明治初期 厚別(あしりべつ)周辺の様子
1.明治3年(1870年)宮島幹の「北行日記」より
安政4年(1858年)に「札幌越新道」が出来てから12年程した明治3年(1870年)、札幌から厚別・島松を通った米沢藩士・宮島幹の「北行日記」に、その頃の「札幌越新道」の様子が記されていますので、当時の道路状況を知る事が出来ます。
明治3年9月11日に小樽を出立し札幌に至り、12日札幌に滞在し、13日に札幌を出立しました。千歳に到着するまでの明治3年9月13日の日記より
辰の刻過馬にて札幌を出立す。昨夜よりの嵐にて近山尽く白く寒さ甚し。東南の方に向行半里斗(ばかり)にして人家弐軒、川あり。巾二、三拾間馬にて渡る。此川の水源は札幌岳より出て、石狩川へ合する也。為其当月末より鮭多分猟ある由。此辺にては網等無之九尺斗の竿へかぎを付夫にて鮭を猟するなり。是より六、七丁斗人家有り木挽小屋あり。三里斗の間陰々たる無限の深林の平地なり。所々に谷地ありて馬踏ぬかりて腹に及び進退ならず。永井、駒村抔(など)一両度落馬す。路至て悪しく是より四里斗の間は高下の道路なれ共、小山にして格別の山にも非ず。一帯の深林にして所々に平坦なる所に芦原あり。漸く島松に至る。 (以下 略)
「北海道郷土研究資料第八・『北行日記全』宮島幹著」
注:辰の刻(午前7時から9時)、尽く(ことごとく)、向行(ゆきむかい・出向く)、
札幌の街を出発して「人家弐軒、川あり。巾二、三拾間馬にて渡る。此川の水源は札幌岳より出て、石狩川へ合する也。」と記しています。
巾二、三拾間の川は、「豊平川」のことで、「人家弐軒」は、渡し守の「志村鉄一」と渡し守と見張りを受け持った「吉田茂八」の家屋と思われます。
「札幌越新道」が出来た際、石狩役所が「通行屋」を置き「渡船場」を設けましたが、二人は、その川の守り(管理)の任を担っていました。
「明治二巳歳十一月迄札幌ノ図」(北海道大学北方資料室所蔵)には、東岸に鉄一・西岸に茂八の家が描かれています。
そこから「三里斗(ばかり)の間陰々たる無限の深林の平地なり。」とだけ記して、「月寒(つきさっぷ)」「厚別(あしりべつ)」の辺りについて一切の描写もありません。
距離にすると、約12㎞となり、「札幌越新道」とは言っても豊平川を過ぎると光の届かない(陰々たる)樹々が立ちはだかり、「無限の深林」と表現する程の奥深い森の連続であった事が判ります。
又、「所々に谷地ありて馬踏ぬかりて腹に及び進退ならず。永井、駒村抔(など)一両度落馬す。路至て悪しく……」と道路状況についても書き留めています。
「札幌越新道」は、2間幅の道路を設けたとしていますが、樹々の枝の葉が伸び下草が生繁ると、1間幅が在ったか疑わしく、整備の行き届かない径であったことが想像されます。
「新道」とは言っても、1年足らずで開削した「けもの道」を利用しての「谷地あり、上り下りあり」の厳しい状態であったことが想定できる記述となっています。
「アシリベツ」を通る「新道」は、明治3年頃このような状況であったのです。
2.明治3年(1870年)「北海道志」より
明治3年12月、西村貞陽(さだあき)権幹事が札幌に赴任した際に、厚別(あしりべつ)で、難儀した事が、明治17年3月大蔵省刊行の「北海道志」に記してあります。
明治17年3月大蔵省刊行「北海道志」より <上・P244>
