明治13年 清田区近隣の官林のこと
~ 野津幌官林・厚別官林・月寒官林・輪厚官林・島松官林 ~

1.「開拓使事業報告」による官林の様子
 明治18年に発刊された「開拓使事業報告」には、開拓使が行った札幌本廰の山林に関する対応が、計画的に進められていた事を示す内容が記されています。

「開拓使事業報告」(地理P429)より  「〇札幌本廰」の記録

○札幌本廳
〔明治三年〕九月木材税則ヲ定ム
〔四年〕正月棋(オ)楠樹(ンコ)、刺楸(ハリキリ)、槐(エンジュ)、櫻(サクラ)、桂(カツラ)、椴(トドマツ) 桑(クワ)、七種伐採ヲ禁ス札幌郡中薪炭木材自用ハ無税輸出ハ税ヲ課スル法ヲ定ム
〇二月火薬用白(ハコ)楊(ヤナキ)伐採ヲ禁ス是歳松杉檜桐等ノ苗ヲ移植シ遞年之ヲ郡村ニ頒ツ
〔五年〕四月石狩國厚田郡濱出便利ノ林樹禁伐部分ヲ調査ス
〔六年〕三月札幌市民伐木場ヲ同郡手稲村ニ定ム○六月官道兩傍ノ樹木ハ家屋電線支障ノ外斬伐ヲ禁ス○十一月札幌郡 厚別、發寒、圓山、八垂別、眞駒内、簾舞、野津幌、七ケ所ヲ官林ト定メ民事局管理トス
〔七年〕一月伐木規則ヲ定メ民事局管理トス○十二月室蘭出張所々轄山林取締ヲ正副戸長及総代ニ負擔セシム
〔八年〕四月野桑伐採ノ禁ヲ申巌ス〇八月石狩川其他ノ大川兩岸一里内ニ於テ伐木ヲ禁ス
○十一月伐木規則發行以後猶濫伐アルヲ以テ更ニ諭達ス客歳委月ヲ派シ札幌近傍官林ヲ調査セシム是ニ至テ畢(オワ)ル其箇所左ノ如シ
一等官林
 八垂別ハ札幌ヲ距ル三里地形平衍南ニ面シ西北風ヲ受ケス土質可ナリ 楢、桂、刺楸(ハリキリ)類多ク椴ハ多ク伐採セリ
 發寒ハ札幌ヲ距ル三里地勢嶮ニシテ東ニ面シ発寒川東流土質可ナラス 月桂、刺楸、楢、其地雑木多シ蝦夷松ハ質良ナラス水源椴箬(ジャク)竹(チク)(注-熊笹)多シ
 眞駒内ハ札幌ヲ距ル三里、北ニ面シ平衍土質可ナラス水源瞼ニシテ椴、蝦夷松、及 月桂、刺楸(ハリキリ)等多ク椴ハ上流ニ向テ伐盡シ三里許ノ所ハ楢多シ土質皆可ナリ
 簾舞ハ札幌を距ル三里地形北ニ面シ嶮ナリ蝦夷松、椴、大樹多ク楢、桂、月桂刺楸多シ木質可ナリ「バン」ノ澤「ソマツフ」澤樹木繁茂ス近来多ク伐採ス
 厚別ハ札幌ヲ距ル三里餘地形平坦北ニ面シ土性宜ク木質良ニシテ札幌郡山林ノ最タリ椴、蝦夷松多ク楢、刺楸、桂等多シ近来多ク伐出ス
 野津幌ハ札幌ヲ距ル五里地勢南ヨリ北ニ向テ漸ク低ク平林ニシテ土質可ナリ椴、蝦夷松多ク殊ニ大木アリ其他月桂、赤(ハン)楊(ノキ)、刺楸等アリ近来椴ヲ多ク伐採シ石狩川ヲ下ス                     (以下略)

(「開拓使事業報告」布令類聚 上編)

 上記の様に、山林について「明治6年11月、札幌郡の厚別、発寒、圓山、八垂別、眞駒内、簾舞、野津幌の七か所を官林と定め民事局管理とした。」と記しています。
 開拓使は、札幌周辺の東側・西側・南側の山岳地帯の森林を木材資源として押え、札幌区の街づくりや輸出に活かして行こうとする意図が窺えます。
 官林内の伐木規則を定めて樹々の伐採等を禁じていましたが、禁が解かれると札幌区の近隣の樹々は瞬く間に伐られて、その地は荒涼とした平地と化して行きました。

2.「開拓使事業報告」に記された官林と厚別(あしりべつ・あししべつ)官林
 「厚別(あしりべつ・あししべつ)官林」が「官林」として定められた理由として「厚別山林」は、札幌を距(へだた)る三里餘。地形平坦、北に面し土性宜(よろし)く、木質良にして、札幌郡山林の最たり。椴(とどまつ)・蝦夷松(えぞまつ)多く、楢・刺楸(はりきり)・桂等多し。近来多く伐出す。」と記しています。
 明治8年に道内の山林を調査した際にも、「一等官林」から「三等官林」まで区分されましたが、厚別山林は「一等官林」(「良樹森列シテ運輸ノ便ナル者」)に指定されています。
 「厚別山林」は、土地が肥えていて木の品質が良く、札幌郡の山林の中で最も良いとの評価をしています。

明治十年十月十八日 丁第六十一號達
官公林別記ノ通分定候條官民公共林ニ於テ伐木候儀ト相心得林木拂下願書ノ儀ハ地理課山林係ヘ差出ヘシ
 (別記)
札幌郡山林区分
  官林ノ部
白(シライ)川(カワ) 簾舞 真駒内 上下発垂別 野(ノ)津(ツ)幌(ポロ) 圓山 河川両岸 道路左右公林ノ部
上下手稲(テイネ) 発寒(是迄官林ノ場所)月(ツキ)寒(サップ) 輪津(ワッツ) 厚別(アツベツ)(是迄官林ノ場所) 島松(シママップ)

 明治10年10月になり、札幌郡山林を区分し「官林」と「公林」としています。
 上記から、「官林の部」には、白川 簾舞 真駒内 上下発垂別 野津幌 圓山があり、「公林の部」として、月寒・輪厚・島松・厚別が区分されています。

 以下は、明治12年から13年の札幌郡に所在した官林の調査概要です。

      「札幌郡之図」
 明治初期に作成された「札幌郡之図」<左図>(北海道大学所蔵)の中には、多くの官林とその境界が記されています。
 その中に、清田地域に関連のある「厚別官林」も記されてあります。国道36号線の南部・厚別川の上流のほぼ全域が「厚別官林」となっていました。
 東に「輪津官林」「島松官林」が、西に「月寒官林」「簾舞官林」が隣接しています。
 札幌郡には、17の官林及び属地があった事となります。

