石山は札幌軟石の名で呼ばれる石の産出地、煉瓦も明治十七年白石で、ついで二〇年前後には野幌で製造されるようになったことと深い関わりを持っている。
 煉瓦・軟石ともに、サイロには格好の素材なのだ。
 大谷地の旧高倉牧場、高倉左輔さんのサイロは二基とも軟石造り、住宅も同様だ。
家から石山は二里、建築材としては重く運賃で高くつくが「農家の冬は割合ひまになるからコツコツ馬で運べば、ほんの安いものになって材料が人手できた」と述べている。数年前、都市化の波に押されて牧場を長沼に移したが、一基を解体移設し、一基を記念に残した。移設した方は大正十三年の建設(費用七〇〇円)、残したのは昭和七年、豊平の国道三六号線ぞいにあった嵯峨牧場から購入し、解体移設したもので、三〇〇円で建てられた。                   (以下略)

 「高倉牧場」には2基のサイロがあり、大正13年に建設されたサイロと昭和7年に嵯峨牧場から買い入れたサイロが有った事が語られています。
 しかし、都市化(宅地造成)の波で、大正13年に建設されたサイロは長沼に移し、嵯峨牧場から買い入れたサイロは、記念に残した事が判かります。

4.高倉左輔氏の牧場の学舎「静学寮」
 「地勢堂 札幌市航空写真地図 豊平区 geo 特別限定版」(昭和60年7月1日頃 出版)

 昭和60年頃の北野の旧高倉牧場の部分となります。
 「北野たかくら緑地」
 (北野6条4丁目)の北側に高倉邸に隣接してサイロと厩舎が設置されてありました。

 

<左図は、上記の拡大図です>
サイロの屋根が大きく写っており、その大きさを想像させられます。

 

 

 

 右図は、北野7条4丁目の地域です。
 3葉の画像には、静学寮・第2静学寮・第3静学寮の3棟の寮が写っています。

 この静学寮において、高倉左輔氏の酪農に関する所信が語られ学び、それを実践する作業が牧場内に於いて行われたと思われます。
 「明るい、楽しい、豊かな酪農生括」をモットーの実践となった事でしょう。

5.北野団地の造成のはじまり
 都市化(宅地造成)の波は、北野地域では昭和44年頃より始まります。
 そこで、「札幌市北野団地」の造成状況を調べてみる事とします。

左図は「ゼンリンの住宅地図
札幌市(南部郊外編)
昭和45年版 P48(部分)
豊平(現 清田)区北野地域」の地図です。
 この当時、東北通がまだ完全に出来ていません。
 左図には、「大谷地」と「北野」の地域が記してあります。
 大谷地と北野の境界がはっきりとしていないため、両地域が一体となっていた感じです。
 「静学・高倉佐輔」と記してあります。「旧高倉牧場」です。
 牧場は、線で囲まれてあるので、それ程広大といった感じではないのですが、周りには住宅らしきものはないので、周囲が牧場であった可能性があります。
 中央下には、「札幌市北野団地造成中」とあり、宅地化が進んでいた事を窺う事が出来ます。

5.「北野第一団地」造成の概要
 「北野第一団地」は、昭和44年(1969年)から造成が行われ、昭和45年に終えて、個々の住宅の売り出しは、昭和45年から47年となっています。
 北海道住宅供給公社が開発して売り出した、北野地域にできたベッドタウンでした。

     「北海道住宅供給公社 宅地開発事業」の内容

 団  地  名     札幌市 北野第1団地
 事 業 年 度     昭和44年度~昭和45年度
 計 画 面 積     186,961.00 平方メートル
 戸     数     411 戸
 道路・公園・その他   72,800.00 平方メートル (以下略)

    「1950~2000 50th 北海道住宅供給公社 」
    (平成12年12月1日発行  北海道住宅供給公社)より

 手前が造成された「北野第1団地」で、「たかくら緑地」が上方に見えます。
 写真の下にある大きな通りが、真駒内御料札幌線です。(左は有明方面・右は白石方面)