白石村ノ南ニ在リ明治四年岩手縣ノ民ヲ募リ移住セシム又厚別ト唱フル所アリ此地ハ明治三年十二月開拓使三等出仕西村貞陽権幹事タリシ時函館ヨリ札幌ニ赴クニ當リ属官ト共ニ大雪中露宿セシ所ナリ當時札幌千歳十里許ノ間唯漁村土人ノ家及島松ニ漁人ノ空家アルノミ故ニ千歳ヨリ糧ヲ齎シ空家ニ泊シ翌日札幌ニ達スヘシ時ニ大雪人跡絶シ路脈ヲ辨セス先導土人ノ足跡ヲ踏ミ行ク中途日暮ル終ニ六尺有餘ノ積雪ヲ穿チ火ヲ燃シテ天明ヲ待ツ其困難ナルヲ以テ札幌ニ至ル後奨助シテ休泊所ヲ此ニ設ケシム是千歳札幌間移住民ノ居ヲトスル始ナリ四年村名ヲ付ス
厚別は、西村貞陽権幹事が札幌に赴任した際、「大雪中露宿セシ所ナリ」と記しています。厚別附近には、これといった休憩したり、泊まる所(人家や家屋)も無く、かなり難儀したようです。(「十文字日記」よると、厚別で11月29日に雪中で野宿し、30日に札幌に到着したということです。)
11月の下旬に大雪に見舞われ、遭難しそうになる程だったことにより、旧道(札幌越新道)に「小休所」が設置されました。場所は、現在の真栄中学校の付近であったと思われます。「小休所(休泊所)」は、明治4年12月に起工し、明治4年の12月に竣工した記録が「開拓使事業報告」に記されてあります。
当初、坪数15.0坪の「小休所」でしたが、「修理」「建直並建足」をしています。冬であったため、仮に12月中に取り急ぎ15坪の小屋を建て、その後翌年に、「修理」及び「建て直し」と14.75坪の「建て足し(増築)」を行いました。
その合計坪数が29.75坪(約99平方m)でした。地域住民は、通称「通行屋」と呼び習わしていたようです。
夏場でもそれほど歩きやすい径ではなかったと思いますが、冬場になると森林の中の道は、雪に埋まり難儀するような径路となっていた事が推察できます。
3.明治4年(1871年)~明治14年(1881年)頃
奥深い森林の「札幌越新道」筋に明治4年、岩手県より移住して来た人々がいました。
「月寒村」の開墾の始まりです。最初に移住した頃、「月寒村」は、「千歳道」と呼ばれていました。「札幌越新道」は、千歳から銭函への路だったことに依ります。
その「月寒村」の人々は、3年間だけ味噌・米・扶助金や開墾に必要な道具などを支給されて、日々樹木の伐採と土地の開拓に汗を流す事となります。
その生活ぶりを少し垣間見る事とします。
「開拓使事業報告」第二編「勸農」の項<P44>には、「月寒村」の地形の様子が記載されています。また、明治4年頃に早くも米作り志した中山久蔵の事が記されていますので、記して置きます。
「開拓使事業報告」第二編「勸農」より
北白石村ニ界シ東ハ島松(千歳郡)ニ接ス小河流三アレトモ皆舟筏ヲ通セス一ハ源ヲ月寒山ニ發シ村ノ西邊ヲ環テ白石村中央ニ出ツ一ハ源ヲ月寒山ニ發シ村ノ東南ヲ過テ白石村ノ村端ニ出ツ一ハ荒尾川ニシテ村北ニ流ル官道村ヲ貫テ東西ニ通シ西ハ札幌市街ヲ距ル僅ニ一里東ハ室蘭港ニ至ル凡ソ三十里陸運最便ナリ〔明治四年〕二月盛岡縣ヨリ募ル所ノ農夫中四十三戸ヲ移シ扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ是歳村民中山久蔵水田若干ヲ開キ爾後毎歳播種セシニ一段歩凡ソ米二石ヲ収穫ス移民ハ専ラ農ニ従事シ各種穀菜概子豊収アリ又往々炭焼ヲ業トスル者アリ
3つの川名については、望月寒川・月寒川と、荒尾川は、ラウネナイ川の事です。
島松の中山久蔵が水田を開き収穫を挙げたことを記しています。
島松は、当時月寒村の区域内にありました。
「農夫中四十三戸ヲ移シ」と記し、移住家族を43戸としていますが、実際は44戸でした。移住後、1戸が全員死亡したため、人別調べの時点で43戸となったため、この様な数字となっています。