 西には「発寒官林」・「白川官林」・「湯沢官林」・「薄別官林」・「札幌官林」・「簾舞官林」が所在し、南には「円山官林」・「八垂別官林」・「砥山官林」・「真駒内官林」・「月寒官林」・「厚別官林」、外に「工業課属地」が設定され、東には「野津幌官林」・「輪津官林」・「島松官林」が所在していました。

 「工業課属地」は、当初「厚別官林」の区域に含まれていましたが、明治13年2月「厚別水車器械所」の原木の確保を考慮し、「工業課属地」としました。その結果「厚別官林」は、厚別川上流の「工業課属地」(第壱特選官林)と下流域の「第貮特選官林(厚別官林)」に分けられた形で所在する事となりました。「工業課属地」から原木を切り出して、「厚別水車器械所」に運び加工し、札幌の多くの建物の建材や屋根材となりました。

3.「札幌郡之図」に記された官林と二等官林・三等官林

 次の図は、明治初期の「札幌郡之図」を筆者が模写したものです。

     「札幌郡之図」      (筆者の模写図)

  札幌郡の豊平川沿いに14の「官林」が所在しました。上記を参照ください。

〇 札幌郡の官林と等級指定
 明治18年1月刊行「開拓使事業報告」地理・山林の報告の中に、「二等官林」(良樹森列スト雖、町歩狭少或ハ運輸不便ノ者)及び「三等官林」(薪炭山及其他雑林)について記していますから転載して置きます。

二等官林と三等官林について 「開拓使事業報告」地理 <P432>より

  二等官林
圓山 藻岩 本廰ヨリ西北官園外琴似川迄(平林) < 注:( )内は補足>
鴨々水門ヨリ上 本八垂別 下豊平橋邊迄(平林)
平岸村ヨリ精進川迄南方川筋(平林) 圓山神社境内外及圓山村ヨリ琴似村界 平林
篠路太ヨリ石狩川筋對雁村迄両側 平林  琴似村ヨリ西南圓山ニ接ス(平林)
篠路村ヨリ花畔村ノ間(平林) 雁来村ヨリ豊平川沿岸對雁村迄 平林
篠路村ヨリ束北「ケレトウシカ」沼 平林
下手稲村星置往還筋小樽内川迄 平林  篠路太ヨリ石狩川筋縨向太迄両側 平林
惠別川筋「オサツフ」沿邊迄両側 桑林 惠別川ヨリ石狩川筋縨向太迄 平林
幌向太ヨリ石狩川筋美貝迄 平林  美貝太ヨリ志別迄石狩川筋 平林
  三等官林
「ヘンケハッタリベツ」ヨリ豊平川上兩側定山渓迄 山林
定山渓ヨリ豊平川上筋 山林   同所ヨリ白井川筋 山林
上手稲村ヨリ西方二股迄 平林  同村ヨリ北方發寒三樽別落合迄 平林
月寒村ヨリ新道筋「アシヽベツ」迄(平林) 白石月寒兩村間 平林
平岸村東方「モツキ」川筋 有珠新道筋豊平川筋湯ノ澤ヨリ定山川上迄(平林)
白石村ヨリ東北 平林  「アシヽベツ」ヨリ野津幌迄ノ間 街道ヨリ北側(平林)
圓山村ヨリ北琴似川筋 平林  上手稲村字「テイ子イニタj川筋落合迄 平林
上下手稲村山 下手稲村、三樽別、軽川、星置、平林
発寒川字「モリ」邊ヨリ西北 平林  琴似川ヨリ西北発寒川迄 平林
丘珠村ヨリ東南豊平川方面 平林   札幌村ヨリ北琴似川筋「レーレツフ」迄 平林
丘珠村ヨリ苗穂村ノ間 平林     苗穂村ヨリ東南雁来村ノ間 平林
丘珠村ヨリ篠路村琴似川ノ間 平林  篠路村ヨリ西琴似川筋 平林
同村ヨリ「モイレトウ」ノ間 平林  輪厚川筋 山林  島松川筋 山林
         (以下略)

 注:上記の記載は、分かり易くするため、官林地名を区分し補足しております。
   「アシヽベツ」は、現在の清田区周辺で、厚別(アシリベツ)地域のことです。

 官林は一等官林から三等官林まであり、「三等官林」はかなりの数が記されています。
 当時、札幌の北部は湿地帯で、東側・西側・南側が森林地帯であった事が分ります。
 指定された官林を見通すと、山岳や台地の「森林」は、一等官林に指定され、川筋や台地・札幌本道沿いの「山林・平林」については、ニ等官林 乃至 三等官林に選定されたように思われます。
 清田地域は、全体が森林に覆われていた様子が、『月寒村ヨリ新道筋「アシヽベツ」迄(平林)』及び『「アシヽベツ」ヨリ野津幌迄ノ間 街道ヨリ北側(平林)』の記載から窺われます。
 上記の「アシヽベツ」は、江戸期の「厚別川」(あしりべつ川)の表記「アシュシヘツ」(現在の「厚別川」)から、川名及び清田地域を表す語となったと推測されます。
 『月寒村ヨリ新道筋「アシヽベツ」』は、現在の『「月寒中央周辺」から旧国道36号線沿いの「清田区」地域まで』と解して良いと思います。
 旧国道36号線(札幌本道)沿いの「月寒中央周辺から「清田区」を経て、「野津幌」までが三等官林に指定された事となります。

4.「風土略記」に記載された各官林の様子
明治14年調査 札幌郡官林 風土略記
                        開拓使 地理課 山林係

「圓山官林・野津幌官林・厚別官林・簾舞官林・発寒官林・砥山官林・白川官林・湯沢官林・八垂別官林・月寒官林・輪津官林・島松官林・札幌官林」
   以上13の官林の記載があります。
   (北海道立文書館藏 簿書4616)

 

 「風土略記」の記載の中から、清田地域に隣接する「月寒官林・輪津官林・島松官林・野津幌官林・厚別官林」の5つの官林を転載する事と致します。

 下図は、「札幌郡之図」を基に、清田地域周辺の官林を拡大した図となります。

 札幌郡を流れていた豊平川(含む支流)沿いに森林地帯が所在していましたから、伐木された樹木は、豊平川(含む支流)を利用して札幌の街に流送されました。

5.「風土略記」に記載された「月寒官林」について
清田地域に隣接の「月寒官林」の様子について、当時の状況を知る資料とします。

  「風土畧記  字 月寒官林」     (北海道立文書館藏)

