明治30年 創成川の閘門(こうもん)の竣功
~ 創成川に敷設されたパナマ運河のような閘門 ~

1. 創成川の閘門の構想
 現在、創成川は鴨々川の川筋を引き継ぐように、南6条(すすきの)周辺から茨戸方面へと流れています。その創成川に明治30年にパナマ運河の様な閘門が設けられました。
 高低差が有り流れが急流の為、利便性を高め運送の活用を図るためです。
 その発想は、当時(明治25年・1892年)、北海道庁の任に就いた北垣国道長官で、京都での経験を活かして交通網の整備の重要性を主張し、「札幌・茨戸間運河」「花畔・銭函間運河」他を明治30年頃までに敷設するよう推進を図りました。

 この事業の設計と技術を担当したのは、治水の自然主義を唱えた岡﨑文吉でした。
 計画の内容は2つあり、閘門を設ける創成川「札幌・茨戸間」の工事と共に、新たに「花畔・銭函間」の開削を行い、銭函と札幌をむすぶ役割を担うようにしました。
 創成川については、1886年(明治19年)から1890年(明治23年)に、道庁によって、寺尾堀を延長し茨戸まで一直線に北上する下流部が開削されていました。
 そこで、市街地から茨戸まで開通していた創成川に、北6条から茨戸まで8つの閘門(こうもん)(実際は、7つの閘門が設けられた)の設計がなされ実行に移されました。

 それでは、敷設工事を行い設置された閘門は、どのような構造で創成川のどの辺りに設置設されたかを記してみます。

2.創成川閘門の設計・担当技手 岡崎文吉

左記の一葉の写真は、明治42年頃の岡崎氏の肖像写真です。
37歳頃に写されたものと思われます。
<岡崎文吉氏の略歴>
・明治5年(1872年)、旧岡山藩 士族の長男として生まれる。
・15歳で札幌農学校工学科に1期生として入学する。
・札幌農学校では、日本の土木工学者であり「港湾工学の父」と呼ばれた廣井勇(いさみ)氏のもとで学ぶ。
・21歳で札幌農学校の助教授に就任する。
・明治28年(1895年)5月、花畔・銭函運河の工事に着手する。
・明治30年10月21日、札幌・茨戸及間運河開通式を挙行する。
担当技手 岡崎文吉氏は、河川整備等について「自然主義」を提唱された方です。

  明治当初から明治30年頃までの人や物資の輸送の概略
地図の上部に石狩川が流れています。

中央の川と道路は、創成川とその川沿いを走る馬車鉄道の路線です。

石狩川遡って来た物資は、明治30年以前は、創成川の右に流れる川、伏古札幌川・大友掘を平田舟によって上り・下りしながら運ばれました。

伏古サッポロ川沿いの道も利用されました。

物資は、川沿いの札幌駅の北側に官庫があり、保管した、米・味噌などが配布されました。

その後、創成川が完成すると、伏古サッポロ川より距離的に短い創成川を利用する事になりますが、勾配が急なため川の流れがあり、苦労しながらの物資の運びとなりました。
 勾配のきつい創成川の運輸を考慮して、「創成川の閘門」の計画が持ち上がり、設計・施行されたのです。以下、「創成川閘門」竣功までの経過について、順次記述する事と致します。
 尚、「創成川の閘門」の完成後、馬車鉄道が敷設されると、「創成川」による物資の輸送は衰退して行く事となります。

3.札幌、茨戸及茨戸、錢函間運河の設計
 明治28年(1895年)5月7日発行の「北海道毎日新聞」には、運河の勾配や流量のこと、閘門の大きさ等が記されていますので掲載します。
 「北海道毎日新聞」明治二十八年五月七日(火曜日)發行

○札幌、茨戸及茨戸、錢函間運河
 札幌、茨戸及茨戸、錢函間の運河は既に線路の測量を了り近日より工事に着手する由なるか今擔任技手岡崎文吉氏に就て両運河開鑿の設計を聞くに左の如し札幌、茨戸間開設の目的は排水の用をなすの外、航路を開らき、水量の許す限りは灌漑に供し且つ水力を利用するにあり其基點は札幌區にして札幌郡字篠路村字茨戸太に於て石狩川に連絡延長二里二十五町十二間四尺七寸札幌に於ける最上段の水面との石狩平均海水面との差は四十九尺七寸七分水深四尺底幅二十四尺勾配一万分の一にして不断此の勾配を以て札幌より石狩川に向ひて流下するものとす然れとも引養水の缺乏するときは其勾配を減じ水深をして不断四尺より下らさらしむ流水の速力は一秒時間一尺五分にして毎秒時間の流量は百二十六方尺閘門を設くること、其大さ幅十八尺長七十尺とし吃水四尺以内の船は自由に通過し得へるも蒸汽船の通航は運河保存上妨害あるを以て之れを禁するものとす船入場は札幌に於ける線路の基點にこれを設け荷物の揚け卸しに便ならしむその大さ長二百五十尺幅六十尺なり  (以下略)

