明治26年 「大谷地簡易教育所」の創立
1.明治26年「大谷地簡易教育所」の設立
明治25年頃に「吉田用水」が開削されると、北野・大谷地地域が広い水田地帯となりました。多くの小作人が移住し土地を借りて稲作づくりに励みました。
ところが、小作人の増加によって、その子弟の教育が課題となってきました。
そこで、明治26年に、吉田用水を開削した一人である吉田善太郎は、教育所の建設に関わる事となりました。
「札幌市立大谷地小学校・学校沿革誌」には、次のように記されてあります。
明治二十六年八月 札幌郡月寒村北通字大谷地 吉田善太郎氏所有地内ニ設立ス創設ノ際 吉田善太郎氏建設委員長トナリ非常ニ盡力ス 又太田丹兵衛氏岡田駒吉氏等ハ建設委員トシテ功勞アリ
校舎ノ移轉
明治三十二年九月十九日 大谷地尋常小學校現在ノ位置ニ移轉 白石尋常小學校ノ分教場トナル
明治26年の8月に月寒村の人々の尽力で「簡易教育所」が創立しました。
<国土地理院 昭和25年頃 地図>
吉田善太郎の小作人のお話から「簡易教育所」の位置が特定されています。現在の「白樺郵便局」赤矢印⇒の辺りです。(現在の東月寒公園の南側に所在)
「白樺郵便局」の土地の登記簿を札幌法務局南出張所で調べてみると「元吉田善太郎所有地」であった事が分かりました。
この「白樺郵便局」の土地は、基盤となる土地(約75反=約7.5ha)で、そこから多くの土地が分筆されていました。
緑矢印⇒は、移転の大谷地小学校の位置です。(現在地でもあります。)
注1:学校沿革誌に記載の「月寒北通」は、大正5年(1916)の地図では「二里塚北通」となり、平成8年の地図では、「東月寒通」となっています。
土地登記簿では、教育所の所在した地番「北通字大谷地」は、「八紘 三三八番」から「東月寒 七百拾四番」に変わっています。
注2:太田丹兵衛は、月寒総代人をされた方で、岡田駒吉は、明治4年に月寒村に移住した際、月寒東11番に移住した方で、吉田善太郎(東10番)とは隣同士でした。
月寒村に「簡易教育所」を設立するため、月寒村の人々が協力したのでした。
注3:地図には、「吉田山」と記されてありますが、吉田善太郎の功績により銘々されました。(「吉田山」は、元「柏山」で、現在の道営住宅白樺団地周辺です。)
「吉田川」「吉田山公園」「吉田川公園」など、多くの箇所に名が記されています。
2.「白石村・月寒村聯合大谷地尋常小学校」の設立
「学校沿革誌」には、明治26年から明治32年の移転までの経過が記されていません。記録が無く、不明のままでしたが、札幌市公文書館に「豊平町史 資料11教育」に学校の経緯が記された記録文書があり、その経過を知ることが出来ます。
<大谷地教育所の年譜>
〇明治26年~明治28年迄 「大谷地簡易教育所」が創立し教育を行いました。
※費用は、有志の寄附金を以て児童の教育(修行年限3年間)を支えました。
※「学校教則」が定められ、公立の小学校を計画する事となりました。
〇明治28年3月28日 白石村総代人と月寒村総代人の議決書では、「簡易教育所」を「名称 白石小学校・月寒小学校聯合大谷地分校トス」としています。
〇明治28年7月 学校維持のため、白石村より1か年に金30円、月寒村より金50円を負担し、不足額は授業料の納入や地方有志者の寄付としました。
〇明治28年8月17日 最終的に「白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校」と名称を変更し設立しました。(両村の出資による学校としたのです。)
※白石村(戸数 60戸186人)・月寒村(78戸237人)の子弟が通える尋常小学校(修行年限3年)として出発しました。
※学校敷地 600坪・校舎 20坪 その他9坪・教員 1名・生徒数 40余名でした。
※吉田善太郎の学校用地は、敷地として寄付と決めています。
※白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校の「学務委員」には、(無報酬で)吉田善太郎と木村竹松が任命されました。
3.移転する事になった「白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校」