<表紙> 風土畧記  字月寒官林 地理課山林係
     七等属 松本安宅  等外一等出仕 久慈政徳  同調
<本文>
     風土畧記   月寒官林
札幌市東ヲ経過スル一村アリ月寒村卜云フ室蘭街道ニテ村中ヲ切断シ該路ヨリ右旋スル属地山野アリ即チ村名ヲ以テ月寒官林卜称ス
該山ノ隣地平岸村ニ跨グモ東南ハ厚別官林連脉ヲ以テ隣リ西ハ精進川ヲ以テ真駒内牧場林ニ界ス北ハ月寒村及ビ平岸村ニ接シ東西短ク南北長シ(東西一里二十四丁五十間南北三里二十九丁三十間)周囲九里二十四丁五十間此面積六百八十二万七千六百五拾七坪ナリ
該山中央ヲ流遶(リュウジョウ)スル二川アリ一ツヲ月寒川卜云ヒ其ノニヲ望月寒川卜云フ共ニ水源ヲ厚別山脉ニ発シ一嶺ヲ隔テ北ニ向テ蛇行シ室蘭街道ニ渉リ夫レヨリ月寒及ビ白石両村ヲ経テ豊平川ニ注グ(豊平川ハ水源札幌嶽ニ発シ北方ヲ指シテ流ルヽ事二十里余ニシテ石狩川ニ会ス)該川二流川幅狭隘両岸平坦ニシテ川底浅シ故ニ木流満水ノ節或ハ管流シ輸送スルモノナリ(水源ヨリ室蘭街道迄三里余該路ヨリ札幌迄一里余)精進川ハ水源ヲ厚別山脉ニ発シ北ニ向テ曲折スル事三里余ニシテ豊平川ニ注グ両岸平坦ニシテ川幅狭シ木流ノ便アリトイエドモ満水ナラザレバ幹流スル事能ハズ陸運ハ山嶺平坦ニシテ處々ニ抜路通環スルヲ以テ便宜地卜云フベシ
全山ノ樹木針葉樹ハ明治四年ノ秋火災ニ罹リ大小皆ナ焼焔シ潤葉樹モ亦多少焼失セリ今回調査セシニ森立針葉樹ハ目通リ一尺滿位ノ数多シ良樹ニハ岩楓、石楢、梻(タモ)ノ類多ク繁生セリ其ノ委(クワ)シキハ別表ヲ制シタレドモ左ニ其ノ概表ヲ掲グ

該山ノ地質一様ナラズト雖モ概言セバ上層壚土(ショクド)多ク或ハ異所ニ依リテ壌土(ジョウド)ヲ含有スルアリ
該山ノ気候ハ日々記録シタレドモ處々ニテ記シタルヲ集ムレバ精細ノ気候測ヲ知ル能ハザレドモ概表ヲ左ニ記ス。
但シ華氏ノ寒暖計ヲ用フ
該山ノ地質一様ナラズト雖モ概言セバ上層壚土(ショクド)多ク或ハ異所ニ依リテ壌土(ジョウド)ヲ含有スルアリ
該山ノ気候ハ日々記録シタレドモ處々ニテ記シタルヲ集ムレバ精細ノ気候測ヲ知ル能ハザレドモ概表ヲ左ニ記ス。但シ華氏ノ寒暖計ヲ用フ
<※ 気候験測概表(月寒暖計・晴雨針・天気・風位・記事)は、略す。>
獣類ハ熊・狐・鹿・兎・木鼠・島鼠等ナリ鳥類ハ山鳥・烏・鶯・鳶・マラ・三光鳥・雀等ナルベシ魚類ハ ヤマベ・ウゴヰ・河魲(カジカ)・ザリ蟹等ニシテ物産ハ木材ノ外葡萄・コクワ・水茸・ムキ茸・舞茸等ヲ知レリ

 注:上記「風土略記 月寒官林」の原文には、朱書きの訂正箇所が多数あります。
 正確を期すため、夫々の文言について、原本の記載を再検ください。

 ところで、「月寒官林」に於いて明治16年7月にかなりの官林火災が起きています。
 下の図2枚が、その火災箇所の図面となります。

<図面1>「札幌縣公文録 山林罹災之部 明治十六年中上」(簿書7963)より
「自七月十四日ヨリ 至仝十六日マデ 延焼地・七月十七日ヨリ 仝十九日マデ延焼地」

「(明治16年)自七月十四日ヨリ 至仝十六日マデ 延焼地」については、札幌郡月寒官林焼害之件の「上申書」には、面積が凡そ十七万二千八百坪、焼けた木数十五万〇九百本許と記しています。
 次いで、「七月十七日ヨリ 仝十九日マデ延焼地」については、面積が凡そ三十五万坪、焼けた木数一万九百本許としています。しかし、18日に再燃して更なる被害があり、19日の午前8時に至って一挙に鎮火する事が出来たと、7月24日付けで報告しています。
 火災の箇所(場所)は、月寒川(水車器械所旧道)の西側、望月寒川(水車器械所新道)の東側に当たる広大な樹林地帯の火災であった事が判ります。

<図面2>「札幌縣公文録 山林罹災之部 明治十六年中上」(簿書7963)より
  「明治十六年七月十六ヨリ二十二日マデ 厚別月寒西官林延焼 略図」

 <図面2>についてです。「具状書」(報告書)に依ると、「厚別官林」から発火して延焼し、現北海道農業研究センターの南側の「月寒官林」の地域に及ぶ森林火災となった罹災の報告です。
 面積凡二百三十万坪、樹木の被害は、蝦夷松凡そ六千本・𤄃葉樹種凡そ四千本、その他小木総数は無慮数百万本であったとしています。
 火災の箇所(場所)は、陸軍省用地(後に種畜牧場となった現北海道農業研究センター)の南側に当たる樹林地でした。

 「月寒官林」の所在した南側には、現在も「焼山(標高 261m)」と呼称される山が所在します。この様な火災に依って名付けられたものと推測されます。

6.「風土略記」に記載された「輪津官林」について
清田区に隣接の「輪厚官林」の様子について、当時の状況を知る資料とします。

   「風土畧記  字 輪津官林」    (北海道立文書館藏)