 以上の記載ですが、更に「小樽新聞」にも、明治28年5月7日付けで設計について言及していますので、その記事も転載します。
   「小樽新聞」明治二十八年五月七日(火曜日)發行

    札幌、茨戸間の運河設計
前項掲載の花畔・銭函間運河工事とともに、本年より着手せらるる札幌・茨戸間運河設計の大要は左のごとしと聞く。
  第一 運河の線路
該当運河は創成川下流を改修して作るものにして、石狩国札幌区に起り同国札幌郡篠路村字茨戸太において、石狩川に連絡するものなるが故に、その線路は大概創成川下流と同一なり。
  第二 運河の延長及び落差
運河の延長は三万四、九九四尺七寸(一万六〇四米)にして、札幌における最上段の水面と石狩平均海水面との差は四九尺七寸七分(一五米)とす。
  第三 運河の水深底巾及び勾配
運河の水深は四尺(一・二米)にして、底巾は二四尺(七・三米)とし勾配は一万分の一とす。
  第四 運河掘割両側の勾配
運河は不断一万分の一の勾配をもって、札幌より石狩川に向い漸次降下するものとす。
然れども引養水に欠乏を来すときはその勾配を減じ、運河の水深をして不断四尺(一・二米)より下らざらしむるの設計をなせり。
  第五 運河流水の速力及び流量
公式上の計算に基づくときは、運河流水の速力は一秒時間一尺五分(〇・五米)にして、毎秒時間の流量一二六立方尺(三・五立米)なり。
  第六 閘門
閘門の総数は八箇にしてその落差各六尺(一・八米)とし、第八閘門はその落差五尺(一・五米)とす。
閘門の大きき巾一八尺(五・五米)、長さ七〇尺(一四・八米)、巾四尺(一・二米)以内の船を通過せしめ得るものにして、各閘門はその充虚二二分〇秒を要し、第八閘門はその充虚二一分〇秒を要す。
  第七 札幌船入場
運河線の基点において長さ二五〇尺(七五・八米)、巾六〇尺(一八・二米)の船入場を設け荷物の揚げ卸しに便にす。
  第八 閘門番人及び物置小屋
閘門番人及び物置小屋は花畔・銭函間の運河と同様にす。
  第九 運河の目的
該運河は航路を開くの外、排水の用をなし水量の許す限りは灌漑に供し、かつ水力を利用し得るものなり。

 「小樽新聞」には、「第一運河の線路」から始まり、「第九 運河の目的」を記してあり、簡略に箇条書きで概要をまとめています。「北海道毎日新聞」明治28年5月7日及び明治28年5月9日の記事からその概要をまとめると次のような内容となります。
  札幌茨戸間運河の概略(設計計画)

・運河連絡延長  二里二十五町十二間四尺七寸=三万四、九九四尺七寸
  (一万六〇四米)誤記?  訂正(約10,498メートル)
・札幌と石狩海水面との差 四十九尺七寸七分(約15メートル)
・運河の水深   四尺(約1.2メートル)
・運河の底幅   二十四尺(約7.3メートル)
・運河の勾配   一万分の一の勾配
・運河流水の速力 一秒時間 一尺五分(1秒間/約0.5メートル)
・毎秒時間の流量 一二六立方尺(1秒間/3.5立方メートル)
・閘門の数     八門
・閘門の大きさ  幅十八尺(約5.5メートル) 長さ 七十尺(約14.8メートル)
・通過の船の大きさ 幅四尺(約1.2メートル)以内の船を通過させる
・閘門を8つ設置することにより、創成川の落差を解消する
 落差各六勺(約1.8メートル)  第八閘門の落差 五尺(約1.5メートル)
・各閘門の充虚 22分0秒を要す  第八閘門は、21分0秒を要す
・運河の基点に船入場を設ける その大きさ
 長さ 二五〇尺(約75.8メートル) 幅六十尺(約18.2メートル)

