平成12年 「北野通」の全面開通
1.旧「北野通」のことについて
下図の地図をごらんください。
昭和55年頃の市販地図 より 「最新 札幌市内区分地図 改訂版 地勢堂」
羊ヶ丘団地が造成 され、静修短大が設 立され、国道36号 線から大学へ通う 道も整っています。
「清田通」は、光圓 寺への通りから、旧 国道36号線へと 伸びています。
さて、「北野通」で すが、現在の通りと は異にしています。
平岡中央バス営 業所から、イオンの 北側を通る道であ ったのです。
それが、現在では、八紘学園の農場の真ん中を通り、ホーマックゲオの南側から、北野中 学校前を通り、イオン平岡店の南側を通る道路を「北野通」と呼称するようになりました。
それでは、新たな「北野通」が開削された経緯を記す事とします。
結論から記すと、昭和54年頃から開削が始まり、八紘学園の農地を横切る用地の買収が昭和58年(1983年)12月に行われ、昭和61年(1986年)5月に「北野通(農地 貫通道路)」開通式が行われて一応の工事の完成となりました。
しかし、平岡地域の開削が遅れて、平成12年になり、漸く全面開通となりました。
〇北野通(きたのどおり)豊平区から清田区に至る札幌圏都市計画道路です。
・起点: 札幌市豊平区月寒東3条3丁目(白石中の島通交点)
・終点: 札幌市清田区平岡3条5丁目 (厚別中央通交点)
・延長: 6.86km
2.現在の「北野通」のこと
※下記の橙色の線が、「北野通」です。
国土地理院の1995年(平 成7年)~1998年(平成10) 修正の地図です。
上記地図は、清田区付近です。
左図は、北海道産業共進会場 の下側・八紘学園農業専門学校 の敷地内に「北野通」が農場を分 断するように、道路が右下から 左上へと伸びています。
昭和61年(1986年)5月 13日(農地貫通道路・開通式) に北野通りが開通しました。
八紘学園が「北野通」開通に向けて昭和58年、理解を示し、土地の売却を了承したこと によって実現しました。
3.昭和50年頃 未造成の「北野通」の状況
下図は、国土地理院 1975年(昭和50年)の修正の地図です。
1975年(昭和50年)当時 の東月寒は、多くの住宅が建てら れていました。2条と3条の間に 区画するような形で、「北野通」が 設定されていました。
左図の―(赤色)の線です。
その他の箇所については、ほとんど道路の造成はされていませんでした。
4.ゼンリン住宅地図」に見る「北野通」の計画と造成
下図は、ゼンリン住宅地図です。年代による比較してみます。
昭和54年の地図(北野2、3条3丁目付近)に於いては、団地の一部が「北野通」となる ように造成されていた事が感じられます。
昭和56年の地図では、北野中学校の前の通りが造成され、団地の通りへと繋がり、厚別 川には「北野橋」が架けられています。
(注:ゼンリン住宅地図ばかりでなく、多くの地図の表示は、前年以前に調査測量し、製図 化していますから、発行年の年が造成年と言えません。
ゼンリンの住宅地図では、発行年の前年に調査し、翌年発行する体制のようです。)
※「北野通」の道路造成を、年代を追って後述致します。
ですから、「北野通」の道路造成は、昭和55年頃より始まったと考えられます。
「北野通」の道路計画は、其れより早くに立てられていたと思われます。
それは、道路用地と思われるが土地のほとんどが、住居・建物がない空き地の状況となっているからです。
次に昭和56年(1981年)版の北野橋からの道路造成図を掲載します。
それに依りますと、「北野橋」から「真駒内御料札幌線」までの途中が「工事中」と記されています。「北野通」の道路造成は、工事のし易い箇所から部分的に行い、次々と繋がってい った事が「ゼンリン住宅地図」より窺う事が出来ます。
上記左図、昭和56年(1981年)版の地図では、「真駒内御料札幌線」から北野橋に向 かう道路に「工事中」との記載があります。
上記右図、昭和58年(1983年)版の地図では、「工事中」の箇所が、緩やかなカーブ を描きながらも「真駒内御料札幌線」と繋がって完成しております。
昭和54年(1979年)版と昭和58年(1983年)版の地図を比較して頂くために 2つの住宅地図を掲載しました。宅地化が急激に進んだことが如実に分かります。