ようやく地に着いた教育が出来るようになったかに見えた白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校ですが、早くも明治31年4月20日に、「聯合解除ニ付議決スル」事となります。
白石村総代人・月寒村総代人・豊平村戸長等6名によって決定しています。
理由は、端的に「両村共ニ通学上困難不尠ニ付」と記してありますが、二村による学校運営の諸管理を、村単位として明確にして置きたい等の考えがあったと思われます。
<「大谷地小学校・学校沿革誌」より>
それでは、どの様な動きがあったかというと、明治32年2月25日付で、白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校の「聯合解除」が認可されました。
両村は。学校設置に向けて学校用地・学校建設など、一村による運営に奔走しました。
そして、明治32年9月19日「白石尋常小学校大谷地分校」は、移転し開校しました。
左図は、移転した学校の見取り図です。
玄関・教室・運動場・便所・教員住宅・屋外体操場の他に学校園が設けられていました。
移転先は、白石村に移り、下記の地図のように、現在の学校位置となりました。
<白石尋常小学校大谷地分校の概要>
〇住所 札幌郡白石村字大谷地781番地の2
〇修業年限 尋常科 4年間
〇校地 663坪
・吉田善太郎より土地寄付
・小林新左衛門より土地寄付
〇校舎 平屋造り36坪(4間×9間)玄関1坪 他
〇児童数 60余名
〇教員 1名 高橋勘三郎(准訓導)
以上の様な内容です
「大谷地簡易教育所」が創立してから、わずか6年後の事となります。
移転については、住民の多くの反対があった事を記して置きます。
ところで、月寒村にあった「大谷地簡易教育所(白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校)」は、どうなったのでしょうか。最早そこには学校の存続はありませんでした。
月寒村の学校は、明治32年5月1日認可され、「月寒尋常小学校厚別(あしりべつ)分校」が、明治32年11月5日に開校しました。
現在の清田小学校の敷地内に元「休泊所」であった建物を改築して設立しました。
※「月寒尋常小学校厚別分校」は、設立まで様々な紆余曲折があった学校でした。
<月寒尋常小学校厚別分校の概要>
・修業年限 尋常科4年間 ・校 地 600坪
・校 舎 32.5坪 ・教室坪数 18坪 ・教室数 1教室
・児童数 40余名
・学務委員 長岡 徳太郎 ・ 天下 藤右衛門
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「大谷地簡易教育所」から「分校」への経緯は以下の通りです。
〇 大谷地簡易教育所・・・・・・・・・・ 明治26年の8月、月寒村に創立
・白石村総代人と月寒村総代人の議決・・ 明治28年3月28日
「簡易教育所」の仮の名称「白石小学校月寒小学校聯合大谷地分校」
〇 白石村月寒村聯合大谷地尋常小学校 ・・ 明治28年8月17日、名称を変更
・聯合解除を議決する ・・・・・・ 明治31年4月20日
・聯合解除が認可される ・・・・ 明治32年2月25日付
・聯合を解除する月日 ・・・・・・ 明治32年3月31日
〇 白石尋常小学校大谷地分校・・・・ 明治32年9月19日、白石村に移転し開校
(現在の大谷地小学校)
〇 月寒尋常小学校厚別分校・・・・・ 明治32年11月5日、月寒村の厚別(清田地域)に移転し開校
(現在の清田小学校)
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厚別(あしりべつ)地域の子どもたちは、納屋を改造した寺子屋式の教育から解放されました。大谷地地域の子どもたちにとっても、白石村に出来た学校に勇んで通った事でしょう。
新設された「大谷地分校」と「厚別分校」は、同胞のような関係の学校なのです。
このような様々な経過をたどりながら、両村の学校が創設され子弟の教育が行われる事となりました。
記:きよた あゆみ