 「運河線の基点(札幌駅の側)において長さ250尺(75・8m)、巾60尺(18.2m)の船入場を設け荷物の揚げ卸しに便にす」として、船の利便に配慮しています。
 「各閘門はその充虚22分0秒を要し、第八閘門はその充虚21分0秒を要す。」は、運河の落差を解消するため、閘室内に給水・排水をして舟を穏やかな運河の流れに乗せるための給水・排水の時間であると思われます。
 第1閘門~第7閘門の各充虚(給水・排水)時間は、1回に付き、22分を要するとしています。  注:充虚(じゅうきょ)は、(水を)みたす・(水を)ぬくの意です。
 第8閘門については、その充虚(給水・排水)時間は、21分であるとしていますが、この閘門は、計画だけで完成しなかったと思われます。

 完成した時点で、第7閘門を通過したとの記録(後述)はありますが、第8閘門を通過したとの記載の文書はありません。

 下図は、上部からの「閘門」の基本的な構造の概略図です。
  (「大津閘門」を参照) <閘門・閘室・給水及び排水溝>よりなる構造です。
                       (筆者の作図)
 上図の給排水溝や潜水溝・堰門の位置や大きさは、特定するものではありません。
 各閘門は、地形・地質によって、構造(大きさ・位置等)が異なっていたようです。
 また、施行した業者によっても違いがあり、欠陥不都合が出てきた場合には、大幅な(閘門自体に給排水口を設ける等)改修が有ったと思われます。

 後述しますが、創成川の閘門の所在した箇所には、後年になっても給水及び排水溝の跡が残り、昭和の年代になってもその痕跡が所在しました。
 下図は、「閘門の構造」を前面から見たものです。(「大津閘門」を参照・筆者の作図))
  ※土手の高さや川底の下のコンクリート部分の打ち込みの大きさは未詳です。

3.札幌、茨戸間運河の位置について
 第1閘門から第8閘門(本府側の創成川~茨戸川河口)の位置について記します。

閘 門 位      置
第1閘門 「札幌市街圖」では、北13条と少し北14条にかかる場所です。
第1閘門が13条にあったとする、北光第四分区町内会「町内会30周年記念誌」によっても裏付けられます。
給排水溝は、「札幌市街圖」により、左岸側に設置されていた事が判明。
北緯 43度04分37.96秒  東経 141度21分9.62秒
〇 現在の北区 北十三条西一丁目附近 です。
第2閘門 北20条と少し北19条にかかる場所となります。
第2閘門が北20条にあったとする、北光第四分区町内会「町内会30周年記念誌」(昭和58年発行)によっても裏付けられます。
『東区今昔3 東区拓殖史』(昭和58年)では、19条に在ったとしています。2つの記録ら、19条から20条に掛けて造られたようです。
給排水溝は、昭和25年(1916年)国土地理院の地図(給排水溝跡)からして、左岸側に設置されていたと推定します。
現在の幌北小学校(昭和9年創立の学校)の敷地に、給排水溝が在ったとする予測は成り立ちますが、確実な資料が無いので未詳として置きます。
敷地は、市の所有地であるので、可能性は否定できません。
北緯 43度05分9.72秒  東経 141度20分56.33秒
〇 現在の北区 北二十条西二丁目附近 です。
第3閘門 北25条西2丁目附近となります。
第3閘門が25条にあったとする、北光第四分区町内会「町内会30周年記念誌」(昭和58年発行)によっても裏付けられます。
給排水溝は、現在の北25条にある「北海道自動車練習場」からして、右岸側に設置と推定されます。「市営幌北団地」の左岸側の可能性もあります。
北緯 43度05分32.40秒  東経 141度20分50.23秒
〇 現在の北区 北二十五条西二丁目附近です。
第4閘門 北37条西2丁目周辺に在ったと推定します。
昭和に入っても、閘門の在った周辺は、その痕跡が残されているからです。
給排水溝は、現在の「北37条リバーサイド公園」からして、左岸側に設置されていたと推定されます。
北緯 43度06分17.78秒   東経141度20分40.58秒
〇 現在の北区 北三十七条西二丁目附近です。
第5閘門 北47条周辺であると特定します。
(北区中央バス営業所 中島橋前からは少し離れています。)
大正5年(1916年)国土地理院の地図で裏付けられます。
給排水溝は、現在の「創成川下水処理場」の北側にあった事からして、左岸側に設置されていたと特定します。
北緯 43度07分0.84秒   東経141度20分36.25秒
〇 現在の東区 北四十七条東一丁目附近です。
第6閘門 2番通りの北にある「さなえ橋」と3番通りの中間であると特定します。
大正5年(1916年)国土地理院の地図で裏付けられます。
北区役所ホームページの閘門の項によっても裏付けられます
給排水溝は、国土地理院の地図により左岸側に設置されていたと特定します。
北緯43度07分58.12秒   東経141度20分47.06秒
〇 現在の北区屯田六条一丁目附近・(北区太平五条一丁目附近)です。
第7閘門 北4番通りと5番通りの中間であるであると特定します。
大正5年(1916年)国土地理院の地図で裏付けられます。
給排水溝は、大正5年の国土地理院の地図により、左岸側に設置されていたと特定します。
北緯43度08分32.05秒   東経141度20分54.94秒
〇 現在の北区屯田九条一丁目附近です。
第8閘門 明治30年10月23日付け北海道毎日新聞には、「札幌・茨戸間運河とす。その間閘門は七ケ所、第一より第七に至る。」と記し、計画の8閘門ではなく、完成した閘門は7つであると報じています。計画を変更したと思われます。
「第七(閘門)は五尺勾配にてその下茨太までは水平とす。」とあるので、第7閘門を過ぎると勾配はかなり緩やかとなり、流れは穏やかであったと推測します。

