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明治38年 三里塚小学校の箇所

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明治38年 三里塚小学校の教育の場となった箇所

1.高屋寿太郎氏の自宅の一室が「簡易教育所」
 三里塚小学校沿革誌に、三里塚地域の「簡易教育所」について、次の様に記述されています。
 「明治38年頃入植者の希望により新潟県人、林東助が現在の国道(旧国道36号線)のそば、大宮牧場付近の高屋寿太郎氏の家屋の一室を借りて簡易教育所を開いた。」とあります。
 「教育所」の始まりは、高屋寿太郎氏の家屋の一室であり、先生が林 東助氏でした。
 それでは、その「簡易教育所」の場所(位置)は、どこにあったのでしょうか。

2.大宮牧場の場所
 三里塚小学校の80周年記念誌には、「(教育所の)場所は今の国道(新国道36号線)をはさんで里塚中央の向い側、大宮牧場の近くでした。」と記しています。
 昭和44年ゼンリンの住宅地図に「大宮牧場」が記載されています。現在の里塚病院の南側・ビッグハウスの第二駐車場の付近です。

3.高屋寿太郎の住居の場所
 高屋寿太郎の住居は、80周年記念誌に、その場所が概略ですが地図で記されてあります。
 現在の「里美まちづくりセンター」の向かい側の付近です。
 当時はまだ新国道36号線が通っていませんから、国道36号線(旧室蘭街道)の道だけでした。
 「大宮牧場」と「高屋寿太郎」の住居が、ごく近くにある事が分かりました。しかし、これだけでは正確な教育所の場所が分かったと言えません。

4.教育所の場所の調査
 そこで、札幌法務局南出張所に、「里美まちづくりセンター」付近の地図をもとめてみました。すると、昭和7年8月調査 再製圖ですが、高屋寿太郎の所有地がありました。
 地番は、「字三里塚九百三番地ノ十二 宅」で、「髙屋寿太郎所有」の「宅地」とあり、残りの土地は、「髙屋寿太郎所有」の林(森林)・原(原野)・畑(3か所)となっていました。
 現在の「セブンイレブン札幌里塚1条店」の北側に当たる付近でした。

5.教育所の現在地の確認
 左図は、現在の里塚セブンイレブン付近の地図です。
 旧国道36号線を南側(千歳方面)から北に向かうと信号機があり、すぐ左傍に「セブンイレブン里塚店」があります。
 そこから小径を辿ると角地が「高屋寿太郎」の宅地であった箇所となります。
 小径が宅地造成で変わっている事もありますから確定ではありませんが、ほぼこの付近(赤の四角の地)であったと思われます。(上図と比較しながら確認ください。)
 当時の室蘭街道(札幌本道)は、くの字に曲がった道であり、周りは田畑であったと思われます。
 子どもたちは、室蘭街道から田舎道をたどり、勇んで「教育所」に通ったと想像します。

6.三里塚開墾の先駆者の一人としての高屋氏
 三里塚地域の開墾は、明治20年代になって炭焼きなどの目的の為に幾人かが入地しています。
 それまでは、樹木の生い繁る森林地帯であった事が想像されます。しかし、それ以前に高屋善五郎親子が明治8年頃に三里塚に入り、その後土地数万坪の貸下げを受けた記録があります。
 高屋善五郎氏については、明治4年に岩手県から月寒村に移住した1人です。
 「明治4年 石狩國札幌郡月寒村人別調」によると、月寒村12番地の「高谷善五郎」一家(7人家族・夫婦・善五郎の母・息2人・娘2人)となっています。
 高屋善五郎の長男高屋寿太郎(人別調では、高谷重太郎・誤記)(明治4年当時8歳)が、明治24年頃(28歳)になり、本格的に三里塚に移転したという事になります。

 ◎「札幌郡月寒村売払実測図」より・・・地番が第710番地の払下げ図面(摸写図・筆者)
 (北海道立文書館所蔵の図面)より
 大曲川(廣島村と月寒村の境界)の以西から室蘭街道に至る台形の26町4反3畝18歩に及ぶ広大な土地払下げの記録です。
 イ 拾四萬六千百四拾四坪四合四勺
 ロ 壱萬弐千四百七十三坪壱合六勺
 計 拾五万八千六百拾七坪六合
 此ニ除 七萬九千参百〇八坪八合
 (半分の土地だけが許可となったようです。)

