明治期 真栄地域の土場(木材の集積場)
はじめに
清田区真栄の2条1丁目から2丁目の厚別川川沿い両岸は、開拓使時代に、土場(どば)と呼ばれていました。土場と言いますのは、木材の集積場のことです
木材が集まるという事は、どこから木材が運ばれてきたかということになります。それは、厚別川の上流一帯が「厚別(あししべつ)官林」(一等官林)と指定された程豊かな木材の宝庫でしたから、その木材を伐採し、厚別川の流れを利用して流送(りゅうそう)したのです。
流された木材は、丁度、清田区真栄の箇所で流れが一旦緩やかとなり、引き上げ場所に適していたので、「土場」となりました。
引き上げられた木材は、広い敷地に積み上げられ、必要に応じて各所に運ばれて行きました。
木材の流送は、冬場に官林の木材の伐採を行い、流送に適する場所に集められ、春の雪解け水を利用して流しました。また、水量を確保するために、水ため(ダムのような施設)をいくつか設置しました。流送する際、堰(せき)と呼ばれた仕切りを外して一気にその木材を流し出すので、「鉄砲」とも呼称されました。人手によって木材を運搬する事はとても大変でしたから、流送の方法を採ったのでした。木材は、古来から工夫された方法により、真栄の箇所(土場)まで流すようにしたのです。
1. 鉄砲堰(てっぽうぜき)について
鉄砲堰は、伐採した樹木を流送(運搬)のために使われた木製の堰のことです。鉄砲堰は、全国各地の林業を行っていた地方に存在しました。
山奥で伐採した木材の運搬手段については、大きな流量の河川の場合は、いかだ流しなどの方法が執られましたが、流量が少ない上流の河川では、丸太で鉄砲堰(ダム)を設置し、水を貯めてから堰を外し、木材を下流に押し流しました。
この鉄砲堰は幕末から明治初期にかけて作られるようになったと考えられているようです。
厚別山林の樹木の伐採後、この方法が執られたとの古老の談があります。
厚別川の上流の水量からして、考えられる処置であったと推測されます。
「鉄砲堰」には、川の何ヶ所かを堰き止めて、水を貯め原木を流す方法や支流の川に堰を造る方法、地形を利用してダム(水溜め場)を造る方法など、様々な工夫があったようです。
2. 古文書に見る「真栄地域の土場」
「明治十八年八月 札幌縣治類典」の図面の中に、真栄地域に在った土場の文書があります。
明治17年10月30日付け 岡山縣移住民 代表 岡本祥一の願い地 <その1>
明治15年頃、岡本祥一を代表とする岡山県からの厚別移住の願い図面です。
「明治十八年八月 札幌縣治類典」(簿書9636)より
岡山県移民の居住地は、現在の真栄公園付近に在りました。室蘭街道沿いの長岡重治・長岡徳太郎の土地の南側に岡山県より、明治15年6月移住してきた人々が開墾土地願を出しています。
左図は上図の模写図です。
岡山県移民の居住地は、現在の真栄地区厚別川両岸一帯でした。
岡久曹の願地内には、「岡山県移民小屋」が記されてあり、厚別川沿いには「厚別仮土場」があった事が記されてあります。
明治17年10月30日付け
岡山縣移住民 代表 岡本祥一の願い地<その2>
「明治十八年八月 札幌縣治類典」(簿書9636)より
厚別川の西側・清田川流域に開墾地を願い出て住まいしようとした図面です。
「明治十八年八月 札幌縣治類典」(簿書9636)より 摸写図
図面は、全部で15枚提出されてあります。
各戸に1枚ずつです。
清田1条1丁目~2丁目の厚別川の川岸に厚別仮土場」と記されてあります。
清田地域の側も「土場」であったことが窺える図面となっています。
3. 真栄地域に「札幌市有林清田貯木場」の設置
大正15年国土地理院地図
川の西側は、水田地帯となっていますが、橋のあ る北側一帯は、稲作を行っていたような形跡がありません。
当時まだ、木材の流送があり、木材を引き上げる「土場」として使用されていたように思われます。
ゼンリンの住宅地図 札幌市(南部郊外編)昭和45年度版 より
昭和45年頃、清田の国道36号線付近の厚別川は、まだ河川が直線化されていませんでした。
左図は、現在の真栄地区、厚別川の東側です。
地域の住宅化が進んでいます。
地図には、「札幌市有林清田貯木場」と記された箇所(地図の右下)があります。
市の清田貯木場として使われていた模様です。
ほっかいの住宅地図 札幌市(豊平区)昭和53年度版(1979年) より
厚別川は、直線化と河川敷が整備された状態となっています。
真栄の道道真駒内御料札幌線の箇所に「札幌市有林清田貯木場」と記され、「事務所」が道路に面して設置されてあります。
貯木場は、3つに仕切られてあります。
地番74-7となっています。
ゼンリン住宅地図 札幌市(豊平区)昭和56年度版(1981年)より
「札幌市有林清田貯木場」と記され、「事務所」が道路に面して設置されてあります。
貯木場は、3つに仕切られてあります。