3.札幌、茨戸間運河の位置を地図で特定
 通常札幌本府より数えていますが、地図掲載の関係で7番閘門から記します。
大正5年(1916年)国土地理院 2万5千分の1の地図より

 7番目の閘門 は、現在の屯田9条1丁目7番~12番の付近に位置していたと特定しました。
 創成川の東側には、北に「篠路横新道」が記され、南に「学田通」が記されてあります。そのほぼ中間に位置して閘門が設置されていた痕跡(水路跡)があります。(設置の場所の東側には、現在、太平小学校があり、およその位置を知る目安となります。)

 6番目の閘門 は、太平神社が創設されていた、現在の「3番通り」と「さなえ橋」の間に在ったと特定しました。
 現在の屯田6条1丁目附近です。
 太平神社の関係文書にも閘門があったとの記載があり、水路の痕跡は、それを物語っています。

 5番目の閘門 は、現在の中島橋の南側に当たる、創成川下水処理場の北側付近であると特定しました。

 5番目の閘門 を含めて、「現在の太平地区周辺には閘門が三か所あったと言われている。」との証言とも一致します。

 4番目の閘門 は、北37条付近と特定しました。
(別図を後ほど掲載します。)
 4番目の閘門の創成川の箇所に小さな三角形が見えます。
 三角形の場所は、「舟避場」であると推測しました。舟(三半船・サンパン)の様々な対応のために人為的に造られたものと考えます。

 3番目の閘門 は、北23条の北側、北25条周辺に閘門が設置されていたと特定しました。
痕跡(給排水路跡)が記されてあり、この位置と推測します。

 2番目の閘門 は、北20条の左側に痕跡(給排水路跡)が記され、閘門が設置されていたものと特定しました。
 北19条から北20条にかけての設置であったと推測します。

 閘門の構造については、閘門の左右どちらかに給排水路を設けていたため、地図にその痕跡が記されたのであろうと推測(特定)しました。
 大正5年(1916年)国土地理院の地図のみの特定は難しい為、他の資料をも出来るだけ掲載してみます。
 下の左図は、大正5年(1916年)国土地理院の地図ですが、特に痕跡らしき(給排水路跡)は、記されておりませんでした。そこで右図「札幌市街圖」(明治34年6月20日発行)に依ります。そこには、明確に閘門の在った事が記されていました。

昭和11年10月30日発行「札幌市街圖」富貴堂書房 発行
 この位置(北13条と北14条の一部が、第1閘門の痕跡の箇所であると特定してみました。

 敷地としては、北13条が大部分であり、北14条に少しかかるような関係にあることが判ります。
 西側の敷地に、給排水路を設けていたためと推測しました。

 2番目の閘門 については、「水門」及びの痕跡(給排水路)の箇所の図面を見出す事は出来ませんでした。
 しかし、「創成川の流れに添って:町内会設立三十周年記念誌 / 北光第四分区町内会三十周年記念誌編集委員会 昭和58年発行)には、次の様な貴重な写真の掲載がありました。

