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明治初期 移住者の食糧状況

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明治初期 移住者の食糧状況

1.はじめに
 明治初期、開拓使の意向によって、屯田兵や移住者が渡道された。ほとんどの人々は、多少の金品は所持していたと思われますが、長い年月を生活するには十分では無く、着の身着のままに近い状態で移住地に着いたであろうと思われます。
 住に関しては勿論の事、食に至っては、現地で調達しなければならなかった事は推測されます。移住者の人々が開墾地に着いた後、どのような方法で数年間の食糧を確保したのかを、また、どのような食材を得るよう対応したのかを記す事とします。

2.「開拓使事業報告原稿 貸付係事業報告」より
左記は、「開拓使事業報告原稿 貸付係事業報告」です。

 「開拓使事業報告原稿 貸付係事業報告」の中に開墾掛規則が記されてあります。その中に、支給された物品についてのいくつかが列挙されています。それは、農家及び休泊所に関係する品々となっています。

     「開拓使事業報告原稿 貸付係事業報告」(簿書7219)

 注:山刀(やまがたな)・鐇(てつき・手斧のこと)・鐎(しょう)柴キリ艸芟(くさかり)鋸(のこ)・砥(といし)荒砥(あらと)中砥(なかと)・鈩(いろり)・莚(むしろ)椀(わん)三才以下 不被下(くださらず)・・3歳以下は支給されないこと

 注:「山刀」については、現在の「ナタ」の様なものであったようです。

 この報告は、明治4、5年頃に開拓使が移住者に対する配慮としての規則となります。
 生活する上で必要なきめ細かな内容が盛り込まれています。但し、上記の内容は、「募移民」「休泊所守(管理人)」に対処した内容となります。

 上記の図は、参考としてご理解ください。このような物品が各戸に配られ、繁茂する大木や樹々・ツタ類を排除しつつ、土地の状況に応じて畑を造り、各種の苗を植え食料として収穫する事が出来ました。
 食料としては、「扶助米 15才以上 玄米5合、14才より七才まで 4合、6才以下3合」としています。また、塩噌料(塩と味噌)の配布をお金で支給するために「老若男女を問はず 1人銀5分ずつ」と決めて、それを「3ヶ年間給与す」と、していましたから、心遣いが行き届いています。
 農機具や家具なども各種に亘って考慮され、配布支給された數の多さに驚くと同時に、先を見通して必要と思われる物品をきっちりと配分する意識が窺えます。
 以上は計画と思われますので、実際に移住した各村の実態の記録を記してみます。

3.明治4年、月寒村・平岸村の場合
 「豊平町史」(昭和34年3月31日発行)の(P802)に、移住者に配給があった家屋や農具・食料についての記述があります。

 (1)月寒村の故岡田幸助翁(月寒本通)の談として記されている内容です。

 (前略)
 この開拓移民はかくして家、農具、なべ、かまを与えられ、耕馬は一頭三円位で払い下げを受け、三年間の扶持をもらった。玄米で大人七合五勺、中人五合、小人三合の割であった。開墾当時は道路の東側には、やちだも、くるみ、などが生え、西側には、たら、いたや、あさだ、しな等、うっそうと茂っていた。それで炭焼きを主業とするものが多く開墾に従事するものが少なかったので、一反歩開けば反別料と称して金二円ずつもらった。また特別に勤勉なもので三町歩以上起せば農具一式を下附された。          (以下略)

 明治4年に月寒村に移住して、各戸に15坪の家(住居)が全戸に建てられました。
 材は「ひのき」でした。辛未明治4年頃、多くの大工や製材をする工場がありませんでしたから、切り込み材を南部(青森県)の野辺地や大畑地域、及び秋田県の野代地域になどに注文して建築材を確保しました。そして、石狩河口まで船で運び、篠路付近から伏古札幌川をいかだに組んで札幌市街近くまで運んできて陸揚げし用いました。

 月寒村の住居は、左記のような造りで、 土間と板の間と座敷があったようです。
 「豊平町史」の岡田幸助翁の図面を参照にして記してみました。
 どの家屋に於いても、炉が居間の中央に位置してあり、煙出しも、それに応じて屋根の中央に取り付けられてありました。

 家屋の大きさは、間口6間、奥行2.5間(15坪)で、屋根は4寸のこう配と統一されていました。屋根は道産の1尺長柾を使用したとしていますが、その上に茅を葺いたようです。
 炉には木をくべて(入れて)暖を取ったり、煮炊きをしたりしました。くべる木は、なら、いたや、しころ(きはだ)等で、おんこや松ははねるので使わなかったようです。
 そして、農具、なべ、かまなども与えられています。食料は玄米で大人七合五勺、中人五合、小人三合の割であった。」と記していますから、計画よりも多めの量が配布されたようです。  注:1勺(しゃく)は、1合の10分の1です。

 上記の外に「豊平町史」(昭和34年3月31日刊)の(P823)に、平岸村の記述がありますから、抜粋して転載します。

 (前略)
 給与品はくわ、かま、唐ぐわなどの農具一式となべ二箇、釜一箇などの日用食器である。なお三年間玄米とみそも官給で現品支給であった。米は男は一日七合、女は五合、子供は四合の割であった。みそも同様家族の人数によって樽で渡された。
 倉庫は今の札幌駅附近にあって、そこで受取ってかついで運んだ。米つき臼は掘る人がいたので、大木を切って自由に作った。     (以下略)

