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明治初期 あしりべつ墓地と光圓寺

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明治初期 あしりべつ墓地と光圓寺

1.響流山 光円寺   住所:清田区北野1条2丁目9番40号

 現、北野墓地は、明治19年に厚別(あしりべつ)墓地として認可され、明治34年に、福井県明厳寺・乙坂閑寿師によりあしりべつ説教所(現、光圓寺)が開設されました。
 厚別墓地は、明治19年に認可されましたが、それよりかなり早く、明治10年頃には地域の埋葬(土葬)の地として、長岡重治氏等によって決められたようです。

 光圓寺の入口(門柱横)に、下のような歴史「標(しるべ)」が設置されてあります。

 『北野地区とよひら〝ふるさと再発見〝 委員会 札幌市豊平区』の設置より
注:明治29年頃に設置としていますが、道庁による許可を受けたる月日です。
 それ以前に「あしりべつ墓地」として、埋葬の場となっていました。
 また、「あしりべつ説教所」の開設は、明治30年ではなく、明治34年です。
 「北野墓地」との銘々は、字名改称のあった昭和19年12月からです。

 明治時代の光圓寺(「光円寺」沿革より)

 左図は、「あしりべつ説教所」です。

 明治33年に福井県丹生郡明厳寺住職の乙坂閑寿師(おとさかかんじゅ)が61歳頃この地に来られて開教(真宗)され、翌34年「あしりべつ説教所」を開設されました。
 故石田佐次郎氏の話によれば、「説教所」を造るに当たって、篠路屯田の農家の納屋を買って、冬に解体した木材を馬で引っ張って来て建てたと言う事です。

2.厚別(あしりべつ)墓地及び光圓寺の資料について
 <資料・その1>
 「豊平町史」(昭和34年3月発行)には、次の様に記されてあります。 <P726より>

 「豊平町史」の<P206>には、「墓地」について記してあります。

〇厚別共同墓地(厚別、有明、三里塚地区 使用)
 (豊平町)大字月寒村厚別一五五三番地(新地番北野一二五)七反九畝二八歩大正二年九月二五日、新規登録

  注:以上は、昭和34年(1959年)頃の寺院・墓地の状況です。

 <資料・その2>
 昭和46年(1971年)5月発行「郷土誌あしりべつ」<P62>より

 寺院
 明治三十年、日蓮宗の大友妙智尼(みょうちに)が北通りを根きょにして布教していきました。そして明治三十二年お堂を建てて説教所としましたが明治三十六年月寒に移りました。これが今の光徳寺(注:日蓮宗・月寒中央に所在)です。
 明治三十(三)年四(七)月、乙坂閉(閑)寿<おとさかへい(かん)じゅ>が北通りに来て、真宗の布教につとめました。そしてアシリベツ説教所を開きました。明治四十三年光円寺として出発することになり、住職は武部洗心(せんしん)、大正十年から今の斎藤昇龍(しょうりゅう)が住職となりました。

 光圓寺の推移について記しています。 注:(□)は、誤記を訂正しました。

 <資料・その3>
 昭和51年(1976年)9月発行「清田地区百年史」 <P179>より

 (一)光円寺   北野一一五番地
            真宗本願寺派
            創立開山 明治四三年一一月一八日
 沿革 福井県丹生郡天津村字在田眞宗本願寺派明厳寺住職乙坂閑寿此の地にきて明治三三年七月以来布教につとめ翌年一二月本派本願寺アシリベツ説教所を開設、居住すること一〇年にして札幌市に転居、九六歳の高齢を以って入寂した。明治四三年一一月一八日眞宗本願寺派光円寺と寺号公称、創立に当って富山県婦中町下条光善寺僧教師武部洗心住職となり、この地において開数すること一〇年、大正七年一一月一九日入寂す。
 大正八年七月一四日札幌郡白石町厚別安楽寺住職横湯僧湖が兼務住職となり法義御引立二年大正一〇年四月一九日解職、その後富山県婦負郡呉羽町小竹大徳寺僧教師斉藤昇龍住職となり、現在にいたっている。
 歴代住職
  一代 武部洗心 明治四三年一一月
  二代 斉藤昇龍 大正一〇年四月
 (二)北野墓地   北野一一五番地
     総面積 八、三〇一平方米    墓碑  二七四基
 沿革 明治の始め頃開拓の激しい労働でなくなった方々の仮埋葬が墓地となりやがてお寺も建立されるにいたったのだと古老が語っている。小高い丘で静かなところ。当時この墓地ができるまではここに仮埋葬し自分の故郷まで埋葬に行ったものだということである。
 墓地として設置許可されたのは明治一九年一一月九日で、この頃墓石も数基が建立されていたに過ぎなかったが、現在は狭小でもあり、交通その他の理由で移転問題等が出ているが、古い墓地だけに無縁仏や持主の判らないものが多く、この地の開拓以来の墓地でもあり祖先の静かに眠る墓地として、できればそのまま残したいという数多くの問題が残されている。