<地域に関して>
月寒村は、大曲・野幌・輪津・島松を含む、かなり大きな地域となっていました。
明治26年(1893年)12月16日、広島村が置かれ、野幌(大曲)・島松等が月寒村から分離することとなります。
〇里程(元標)ごとの村として
・創成川(里程元標)・望月寒川(1里)・ラウネナイ川(2里)・三里川(3里)・大曲川(4里)・輪厚(5里)・島松川(6里)・恵庭(7里)・漁川(8里)・千歳(9里) となります。
4.明治6年(1873年)林顯三「北海紀行」の日記より
明治7年(1874年) 林顯三「北海紀行」 金沢如蘭堂刊
明治6年石川県の命を受けて北海道・樺太を巡回した金沢藩士林顕三の日記より、多少長文となりますが転載いたします。
明治6年に界隈を通っていますが、「札幌本道」が完成したとされる6月です。
記述の中には、「札幌本道」の工事の後処理をしている様子が窺えます。
「第五編 幌別ヨリ札幌ニ至ル紀事 六月十一日」に「島松」から「あしりべつ」を通過した事を日記に書き留めています。<P201>より
六月十一日快晴 暑寒辰午前四時四十五分千歳ニテ撿五十三度午后三時三十分札幌ニテ撿七十二度 午後五時發千歳 至札幌 里程十一里一丁
千歳ヨリ二里半ニシテ「イサリ」川ト云川アリ此處ニ土人家六軒許少シ先ニ「モウイサリ」川ト云フアリ兩川トモ秋味夥多ノ地ナリ昨秋ハ人少ニシテ取餘リ川中ニ死スル魚幾多ナリト云此邊ヨリ「シマヽツプ」邊ニ至ル左右楢ノ木繁息セリ四里半ニシテ「シマヽツフ」ト云地アリ山懐ロニシテ地味宜シク開墾ヲナスニ宜シ然レドモ区域廣カラス一昨年白老郡垂舞農中山久蔵ナル者當地ニ来リ地味ノ宜シキヲ見テ農耕ヲ起シ家屋ヲ営ミ昨年ハ麦八十俵其外大小豆瓜茄子麻野菜ノ類幾許ヲ得タリ其頃ハ未タ近在ニ人家アルコトナシ當時漸々出稼假小屋ヲ営ミ茶店等ノ備ヲナセリ就中此頃建築掛土工人夫新道傳信機ノ爲メ百名許モ天幕ヲ用ヒ或ハ假屋ヲ営ミテ此邊リニ屯集セリ之カ爲ニ十五六軒モ假店ヲ設ケ酒食餅肴諸品ヲ商ヒ或ハ下賤ノ賣婦人ノ類ヲ置キ頗ル賑ヘリ近々ヨリ此處ヲ驛馬會所ニ定メラルヽ由右中山ナル者衆ニ先立チ開墾ノ作業ヲナスニヨリ奇特ノ趣書取ヲ以テ客冬開拓使ヨリ金四十圓ヲ賜リシ由昨年取揚高一反歩ニ付小豆一石八斗大豆二斗八升ヲ得タリト大根瓜粟麻牛房ノ類別シテ肥沃セリ中ニモ西瓜ハ目形三貫目ノ者ヲ生ス風味モ宜シキト云リ本縣ヘ送ランカ為メ昨秋得タル處ノ麦粟大小豆類少許乞得タリ又今朝獲タル所ノ鹿肉ヲ喰フニ風味宜シ此邊ヨリ山路ニ掛リ地味宜シト雖モ土地凸凹樹木繁生シテ開墾ヲナスニハ不便ナリ
千歳ヨリ六里許リニシテ「アソシベ」ト云所アリ土人家四五軒出稼茶店アリ此處ヨリ二里ニシテ「ハシスべツ」ト云所アリ出稼茶店等四五軒アリ此處ヨリ少シ手前ニ平坦ノ處アリ開業ヲナスニ地味宜シ尚一里ニシテ月寒(ツキサップ)村ト云アリ開拓使ヨリ南部ノ農民廿五戸(ママ)ヲ募移シ一昨年ヨリ大ニ開業ヲナス此節菜花盛ンニシテ夏大根能ク繁肥セリ麦ノ丈ケ八寸許伍長五名ヲ置キ五戸ニ一人ヲ添ル此村入口ヨリ札幌マテ二里餘午后三時廿分札幌脇本陣著
千歳から2里半で「漁川・望漁川」があり、秋味(鮭)の漁獲がかなりあった様子が記されています。「シマヽツプ」(島松)は、山懐にあって、土質が肥沃ですが土地の状況から広くない地形であると説明しています。
白老郡の垂舞(樽前)の農夫、中山久蔵がこの地にて開墾を始めた事を詳細に書き留め、取材が行き届いています。