 真駒内御料線に沿って、その上方に在るのが、さくら川が流れる「北野緑地」です。
 住宅は、ほとんど規格が統一されていました。ブロック造りの三角屋根で、多少玄関の位置などが、方角によって変わっている程度でした。

    現在の地図での「北野第1団地」の位置です。

 現在の地番では、清田区北野7条5丁目と北野6条5丁目に当たります。

 東北通りと真駒内御料札幌線の交わった箇所に造成されました。
 「北野緑地」は、地形の関係で緑地・公園となったと思われます。

6.「たかくら公園」と「北野たかくら緑地」のこと

 左の写真は、旧高倉邸とサイロです。
 右側に部分ですがサイロが写っています。

 高倉氏は、団地の造成後もこの地に居住していました。
 酪農を続けられておられたかについては未詳です。

 後に「たかくら公園」及び「北野たかくら緑地」と呼称された土地ですが、即「たかくら公園」となった訳ではありません。 概略の経過を追って見ますと次の通りとなります。

 「北野団地」が造成されて10年ほど経過した昭和53年(1978年)の住宅地図には、「北野たかくら公園」「北野たかくら緑地」の記載はありません。

 地図資料から、「たかくら公園」「北野たかくら緑地」が設定された年代を、推測して記してみます。
 昭和55年(1980年)10月には、「北野たかくら公園」があったと言えます。

 「北野たかくら公園」の設定

 「北野たかくら公園」
ゼンリンの住宅地図 1981年(昭和56年)版
 1980年1980年(昭和55年)10月発行
 所在地:北野530番地

 昭和54,5年頃「北野たかくら公園」が設定されたと思われます。
 この当時の広さは、余り広くはない状況となっています。
 南北 約130m × 東西 約80m で、現在の「北野たかくら緑地」の3分の1(約1ha)程となっています。

   昭和61年(1896年)頃の「北野たかくら公園」の様子
 ゼンリンの住宅地図  1987年(昭和62年)版
 1986年(昭和61年)10月発行

「北野たかくら公園」
所在地:北野6条4丁目

 昭和61年頃「北野たかくら公園」の名称となっています。
 北野6条4丁目16及び14は、公園の指定となっていません。この当時の広さは、55年の頃より広くなっています。
 地図によっては、「たかくら公園」と記載されてある地図もあります。通常の呼称は、「北野たかくら公園」で、「たかくら公園」は、省略形と思われます。

 平成9年(1997年)10月頃の「北野たかくら緑地」の様子
ゼンリンの住宅地図
1998年(平成10年)版
1997年(平成9年)10月発行
 所在地:北野6条4丁目10

 平成8、9年頃「北野たかくら公園」が、「北野たかくら緑地」と呼称が変更されたと思われます。
 この当時の広さは、未だ池の部分が含まれていませんでした。
 平成9年は、清田区が豊平区から分区した年です。前年までに分区に対処するための準備がありました。

 名称はその1つであった可能性があります。

  平成31年(2019年)度版 清田区マップより「北野たかくら緑地」の様子

 平成31年の「北野たかくら緑地」を以前の「たかくら公園」と対比してみます。
① 昭和55年、長方形であった「たかくら公園」は、ほぼ四角形となっています。
② 池の周辺の敷地を含めて「北野たかくら緑地」とされています。
③ 平成9年の地図には「第1静学寮」「第2静学寮」「第3静学寮」が記されていました。
 高倉佐輔氏の理念を学んだようです。(現在、「静学寮」はありません。)
④ 「北野たかくら緑地」ですが、地図によっては、「北野」が欠落した表示の地図も見受けられます。「緑地」の入口等に、下の写真のような表示があります。
⑤ 令和4年(2022年)現在、平成31年の敷地と土地状況は同じです。

7.現在の「北野たかくら緑地」
 札幌市の管理によって行き届いた環境です。現在の「北野たかくら緑地」(北野6条4丁目)は、高倉佐輔氏が牧場として開墾した一部の約3.9ha(全体は、43,370㎡)を緑地としたものです。



 四季を通じて様々な景色を楽しめますので、皆様もお出かけになってはどうでしょうか。
 街中にある樹々の森です。新たな風情を堪能しながらの森林浴となるでしょう。

記:きよた あゆみ(草之)


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