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明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建

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明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建

春・桜の季節  厚別(あしりべつ)神社の正面・階段

清田区にある一番古くからある神社です。
厚別と書いて「あしりべつ」と読みます。
清田区の地域は、昭和19年に地名が変更となる以前は、厚別(あしりべつ)と呼び習わされていました。
それで、「あしりべつ神社」です。

1.厚別(あしりべつ)神社の始まり
 明治7年、地域に早くから移住しました長岡重治氏が開墾の片隅に小祠(しょうし)を作り、朝夕拝礼をしていました。この事が発端となり、厚別神社の設置に繋がっていきました。
 明治18年9月、浪岡清一郎氏・鈴木多七氏・そして長岡重治氏等が、地域の人々が参拝できる社(やしろ)として合掌作りの社(ほこら)を建立(こんりゅう)しました。
 場所は、厚別本通74番地(長岡家の敷地内・・・現在の「清田緑地」内)です。

 上図の左図は、大正5年(1916年頃)測量の地図です。 右図は、現在図です。
 現在の清田小学校の北東に位置して神社の印があります。厚別神社の旧所在地となります。
 現在の清田小学校の敷地の東側に「厚別南通り」が通っています。その近くからも神社に行くことが出来るようになっていました。「表参道」と「裏参道」だったと思われます。
 神社は、「清田緑地」の小高い丘の上の平らな箇所に所在しました。
 祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)・大山祇命(おおやまつみのかみ)・倉稲魂神(うがのみたまのかみ)の三柱(みはしら)を祭り、五穀豊饒(ごこくほうじょう)と地域住民の安全を祈りました。
 「厚別神社」の始まりです。

     <神社の位置の推定>
 左写真は、「清田緑地」に等高線を白線で付した図です。
 南側(左写真の下部中央)の遊歩道入口から北(上方)へ進むと、楕円形となった平らな土地が広がっている事が分かります。
 神社のあった場所は、遊歩道を進み、楕円形の中央又は三叉路の手前辺りに所在したと思われます。
 昔も周りが樹々に囲まれて、神社を設置するには相応しい場所だったのでしょう。

 「とよひら物語 古老をたずねて」の北川成好氏のお話では、ここの「敷地は2万坪」と言われていたとの事です。「清田緑地」全体が境内だったと考えられます。

2.移転(遷座:せんざ)をした厚別(あしりべつ)神社

 左図は、昭和25年(1950年頃)測量の地図です。
 大正6年5月に、現在地に神社が移転しました。
 そして、新しい社殿が造営され、現在に至っています。
 所在地は、清田小学校から東側に離れている事を確認できると思います。
 まだ、真駒内御料線が通っていませんでした。

※ 先の図面と社殿の位置を参照ください。

◎ 大正6年5月、有志の方々の寄付により、新社殿が造営され、本殿が遷座しました。
・社殿様式  神明造
・昭和5年9月に公認の神社と認定される。
・昭和21年8月に宗教法人となる。
 以上は、左記写真他、「豊平町史」より
・遷座した当時の神社の大きさは、本殿3坪・拝殿15坪程でした。

 昭和15年当時の「厚別神社」の階段と鳥居です。
 右側に「厚別神社」名が刻された石造りの標(ひょう)が見えます。
 この写真を見ますと、鳥居は、原木をそのままを活かして仕上げています。木の節が見え、床柱のような感じの鳥居です。鳥居には、しめ縄を渡し、幣(ぬさ)が垂らされて、神の降り立つ目印である「依り代(よりしろ)」となっています。

 左上の図は、真駒内御料線の工事が行われていた昭和43年頃の厚別神社の周辺の状況です。
 右上の図は、真駒内御料線の工事が完成した昭和45年頃の厚別神社周辺の状況です。
 「清田会館」に通じる道(裏参道)が造られ、グランドが神社裏側に設置されました。

 左図は、昭和45年頃の厚別神社の位置図です。
 隣接して「清田会館」がありました。
<神社境内の用地が広くなっています。>

 昭和44年まで、社殿は、坂の階段を上った正面に位置してありました。
 45年には、社務所が設けられました。
 社務所に隣接して、北側に新社殿が建設中であることが図面から窺えます。