明治6年頃、島松において「札幌本道」の電信機工事のために、土工夫100名許(ばかり)が天幕を張ったり仮小屋を建てて駐屯していたようで、かなりの賑わいがあった事を記しています。
その後「アソシベ」に着きます。距離からして、「輪厚・野幌」の辺りと思われます。
そこから2里にして「ハシスべツ」(あしりべつ・厚別)に着いています。
「出稼茶店等四五軒アリ」と記していますが、出稼ぎ茶屋は「札幌本道」(室蘭街道)の工事人に対応(お茶や食事)した茶店であると推測します。
三里川の橋、厚別川の橋、道路工事等のため、多くの人夫が寝泊まりする場所が必要で、「札幌本道」建設の記録の中には、厚別に「仮小屋」を建てた記載があります。
普通であれば「小休所」で十分で、4,5軒の茶店は多過ぎます。茶店は、宿泊施設(真栄の「小休所」外)の周辺に在り、多忙そうな景況に目が留まり日記に書き留めたと思われます。「札幌本道」が完成した後は、茶店は無くなった事でしょう。
「休泊所」として現清田小学校敷地に移転を始めたのが9月で、完成したのが11月です。
6月時点では清田小の箇所には「休泊所」も無く、周辺は、森林地帯に囲まれた状態にあった事が考えられます。
(「小休所」を移設するに当たっては、敷地の確保が必要です。「休泊所」となる一帯を伐木し、それなりの環境を整える準備期間が必要であったと言えます。)
「此處ヨリ少シ手前ニ平坦ノ處アリ開業ヲナスニ地味宜シ」としています。
「平坦ノ處アリ」は、<厚別川の河川敷>又は<現、農業研究センター>の箇所を指していると思われます。土場として利用された広い河川敷、及び広大な農業研究センターの土地に注目しています。
林顯三は、厚別(ハシスべツ)を通過しただけで、農業に適している地であるとの検分が出来たのは、豊富な経験によるものでしょう。先見の目をもって土地を即断出来るのは流石です。
注:林顕三の里程の表示に曖昧さがあるようで、凡そで捉えておく必要を感じます。
5.明治14年(1881年)の近隣の居住者
明治14年、明治天皇が北海道(小樽より札幌から函館まで)をご巡幸されました。
その「明治14年御巡幸記」の中に、明治14年9月2日に在住した月寒村から千歳村までの各所の戸数が記載されていますので転載します。
厚別(あししべつ)を過ぎると、島松まで、ほとんど人家らしきものは無い状態でした。本道筋であっても開墾が進んでいたかどうかは疑問です。
尚、矢浦甚太郎が輪厚(「地価創定請書」による)に住まいしていましたが、御巡幸に際して、お休み処やお泊りになる所ではなかったので、記載されませんでした。
6.明治13年 松林哲五郎の『北海紀行』より
明治13年(1880年)に北海道を旅した「松林哲五郎の『北海紀行』」には、4月17日に、ワッツ(輪厚)村から札幌へ向かう途中「アスビツ村(アシシベツ村・アシリベツ村)」で弁当を24銭で買い求めた記載があります。また、月寒村について感想を記しています。
<P75>より転載をします。
文中の「島松村まで三里半の広大な土地を払い下げられたという。」は、事実ではありません。44戸の移住民に、1戸当たり幅40間、奥行きは個人の開墾次第で、その開いた土地が下付されました。
家屋は、開拓使により支給されたひのき造りの15坪の家で、屋根の様子について茅葺としていまが当初は柾葺きあったと思われます。後に、茅葺きに各自でしたようです。
畑の開墾は、それほど進んでいない様子です。伐木・伐根に費やす労力はかなり大きく、それに対する益は少なかった事は想像されます。開拓使から扶助を受けても、開墾に意欲的になれなかったのかも知れません。