どちらの地図も、(平岡2条1,2丁目周辺)です。
昭和54年版では、平岡地区に住居らしいものはなく、一面に田畑が広がっていました。
しかし、昭和58年版の地図では、「真駒内御料札幌線」の東側(平岡地区)に「北野通」が造成され伸びている事を確認頂きたいと思います。
しかしながら、南側の箇所(地図右下)は、未造成となっていました。
「北野通」は、これから更に南側へ伸びて行く事となります。
昭和54年(1979年)版(左図)と昭和58年(1983年)版(右図)の地図依り、「北野通」の造成の進捗状況を、概略ですが把握出来ます。
5.「ゼンリン住宅地図」に見る「北野通」(月寒東地区)の造成
下図は、ゼンリン住宅地図です。地域ごとの進捗状況を見る事とします。
道路用地に住宅などの建造物が無かった事に依り、道路造成はスムーズに進んだようです。 図面上においても、歩道が完備され、道路の中央線も明示されています。
そして、工事は、豊平区東月寒の区域の造成へと進んで行きました。
この豊平区の「北野通」周辺においても、それほど住宅が入り組んでいません。
月寒東2条18・19・20丁目周辺の造成は、昭和57・58年に掛けて行い、58年 には竣工に至っています。
6.「ゼンリン住宅地図」に見る「北野通」(八紘学園地区)の造成
昭和62年(1987年)版
月寒東地域の「北野通」の工事が進むと、起点と なる、豊平区月寒東3条3丁目(白石中の島通交 点)まで、工事が行われました。
左図は、起点の「白石中の島通」まで延びた「北 野通」です。
月寒川を横切るように走る「北野通」となってい ます。
それには、八紘学園の農地を横切らなければなりま せんでした。
八紘学園は、「北野通」の造成に理解を示し。農地を 横切るように設計された道路のため、昭和58年(1 983年)用地の売却を了承しました、
昭和62年(1987年)版
その後、工事は順調に進み、昭和61年に開通しま した。
左図は、八紘学園の農地に出来た「北野通」で す。
八紘学園の農地が「北野通」によって、南北に分断 された様子・状況を確認ください。
南側には、校舎・ガラス温室・農産物直売所・ 農機格納庫・農機整備工場・校 宅・テニスコート・ 農業資料館・栗林庭園・栗林記念館などがあり、北側には、採草地・果樹園・牧草地・菖蒲園や ジンギスカンクラブなどあります。
かなり広い学園の農地ですから、それほどの支障が無いとは言え、農作業を行う際には、「北野通」を横断しなければなりませんから、大英断であったと言えます。
「北野通」に対する理解によって、市民や多くの人々の交通路なりました。
7.「ゼンリン住宅地図」に見る「北野通」(平岡地区)の造成
昭和59年(1984年)版
先の昭和54年(1979年)版 ・昭和58年(1983年)版と比較してご覧ください。
平岡2,3条1,2,3丁目周辺となります。
「平岡コープタウン」及び「平岡しんたく団地」 に、多くの戸数が家を建て入居しました。
「北野通」は、「平岡しんたく団地」の南側に少し だけ延びました。
ここ迄工事を終える事が出来ましたが、その北側 の道路の工事は、なかなかに進みませんでした。
8.「北野通」の進捗・まとめとして
このような経過を辿りながら、「北野通」は全面開通となりました。
昭和54(1979年)年頃から平成13年(2001年)までの約20年間の歳月を掛けての造成工事で、初期段階では10年を要しないで開通するのではと思われましたが、用 地買収などの事が絡み、倍以上の年数を掛けての道路開削となりました。
<付 記> 「北野通」が「厚別中央通」に接する箇所の道路状況について
左図を参照ください。
終点の「厚別中央通」と「北野通」が接しています。
赤線で示した通りは、「学田地(厚別演習場)」の境界の道路とな っていました。
この辺りは、古道筋があり、かな り複雑な小径が存在します。
赤の点線の中の緑の道路に注目ください。
その先には、再び元の学田地(厚別演習場)の境界道路が延長上に所在していました。
詳細については、あしりべつ郷土館のHP「きよたのあゆみ」をご覧ください。
〇明治18年頃 清田にあった「学田地」と「厚別演習場」
<外伝>「学田地(厚別演習場)」の境界を示す不思議な風景と径」を参照ください。
きよた あゆみ(草之)