 「給与品はくわ、かま、唐ぐわなどの農具一式となべ二箇、釜一箇などの日用食器である。なお三年間玄米とみそも官給で現品支給であった。」と記してあります。
 農機具一式・なべ二箇、釜一箇などの日用食器とあるので、規則に従っての様々な機具や日用の食器類が支給された模様です。玄米とみそ(銀の五分ではなく)は、官給により現品で支給されました。支給の場所は「札幌駅附近にあって」と記してありますが、現在の札幌駅の北側(創成川沿い)に大きな開拓使の倉庫があり、篠路から三半船(さんぱせん・船幅五尺一寸から六尺六寸までの船のこと)で送られて来た様々な物品を保管していました。
 移住民は、その倉庫まで歩いて行き受け取りました。
 篠路には、明治4年7月に醬油醸造所が築かれ、そこから醤油が運ばれてきました。
 開墾に必要な器具類や日々の食料は何とか3年間保証されていたのです。

4.「明治六年 札幌村外十一ヶ村収穫高調 月寒村」より

 「明治六年 札幌村外十一ヶ村収穫高調 月寒村」  (「手控帳」函館図書館 所蔵)

     (「新札幌市史 第六巻 史料編1」<P988>より)
 上記の表は、明治6年(1873年)頃の月寒村の各種作物の収穫高です。
 月寒村に移住して2年後の状況となります。土地を開墾した後に植えた各種の穀物・野菜の状況が分かると同時に、その頃、開拓民が食料としていた食材を概略知ることが出来ます。
 これは、月寒村全体の収穫高となります。まだ、月寒村の「厚別」地域については、開墾が進んでいないと思われますので、比較は出来ません。
 粟・稗・黍(きび)の穀類の他に豆類が目立ちます。大根についてはかなりの収穫となっています。
 芋や麻・荏種(エゴマ)の作付けも試みられています。
 開墾2年目にして、開拓民の努力が実を結びつつあった様子が感じ取れます。

5.「明治十一年十二月綴 開墾勉励取調書類 勧業課」より
 明治12年(1879年)頃、開墾農家がどのような作物を主に栽培していたのか、具体的に判る資料として「明治十一年十二月綴 開墾勉励取調書類」月寒村の部分のみ抜粋します。
  (道文 2460)より         (北海道立文書館 所蔵)


注 :(1)荏種・・・荏胡麻(えごま)のこと
  (2)蘿蔔・・・(漢名→ らふく)大根のこと
  (3)葱 三十一縄 拾把・・・葱は、数拾本程を縄でまとめて結び一把として数える。10把であるから、300本程の収穫であったと思われます。
  (4)胡蘿蔔・・(漢名→ こらふく)人参のこと
  (5)雷麦・・・ライ麦のこと
  (6)大角豆・・「ささげ」のこと
  (7)蕎瓜・・・「そばうり」(糸瓜)、「へちま」のこと、若い実を食する
  (8)胡丁・・・胡瓜(きゅうり)のこと
  (9)蕎麦・・・「ソバ」のこと
  (10)茄子・・・「ナス」のこと

 「開墾勉励取調書類」より、各戸に「西洋種果木 梨桃桜李杏樹 合弐拾七本」と記され、果物の苗木が全戸に配布されています。桜は、サクランボの樹です。
 家族の人数の他に「内 丁壮之者」(夫役に当たる者)の人数を記してあります。
 労働出来る人数の多少が、開墾する土地面積に大きな差異を生じさせたと言えます。
 明治11年頃には、馬を所有している農家があったということです。
 水田は、中山久蔵1戸のみで、普及はしていなかった模様となっています。
 主に、畑の開墾による農作物の収穫であったと言えます。

<分類をすると以下の様になる。>
主 食・・・籾・粟・稗・小麦・大麦・雷麦 (主食となったのかは不明)
副 食・・・馬鈴薯・蕎麦
豆 類・・・小豆・赤大豆・黒大豆・白大豆・大角豆
野 菜・・・荏種(エゴマ)・葱・茄子・蘿蔔(ダイコン)・胡蘿蔔(ニンジン)
特産物・・・亜麻

 先の「開拓使事業報告」第二編「勸農」の項と比較してみても、それ程の違いが見られません。但し、玉蜀黍(とうもろこし)の収穫が見られないのは、種の配布がなかったからではなく、明治10年から12年の収穫が、何かの影響(蝗(イナゴ)の害は明治13年)で、ほとんど無かったに等しい状態であったからであろうと推測します。

6.「開拓使事業報告」第二編「勸農」より
 明治4年(1871年)~明治14年(1881年)頃
 「開拓使事業報告」第二編「勸農」の項P44以降には、月寒村の移住者が居を構えた明治4年から明治14年までの戸口数やその増減及び開墾当時の状況が窺える穀類等の収穫高が年代順に記載されています。入植して、どのような穀菜を植え生活をしていたかの概要を捉えることが出来ます。