7.「明治十七年一月 庵﨑 亮慶の復命書」より
「明治十七年一月 札幌縣師範学校一等助教諭 庵﨑 亮慶の復命書」には、次の様な記述があります。
(庵﨑 亮慶の復命書は、明治16年12月11日より20日まで、札幌区内各学校を視察し、明治17年1月に報告の文書を提出したものです。)
各学区区画校数其当ヲ得サルモノナシ又各学区内ノ廣狭及戸数学齢児童ノ数ニ由テ之ヲ考フルニ其校数モ大概其当ヲ得タルモノトス然トモ各学区内其学校ヘ一里余ヲ隔ツルモノアリテ児童ノ能ク通学シ得ベキニ非ス是等ハ巡廻授業ノ方法ヲ設クルカ或ハ戸数ノ稍多キ所ハ一校ヲ設立スルニ非サレハ到底児童就学ノ方途ヲ得ルコト能ハサルベシ
(中略)
八番学区(月寒村)戸数八十戸、学齢五十人、内、就学二十九人、此学区内ニ、字アツシベツ(厚別・アシリベツの事)云所アリ。月寒学校ヲ距ル一里半ニシテ、戸数十二三、学齢児童十人余アレトモ、学校ヘハ遠隔ニシテ通学ノ便ヲ得ス。依テ、学務委員等協議ノ上、同所ニ巡廻授業所ヲ設ケ、月寒学校教員ニ、巡廻授業ヲ兼務セシムルノ見込ミナリト云フ。
「札幌県治類典 復命書」(道立文書館A5-2-12)
「八番学区」は、月寒村のことです。月寒学校から一里半ほどのところが「字アツシベツ」(厚別・あしりべつ・現清田区)でした。
明治16年・17年頃の「あしりべつ」は、戸数が12、3戸でした。それほど多くはありません。少ないと言えます。就学児童が10余人程いたということです。
明治16年12月現在の「アシリベツ」地域の戸数の実数が、ここで始めて記されたこととなっています。
学校が遠隔にあるため通学が難しく、学務委員が協議して「字アツシベツ」(厚別)に「巡廻授業所」を設けるようと話し合いをした事が記されています。
「巡廻授業所」が実施されたどうかについては、確かな資料は有りませんが、この様な報告書から、多少なりとも実施されたと考えております。
8.明治20年(1887年) 「函館新聞」の記事より
<明治20年1月23日 「函館新聞」の記事より>
「月寒村の実況」についての記事で、「厚別」についても記してあります。
同村より札幌を距る東南の方一里にして隣村島松驛に至る里程四里余此の間官道に當る札幌より室蘭凾館及び釧路根室に通ずる街道にして戸数は百三十八戸にして人口六百七十八人あり明治四年舊開拓使にて岩手縣(南部)下より四十余戸を移すを創(はじめ)とす其後漸々(だんだん)人口を増加し目下百三十八戸に至る尤其内五分は南部人にして三分は廣島人其佗(た)二分は諸縣の人なり生活は概ね農業、炭焼、駄賃取等なり又字「厚別」(あつべつのルビ)(札幌を去る二里半)に可なりの旅人宿二軒あり此處は川に臨みて四十戸程あれども大概は材木屋根板等の伐出(きりだ)しを業とし昨年夏頃は甚だ困難のものありしが目下炭薪(すみたきぎ)の景気宜敷(よろしき)為め難渋のものも大分少なくなれり人情は概して質朴にして衣食住を飾らず去れども氣力乏しくして農事に甚勉強せず唯炭焼の如き業のみ務むるの有様あり耕地は本村面積に比すれば僅々(わずか)百分の一位にして余は皆山林なり概ね地味肥沃にして麦粟大小豆に適し昨年は水田も可なりの収穫あり山林は街道を挟て満山樹木椴槐木松柏楢等あり街道は平坦にして巾五間室蘭通行の馬車日に多し札幌を距る二里にして陸軍省御用地数十万坪あり之れは往々鎮臺を置かるゝ見込みの地なりと云ふ公立月寒小學校あり(札幌を去る一里十町)昨春頃迄は屡々教員の變換ありし為め大に衰頽を来せしが教員山本寛亮氏の盡力に因りて漸々生徒も増加し今では生徒三十余名になれりと然るに校舎の狭隘に付消雪を俟(まっ)て教場を新築するとて現今伐木最中なりと云ふ村社月寒神社あれども祭は至て闃(さび)しくして寺社は一ヶ寺もなく又病院並町醫もなく為めに患者あれば忙はしく札幌より迎ふれ共一通にては来診せず只容体を聞き投薬するのみ不便とや云はん又不憫とや云はんか