地番74-8となっています。
ゼンリン住宅地図 札幌市(豊平区)昭和58年度版(1983年) より
貯木場であった敷地内(北側角地)に、「真栄地区会館」が設置されてあります。
「真栄公園」との表示はありません。
更地になったようです。
ゼンリン住宅地図 札幌市(豊平区)昭和59年度版(1984年) より
「真栄公園」(地番74-28)との表示が記されてあります。
「真栄地区会館」の向かい側に(仮称)「真栄地区幼稚園」(地番38-2)が設置されてあります。
4.「厚別官林」に記された木流(木材の流送のこと)
「明治十四年調査 札幌郡官林 風土略記 開拓使 地理課 山林係」より
(北海道立文書館藏 簿書4616)
運搬ノ便否ハ水陸共至便ナリト雖トモ流便ハ厚別川ノ水流ニ從テ運流スレトモ大水ナラザレバ木流スルニハ容易ナラザレトモ洪水又ハ雪解等ニテ満水ノ期ニ至レバ木流至便ト云フベシ陸運ハ月寒山間ヲ経過シテ厚別水車器械場ヘ通踄スル道路ニ從テ運搬ス而シテ該山間ニハ山道数條アルヲ以テ運搬スルニハ皆ナ其近路ニ駄送スベシ而シテ該地ハ室蘭街道ニ接続シタル地ナレバ僅カ十丁以内ニシテ該路ニ達シ夫レヨリ札幌迠凡ソ二里半ナルベシニシテ札幌ニ達ス
「風土略記」の「厚別官林」の木流については、洪水の時、雪融けの時などの満水の時に行うとしており、真栄の貯木した土場から札幌へ2里半の道を運んだ事が記してあります。
また、「豊平町史」には、木材運搬について思い出話が掲載されています。
「豊平町史」(昭和34年発行)<P885>には、土場について次のような述懐があります。
樹木は重(主)にヤチダモ、ナラ、エンジ(エンジュ)、イタヤ等で長い木材を運搬する時は多くの人手を要し、札幌まで運ぶには数日もかかりました。
注:国道36号線(北野~里塚 間、開削)」の工事は、昭和44年頃より直線化工事が進められて、昭和46年に新国道36号線として完成しています。
ですから、「コンクリート橋」は、旧国道のあしりべつ橋のこととなります。
あしりべつ橋の辺りまで、「土場」であったとの証言です。多くの種類の木材が厚別官林から流送されて来たことを記しております。
その流れ着いた木材を引き上げて積み上げる場が、真栄の厚別川の両岸に在ったという事です。
5. 馬橇による輸送へ
時代は流れ、木材の運搬が「川による流送」から、馬橇(ばそり)による輸送へと変化していきました。人手がかからず、安全であり、時間も少なく効率的に運ぶ事が出来たからです。
橇の歴史について記すと、明治7年にロシア型馬橇の導入が最初で、その後、明治11年にロシアのウラジオストックに出張した際に、橇や馬を購入し、日本で製作してみましたが期待通りに出来ないという事になりました。同年、黒田清隆は樺太に出張し、3人の職工を雇い帰国し、官営工場の職工に技術を修業させた事で、本格的な橇造りがスタートしました。
しかし、民間にまで広く普及するには至らなかったようで、馬の供給と橇の製作台数が合致したのは、明治中期の20年代以降になっての事となります。
橇が普及したことで、伐木の輸送は、川による流送から馬橇による輸送に変化をしていきます。
厚別官林その他の樹木の輸送も同じ頃に、変化をしたと考えられます。
6.橇(そり)と馬による木材の搬送
「北海道の馬橇 1984」「北海道の手橇 1987」より 北海道開拓記念館 出版
7.木材置き場から「真栄公園」へ
昭和58年度(1983年)頃に、「札幌市有林清田貯木場」から「真栄公園」へと名称が変更となり、公園の整備が進められました。
所在地は、地番74-28から真栄2条2丁目となっています。
連絡先は、札幌市清田区土木部維持管理課の所属の土 地と掲示板にあります。
公園には、少年野球場が設置された後、徐々に多くの 遊具が整えられました。
現在では、すべり台・築山・東屋・砂場・マラソンコースのような通路・水飲み場・トイレなどが完備されてあります。
まとめとして
札幌の常磐地区は、以前「土場」地区と呼称されていました。現在、閉校になりました常盤小学校は、以前「土場特別授業所(小学校)」でした。
土場は、芸術の森小学校や常磐中学校の北側に架かる橋(常磐1号橋・常磐1条2丁目)辺りが木材の引き上げ場となり、原木を山のように積み上げていました。
常盤地区では、真駒内川の何ヶ所かをせき止めて水を貯めて置き、そこへ原木を流して集め、そこで堰を解放し、多くの水量と一緒に樹々を流し、次の堰まで流すという方法を取っていたとのことです。
真栄地域の土場も常磐地域の土場も、昔語りとなってしまいましたが、札幌の街造りの一端を担っていたという事です。
「真栄公園」の広い敷地に立ち、周囲を見渡し、明治の頃、原木が山積みされた光景を思い浮かべながら、「土場」の在った当時、人々が活況を呈していた情景を想像するのも一つの趣向と言えるでしょう。
記:きよた あゆみ(草之)