 

 <資料・その4>
 平成11年(1999年)8月発行「光円寺百年誌[響流山光円寺]開教百年記念誌」より

 由 緒
 光円寺は、隣の厚別(あしりべつ)墓地が始まりです。明治の初期、開拓の激しい労働や厳しい寒さなど様ざまな苦労が重なり、亡くなった方々の仮埋葬の場が墓地となり、やがてお寺も建立されるに至っております。
 墓地として設置許可されたのは、明治十九年十一月九日で、当時はすべて土葬でした。最後の埋葬する時にお経を上げて欲しいという願いもあったようです。
 明治三十年から二年半位の間には、大友妙智尼(真言宗)がおられ、その後、福井県丹生郡明厳寺住職乙坂閑寿師が、此の地にこられ、明治三十三年七月以来開教し、翌年、十二月アシリベツ説教所を開設、又、福住寺(当時 月寒出張所)にも同時期に一年位おられたとの事ですが、当時、僧侶が少ないので兼務ではないかと思われます。居住すること十年にして、寺号公称を果たし、札幌に転居、昭和五年五月七日、行年九十二歳で往生されました。
 第一世住職 武部洗心師は、富山県婦中町光善寺より札幌別院に奉職、光円寺門徒総代の方々の要請により明治四十三年、寺号公称後に入寺、当寺の基礎を作りお念仏流通のため、八年間心血を注がられましたが、大正七年十一月十九日、当時流行した流行性感冒(スペインカゼ)で行年四十三歳にて往生されました。
 大正八年七月より、白石町厚別安楽寺住職 横湯僧湖師が代務住職として大正十年四月まで務められ、第二世住職として前住職の時より法務を手伝っておられた富山県婦負郡呉羽町大徳寺衆徒斉藤昇龍師が同年四月に前坊守と結婚、同時に法灯を継承され五十有余年の長きに亘り当寺護寺発展に精進されました。
 その間、永年風雪に耐え、老朽化した本堂、庫裡の新築を図り、昭和三十六年門信徒一丸となり一致協力し完成を見るに至りました。その後、押し寄せる年波に勝てず、昭和五十一年臨時総会で後継住職が決まった三ケ月後の昭和五十一年九月二十四日、行年八十一歳をもって往生されました。
 第三世住職一瀬隆城師は、札幌別院に勤務、後継住職に決まった七月に、富山県新湊市禅楽寺衆徒より当寺副住職として入寺。同年十二月に現坊守と結嬉し、法灯を引き継ぎ昭和五十二年一月、本山より住職を拝命しました。

 

3.「あしりべつ墓地」(埋葬地・墳墓)について
 「厚別一帯連絡図」(あしりべつ郷土館所蔵)より  右図は「拡大図」

 上記の「厚別一帯連絡図」は、明治中期・30年前後頃に作製された地域区画図であると推測される図面です。(地図の方角ですが、上方を南としています。)
 道路についてですが、上の道路が、旧国道36号線(札幌本道・室蘭街道)です。
 縦の道路は、旧「清田通」となります。

 旧「清田通」付近に、「墓地(あしりべつ墓地)」が記されて有ります。現在の「北野墓地」の箇所と言うより、現在の寺院境内の敷地に該当するように思われます。
 土地の形状は長方形(目算で、幅30間×奥行50間ほどです。)となっています。
 当初は、移住者も少なく広い土地を必要としなかったのかも知れません。その後、墓地としての土地を檀家の方々が買得して、光圓寺に寄附されました。(後述)
 図面の周辺には、山崎銀之助の氏名が見えます。また、山銀之助の箇所は、山銀之助の可能性(誤記)が感じられます。区画は明確ではありませんが、その後、買得して光圓寺の墓地となった土地であると推測されます。

 左写真は、現在の「北野墓地」です。
(元山崎銀之助の所有地で、檀家の役員の方々が買得した土地となります。)

 それでは、山崎銀之助が所有した「あしりべつ墓地(北野墓地)」について記してみます。

 光圓寺の土地(墓地)についての登記簿です。 下記に転載します。

住所 札幌郡月寒村大字北通卅八番地
所有主 山﨑 銀之助

明治卅四年十二月廿五日
 買得
見上 権太夫
髙木 又六
髙木 末吉
佐々木 吉五郎

(省略)
大正五年三月卅日
 寄附
字厚別四三八番地ノ二号 光円寺

 要は、大正2年9月25日に「厚別共同墓地」が新規登録となりましたが、「光圓寺」の土地(墓地)所有でありませんでした。登記簿では、山﨑銀之助の所有地を、明治34年12月25日に、4名の方が買得したままでした。その4名は、見上権太夫・髙木又六・髙木末吉・佐々木吉五郎 の各氏です。個人名義の墓地でしたので、急遽4名の関係の方々は、相続等を行い解決に向けて動き、光圓寺に寄附する形で解決しました。