<表紙> 風土畧記  字輪津官林 地理課山林係
     七等属 松本安宅  等外一等出仕 久慈政徳  同調
<本文>
     風土畧記    輪津官林
輪津官林ハ月寒村ニ連属シタル地ニシテ室蘭街道ニ接シ該路ヨリ右旋スル地ヲ称シテ字輪津卜言フ
札幌市街ヨリ東方ヲ指シテ室蘭街道ニ従ヒ行渉スル凡三里有餘ニシテ字輪津ニ達シ(俗ニ上野津幌卜称スルハ即チ輪津ナリ)該山間ヲ流通スル一川アリ輪津川卜云フ其ノ水流ヲ以テ嶋松官林ノ境トナシ水源ハ厚別山脉ニ発シ北流シテ室蘭街道ニ渉リ而シテ野津幌ヲ経テ嶋松川ニ入ル
該山ノ西方ニ当リ一ノ連脉アリ即チ厚別官林ニ境シテ其山ノ東南ハ嶋松官林ニ界シ北ハ室蘭街道ニ接シ東西二十丁余南北壱里〇五丁ニシテ周囲三里〇八丁余此面積百六十五万三千二百二十坪ナリ
該地ハ山面平坦ニ聳(ソビ)エ樹木森々トシテ繁生ヲ保ザルハナシ然シテ地味タルヤ野津幌官林ニ連属シタル地ナレドモ其間タヲ室蘭街道ニテ切断ス之ヲ上野津幌卜云フ樹木適当ノ地味ニシテ良樹ハ夥多アリ然シテ該山ニヲケルヤ野津幌山ノ如キ良樹多カラザレドモ面積小ナルニ随ヒ樹木モ亦密生卜云ザレドモ森林ト云ハザルヲ得ズ
其樹林ノ精細ヲ知ラント欲セバ別表ヲ制シタレトモ尚ホ左ニ概数ヲ示ス

野津幌川ハ水源野津幌山ニ発シ北流シテ室蘭街道ヲ過ギ尚野津幌山林ヲ経テ豊平川ニ注グ該川ハ幅員狭隘ニシテ水量モ又少ナシ故ニ■■ノ便ハ満水ヲ待ッテ幹流スベシ輪津川ハ野津幌川卜同ジク小流ニシテ木流スルト雖ドモ融雪満水ヲ待タザレバ流出スル事能ハズ然レドモ陸運ハ山面平坦ニシテ出送スルニ陸運道路ハ至便ノ地ナリ
(該地ハ室蘭街道ニ近シ該路ニ従テ運搬シ札幌市街迄三里餘)
該山ノ地質ハ皆ナ同ジカラザレドモ上層壌土多ク瀘土其中ニアリ然シテ良樹適当ノ地ト云ハザルヲ得ズ
全山ノ気候ハ日々記シタレドモ測載ス此ノ気候素ヨリ精細ヲ知ル能ハズ然レドモ今其概表ヲ別紙ニ掲グ
但シ華氏ノ寒暖計ヲ用フ
<※ 気候験測概表(月寒暖計・晴雨針・天気・風位・記事)は、略す。>
獣類は熊、鹿、狐、狼、兎、木鼠等にして、鳥類は烏、鷺、山鳥、雀、山鳩等ナルベシ魚類ハ河魲(カジカ)、ヤマベ、鯎(ウゴヰ)其外物産ナルベキモノハ木材ヲ除クノ外葡萄コクワ、椎茸、舞茸等ヲ知レリ

 注:上記「風土略記 輪厚官林」の原文には、朱書きの訂正箇所が多数あります。
   正確を期すため、夫々の文言について、原本の記載を再検ください。
  (上記文中の■■は、解読が困難な文字でしたが、「木流」?と判読しました。)

7.「風土略記」に記載された「島松官林」について
 清田区に隣接の「島松官林」の様子について、当時の状況を知る資料とします。

  「風土畧記  字 嶋松官林」     (北海道立文書館藏)

<表紙> 風土畧記  字嶋松官林 地理課山林係
     七等属 松本安宅  等外一等出仕 久慈政徳  同調
<本文>
     風土畧記  嶋松官林
嶋松官林ハ札幌市街ヨリ東南ニ当リ室蘭街道ヲ行渉スル凡五里二十丁余月寒村ニ連属セル地ネレドモ村界ヲ制ナケレバ何ツレノ村ニ属スルヤ未タ村名ヲ呼ブコト能ハズ故ニ嶋松官林ハ字嶋松ニ連属シタル地ヲ以テ其地称ヲ記シテ官林ニ唱呼シ該地ハ膽振國千歳石狩國札幌ノ南部ニ境ス而シテ該山中ヲ蛇行スル一川アリ嶋松川卜云フ水源ハ字「厚別」山脉ヲ発シ東方ヲ指シテ流行スル事四里余ニシテ室蘭街道ニ渉リ夫レヨリ過ギテ漁川ニ合シ而シテ石狩川ニ注グ嶋松川ハ室蘭街道上流一丁有餘ニシテ二派ニ分レ右流スルハ即チ嶋松川ナリ左流ハ字「ニーウベツ川」ト云フ水源ハ厚別山ニ発シ該川ニ沿フ一嶺ヲ山林界トス東ハ室蘭街道ニ接シ西北ハ輪津及ビ厚別官林ニ境シ南ハ膽振國千歳郡ニ隣リ東西二里余南北一里九丁余周囲七里十丁三十間余此坪数千零々八万八千七百二十坪ナリ
該山樹林ハ針葉樹全山ノ六分一ニシテ潤葉樹ハ三分一ナリ其余ハ針潤雑林ナリ良樹ニハ槐(エンジュ)、梻(タモ)、刺桐、黄桐ノ類多シ然レドモ大樹薄乏ニシテ目通リ六尺余ノ地味可ナリト雖トモ養樹適当ノ地トハ云ヒガタシ然レドモ就中山面ノ位置ニ仍テハ粗悪ノ地多クシタ該山ノ如キハ厚別山境界近傍ニ依レバ稍善良ノ地味ナリ樹木ニハ一層生長ヲ保セザルハナシ而シテ該地ノ地味善良ノ個所ハ小ナル故ニ細盡スルニ及バザレドモ記スルニ若クワナシ
該山木数詞ベハ別表ヲ制シタレドモ其概略ヲ左ニ附ス

該地運輸ノ便否ハ川流幅員狭隘ナルガ故ニ木流シ難シト雖トモ解雪ノ候又ハ洪水等ニテ満水ノ節幹流スベシ陸運ハ室蘭街道ヨリ該山へ諸山道路通洞セルアリ該山道ニ仍テ運搬セシム(該地ヨリ室蘭街道迄駄送スル凡三丁餘室蘭街道ヨリ札<幌(欠)>市迄五里二十丁余)運輸ノ便ハモットモ便宜ナリ
該山ノ景様図上ニ依テ詳知スベシ
土質ノ如キハ全山一様ナラズモ一所ニ依レバ壌土アリト雖トモ概言セバ瀘土卜言ワザル可ラズ所ニ依レバ壌土ヲ含メルアリ多量ハ瀘土ナルベシ
該山ノ気候ハ日々記シタレドモ山岳高低アルガ故ニ全備ノ気象測トハ云フガタシ然レドモ今其概表ヲ左ニ掲グ但シ華氏ノ寒暖計ヲ用ユ
<※ 気候験測概表(月寒暖計・晴雨針・天気・風位・記事)は、略す。>
獣類ハ熊、狼、狐、木鼠等ナリ。鳥類ニハ山鳥、鷺、烏、鳶ナリ魚類ハ鱒、鮭、イトウ、河魲(カジカ)、ウゴヰ、ヤマベ等ナリ 物産ハ木材ノ外葡萄、コクワ、シイ茸、ムキ茸等ヲ知レリ