3.昭和45年、鎮座壱百年記念 新社殿の厚別(あしりべつ)神社

 昭和45年(1970年)9月5日、新社殿を元の社殿の北西側(現在地)に新たに造営されました。

 右は、昭和45年に完成した新社殿です。
 「厚別神社御造営落成記念」として昭和45年9月6日に撮影されました。

・社殿面積 33坪が竣工しました。
・現在の境内面積 7,071坪
・社殿様式      神 明 造
・造営費    1,370万円

 ※ 境内には碑や鳥居などがありますが、右の小祠は、旧神殿(旧本殿)です。

 

○清田地区開基百年記念碑

 昭和50年(1975年)9月12日、例大祭の日に、鎮座(ちんざ)壱百年祭が盛大に挙行されました。
 花崗岩の記念碑「拓」が建立されました。
 碑には、次の様に刻(こく)されています。

 

 (表面)  「拓」   札幌市長 板垣武四 書
 (裏面) 風雪百年
人跡未踏(じんせきみとう)のこの地が開拓の鍬(くわ)を入れてより一世紀 ここに今日の繁栄をみるは先人の血と汗にまみれた尊い開拓魂の結集の賜(たわもの)である
茲(ここ)に開基百年を迎えその功績と偉徳(いとく)を偲(しの)び記念碑を建立し永く後世に伝える
                     昭和五十年九月十二日
 清田地区開基百年記念
    事業実行委員長        見上 権治郎

 

「さっぽろ文庫45 札幌の碑」(昭和63年6月29日)には、

 除幕式は、明治六年初めてこの地に入植した長岡重治から数えて五代目にあたる長岡純子により、紅白の綱が引かれた。それにしても、平岸や月寒のような集団入植に恵まれなかった清田では、先に入植した人たちを頼りに一戸また一戸と増える状態だったから、明治二十年代に入っても一二、三戸の世帯数にすぎず、原始の大森林を切り開く辛苦(しんく)は想像もできぬくらい、と古老は語る。集落としての機能を有するに至ったのは、明治三十四年ごろ。清田や真栄、北野の稲作と平岡、里塚、有明の畑作が定着してからであった。まさに「尊い開拓魂」の碑文が目を射(い)る。

 と記されてあり、厚別(清田)の地が開けたのは、移住した人々の強い結束力と日々積み重ねられた開墾の労苦による賜物であったと言えましょう。

 明治期に創建した、厚別神社の初代神職は、三橋國吉(くにきち)氏でした。(左の肖像)「新聞と人名録にみる明治の札幌」より
 國吉氏は、慶応3年11月29日、山形県羽前国西村山郡三水町に生れる。氏、在郷中、山形県庁及び西村山郡役所等に奉職すること数年、39年、志を決し、渡道、札幌に来られ、相馬神社の建立に努め初代社掌となり、また豊平神社・月寒神社の神職となられた。
 昭和34年当時の厚別神社の神職は、三橋三夫氏でした。

 ※ 明治期に創建した、厚別地域の三神社である、厚別神社・三里塚八幡神社・公有地(有明)神社の神職の初代は、三橋國吉氏であったと思われます。

 ※ 昭和51年より、神職の三橋國昭氏(現在の宮司)が厚別神社にお住いになられ、祈祷などが行われるようになりました

4.厚別神社 鎮座百四十年記念事業としての碑
  「清田緑地」内にある旧厚別(あしりべつ)神社の発祥の地を示す記念碑

 二葉の写真は、「平成29年9月12日建立 厚別神社」と記された、清田緑地内の記念碑です。
 旧国道36号線沿い、清田小学校から平岡へ上る坂道の「清田緑地」入口近くに建立されてあります。
 千早振る 御神祀る厚別(あしりべつ) 三柱の願 地域に届けん  草之

5.長岡家の小祠について

 上記の写真は、現在も祀られております長岡家の小祠です。

 長岡家の小祠については、歴代の方々が今日まで大切に祀(まつ)っておられます。
 古くは自宅周辺に祀られていたということですが、場所や年月は不明です。
 (現在の清田小学校敷地内に長岡家の私有地60坪が所在し、稲荷の小祠が置かれ、祀っておられた時期がありました。)
 現在の小祠については、平成12年に祠を一新され、鳥居を設置し、京都伏見稲荷神社より勧請(かんじょう)を受けられ、長岡家の敷地内(旧神社の所在の南側・「清田緑地」内)に遷座(せんざ)され、祀っておられるものです。

記: きよた あゆみ(草之)

<本編>明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建

<外伝>厚別(あしりべつ)神社の「碑」について

<外伝>清田区の文化財 厚別神社の「旧本殿」

<外伝>昭和45年 厚別青年会と「清田会館」


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