明治19年「月寒小学校厚別分教場」創立までの経緯
はじめに 空白の「月寒尋常小学校厚別分校」開設以前のこと
「郷土誌 あしりべつ」には、草創期の厚別小学校について、『学校の沿革誌によりますと「本校は明治19年厚別本通り田中松三郎の土地に(教育所が)置かれたのを前身とし、(中略)厚別坂の上学田地に改築、島松以南厚別に至る児童を収容したが・・・とあるところから教育所らしきものがあったということだけで、詳細な資料も見当たらず、残念ながら当時の様子を知ることができませんでした。』とあります。そこで、資料が探し出し空白の部分を埋めたいと考えました。
1. 田中松三郎さんの土地にあった「教育所」
○月寒村に、明治15年5月に月寒小学校(現、月寒中央通7丁目)が開設されました。
○明治16年12月に、当時、厚別(あしりべつ)地域には小学校へ通う子どもたち(学齢児童)が10名余りおりました。しかし、月寒学校へはとても遠かったので、学務委員の人たちが、子どもたちの事を考えて、厚別地域に「巡廻授業所」(週に何回か厚別地域に先生が来て、勉強を教える場所・教育の場)を設けて授業を行おうという計画が立てられました。巡回授業が実施されたのかどうかは分かりません。
<「明治十七年一月 札幌縣師範学校一等助教諭 庵﨑 亮慶の復命書」 より>
○明治19年に、厚別本通り(旧国道36号線)の田中松三郎さんの土地に「教育所」が設置されて、寺子屋式の学習が行われました。 <「清田小学校 学校沿革誌」 より>
○(明治21年頃,「月寒小学校厚別分校」設立の動きがあったようです。)
○明治22年8月、建築中の「月寒小學校厚別分校」が火災のため焼失してしまいました。 <「北海道毎日新聞(明治23年1月10日発行)」 より>
2.学田地に隣接して設けられた「月寒小学校厚別分校」
○明治22年10月8日、地域住民の協力により130余円の寄附金が集まり、道庁より50円の補助金が下付され、「月寒小学校厚別分校」を建築する事になりました。 <「北海道毎日新聞(明治22年10月11日発行) より>
学田地(平岡)に隣接して設置された「月寒小学校厚別分校」予想図
(左図は筆者の作成)
「月寒小学校厚別分校」の大きさは、教場の広さ18坪(3間×6間)・昇降口1坪 合わせて、19坪ほどの分校であったと推測します。
(詳細は、後述します。)
○明治23年1月5日、「月寒小学校厚別分校」の落成式が盛大に行われました。
「月寒小学校厚別分校」は、修業年限が3年間であったため「月寒簡易教育所厚別分校」とも呼ばれていたようです。 <「札幌教育史」 より>
<「北海道毎日新聞(明治23年1月10日発行)他の新聞 より>
明治29年(1886年頃)
国土地理院製版よる
厚別分校の場所は、平岡の「学田地」に隣接した元桜井鉄工所、現在のパチンコ・ライジングの西側の箇所です。
※「学田地」は、教育補助を行うための土地のことです。
○明治25年5月14日、厚別(あしりべつ)地域の生徒数が20名弱に対して、大曲地域の児童数が46名にもなり、「月寒小学校厚別分校」が大曲へ移転することが決められました。
厚別(あしりべつ)の子どもたちは、学校へ通うには遠くまで行かなければならなくなりました。 <「豊平町史資料・教育」(豊平町の「村治類典」)札幌市公文書館 所蔵 より>
3.「月寒小学校厚別分校」の大曲への移転
左図は、大曲川の傍に設置された「月寒小学校 厚別分校」 学校敷地は、600坪でした。
※学校敷地は、中山久蔵の所有地2反歩(600坪)<1反=300坪>の寄附によって確保されました。
<左図は、「明治三十六年五月 大曲尋常小学校斈校沿革誌」より>(左図は筆者の模写図)
○明治25年6月28日、「月寒小学校大曲分校」が移転し、増築して開校しました。
(学校は、現在の大曲川の傍、国道36号線と広島道路との間に在りました。)
「月寒小学校大曲分校」は、修業年限が厚別分校と同じく3年間であったため「簡易教育所」としての分校でした。 <「廣島町の歩み」 より>
厚別分校(教育所)移転に際しては、当時厚別地域と大曲地区の間で大紛争があった事を付記して置きます。 <「郷土研究 北ひろしま 13号」 より>
○ところが、明治26年12月16日、広島村が置かれ、大曲・島松等が月寒村から分離する事となりました。~ 明治27年2月10日には、広島村戸長役場(こちょうやくば・明治初期に戸籍事務などを行った役所)が置かれ開庁しています。 <「北海道廰(ちょう・庁)令 第四十五號(ごう・号)」 より>
「月寒小学校大曲分校」は、広島村(現在の北広島市)の管轄となり、校区は布令により「シママップ(島松)川」から「ノッポロ(大曲)川」までと決められました。
