明治3年 アシシヘツ「小休所」の「木村某」について
はじめに
明治3年12月、厚別(あしりべつ)の「札幌越新道」(安政4年に開削された道路)に15坪程の「小休所」が設置されました。現在の真栄中学校の辺りと思われる箇所です。
その「小休所」は、翌年の12月に増築されて29.75坪の大きさとなって完成をみます。
その管理者(小休所守)について、「豊平町史」では、「木村某」としています。
その記載が基となって、「木村某」が初代の管理者のごとく取り扱われる結果となっています。
また、いくつかの著作やHPでは、更に年代を違えて記載があったりしている状況です。
この項では、小休所の設置の年代と「木村某」について、誤りではないかという事を記して置きたいと思い筆をとりました。
尚、「小休所」については、名称が、「駅逓」「アシヽへツ通行家」「通行小家」「アシヽベツ小屋」「アシヽヘツ小屋」「アシヽヘツ休泊所」「厚別休泊所」「小休所」「休泊所」等と史料により様々な呼び名で記載されていますから、ここでは「開拓使事業報告」に準拠して、真栄の箇所を「小休所」、清田小学校の箇所を「休泊所」としましたことをご承知おきください。
1.「小休所」の「木村某」の記載について
(イ) 「豊平町史」(昭和34年3月31日発行)には (P254より)
おくれて明治二四年に定山渓に駅逓がおかれ、安藤三男が取扱人に任命された文書が残っている。 <以下省略>
「通行屋(小休所)」について、厚別(あしりべつ)の通行屋の初代管理者を、「木村某」であるとしています。年代は「明治の初め」として、明確に記していません。
(※最初の小休所は、小学校敷地内ではなく、札幌越新道筋、現在の真栄に在りました。)
また、「豊平町史」の巻末の「豊平町史年表」には、「厚別の通行屋」の記載は見えません。
※「木村某」と記した事により、その記載が波及し、引き継がれる事となります。
(ロ) 「郷土誌あしりべつ」(昭和46年5月24日発行)には (P29より)
そして、この新しい通路のそばに駅逓ができました(現在の小学校校門あたり)ここの番人が中西安蔵という人でしたが間もなく四国へ引き上げたので、この後をゆずりうけたのが長岡徳太郎でした。
真栄の辺りの道ばたに「木村という人が駅逓をしていました。」と記しています。
「豊平町史」の初代管理者「木村某」を引用して書かれたものと思われます。
この道路は、安政4年に函館奉行の依頼によって開削された「札幌越新道」で、明治3年に「真栄」の箇所に「小休所(通行屋)」が出来たことは確かです。
その駅逓は、「この新しい通路のそばに駅逓ができました(現在の小学校校門あたり)ここの番人が中西安蔵という人でした」とありますが、「この新しい通路」というのは、明治6年に開拓使によって開削された(函館から札幌までの道)「札幌本道」のことです。
休泊所の番人(守)を中西安蔵としています。番人のことは、移住者が地域に住まいし、記憶として、また記録として記したもので、事実の通りだと思われます。
と言いますのは、月寒村に移住者が開墾を始めたのは明治4年のことです。その当時この周辺は鬱蒼とした森林におおわれた地域で、千歳を過ぎると、札幌までほとんど人が住まいしていない地域でしたから、明治3年に小休所が設置された当時の事を把握出来なかったと言えます。
「木村某」は、後に聞き書きしたものであったと考えられます。
(ハ) 「郷土誌あしりべつ」巻末 「九 あしりべつのあゆみ」には (年表P138より)
(中略)
明治五年 室蘭街道が開通した。休泊所を中西安蔵がはじめた。(中略)
明治十一年 中西安蔵四国にかえる。長岡徳太郎が厚別本通(今の清田)にあった中西安蔵の通行屋を引きつぐ。
「郷土誌あしりべつ」の年表では、年代を明治2年として、「厚別の駅逓が今の小学校敷地にあって、木村某(ぼう)が最初という。」 「という」は、伝聞の記載になります。
真栄(旧同筋)の小休所の設置は明治3年で、小学校敷地(札幌本道)の休泊所の移設は明治6年11月となりますから、表記そのものの間違いは歴然としています。
駅逓(小休所)のことは、「豊平町史」をそのまま引き継ぎ、記載したと思われます。
明治5年(5年は誤りで、正確には明治6年です)以降は、住民の記録を基にした記載となっています。
(ニ) 「清田地区百年史」(昭和51年9月30日発行)には (年表P392より)