 2番目の閘門
 昭和36年 創成川水門跡川の左側手前(北二十条)

 「記念誌」には、「北二十条の第二水門、北二十五条の第三水門の一部が残っていたが、五十八年の南進新石狩街道の護岸工事で埋没されたのは惜しまれる。」と記してあります。

 第3閘門の痕跡の箇所を、「ゼンリンの住宅地図 昭和44年版 札幌市(北部 その一)」に依り掲載してみます。痕跡は、昭和40年代まであった事が判りました。

 第3閘門の痕跡の箇所
閘門が設置されていたとする北25条付近の地図です。
北25条東1丁目南部は、住宅が建っていません。
北25条東1丁目北部には、「北海道自動車練習場」となっています。
北25条西2丁目付近は、「アキチ」となって住宅が建っていません。私有地であるからだろうと思います。
「北海道自動車練習場」となっているのは、閘門が在ったため、市有地を公的な目的のために市が売り払ったと推定しました。
閘門の給排水路用地は、大正5年(1916年)の図では東側(右岸)になっています。図と一致します。

 

第4閘門の痕跡の箇所
昭和25年(1916年)国土地理院地図より
昭和25年当時、左岸に閘門が設置されていた痕跡(道路跡)が判かります。
水路としてではなく、道路がその原型を物語っています。閘門の給水排水路が、曲線の道路となって残ったものと推測されます。
「舟避場」の三角形も原型を留めています。

 

 

「ゼンリン住宅地図
昭和44年版」より
左(北部 その一)
右(北部 その二)

北36条附近から、北37条にかけて流れに蛇行の痕跡があり、昭和44年になっても、閘門の設置による影響があったものと推測されます。
その事から、閘門の用地は、北37条の西側に給排水路があった(西側空き地)と推測します。

 

5番目の閘門 について
左図は、「ゼンリンの住宅地図
昭和44年版 札幌市(北部 その一)」より

北45条東1丁目に「創成川終末処理場」があり、その右側を創成川が流れています。
その「創成川終末処理場」の北側の創成川の流れが、不自然に曲線を描いています。
先にも記しましたが、閘門の構造上、給排水路を設けていた跡と推測しました。
昭和44年になっても、創成川を改修しななかったためにその痕跡が残ったと思われます。

 

 

6番目の閘門 について
 昭和10年頃まで、創成川と閘門の給排水路が存在していたと思われます。本来、閘門を設営する際、川の安全を祈願して「神社」を建立して祀っていました。
6番目の閘門が、その場所であったと思われます。上記の昭和25年の地図には、「神社」らしき建物(「太平神社」)が存在します。昭和10年~20年代に神社を祀って地域の安全と五穀豊饒を祈ったものと思われます。北区屯田6条1丁目付近ですが、現在、その箇所に神社は存在しません。老朽化しためか詳細は解かりませんが「創成川緑地」となっています。

 7番目の閘門 については、
 
 昭和10年頃まで、6番の閘門と同様、創成川と閘門の給排水路が存在していたと思われます。昭和25年頃になると、創成川の川を用水路に使用したような川筋が見えます。
 現在の屯田9条1丁目付近に、創成川が曲線化した、その痕跡が残っています。
 創成川運河の物資の輸送は、人や馬によって平田船を引っ張って運ばれました。
 しかし、運河を使用する事が無くなると、創成川の水量を用いて地域の開墾(農業用水)に利用したようです。その痕跡が、1本・2本と残っています。

 参考のために、創成川運河・閘門の写真を再度掲載いたします。
『東区 今昔』
昭和54年6月20日発行 より
札幌市東区役所総務部総務課

「札幌建設の基点 創成川」より
創成川運河の痕跡の写真です。

場所の特定出来ません。
コンクリ―トの防水壁が川の両岸に敷設されてあります。

 