 左図は、現在(上が北)の地図での敷地の広さです。
 上記の710番地については、札幌法務局南出張所の旧地番台帳に記録があります。
 現在の三里塚小学校の土地・三里塚公園等などを含めた膨大な土地の「付与」となっています。
 寿太郎は、この土地払下げ願いの他に、明治28年頃10万坪の土地が許可となっています。
 また、姉の古能(コノ)が、明治33年7月20日、11町3反2畝28歩(3万3千988坪)の土地払下げを受けています。これだけでも、高屋家の土地貸下げがかなりの面積であったことを推し量る事が出来ます。この他にも、高屋一族への土地払下げがあったと推測される状況です。

7.明治39年三里塚神社付近に新築された「教育所」のこと
 新築された教育所「三里塚簡易教育所」の位置は、室蘭街道沿いにあり、三里塚神社の北西に当たる場所でした。
 ここでの教育は、明治39年から昭和2年まで行われました。
<沿革誌>より 教育所の敷地について
 教育所の校地は約二段(反)半(750坪)あり、街道(現36号線)より25間奥に校舎が設置されました。
<校舎図面>(別紙)の、校舎の概要について
 校舎の総坪数26.25坪で、内訳は、教室16坪・玄関2.25坪・便所4坪・廊下4坪です。その他に、職員住宅として、居間8畳及び6畳(7坪)勝手(1坪)玄関(1坪)押入(1坪)が記されてあり、飲料水用の井戸も備わっていたようにの印が見えます。
 (上図は筆者の模写図 「学校沿革誌」より)

 この学校用地については、明治44年11月22日に、札幌区南1条西7丁目13番地の田村善蔵氏より豊平町に5反(30間×50間=1500坪)が寄付されています。
 地番は、月寒村三里塚599番地ノ2(後313番)です。(札幌法務局南出張所 所蔵 登記簿より)
 それ以前の登記者氏名がないことから、学校を建設した当初は、田村善蔵の借地の形での教育所であったと思われます。また、どうゆう訳か旧国道沿いではなく、25間先に学校が設置されています。寄贈の土地の奥半分を使用しての運営でした。
 <注> ━ 寄贈の校地 ━ 三里塚神社敷地
 <月寒村土地整理原圖(ず) 第百二十三號(ごう)>より

8.昭和5年に移転した「三里塚特別教授所」のこと
 三里塚神社の北西に所在した「教育所」は、昭和2年に一時廃校となり、昭和5年に新たに三里塚北通りに移転し設置されました。
 校舎の移転位置略図には「北通り・弾丸道路より1000M」との記載があります。「北通り」は、「三里塚北通り」です。
 左図は、「学校沿革誌」より

 ここでの教育は、昭和5年から昭和24年まで行っています。
 現在この地は、「里塚緑ヶ丘」と呼称されている団地となっています。
 団地造成や新たな高速道路、そして、環状道路の新設によって、当時学校が設置されていました箇所が判別のつかない状態となっております。「三里塚北通り」の痕跡すら全く見えない家並みと化しています。
 そこで、「特別授業所」の箇所を特定したいと考えました。

 昭和5年に移転した校舎について、位置の分かる資料を探してみると、学校の記してある地理調査所の地図を見出しました。
 ○五万分之一「地形圖札幌十一號」「石切山」
大正六年測圖 昭和十年修正測圖 及修正測圖之縮圖
昭和22年1月25日印刷 同1月30日発行 地理調査所
 この地図の中に、(学校)の記号があり、三里塚教授所と思われる 箇所(を確認できます。
 丁度そこは、二股の交点に当たる場所に位置してあるので、格好の目印になりそうです。

 左図の橙線は、旧三里塚北通と二股です。団地の中央を走っている現在の「青葉平岡通」(里塚1号線)とは、全く別の道筋の造成であったことが判ります。 (「今昔マップ」で確認をしました。)
 緑線は、道央自動車です。桃線は、「厚別東通」で、昭和58年当時、まだ完成には程遠い状況ですが、道路造成が徐々に進んでいることを窺う事が出来ます。二股の下の道路は、「厚別東通」となります。
 此の事から、造成以前の「三里塚北通」は、最早、完全に団地の中に埋没した状態となったと言えます。
 現地図と重ね合わせると、里塚緑ケ丘団地入り口のすぐ右側、緑ケ丘11丁目の14・15番地の辺りがその敷地であり、「特別教綬所」が所在したと思われます。 校地は、950坪から推測しました。
 (多少の誤差がある事を考慮ください。)