(中略)
明治五年 休泊所を中西安蔵が始めた。 (中略)
明治十一年 中西安蔵四国に帰る。長岡徳太郎が厚別本通(今の清田)にあった中西安蔵の通行屋を引き継ぐ。
その後、「清田地区百年史」も「豊平町史」をそのまま引き継ぎ記載しています。
最初に「小休所」が設置されたのは、明治3年で「札幌越新道」(真栄の箇所)です。
「明治2年 駅逓が小学校敷地内にあり」は、前述したように誤りで、明治6年です。
また、「木村某が最初という。」の記載も伝聞となります。
「豊平町史」を信頼して記したのでしょう。(後述しますが)「木村某」の記載には他意がなかったと思います。
(ホ) ネット時代 現在、種々のHPで記載されている内容
〇 1969年(明治2年) 木村某、今の真栄通辺りで通行屋(駅逓)を営む。
〇 明治2年(1869年)頃 木村某が通行屋を営みました。 等々です。
現在は、ネット社会ですから、1か所の誤りが拡散していきます。
多くのHPは、「豊平町史」を参照されたのか分かりませんが、他のHPの記載を信頼して、疑問に思うことなくコピーして誤記が生じたと思われます。(歴史の検証が必要と思います)
2.「小休所」「休泊所」の設置された年代
「開拓使事業報告」(土木) に記されている厚別の「小休所」「休泊所」
イ.「札幌越新道」(旧道・真栄地域)の「小休所」について
〇上記の表の上段の記載を参照ください。
明治3年12月に15坪で仮に造った「小休所」でしたが、翌年の明治4年12月には、建て直し増築されて29坪7合5勺(約30坪)が完成しました。
この「小休所」の守りは、当初「大隅安蔵・5人家族」と記録にありますが、明治6年の「検地野帳」では「中西安蔵」と姓を変えています。(変えた理由は分かりません。)
ロ.「札幌本道」(室蘭街道・清田小学校敷地内)の「休泊所」について
〇上記の表の下段の記載を参照ください。
明治6年6月に、開拓使が「札幌本道(旧国道36号線)」を開削しました。そこで、真栄の「小休所」を「札幌本道」筋に移すこととなりました。明治6年9月に引き直し(元の小休所を移す)をして11月に、「休泊所」として、31坪2合5勺の建物が増築され完成しています。
この「厚別休泊所」の守りは、「中西安蔵」が引き継いでいます。
<「小休所」「休泊所」の年代と「管理人(守り)」を調査する史料として>
・「開拓使事業報告」 ・「開拓使事業報告 原稿」 ・「北海道志」 ・「十文字日記」 ・「御金遣払帖 札幌分 控」 ・「明治六年札幌村外十一ヶ村検地野帳」 ・「従明治三年 至同四年 農夫扶助米並び塩噌料 仕上ヶ御勘定帳 開墾掛」 等です。
3.「小泊所」「休泊所」の設置された場所
「明治七年十一月編製 札幌郡各村地圖」部分 船越長善画 (上が南側です)
図には、「アシヽヘツ・シツキサフ・月寒村」と記してあります。「アシヽヘツ」は、「アシリベツ(厚別)」の地域を指しています。
中央の川が厚別川で、上の赤線が、安政4年開削の「札幌越新道(旧道)」、下の赤線が、明治6年開削の「札幌本道(室蘭街道)」です。
<留意点>
この図には、厚別川と「札幌越新道」との交点の辺りに、明治3年に設置された「小休所」の開墾地が示されてあります。中西安蔵が守りをした「小休所」の跡地と思われます。
通常は開墾地には朱の点がありますが、この開墾地には朱の点がありません。「小休所」が明治6年に札幌本道筋に移り、人が住んでいない状態となったと考えられます。
「アシヽヘツ」と記された下の辺りに「休泊所」が移され事で赤い点が見られます。
4.初代の「小休所」守りの「木村某」について
明治3年に「札幌越新道」(旧道筋の真栄)に「小休所(駅逓・通行屋)」が出来たことを、ご理解いただけたでしょうか。
さて、その通行屋の初代管理者について「木村某」と「豊平町史」に記してありますが、なぜ「木村某」と記したのでしょうか。そのことを確かめたいと思います。
明治3,4年頃の札幌市の人名を探ってみましたら、その「木村」姓の名が、「開拓使事業報告」「札幌」駅逓の項に探し出すことが出来ました。
「木村某」ですから、下の名前が不明です。木村姓だけでは不確定ですが、「木村某」はそれほど多くはありません。その人の本名である「木村万平」について記してみます。
「木村某」の名が、「開拓使事業報告」「運輸」(P22)駅逓の項に見えます。