 注:上記「風土略記 嶋松官林」の原文には、朱書きの訂正箇所が多数あります。
 正確を期すため、夫々の文言について、原本の記載を再検ください。

 ところで、この「官林」の樹々が、開墾によって伐木される状況となりました。
   『新札幌市史』(第2巻 P766)<官有林原野貸下・払下>より
 「移民の増加はますます未開地への開墾をうながしたので、森林中へも食い込まねばならない状態となった。(中略)官林内の農耕地貸下・払下にもとづいて、年々官林解除が増加したためである。(注:札幌郡面積・明治19年、8万8千町歩・明治29年、4万3千町歩。)
 (明治)三十年代の札幌郡の場合をみても、(明治)三十二年段階で官林が三万八三五八町歩あったが、(明治)三十八年には一万六〇八九町歩余、ほかに保安林(二十九年の森林法にもとづく官有林)八七五町歩余の計一万七〇〇〇町歩というぐあいに減少傾向にあった(北海道庁統計書)。」と記しています。
 このように、山火事によって官林の樹木が焼失する場合もありますが、多くは移住民の増加によって住空間を造るために開墾地の樹木が伐採され「官林」が減少しました。
 見る見るうちに、周辺の「官林」の樹木が伐木され、平地と化して行く変化に気付き、その事に反対して現在残っている「官林」があります。それが「野津幌官林」です。
 その「野津幌官林」の歴史等を見て行く事と致します。

8.「風土略記」に記載された「野津幌官林」について
 清田区に隣接の「野津幌官林」の様子について、当時の状況を知る資料とします。

   「風土畧記  野津幌官林」     (北海道立文書館藏)

<表紙> 風土畧記  第壱號 野津幌官林之部
     地理課山林係  奈佐 栄   匂坂 賢次
<本文>
     風土畧記 第壱號  野津幌特選官林
札幌市東ヲ遠環スル一河アリ札幌川ト云ウ其水源ハ札幌岳ヨリ出テ北ニ向ヒ蜿蜒(エンエン)二十里余ニシテ石狩川ニ合シ石狩海ニ入ル此ノ川ニ一大橋アリ豊平橋ト云フ市街ヨリ東ニ向ヒ室蘭街道ニ渉ルモノニシテ其長四十間巾貮間半ナリ其下流壱里余ニシテ東ヨリ落ル支流アリ野津幌川ト云フ當語「ノツ」ハ岬ノ如ク自カラ突出セシ処ヲ云ヒ「ホロ」ハ廣大ノ形容詞ナリ即チ野津幌山ハ其脉(ミャク)南(ナン)ニ起リ迤迤トシテ北ニ走リ石狩川添ヒナル對雁村ニ至ル自ラ一大岬ノ形ヲナセリ然レトモ山尖リタルニ非ス嶮ナルニ非ス廣大ナルカ故ニ俗語野津幌ト称スルモ又信スルモノアリ
該山ハ蝦松森立シ一大林ヲナセリ然トモ未タ何レノ村ニ屬スルヤ境界ノ制ナケレトモ月寒村ニ連属シテ札幌ヲ三里十八丁距ルナリ而シテ東西短ク南北長ク 東西壱里十七町南北四里十四町余 周囲拾壱里ニシテ其面積一千六百八十二万零八百九十八坪アリ東ハ和厚川ニ隣リ西ハ野津幌川ニ界シ南ハ室蘭街道に接シ北ハ對雁村ニ属ス附野津幌川ノ水源ハ室蘭街道ヨリ壱里半余南方ニアリ故ニ此地ヲ総テ野津幌ト云フ室蘭街道ニテ切断シ里諺上下ノ名ヲ以テ區別ス今調査ヲ遂ルモノハ下野津幌ナリ看者上野津幌ト混セサルべカラス
該山ノ形容ハ図上ニ仍テ詳知スベシ
野津幌川ハ曲折甚タシク野津幌山麓ニ添ヒ蛇行北ニ向テ流シ両岸ハ平垣ニシテ雑樹林及ヒ湿地ナリ水源ヨリ凡七里許ニシテ豊平川へ注クルモノニシテ幅員狭隘且浅クシテ舟ヲ浮フル能ハス故ニ涸水ノ時ニアラサルモ木流シナリカタシ唯雪解ノ候ニ至リ満水ノ時小村ハ幹流(クダナガ)シスルコトヲ得ヘシ殊ニ該川ニ沿フ廣漢ノ地ハ泥濘深ク底ヲ知ラス雪解満水ノ際ハ一面沼ノ如クニナルカタメ筏ヲ以テ材ヲ輸送シ豊平川ヲ経テ石狩海(該山下野津幌川ヨリ石狩川迄九三里)ヱ出スベク又東橋ハ和厚川ヘ流シ石狩川(該山下和厚川ヨリ石狩川迄六里)ヱ出スノ便アリ加え陸運ハ山中東南ノ端ヨリ室蘭街道ヘ出ルニ近クシテ該端ヨリ廿五丁余其道極メテ平坦ナリ若シ陸運ヲ図リ多数ノ材ヲ出ス期アルトキハ今此図ニ記スル見込線ヲ築カバ運搬は水陸共至便ノ地ト云フヘシ
該山ハ概ノ樹木林列シ且川流便アル故ニ明治ノ初メ特選シ官林ト定メラレタル七官林ノ一ニシテ斧鉞ヲ禁スルト雖モ近来人民ノ繁殖ニ従ヒ需用少カラス官是ヲ以テ昨秋ヨリ必需ノモノハ伐採ヲ許セリ今ヤ実地ヲ目撃スルニ大樹ハ明治ノ初メ官用ニ伐採セシコト実ニ夥多シテ撰定シタル當時ト今日ト林相衰廢ヲ想像セハ大ニ改観スト云フベシ
椴ハ全山ノ五分一ニシテ他ノ良木モ同シク五分一ナリ五分三ハ雑樹ナリ而シテ良木ニハ槐桂ヲンコ蝦夷柗桑栓等ナリ雑木ハ赤ダモ榿等ナリ其委シキハ別ニ木數調ノ表ヲ製シタレト尚左ニ概表ヲ掲ク