4.札幌、茨戸間運河の給排水溝について
 閘門の給水・排水溝についてまとめてみると、次のようになります。

 第1閘門の位置は、北13条西1丁目 附近・給排水溝は、左岸(西側)
 第2閘門の位置は、北20条西2丁目 附近・給排水溝は、左岸(西側)
 第3閘門の位置は、北25条西2丁目 附近・給排水溝は、右岸(東側)<特例>
 第4閘門の位置は、北37条西2丁目 附近・給排水溝は、左岸(西側)
          ・北37条 附近に「舟避場」を設置。左岸(西側)
 第5閘門の位置は、北47条東1丁目 附近・給排水溝は、左岸(西側)
 第6閘門の位置は、屯田6条1丁目 附近 ・給排水溝は、左岸(西側)
         ・「神社」の設置があったらしい。「太平神社」の存在
 第7閘門の位置は、屯田9条1丁目 附近 ・給排水溝は、左岸(西側)

 以上で、閘門の在った位置については、周辺付近ですがほぼ特定と致します。

 明治30年10月23日付けの「北海道毎日新聞」には、札幌、茨戸及茨戸、錢函間運河の開通式が10月21日に挙行されたことを報じています。

(前略)この運河試験のため坂本書記官、宮沢土木課長は当局技術者同行にて和船三艘、丸木舟二艘を艤装し午前八時一七分札幌起点を発し、七個の閘門を過ぎ四時間余にして茨戸に着し、ここに同村総代人、有志家及び小学校生徒の歓迎と、大倉組出張所における手厚き酒肴の饗応を受け、それより陸路一里花畔に出てそこに小学校内にて同じく酒肴の饗応あり              (以下略)

 「午前八時一七分札幌起点を発し、七個の閘門を過ぎ四時間余にして茨戸に着し」として、所要時間が4時間余の乗船時間であったとしています。
 閘門が7個であったことも報じています。「札幌市立茨戸小学校 開校80年記念協賛会昭和47年10月1日発行の『ばらと』」においても七個の閘門としています。(後述)

 ところで、札幌・茨戸間運河工事は、難工事のため請負業者が無く、道庁の直営工事としましたが、明治29年になって直営を止めて受負制としています。
 その工事状況ですが、天候不順や、雨による被害により、各所に破損を生じたと記してあります。また、工事の区間が広範囲に分散しているため監督の不行き届きの状況となり、施工・進捗・点検上難しい状態になったようです。
 その上、融雪とともに、左右土石の崩壊甚だしいとか、荒掘りのまま大倉組に逃げられたとか、自然の災害による工事の妨げが生じた等、工事に伴う不運が重なったようです。
 道庁の思いとは裏腹に、工事が滞り計画が順調に進まない中にあっても、愚直に推進させ初志貫徹し、何とか工事を終える事が出来たと言えます。
 この運河(閘門の利用)は、昭和期まで利用(閘門の痕跡はあった・創成川の通行はされていた)されたとしていますが、設置工事の未熟さや洪水により破壊される等、利用は10数年ほどであったと思われます。
 それは、明治44年(1911年)、創成川沿いに「馬車鉄道」札幌軌道(札幌~茨戸間)が開通した事に依ります。その事に依って、時間を要し補修が必要な閘門による運河輸送は次第に使われなくなり、廃れて行きました。

5.札幌、茨戸間運河のまとめ
 まとめとして、「小樽新聞」明治二十九年二月二九日付け 發行 を転載します。

    札幌、茨戸間運河工事
最近の調査にかかる札幌・茨戸開運河掘削工事成功並びに工費調を聞くに、仕払金高一万二、三三二円一〇銭一厘にして、内掘削費九、八三二円八銭。内訳運河線掘削総坪数二万六二五坪九一、既成土坪一万三、四七九坪一六四、残土坪七、一四六坪四六。
この使役人夫二万三、八八二人三五、この仕払金員九、二三八円八八銭
(三七ヵ所に区切り手間受けを命じたる内二〇ヵ所成功せり)。
また洗堰掘削総坪数一、一一七坪七一、既成土坪八四七坪一九、残土坪二七〇坪五二。この使役人夫一、四八〇人五分、この仕払金員五九二円二〇銭(三ヵ所にして目下施行中なり)。  この外、堰止工費金二七〇円七五銭、物置庫建設費金五二円三〇銭、監督事務費金九六〇円五七銭一厘、材料品購入代金一、二一八円二〇銭等なり。即ちこの着手は運河線第二八五号より第五六八号までにして、この総間数二、八三〇間内、既成間数九七〇間にして、残一、八六〇間は目下施行中なり。
  進行中の手間受け工事
目下進行中の手間受け工事は、土留柵杭打工事及び運河線第一四〇号及び四〇〇号何の草刈伐木工事にして、杭打工事は毎日平均一八名、草刈伐木は毎日平均人夫 三〇名宛を使役し、掘削土切は一一月八日以降人夫供給志望者なきをもって目下休工中。
  工事竣功予定期日
昨二八年度に竣功すべき土功は一万五、九一二坪〇〇八にして、成功済の九、七二七坪六九六を除き、残余の土坪六、一八四坪三一になるをもって、竣工までには九、二七六人の土工を要し、土留柵工事は延長一、五四一間の内五七一間を成功し、残余の八七〇間を竣工するには、なお三、六五四人の人夫を要するをもって、毎日平均二〇〇人宛の人夫を使役して、本年二月二八日即ち昨日までに全工事落成の予定なり。
  工費支払高
昨二八年度、工費三万七、八三〇円の内支払済の金額七、五七九円七〇銭九厘にして、差引残金三万二五〇円二九銭一厘とす。多額の工費を剰すは、昨年より本年に掛け冬期購入すべき材料代価をいまだ払はざるによる。
  使役の人夫賃
起工以来の使役人夫総数一万七、三三三人なりという。