○又右村は熊害多く已に昨年抔(など)は野原に飼育する馬を喰殺されしこと五十頭余に及べり(當地の畜馬は総て使用の後野へ放つを例とす)しかるに熊を殺獲たるもの僅に一頭なり前陳の通り貧民多くして氣力乏しく且土地廣くして人少なき故に緊要(かなめ)の農事を捨て労力に随ひて賃銭を得るを喜ぶの習慣なれば世間不景気に連れ漸々衰頽する模様あり故に純利を多く佗(た)の人に得らるゝに至ると云ふ其一二を擧ぐれば此村内に石脳油の湧出(わきい)づる處あり村民は之を捨て顧みず札幌の某(それ)なるもの製造する由にて目今出願中なりと云ふ又煉瓦製造所あり此れは凾館の平某なるものゝ仕入にて本廳新築に充る為め目下其用意に係れりと皆如斯有様なりと
札幌を去る二里半の地に字「厚別」があり、この地の様子を記述しています。
明治20年には、「アシリベツ」地域の戸数が40戸ほどにもなっていたようです。「休泊所」の他に、旅館がもう一軒あったとみえ、「かなりの旅人宿二軒あり」と記しています。厚別が旅行者の要所となっていたことが窺えます。移住者が増えたとはいえ、まだまだ「アシリベツ」の周囲のほとんどが樹林であったので、生計は伐木と炭焼きが主な仕事となっていたようです。
厚別の耕地面積は、月寒村の中心地の開墾面積に比較すると100分の1位であるとしています。それほど開けていたとは言えない状況が想像されます。
但し、地味が肥沃で、麦・粟・大小豆に適していて、昨年(明治19年)は、水田での稲作の収穫がかなりあったとしています。
厚別の周囲についても触れ、「満山樹木椴槐木松柏楢等あり」と記して、椴松・槐木(えんじゅ)・松(エゾ松)・柏・楢などの木が多いと記しています。
街道(札幌本道)は平坦で、巾五間の道路となっていました。室蘭からの通行の馬車が日に日に多くなっていたようです。
まとめとして
月寒村の開墾地を過ぎると、新しく開けた土地がほとんど無かったと考えられます。
明治20年頃の時点で、厚別地域の開墾は、まだまだ緒に就いたばかりで、伐木・炭焼きによる生計がほとんどであったようです。
森林地帯の開墾は大変で、当初は、伐木から始まり建材用の木材以外は、樹木の処理に困り、山積みにした樹木に火を放ち、その火が幾日も夜空を焦がしたという話は、どの地にでもありました。畑地として作物を収穫するには2,3年程掛かったのです。
「蟷螂の斧」ではないですが、機械力の無い時代で、人手に依る伐採は、並大抵ではなかったかと思われます。
その上、昼は蚊や虻が霧のように襲来し、夜は蚤の大群に悩まされる毎日です。
土地を与えられても、そのような日々が続くとついには本州へと戻る人々や他の地を求めて移動する家族も少なくはなかったのです。
明治20年半ば頃から「稲作づくり」に目処が付き、水田のための土地の開墾も進み、一定の土地に住いする事(定住化)となりました。
稲作の水田つくりも決して楽ではなく、切り株が各所にある状態からの出発でした。
現在、美味しい米が出回り、それを味わう日常生活が送られるのは、そうした額に汗した方々のお蔭である事を、改めて思い起こさずにはいられません。
感謝です!
記:きよた あゆみ(草之)