現在伐採年度ヲ概算スレハ元木數五万本材木トナルモノ三万二千百三十三本ナリ気候ハ地勢ノ高低大ナラズ故ニ札幌ト差違僅少ナレド冬間此山ヲ跋渉セシ時札幌ニ比スルニ幾分カ温暖ヲ覚エ蓋シ森林中ト云ヒ地勢大風ヲ防クニ適スルナラン全年気候測ノ備ナキガ為ノ年表ヲ製スル能ハズト雖モ今回ハ日々ノ気候ヲ記録ス是素ヨリ精細全備ト云フヲ得ザレドモ略々山中ノ気候ヲ知ルニ足レバ此ニ附ス
但シ華氏ノ寒暖計ヲ用ユ
<※ 気候験測概表(月寒暖計・晴雨針・天気・風位・記事)は、略す。>
地質ハ野津幌ノ如キ小山ト雖モ肥痩一様ナラス概言セバ壌土ヲ以テ成立チ而シテ多量ノ壚土ヲ含有シ極メテ養樹適當ノ地トス
如此気候地質両ナガラ適当ナラハ苗木ヲ植ルニ不足ナキノ地トス
獣ハ熊 狼 鹿 兎 狐 島鼠 木鼠 山鼠 等ナリ 而シテ熊ハ札幌近傍中該山ハ多ク住スルノ場所ナリ蓋シ野津幌川ノ両岸ハ平坦ニシテ萢沼多ク熊ノ好ンテ食スル「ベコノシタ」多生スル故ナラン「方言ベコ牛ノコトナリ即チ牛舌ノ形チヲナシタル竹ニテ萢沼ニ生スルモノナリ此根ヲ掘テ食フ」
嘗テ山中ニ野馬ノ住スルヲ聞ケドモ現ニ其住スルナラン
鳥類ニハ 鳶 烏 山鳩 マヲ 南蛮鳥 鶺領 啄木鳥 鶯 水鶏 三光鳥等ヲ見ル而巳
魚類 鱒 ロマベ ウゴ井 河魲(カジカ) ヲリリカン キリ等ナリ
物産トナルベキモノハ材木ヲ出スル外 タモ 木茸 舞茸 楢茸 姥百合 コクワ 葡萄等ナレトモ許多ナラス山之直殷ノ材價ヲ左ノ略表ニ掲ク

 注:上記「風土略記 野津幌官林」の原文には、朱書きの訂正箇所が多数あります。
   正確を期すため、夫々の文言について、原本の記載を再検ください。

 「風土略記 野津幌官林」は、明治14年調査の報告となります。明治初期からそれほどの年数を経ていないと思われますが、明治の初めにかなりの伐採があった様で、『伐採セシコト実ニ夥多シテ撰定シタル當時ト今日ト林相衰廢ヲ想像セハ大ニ改観スト云フベシ』と記しています。かなりの樹木伐採が進行した事を窺わせる記載となっています。

9.「野津幌官林」の位置について

「新札幌市史」第1卷 地形の特性 <P7>
「東部台地・丘陵地の地形区分」より

 「野津幌官林」は、豊平川の東側に位置し、「野幌丘陵」(標高115m以下の丘陵)に広がる森林地帯です。
 面積は、東西7km,南北21kmほどです。

 北は、江別市上江別・函館本線の南側に位置し、石狩川の大曲流部が隣接しています。
 東は、江別川・千歳川がほぼ境界です。
 西は、野津幌川に接した状況となっています。
 南は、輪厚川(上中之澤)・島松川より北側の地域となります。

 「野津幌官林」は、現在の札幌市・江別市・北広島市の3つの市に跨り広がっている官林です。

 

 ・「道立自然公園野幌森林公園」の所在地は、札幌市厚別区厚別町小野幌53-2、
 ・「野幌原始林」の所在地は、北海道北広島市西の里 及び 北海道江別市西野幌となっています。

 明治初期の「野幌森林公園」の面積は、風土畧記に「1682万0898坪アリ」と記してありますから、5,607haの面積となります。(注:1haは、3,000坪)

 現在の「野幌森林公園」の面積は、2,053haとかなりの減少した面積です。
 そこで、明治初期の「野津幌官林」との変化・比較をしてみたいと思います。

 「野津幌官林」の正確な周辺については未詳ですが、「札幌郡之図」を基に国土地理院の地形を参照にしながら概略ですが記してみました。

 下図は、「大正5年 国土地理院地図」による「野津幌官林」の(予想)区画境界図です。
 位置関係として、北は、函館本線に隣接した区域。東は、石狩川に注ぐ江別川・千歳川の流域。南は、輪厚川(上中之澤)・島松川の地域。西は、野津幌川に隣接した区域となっています。

 注として、下部のー茶色線は、国道36号線となります。

 「野津幌官林」内外の‐‐‐点線は、現在の各市の境界区域を示しています。

 西側が「札幌市」で、東側の広い地域が「江別市」、下部の南側が「北広島市」となります。

 尚、「野津幌官林」下部(南側)の島松川を境界として、「恵庭市」となっています。

 

 この「大正5年 国土地理院地図」に、現在の「野幌森林公園」の領域を重ね合わせて変化した領域を図示する事とします。

 注として、挿入しました土地図は、「昭和の森 野幌自然休養林案内図」(石狩森林管理課)を適用させて頂きました。 大沢口に掲示してあります案内板です。
 この案内板は、左の表示の様に、土地区分が明確に表示されてあります。図と対照されながらご確認ください。

 

 〇 現在の「野幌森林公園」と明治初期の「野津幌官林」(予想図)です。

 上図につきましては、あくまでも概略として捉えて頂きたいと思います。
 「野幌森林公園」の面積は、「官林」指定当初のほぼ半分くらいとなっています

10.「野津幌官林」の経緯(歴史)について
 明治初期からの「野津幌官林」の年譜を概略ですが記してみました。
 <下記の記述については、各種文書等を参照しました。>
・明治 6年(1875年) 「開拓使」によって5,607haが官林に指定される。
・明治23年(1890年) 宮内省所管の御料林となる。明治27年に御料林が解除される。
・明治32年(1899年) 町村制が敷かれる。道庁より江別・広島・白石に野津幌官林を分割し、払い下げの方針が発表される。分割すれば、早晩開墾のため伐木され、禿山に帰すると考え、関係農民が反対運動のために立ち上がる。北越殖民社指導者の関矢孫左衛門らが反対し、道庁長官へ陳情し分割を阻止する。
・明治41年(1908年) 国有林となり、3,427haが野幌林業試験場の試験林となる。
・大正10年(1921年) 322haが野幌原始林の名で「天然記念物」に指定される。太平洋戦争(第二次世界大戦)の最中は防空壕などのために森林が伐採される。終戦後は復員した人々などによって、無断で入植して開墾される。その結果、2,198haが農地として解放される事になる。
・昭和29年(1954年) 洞爺丸台風により大きな被害を受けて復旧保存が困難となる。
・昭和34年(1959年) 千歳線以北部分の「特別天然記念物指定」が解除される。
・昭和37年(1962年) 千歳線以南の一部を除いて「特別天然記念物指定」が解除となる。
・昭和43年(1968年) 北海道百年を記念して、「北海道立自然公園」に指定される。敷地面積2,053haとなる。
・昭和44年(1969年) 林野庁により国有林部分が「自然休養林」に指定される。
・昭和45年(1970年) 「北海道百年記念塔」がオープンする。
・昭和46年(1971年) 「北海道開拓記念館(現在の北海道博物館)」がオープンする。
・昭和52年(1977年) 「昭和の森」に指定される。
・昭和58年(1983年) 「北海道開拓の村」が開村する。
・昭和61年(1986年) 林野庁ほか森林文化協会により「森林浴の森100選」に選定される。
・平成13年(2001年 「自然ふれあい交流館」が開館する。
・平成27年(2015年) 「北海道開拓記念館」と「北海道立アイヌ民族文化研究センター」が統合し、「北海道博物館」として開館する。