 起工以来の使役人夫総数が、1万7、333人なりと記しています。
 毎日平均200人宛の人夫を使役と記し、28年7月から始まった費用額・人夫数が望外にかさみ、困難な事業達成に向けて前途が思遣られる状況となった工事でした。

 次いで、札幌市立茨戸小学校 開校80年記念協賛会 昭和47年10月1日発行の『ばらと』の「郷土資料」<P40>には、次のような回顧談が記されてあります。

   輸送の要衝茨戸               (前略)
 この創成川運河について、斉藤作太郎氏は次のように語っている。
 創成川は、私が茨戸に来た翌々年完成したが、これまでの伏篭川迂回輸送をさけるために時の北垣長官によって、提唱されたものであるが、水門によって、札幌、茨戸間の落差をなくそうと考案した、いわゆるパナマ運河式のものであったようだ。
 札幌、茨戸間の落差は、途中七ケ所もあったことから一水門の高さ七尺としても、七、七、四十九、約五十尺の相違がある。
 しかし、実際には、水門の周囲が、泥炭質のため水が洩れてしまって、好結果は、えられなかったのでは、なかろうか。私も一度、舟で創成川を、上ったが、水門には一人宛番人がいて、オーイと合図すれば、鍵をもって表われたものであった。そして舟がズンズン上げられるわけであるが、水のたまり方が、おそくて長い時間待たされたことを思い出します。そして札幌の舟付場は、出家神社(注)前の方であったと。
 然し、この運河の完成後は、両側の田園をうるおすこととなり大きく拓かれた。  (以下略)

 注:上記の「出家神社」は、現在の東区北12条東1丁目に所在する「諏訪神社」と思われます。明治10年、信濃の人、上島 正氏がこの地に移住し、明治15年郷里の諏訪神社の御分霊を勧請した神社です。

 「舟がズンズン上げられるわけであるが、水のたまり方が、おそくて長い時間待たされたことを思い出します。」と感想を述べています。
 また、「水門には一人宛番人がいて、オーイと合図すれば、鍵をもって表われたものであった。」とし、管理者が常駐していた事が裏付けられます。
 「(札幌と茨戸間に水門が)途中七ケ所もあったことから・・・・」とも述べています。
完成した水門は、明治30年10月23日の開通式の記事でも7つであり、閘門の数は、設計の8つではなく、完成時は7つであったという立証ともなる回顧談となっています。

 この閘門の企画・遂行について成果を比して見ると、時間が掛かり過ぎて人手を要し、又、洪水による閘門の損傷や未熟な施工により各所に破損を生じ、補修にかなりの費用が掛かったようです。
当初に目算していた様な「運輸の大幅な拡大」には繋がらず、次の輸送手段である創成川沿いの「馬車鉄道」に荷物の運送を委ねる事となりました。
 しかしながら、舟運に支障が出て創成川閘門の運輸が放置されても、その水源を用いて地域の用水として活用され、田畑を潤し生活の基盤となったとの回想です。

 大きな事業には、マイナスの面も付き物ですが、地域住民にとってプラスとなった部分もあった事に安堵して「創成川の閘門」の項を終えます。

記:きよた あゆみ(草之)