  「開拓使事業報告」第二編「勸農」より

  札幌区月寒村
北白石村ニ界シ東ハ島松(千歳郡)ニ接ス小河流三アレトモ皆舟筏ヲ通セス一ハ源ヲ月寒山ニ發シ村ノ西邊ヲ環テ白石村中央ニ出ツ一ハ源ヲ月寒山ニ發シ村ノ東南ヲ過テ白石村ノ村端ニ出ツ一ハ荒尾川ニシテ村北ニ流ル官道村ヲ貫テ東西ニ通シ西ハ札幌市街ヲ距ル僅ニ一里東ハ室蘭港ニ至ル凡ソ三十里陸運最便ナリ
〔明治四年〕二月盛岡縣ヨリ募ル所ノ農夫中四十三戸ヲ移シ扶助米金等ヲ拾スル例規ノ如シ是歳村民中山久蔵水田若干ヲ開キ爾後毎歳播種セシニ一段歩凡ソ米二石ヲ収穫ス移民ハ専ラ農ニ従事シ各種穀菜概子豊収アリ又往々炭焼ヲ業トスル者アリ

 島松村の中山久蔵が水田を開き収穫を挙げたことが記されています。
 島松村は、明治27年(1894年)2月9日に廣島村が、月寒村より分離し独立まで「月寒村」の区域でした。
 「農夫中四十三戸ヲ移シ」移住家族を43戸としていますが、実際は44戸でした。
 移住後に1戸が全員死亡したため、人別調べの時点において43戸となっていたためこの様な数字となっているのです。

 続いて、月寒村に関する表が載っています。 (表の主要の部分を抜粋します)
 戸数・人口・開墾・穀類を記してみました。

      「開拓使事業報告 第二編」より作成
<食料に関して>
 穀類の収穫高の多い物について分かり易くするため、当年の1位を網掛けの太字、2位を太字としました。この表から、主食乃至(ないし)副食には蕎麦・粟・大麦等が食されたと思われます。豆類も収穫高が年々増し、少しずつ豊かな食材を口にすることができたようです。
<地域に関して>
 当時の月寒村は、大曲・野幌・輪津・島松を含む、かなり大きな地域となっていました。
<農業の中身に関して>
 省略しましたが、表の中には牧畜(馬を飼育)を行っていた事が記されています。
 果樹では、葡萄・梨・林檎・杏・李・櫻(さくらんぼ)・桃を植樹していました。
 上の表からは、米の栽培が行われ、少ないながら徐々に収穫を上げていった経過が読み取れます。
<月寒村の人口と移住者に関して>
 月寒村の人口は、明治4年から明治13年までの10年間に11戸程しか増えず、人口も微増であったことが分かります。明治14年になり、一気に倍増することとなりました。
 ところで、上記の表から、明治6年2名・7年1名・8年2名・10年2名・11年3名が早い段階で、月寒村に入植しています。
 しかし、「厚別(あしりべつ)」地域への入植者を判別する事は難しい数値の状況です。
 また、月寒村であった大曲・野幌・輪津・島松などの地域の入植者が含まれているかについては未詳です。省略されているように感じられます。

7.まとめとして
 明治4年から明治14年までの食糧について、概略を捉えて頂けたでしょうか。
 作物は、大麦・蕎麦・栗・小豆・大豆・黍・稗等が収穫されましたが、米作りに至っていません。土地は、火山灰で成長に適していないのではと思われましたが、意外に肥沃でかなりの収穫を得ています。清田の地域についても、同じような作物を育てて、食生活は似たような状況であったことが推測されます。
 移住した当初は、開拓使より3年間扶助があり食については心配がなかった様子です。
 余り憂慮する事が無かったようですが、開墾の生活は来る日も来る日も鬱蒼と茂った樹木の伐採作業が続きました。決して、悠長な生活とは言えない毎日であったと想像されます。

 月寒村の故岡田幸助翁(月寒本通)の述懐では、「こうして三年過ごし扶持(ふち)が下らくなってからは、それぞれの土地を二〇円とか二五円とかに売って他に離散する者が出て来た。」とあります。補助の食料や金品がなくなると、直ぐにも他への移転を考えたようです。
 月寒台地は、川沿いの土地を除き、水の便が余り良くなかった事が挙げられます。
 主食の穀類が補助されなくなると、野菜を栽培するだけでは将来性が見えなかったからかも知れません。
 (暮らしを支える繋ぎの賃金を得るために、炭焼きや伐木の作業・運搬、道路工事などがあったでしょうが、季節的なもの、短期的な雇用でした。)
 食に関しては、想像した以上に恵まれていたようですが、日々の暮らしに潤いがあったとはお世辞にも言えない生活だったろうと想定されます。
 明治10年代まで、そうした日々が続いたため、移住の思いと違っていると受け留めた家族は、次々と月寒や厚別の地を離れて、より住みやすい土地を求めて移転して行きました。
 定住化するには、移住者の多くが夢見た主食の稲作が、地域に根付く明治20年代入ってからの事となります。

記:きよた あゆみ(草之)


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