 上記のように、伐木の反対運動があり、終戦後には混乱期の開墾による伐採が行われ等、幾多の歴史を経て、現在「野幌森林公園」の面積は、2,053haとなっています。
 尚、その中で「特別天然記念物」に指定されてある面積は、約62haです。
 令和元年(2019年)10月16日付で、20.23haが追加指定されました。既指定分の41.70haと合わせ、61.93haとなりました。

 斯くして、明治初期より大きく変化した現状の「野幌森林公園」となりました。
 森林公園の樹林の景観は、原始の面影が削がれ、物足りなさは否めませんが、今なお残って在る事を良しと致したいと思います。

11.「風土略記」に記載された「厚別官林」について
 清田地域に隣接の「野津幌官林」の様子について、当時の状況を知る資料とします。

  「風土畧記  第貳特撰官林 字 厚別官林」 (北海道立文書館藏)

<表紙> 風土畧記  第貳特撰官林字厚別官林 地理課山林係
     七等属 奈佐 榮  八等属 白坂賢次 同調  御雇 久慈 政徳
<本文>
     風土畧記  第貳特撰官林字厚別官林
札幌市東ヲ通環スル一村アリ月寒村ト云フ室蘭街道ニテ村中ヲ切断シ該路線ニ從ヒ通進スル数十有餘丁右旋スル地ヲ総テ字厚別ト称ス月寒村ニ属スレトモ未タ判然ノ境域ナケレバ村名ヲ呼ブ能ハス該山ハ明治ノ初メ特撰セラレタル七官林ノ一ニシテ斧鉞(フエツ)ヲ禁スルト雖トモ近来人民ノ繁榮ニ從ヒ用材少カラズ故ニ官是ヲ察シ伐採許サレタリ今調整スルニ伐採シタルハ多量ニシテ林中衰退ヲ顕ハセリ然レトモ山中ニ入ルニ從ヒ遠里ノ個所ハ樹木森々トシテ一大林ヲナセリ就中多生スル樹木ハ椴松蝦夷松等森列セリ最モ各水源近傍ハ未タ杣夫ノ入行ナケレバ蜜生ト云ハゼレトモ樹木長生ヲ保ザルハナシ
該山ノ位置タルヤ東ハ輪津官林及島松官林ニ境シ西南ハ真駒内牧場林及ビ瞻振國千歳郡ニ隣リシ北ハ室蘭街道ニ接シ東西短ク南北長シ(東西一里十七丁〇五間 南北四里十〇丁十〇間余)此面積二千六百七十四万三千五百八十坪ナリ
全山中ヲ流通スル一川アリ厚別川ト云フ水源ハ厚別山ニ處シ山間ヲ蛇行北ニ向テ流レ凡ソ七里有餘ニシテ室蘭街道ニ渉リ是ヨリ過キテ豊平川ニ注グ而シテ石狩川ニ合ス厚別川ハ豊平川ノ枝流ニシテ而シテ室蘭街道ヨリ沿昇スル三里有餘ニシテ左ヨリ流ルル一川アリ俗語三筋瀧ト云フ(三筋瀧トハ水中ニ突出シタル岩石ノ形容ニ依テ水流三派ニ分カレ之レヲ捴シテ唱呼シタルモノナリ)該川落合ヨリ本流ニ沿ヒ上流凡ソ二十丁有餘ニシテ高瀧二ツアリ其ノ一ヲ(オ瀧)ト云フ(オ瀧ハ水勢最モ多シ幅員凡ソ七間余)其二ヲ(メ瀧)ト云フ(メ瀧ハオ瀧ニ比スレバ水勢少ナシ且ツ幅員モ狭シ)其ノメオノ区別ハ瀧ノ高低ニ仍テ名ツケタルニアラズ水勢ノ強弱ヲ以テ世人是ヲ称シテ其ノ別ヲ唱呼シタルモノナルベシオメハ称名ヲ想像セバ即チ男女ノ別ト推観セリオ瀧ハ本流ニアルモノニシテ其高サ八間五尺余メ瀧ハ枝流ニシテ其高サハ十一間三尺余景様ノ妙ナルハ如斯高瀧并列シ水流ノ落チ口モ亦既ニ同シカルベシ而シテ川ノ両岸ハ嶮ナシテ恰カモ屏風ヲ立テタルガ如シ其山脉絁列シ下流ニ至ルニ從ヒ次第ニ流脉トナリ川ノ両岸モ平坦ニアラザレトモ亦嶮ナルニモアラズ而シテオ瀧ノ右側ハ僅カニ平坦ノ地アリテ該所ニ工業局附属ノ水車器械場ヲ設ケラルル見込ニテ調査ノ際ハ盛ンニ器械場ヲ建設シ懸官ノ出張所ヲ設ケ未タ全備ナラザレトモ殆ンド出来ニ近キニアリ該場ヘ水流ノ流通ハ瀧ノ上流ヨリ掘割シ其長サ僅カニ六十間間有餘ナルベシ此場ニ属シタル個所ハ椴松蝦夷松夥多ナル他ノ良樹モ亦從テ少カラズ而シテ属シタル地積ハ千三百四拾七万九千八百五拾坪ナリ
該山ノ樹木ハ針葉樹全山ノ三分一ニシテ濶葉樹モ又タ三分一ナリ余ハ針濶雑樹ナリ良樹多生スルハ 梻(しきみ),岩楓、黄桐、椴松、蝦夷松等ニシテ其樹数ノ精査ヲ知ラント欲セバ別表ヲ制シタレド左ニ概表ヲ示ス