〇「厚別(あしりべつ)共同墓地」の「買得・寄附」の動き
 「厚別(あしりべつ)共同墓地」(札幌郡月寒村大字北通卅八番地の土地)の土地を買得し、寄附に至るまで。

 「光圓寺」の所有となる経緯は以下の通りです。<登記に依る買得の経過について>
 土地所有主 山﨑 銀之助(住所・・・札幌郡月寒村大字厚別北通卅八番地)
 <買得> 明治34年12月25日 (大正5年まで動きはありません。)
 見上 権太夫 ・髙木 又六 ・髙木 末吉 ・佐々木 吉五郎
  
 <持分家督相続 (髙木又吉 外)> 大正5年3月30日
 高木 末松 ・髙木 又吉 ・見上 権太夫 ・佐々木 吉五郎
  ↓   (髙木又吉 住所・・・大字月寒村字厚別北通り三八番地)
 <家督相続 佐々木 吉五郎> 大正5年3月30日
 佐々木 喜太郎 他3名(氏名を省略しています)
  ↓   (住所・・・字厚別南通り六三番地 他 )
 <家督相続> 大正5年3月30日
 髙木 仁蔵 ・佐々木 喜太郎 ・高木 末松 ・見上 権太郎
  ↓   (住所・・・字厚別本通り七〇)
 <寄 附>  大正5年3月30日 光圓寺の所有地となる。
 (住所・・・字厚別四三八番地ノ二号)
 以上ですが、「光円寺百年誌」には、(基金を出し合い)「役員が連名で登記したものと思われます。」としています。個人の土地に埋葬するという不都合を指摘されたのか、光圓寺の「厚別(あしりべつ)共同墓地」とするよう、寄附へと動き対処したのでした。

〇経過について
 明治34年(1901年)12月25日の買得から、大正5年(1915年)3月30日の相続まで、15年間を要して光圓寺の「厚別(あしりべつ)共同墓地」として寄附され、地域の人々が事ある時に対応出来るようになりました。
 相続が3回行われていますが、形式の上での事であろうと思われます。
 相続として記載されてある実質の人数は9名です。相続に関わった方々からの布施(拠金)により、墓地としての登録を行ったのではないかと推定されます。
 厚別(あしりべつ)地域の葬祭をきっちりと行うために、皆が協力して行っていた事が感じられます。

 尚、大正2年9月25日に新規登録された「厚別共同墓地」は、厚別・有明・三里塚地区が使用する墓地であり、広さが、7反9畝28歩(2,398坪)でした。
 ほぼ正方形の土地(約49間×約49間=約2,400坪)の形状です。
 (昭和56年測量)敷地面積8236・18㎡(2495・8坪)となっています。

4.「厚別共同墓地」から「北野墓地」へ

現在の「光円寺」と「北野墓地」です。
「厚別一帯連絡図」と比較してみます。
墓地・境内の広さの概略を記します。
距離は、北・東・南・西の順です
墓地= 約 76m 102m 89m 98m
境内= 約 85m 47m 40m 80m 37m
 墓地は、ほぼ正方形の土地となっています。光円寺の境内は、「あしりべつ墓地」だった土地でしたが、600坪を売却している事から、本来の形状が明確ではありません。

〇光圓寺の記録より <墓地の住所などについて>
・明治19年11月9日、道庁へ「あしりべつ墓地」の設置願いを出して許可を受ける。
・明治34年12月・「あしりべつ墓地」札幌郡月寒村大字厚別北通38番地(私有地)
・大正 2年 9月・「厚別共同墓地」豊平町大字月寒村字厚別1553番地(私有地)
・大正 5年 3月・「厚別共同墓地」豊平町大字月寒村字厚別1553番地(寺院所有地)
・昭和19年12月・字名改称で、「北野墓地」となる。豊平町大字月寒村字北野125番地
 (注:明治19年に、豊平区の字名改称が行われ、地域名も変わっています。)
・昭和56年12月・「北野墓地」札幌市清田区北野1条2丁目21
・現在の住所は・・・「北野墓地」札幌市清田区北野2条2丁目

〇「北野墓地」は、現在、札幌市の管理する市営墓地となっています。

左図は、昭和53年10月発行
「ゼンリン住宅地図」より
札幌市豊平区<東部版>
1978年版
 市営墓地は、主に札幌開拓の際に当時の入植者が開設した墓地で、町村合併により札幌市が管理しております。(寄附されましたが、札幌市の管理下にあります。)
 そのような事で、「光円寺」の境内とはなっておりません。
 土地の区画は、「光円寺」と「北野墓地」を分離して対応されているのが実状です。

