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明治19年 嵯峨牧場と「月寒(ツキサップ)ゴルフ場」

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明治19年 嵯峨牧場と「月寒(ツキサップ)ゴルフ場」

1.嵯峨牧場のこと
「歩兵第二十五聯隊製圖(れんたいせいづ) 二万分之一月寒」(明治43年1月印刷 部分)

 左図の札幌本道の北側、二里塚から北野地域まで、「佐賀(嵯峨)牧場」が広がっていました。
 この牧場は、嵯峨半蔵が、明治19年頃より日糧パンの辺りから北野に跨がる63町歩に及ぶ土地を買受けて造ったものです。
 注:63町歩=約63ha
 現在の国道36号線以北・光円寺以東・豊平体育館・吉田川公園の一部を含む北野地域に広がる牧場でした。

 左記の地図には、ラウネナイ川と吉田川の中間に「競馬場」らしき点線で囲まれた箇所が記されてあります。
 縮尺から推定して、外周は、横約100m・縦約350mで、コース幅が25m程あります。1周が、半哩(マイル)804.5mの競馬場となります。
 半蔵は、馬産ばかりでなく、乳牛生産にも力を注ぎ、一大牧場経営を目指していました。

 競馬場の所在した場所は、現在の地図では、月寒東1条19丁目と月寒東2条19丁目にまたがって造られていたようです。
 日糧製パン工場の東側に位置し、北は若葉公園の辺りから、南は月寒東みどり公園の辺りまでを含むかなり大きな敷地の競馬場であった事が窺えます。
 当時として、本格的な競馬場を設置したと言えるのではないかと思います。

「嵯峨牧場」のサイロ・「二里塚の百年」より

 サイロは、直径18尺・高さ23尺の軟石造りで、当時全道で二番目の大きさで有名でした。
 その後、このサイロは、大谷地・北野に広がる「高倉牧場」の高倉左輔に、昭和6年買取られ翌年に復元され、使用されていました。
 現在、高倉牧場の一部が「たかくら緑地」として、清田区の住民等に親しまれています。

 「御駐輦之所(ごちゅうれんのところ)」の碑  「豊平町写真帖」より

 碑は、明治14年に明治天皇が北海道をご巡幸された際、二里塚にて御小休をされた事を記念して、明治44年5月7日、嵯峨半蔵によって建立されました。
 尚、ご巡幸の当時、嵯峨半蔵は、貸座敷や料亭をしていて、二里塚には居住していませんでした。
<表面>には、「駐輦之所 札幌支廳(しちょう:支庁)長 山下三次謹書」
<裏面>には、次のように記されてあります。

此地は明治十四年聖上陛下(せいじょうへいか:明治天皇)本道に御巡幸あらせられ九月二日を以て札幌御発輦(ごはつれん:出発され)室蘭に向はせられるに際し御野立場(おのたちば:お休みの場)となりたるところなり 今嵯峨半蔵氏の所有に属す氏深く之を栄とし茲(ここ)に記念碑を建立して永く後世に伝へんとすとしか言ふ
         明治四十四年五月八日  山 下 三 次


左図 (現存している碑)

 札幌ドームの交差点から国道36号線を南東へ1km少し歩くと国道沿いの左側に碑が建っています。


 嵯峨家については、京都から落ち延びて岩手県久慈に270年間住み続けたようです。その末裔である嵯峨半蔵は、明治2年3月北海道に渡り、明治4年に札幌に移住しました。開拓使の奨めで官営の遊女屋(貸座敷・右上の絵図)を開業しました。しかし、遊女屋が嫌になり、料理屋を南5条西2丁目に開業し、「春駒屋」と称して繁盛しました。明治19年頃より二里塚や北野地域の土地を買受け、牧場を設けました。
 ※北大北方資料室の資料には、嵯峨半蔵氏について「牧畜業 札幌(く) 嵯峨半蔵君 明治二年三月渡道 岩手縣(けん)」と記してあります。明治2年には、渡道していたことが分ります。