校区が決められたことにより、厚別地域の子どもたちの何人かは大曲分校に通っていましたが、肩身の狭い思いをしての登校となりました。
○明治28年4月1日より、修業年限が4か年となり、明治28年7月9日「月寒小学校大曲分校」から「広島小学校大曲分校」と改称しました。 <「豊平町史資料・教育」(豊平町の「村治類典」)札幌市公文書館 所蔵 より>
(左図は、筆者の模写図)
<明治29年7月12日 一色潔廣島村戸長のメモ書きの「大曲分校」の略図 より>
教場の広さは18坪・昇降口1坪・教員住宅5坪でした。
※先の平岡の「月寒小学校厚別分校」を解体移築し、教員住宅5坪を増築したとしていますから、平岡に所在した「厚別分校」の大きさが分かる事となりました。
4.「厚別分校」が即、出来なかった理由
教育の場が広島村(現在の北広島市)の学校となった事で、当時の月寒村の厚別(あしりべつ)地域の子どもたちは、教育を受ける学校がなくなり、とても困りました。
月寒村に厚別分校を造ると解決するのですが、そうは行かない理由があったのです。
○明治26年8月、「大谷地簡易教育所」が、札幌郡月寒村北通字大谷地、吉田善太郎さんの所有地(現在のしらかば郵便局の辺り)に設置されました。(月寒村に教育所・学校がもう1つ出来ていた事によります。)
「吉田用水」が明治24、25年頃に完成したため、水田に関わる入地者の子どもたちの教育が必要となったからです。
吉田善太郎さんが建設委員長となり、太田丹兵衛さん(月寒総代人をされた)や岡田駒吉さん(開拓当時、月寒東11番に移住した吉田善太郎さんとは隣同士)等が建設委員として尽力しました。月寒村の協力があって設立されました。 <「学校沿革誌 大谷地小学校」 より>
○明治28年8月17日「白石村・月寒村聯(れん・連)合大谷地尋常小学校」として認可されました。
白石村と月寒村の聯合(れんごう・2つの村が協力してお金を出して、子どもたちの教育をする事が決まったのです。) <「豊平町史資料・教育」(「村治類典」)札幌市公文書館 所蔵 より>
ですから、厚別(あしりべつ)地域に分校を設置する余裕がなかったと言えます。
但し、厚別地域の(水田・畑が北野付近に在り、住まいしていた)子どもたちは、この学校に何人かは通っていたと思われます。
☆「白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校」については、「HPきよたのあゆみ」を参照ください。
○明治28年、地域住民の協力と村費80円の補助によって、厚別の長岡さんの納屋を改築して、「寺子屋式の教育所」が造られました。現在の学校の旧校門向「宮田屋珈琲店」の辺りです。 <「北海道毎日新聞(明治29年11月1日発行) より>
○明治32年2月21日、「白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校」の聯合が解かれる事が決まりました(「大谷地尋常小学校」が月寒村から白石村に移転する事。月寒村に学校を設置する事。月寒村・白石村の学校は、それぞれの村費によって学校運営をする事となりました。)
〇明治32年3月19日、「月寒尋常小學学校厚別分校」設立の件が議決されました。 <「豊平町史資料・教育」(「村治類典」)札幌市公文書館 所蔵 より>
5.明治32年11月5日に開校した「月寒尋常小学校厚別(あしりべつ)分校」
○明治32年5月1日、「月寒尋常小學学校厚別分校」設置の認可がされました。
長岡徳太郎さんの旧駅逓(通行屋・休泊所)の建物を改築して校舎とするようにしました。
〇明治32年6月8日、長岡徳太郎さんと天下藤右衛門さんの2名が、学務委員に任命されました。
(左図は、筆者の模写図)
<「学校沿革誌 厚別尋常小学校」より>
○明治32年11月5日に「月寒尋常小学校厚別(あしりべつ)分校」の開校式が行われました。
○校舎の坪数は、32.5坪(明治33年には、36坪となっています。)
○校地の坪数は、600坪でした。
地域住民の喜び様が目に見えるようです。
○修業年限は、尋常科4年間です。(明治40年に補習科1年間ができ、明治41年には尋常科が5年間となり、補習科が廃止されました。明治42年に尋常科が6年間となりました。)
○通学区域は、厚別本通・厚別北通・厚別南通(字 二里塚以東・字 大曲以西)です。
○明治34年5月24日に独立して「札幌郡厚別尋常小学校」と改称しています。
「月寒尋常小学校厚別(あしりべつ)分校」(現在の「札幌市立清田小学校」)の始まりは、様々な紆余曲折があってようやく創立する事が出来ました。
尚、詳細につきましては、「あしりべつ郷土館」にあります冊子、『明治十九年頃から始まる「厚別分校」設立の経緯』を参照ください。
記:きよた あゆみ