運搬ノ便否ハ水陸共至便ナリト雖トモ流便ハ厚別川ノ水流ニ從テ運流スレトモ大水ナラザレバ木流スルニハ容易ナラザレトモ洪水又ハ雪解等ニテ満水ノ期ニ至レバ木流至便ト云フベシ陸運ハ月寒山間ヲ経過シテ厚別水車器械場ヘ達踄スル道路ニ從テ運搬ス而シテ該山間ニハ山道数條アルヲ以テ運搬スルニハ皆ナ其近路ニ駄送スベシ而シテ該地ハ室蘭街道ニ接続シタル地ナレバ僅カ十丁以内ニシテ該路ニ達シ夫レヨリ札幌迠凡ソ二里半ナルベシニシテ札幌ニ達ス
地質ハ全山同一ナラザレトモ大略壌土ニシテ成立チ上層ハ多量ノ壚土(ショクド)ヲ有セリ嶺上ニ至レバ変シ或ハ礫石アリト雖モ山間ハ多ク上層壌土(ジョウド)ナル故ニ如斯質ナレバ樹木植立スルニ不足ナキ地ト云フベシ
該山ノ気候測ハ日々ノ気候ヲ記シタレトモ素ヨリ精細ノ備ヘナケレバ精蜜ナルヲ得ル能ハザレトモ只山中ノ概測表ヲ左ニ掲ク
但シ華氏ノ寒暖計ヲ用ユ
<※ 気候験測概表(月寒暖計・晴雨針・天気・風位・記事)は、略す。>
獣類ハ熊鹿狐狗木鼠兎等ニシテ鳥類ハ鶯山鳥烏山鳩等ナリ魚類ハ鱒ヤマベ鯎(ウグイ)河(カジ)鮐(カ)等ヲ知レリ物産ニナルベキハ木材ヲ除クノ外椎茸舞茸ムキ茸コクワ葡萄等ナルベシ

 注:上記「風土略記 厚別官林」の原文には、朱書きの訂正箇所が多数あります。
  正確を期すため、夫々の文言について、原本の記載を再検ください。

※ 上記の「第貳特撰官林字厚別官林」は、工業局附属地を含めた記載となっています。
 (厚別川上流の山林地帯は、水車器械所の材木用の工業局附属地〔狭義〕でした。)
※ 文中の『室蘭街道ヨリ沿昇スル厚別川ニ三里有餘ニシテ左ヨリ流ルル一川アリ俗語三筋瀧ト云フ(三筋瀧トハ水中ニ突出シタル岩石ノ形容ニ依テ水流三派ニ分カレ之レヲ捴シテ唱呼シタルモノナリ)』の「一川」は、現在の「鱒見の沢川」で、その瀧が多くの方に周知されている「鱒見の瀧」です。<当時、多くの鱒を見かけたとの事です。>
 また、「該川落合ヨリ本流ニ沿ヒ上流凡ソ二十丁有餘ニシテ高瀧二ツアリ其ノ一ヲ(オ瀧)ト云フ(オ瀧ハ水勢最モ多シ幅員凡ソ七間余)其二ヲ(メ瀧)ト云フ(メ瀧ハオ瀧ニ比スレバ水勢少ナシ且ツ幅員モ狭シ)」は、現在の「アシリベツの瀧」です。
(船越長善 画「札幌近郊の墨絵」には、「札縨郡 アシシヘツ大瀑布」の絵図があります。)
 厚別川の本流から落ちる瀧が「雄瀧」(大瀧)で、厚別川の支流・清水の沢川(野牛山が水源)から落ちる瀧が「雌瀧」(小瀧)となります。

 ☆「厚別官林」の図の一例
 「厚別官林」の概略については、道立図書館に「写し」と見られる図が多数残されてあります。下図がその1つの例として掲げて置きます。

   「厚別山林」(北海道立文書館 所蔵)    (簿書7259-001)

 「厚別山林」は、「工業局附属地」と「第二特撰官林」より成っている事が分かります。
 「厚別山林」の広さは、「工業局附属地(第一特撰官林)」が1021万505坪、「有明・真栄地域の官林(第二特撰官林)」1653万30575坪の面積があり、合計2674万3580坪(段別8914町5反2畝20坪・約8,900ha )の大きさでであったとしています。

 「開拓使事業報告原稿 工業課報告 札幌 号外二」(簿書7141)には、明治12年6月に長野県(信濃国)から杣夫7名を雇って、札幌郡の「月寒官林」(火災以前の山林)及び
「厚別(「アシヽベツ」のルビが付してあります)官林」の伐木に関わり、明治13年6月に至って解雇したと記してあります。
 杣夫7名の1年間の伐木数について、「月寒官林」(現木数 3,737本)・「厚別官林」(現木数 2,460本)、合計の伐木数(6,197本)となり、1か月に500本以上の伐採が官林に於いて行われた事が分かります。
 一時期、「厚別官林」内に数百名の杣夫が入地し、芝居小屋まで建ったと言いますから、官林の樹々が次々と消えていった状況を想像するに難くありません。

12.「風土略記」に記載された各官林のまとめ
 清田地域近隣の「月寒官林・輪津官林・島松官林・野津幌官林・厚別官林」について記して来ましたが、ほとんどが明治中期ごろには、伐木・開墾が進み畑地や雑林となりました。

 「月寒官林」においては、森林伐採と樹林地帯の火災によって焼野原となり無残な姿となってしまいました。先にも記しましたが、現在でも「焼山」と呼称する山が所在しています。
 「輪厚官林」「島松官林」も例外ではなく、多くの移住者によって開墾され、主だった樹木は伐採され、炭焼き・薪採り等によって、樹林は見る影もなくなりました。
 「野津幌官林」は、官林(伐木の禁止)に指定される以前に江別川・千歳川という、流木に恰好の立地であったため、『林相衰廢ヲ想像セハ大ニ改観スト云フベシ』と記すほどに衰微した様相になっていたと推定されます。
 その後に反対運動があって、伐木禁止・国有林・野幌林業試験場の試験林となり、漸く保安林となりましたが、戦後の入植に依る伐木によって更に「野幌自然林」が減少しました。
 現在、何とか森林公園として半分ほど残っている事に安堵するのみです。
 「厚別官林」の豊富な樹林は、「厚別水車器械所」の設置によって原木の伐採が急速に進む事となりました。「槐(えんじゅ)の木」が密生していた地域の伐採地を「槐平(えんじゅだいら)」(膽振郡にも及んでいたとの推測があります。)と呼称する程の樹林椴松の針葉樹林が豊かでした)が更地の台地と化し、他に国営のすずらん公園が設置されています。
 その他の地域として白旗山周辺がありますが、伐木・炭焼き・柴材や火災によって焼山・はげ山の状態へと化して行き、その後、雑林地・荒地と変貌して行ったのです。

 尚、現在、「札幌市森林組合」があり、植林をするなどの環境林整備・体験学習ができる環境業務などの取組が行われております。

 以上、主だった内容を列記しましたが「官林」の樹木伐採は、札幌区の街づくりには欠かせない対応であったと思われますが、如何なものだったのでしょうか。
 人間の傲慢さに依る地球の温暖化が問題になっている昨今、今一度森林について関心を持って頂ければ幸いです。

記:きよた あゆみ(草之)