左図は、平成9年10月発行
「ゼンリン住宅地図」より
札幌市豊平区<東部版>
1997年版
 北野墓地と光円寺の区画がはっきりとしています。
 北野墓地は、札幌市の管理する墓地で、光円寺には「納骨堂」は有りますが、「墓地」の所有は有りません。現在の光円寺の敷地は、概算ですが、1,250坪~1,300坪ほどですが、本来は、2,000坪位であったと思われます。(後述)

5.「厚別(あしりべつ)墓地」・「光圓寺」の経緯について

6.老朽化した「光円寺」の建直と開教百年の記念事業


 左図は、昭和36年10月、「光円寺」を建て直し、落成法要を執り行われた本堂です。

 その事について、「光円寺百年誌」には、次の様に記されています。(要約です)
 『昭和32年頃より、光円寺では、明治34年以来使用していました本堂、庫裡の建て直し計画が、総代役員の方々が中心となって進められ、門徒総会での決議を経て、昭和33年より取り掛かりました。
 建て直しに使用する木材を滝野の官林より払い下げを受け、門徒の方々の労力奉仕を頂き、工事は着々進めていきました。木材の切り出し・搬出に始まり、昭和36年旧本堂解体、厚別川よりの砂利の運搬、布コンクリ、材料調べ、大工仕事、チョーナ立て、材料釘抜き、大引きの穴掘、井戸掘、足場立、棟上げ等々、工事の全てに渡り、檀家のほとんどの方々の労力奉仕を頂いて建て直しの作業が進められました。
 また、寺の境内地2反(600坪)を売却して建築資金の不足分に充当されました。
 昭和36年5月1日、豊平町と札幌市との合併が決まりました。この記念すべき年に本堂、庫裡の建て直しが成就し、10月29日・30日に報恩講法要、31日に落成慶賛法要を執り行いました。』と、記しています。
 明治期のままの古い本堂・庫裡の建て直しを檀家の人々の協力によって行われました。
 また、境内の敷地を600坪売却しております。従来はもっと広い境内でした。

 左の写真は、平成11年、開教百年記念事業として、改築された本堂です。

 その事について、「光円寺百年誌」には、次の様に記されています。(要約です)
 『時代の流れは厳しく、当寺周辺は都市化が進み、ベットタウンに急変していきました。
 その間、時代に即応した会舘、納骨堂を望む声が広がり、昭和53年に納骨堂、庫裡を、昭和54年に会館を建立し、葬儀及び仏事の会場として、御念仏聞法の道場として歩んで行きました。そして、平成8年より、開教百年に向けて検討委員会が発足し、平成9年の総会を経て、実行委員会となりました。この委員会によって、40年近く経て老朽化した本堂とともに、残り少なくなってきた納骨堂など、将来の光円寺の発展を見越した思い切った構想が決断されました。
 ここに開教百年事業として無事完成するに至り、平成11年、開教百年法要を執り行い、本堂、納骨堂、庫裡の落慶法要を勤修することとなりました。』
 と記され、開教百年事業に向けた檀家の方々の協力体制を窺う事が出来ます。

 寺院境内と墓地の境界となる箇所に、石造りの古い「門柱」が立てられています。
 「真宗本願寺派 光圓寺」の表札があり、ここが昔の入口だったと思われます。

 現在の光円寺は、平成8年より「開教百年」に向けて寺院の境内・本堂、納骨堂、庫裡等の整備が進められ、平成11年に開教百年法要が行われました。
 環境が整ったことにより、開設当初の面影を窺う事は出来ませんが、開拓の人々の心・思いの詰まった寺院である事に変わりはありません。また、墓地の墓碑を巡る事により、開拓当初の地域の人々の苗字を見出すことが出来、遠い過ぎ去った在りし日のことが蘇って来る感覚に襲われます。

<付記として>
 札幌市墓地条例として、昭和24年4月1日条例第15号に制定されました。
 札幌市墓地条例(題名改正・昭和30年条例2号)の中の
 第1条 本市は、墓地を設置し、その名称及び位置は、別表1のとおりとする。
 として、別表に「北野墓地」が記されております。

 尚、昭和36年5月1日に豊平町と札幌市との合併が行われました。
 ですから、札幌市による「墓地管理」は、昭和36年からとなります。

航空写真に依る現在の「光円寺」と「北野墓地」
(国土地理院 写真)

 昭和36年、境内地600坪を売却しましたが、寺院の北部の三角形の土地と思われます。
 明治初期の埋葬地(墓地)の原型が浮かび上がって来ます。

 先の「厚別一帯連絡図」の「墓地」の位置・箇所と形を対比され、ご確認ください。
 この項が、明治初期の亡くなられた方々への弔いとなる事を祈りつつ。

きよた あゆみ(草之)


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