2.嵯峨牧場からゴルフ場へ

<広いゴルフ場の中のポプラ並木>

<月寒ゴルフ場> 「札幌市寫眞帖(しゃしんちょう)」より
(北海道大学北方資料室 所蔵)
 嵯峨牧場は、その後昭和5年頃、事情により土地を北海道拓殖銀行に売渡す事となります。
 そして、昭和6年にゴルフ場とするための造成が行われ、昭和7年に9ホールで開設され、昭和8年には18ホールの全道一のゴルフ場が誕生しました。

左図は、「札幌ゴルフ場地形圖(づ)
筆者の加筆及び彩色があります。
住所:札幌郡豊平町大字月寒村字二里塚

 設計当初、クラブハウスの位置は、室蘭街道沿いのゴルフ場中央付近に計画されていました。

 建設に関わった予算費用を記すと次のような内容でした。

3.月寒ゴルフ場の開設と閉鎖
 「月寒(つきさっぷ)ゴルフ場」の概略図
 昭和7年「札幌ゴルフ俱楽部 月寒(つきさっぷ)ゴルフ場」が完成しました。その芝生を踏みしめ、ラウンドを楽しむ札幌の人々がいました。

 面積は、約17万坪、18ホ-ルス全長6200ヤード、ゴルフ場の設計は、世界の権威者である大谷光明氏によるものでした。昭和7年にアウト、昭和8年にイン18ホ-ルスのゴルフ場が開設し、その後間もなく日本ゴルフ協会に加盟しました。

 「札幌ゴルフ倶楽部」は、戦後の昭和33年8月10日に、北広島市輪厚に造られた道内屈指のゴルフ場、「札幌ゴルフ倶楽部」の前身に当たります。

 当初のゴルフ場設計図では、上図の点線右側の構想で、「クラブハウス」は、現在の緑愛病院の辺りに建てられるようになっていました。その後、点線左側の土地を買取したと思われます。
 「クラブハウス」を札幌市街に近い場所に建てるよう、設計変更が行われたようです。

 「札幌ゴルフ俱楽部 クラブハウス」   「札幌写真ライブラリー」より

「クラブハウス」の大きさは、35坪程でした。
住所:札幌市豊平区月寒
撮影:(昭和8年)モダンな建物に、外車が乗り付けた写真です。

 設置場所は、現在の「月寒温泉」の西側駐車場(元松村組工作所の土地)で、上記地図の点線の左側、国道に近い辺りで、札幌からの来客がすぐに目にとまる位置に設置されました。

 「札幌ゴルフ俱楽部」が出来て間もなく、戦時下に入り悠長なゴルフを楽しむ雰囲気ではなくなり、昭和15年頃から次第に肩身の狭いものとなり、昭和18年11月に止む無くゴルフ場は閉鎖されてしまいました。
 「クラブハウス」は、戦争中は、軍隊の通信施設となり、戦後は、月寒の地に移築されて公民館として使用され、その後、警察の派出所となる等、数奇な経過をたどっています。

 ゴルフ場は、食糧の生産のための畑と化し、戦後は農地解放によって自作農家の各戸の土地となり、再び「ゴルフ場」としての隆盛をみる事はありませんでした。
 しかし、昭和30年~40年代になると、ゴルフ場であった土地は、宅地開発が進み、急速な変化をし、住宅地へと変貌を遂げていきました。

まとめとして ~再出発した「札幌ゴルフ俱楽部」~
 再び日の目を見たのは、昭和33年8月10日、北広島市に現在の「輪厚ゴルフ場」が開場し、二里塚・北野の「札幌ゴルフ俱楽部」を引き継いだ形となりました。

 ★ 1968年(昭和43年) S・G・C「十周年記念 輪厚十年」より
 発行 社団法人 札幌ゴルフ俱楽部

  昭和43年(1968年)当時のゴルフハウスとゴルフ場の様子です。

記:きよた あゆみ

 

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