注: 貸與は、貸与。 驛遞は、駅逓。 「逆旅ノ事ヲ取扱」とは、「旅館」業のこと。
「爾来屡移轉シ」は、爾来(じらい・それから)屡(しばしば)移轉シ(移転し)です。
上記のように、同姓の「木村某」が、明治4年3月に札幌の駅逓を取り扱っていました。開拓使が設けられて間もない時期であり、札幌の人数もそれほど多くはありません。限られた中で、「木村某」が厳然と存在していたのです。札幌の駅逓を取り扱っていたので、厚別の通行屋を取り扱っていたのも「木村某」であると思われても不思議はありません。
(注 : 「小休所」の大隅安蔵・5人家族は、既に1月に任命されたのか、記録では、2月には住まいして管理を行っています。「札幌駅逓」の設置よりも早い時期なのです。)
木村某の本名(姓名)は、「木村万平」で、明治14年までの記録が「札幌駅逓」にあります。このような状況から、アシリベツの「小休所」の初代管理人が「木村某」であると誤解されたのであろうと思われます。
5.初代「小休所」守りの「木村某」について
それでは、「木村某」(木村万平)と記された人物について簡単に記して置きます。
「さっぽろ文庫66 札幌人名事典」 (平成5年1993年刊行 北海道新聞社編)
開拓使御用達の海運業者。京都で宮中の御用達をしていたといわれるが定かではない。明治のはじめ遷都が行われたときに、東京茅場町に落ち着き宮内省に商品を納めたころから履歴がはっきりする。3年、開拓使の札幌本府建設にあたり、雑貨の運輸および売り捌きを命じられた。このとき我が国では最初の汽船会社を組織している。札幌では、開拓使から六〇石のハシケ二〇隻の造船を請け負い、石狩から札幌までの水路を利用して物資を運んだ。また現在は三越のある場所にあった脇本陣を借りて官吏専用の旅館を営業。開拓者が現物税として納めた産物の払い下げを受けて清国に輸出したり、雑貨店を開業するなど、役所にうまく取り入って商売を続けた。しかし運送の抜け荷や、関連会社への資金流用などが発覚して、8年には御用達の役目を解かれている。もちろん仕事は激減し倒産の憂き目にあったが、事業は部下が引き継いで継続し、表面には名を出さなかった。
かなり行動的な人物であった事がうかがわれます。開拓使に取り入り、運輸・造船・旅館業・会社の立ち上げなど、幅広く起業した人であったらしいことが判明しました。
まとめとして
ここまでは、様々な資料、人物伝から書き進めましたが、肝心の「大隅(中西)安蔵」の人物像については不詳のままです。四国より渡道した人とだけ記して、推測は避けます。
「小休所」の建設や経営(扶助)、指示はすべて開拓使が行っていた時代です。大隅(中西)安蔵を「小休所守」として選任したのも、開拓使によるものであったと思います。
<結論として>
木村某(木村万平)は、駅逓・貿易・造船等を運営していましたから、札幌から離れた「小休所」の経営に関わっていたとは考えられません。大隅(中西)安蔵が札幌の駅逓の管理者「木村万平」と関わっていたような形跡は、古文書から見出せないでおります。
「豊平町史」の「木村某」は、「札幌駅逓」の管理者名を知り得た後、厚別の「小休所」も「木村某」という事で、情報(うわさ・伝聞)として記載されたのかも知れません。
厚別の駅逓(小休所)の管理人を、「木村某」としても違和感がなかったと思われます。
現真栄地域の小休所の管理者「木村某」の詳細な古文書は、無い状態となっています。
ですから、現在、HP等に「木村某」とするのは、避けた方が良いように思うのです。
確定していることは、明治3年12月に「小休所」が「札幌越新道」筋に設置され、明治4年12月に「小休所」が完成し、翌明治4年2月から大隅安蔵(中西安蔵)が家族5人で開拓使より、月々金銭及び米等の扶助を受けながら「小休所」の経営を行っています。
(※ 明治6年7月7日の「検地野帳」では、中西安蔵の姓となっています。)
明治6年6月に「札幌本道」が完成したため、真栄に在った「小休所」の引き直しが9月に始められ、同年の11月に本道筋の清田小学校敷地内に移設され「休泊所」が竣工しました。
そして、引き続き中西安蔵が「休泊所」守りとして管理を行っていました。
「休泊所」は増築されましたから、新たな通行屋としての出発となったという事です。
そのような記録が古文書から多数見つけ出された事を記して置きます。
記:きよた あゆみ(草之)