9.「三里塚特別教授所」(昭和5年 設置)について
 学校の名称は「厚別尋常高等小学校所属三里塚特別教授所」で、厚別小学校に通わずに授業を通年で受ける事が出来ました。
 「特別教授所」としているのは、「厚別尋常高等小学校 所属」だったからです。
・校地は、3反1畝22歩(敷地面積が、952坪ありました。)かなり広くなりました。
・校舎は、総建坪 30.25坪(前校舎に四坪増築を行いました。)
・地番は、札幌郡豊平町大字月寒村字三里塚782番地ノ2 及び 札幌郡豊平町大字月寒村字三里塚853番地ノ5で、後に月寒村字三里塚257番地 に改められました。
 (前校舎を解体し、移築した原型そのままの校舎でした。)

10.まとめとして
 <多くの変遷があった学校ですから、沿革を概略ですが記して置きます。>
・明治38年(1905年)三里塚に「教育所」が開かれました。
・明治39年(1906年)「三里塚簡易教育所」が設置されました。
・大正 2年(1913年)「三里塚尋常小学校」という正式な学校になりました。
・昭和 2年(1926年)「三里塚尋常小学校」が廃校になってしまいました。
 ※ 廃校になるとの情報に対しては、「学校沿革誌」に次の様な記載があります。
 子どもたちのために、地域が団結して対応していたことが窺われます。

 「昭和2年、町の経済状態その他により廃校となる事を知るや、部落有志相集まり廃校反対運動を起し、町理事者、議会は勿論のこと、道庁長官(今の知事)の直談判を行い強力なる陳情を行った。西松太郎氏を先頭に徳田豊男氏の如きは単身さしこを着て真田帯をしめたりりしい姿で、道庁学務課にのり込み陳情を行った。」と当時のエピソードが記されている。

・昭和3~4年には、冬の間だけ学校を開くという事もありました。
 (子どもたちは、厚別小学校・大曲小学校・野津幌小学校に転向しました。)
 ※ 学校は、4年間程、子どもたちのいない、空き家となってしましました。
・昭和 5年(1929年)「厚別尋常高等小学校所属三里塚特別教授所」が設置されました。
・昭和 8年(1932年)独立し「三里塚尋常小学校」となりました。
・昭和16年(1941年)「札幌郡三里塚国民学校」と改称しました。
・昭和22年(1947年)4月1日「豊平町立三里塚小学校」と改称しました。
 ※ 終戦後の昭和22・23年に「里塚農業開拓団」が開墾のため入植しました。
 「里塚右」(後「里塚南」)地域の19戸が、現在の国道36号線の南側から里塚霊園周辺に入植し、「里塚左」(後「東里塚」地区)地域は14戸が、現在の桂台団地の三里川に沿って入植しています。(戸数が従来の2倍以上となった事により、児童数<60名位に>も倍増しました。)
・昭和24年に現在の場所に新築し、移転しています。
 ※ 昭和25年~29年在職の第8代高橋 親校長により、「里塚音頭」「里塚小唄」が作られました。
・昭和36年(1961年)「札幌市立三里塚小学校」と改称しました。

 三里塚小学校は、現在「笑顔かがやく三里塚」をテーマに日々の教育が行われております。
 何も無かったかのように、子どもたちはごく普通に楽しく勉学に勤しんでいます。
 開拓の当初は、入地者(学齢児童)が少ないため、学びの場は厚別小学校まで遠い道のりを歩いて通わなければなりませんでした。その後、教育所が開かれ、簡易教育所が設置されましたが、廃校の憂き目に遭ったりもしました。しかし、地域住民の支えによって子どもたちの「教育」が保持されてきたのです。
 道のりは決して平坦ではなく、様々な困難・苦難の経緯があり、それを乗り越えて、現在の三里塚小学校の教育の場がある事をここに留めて置きたいと思います。

記:きよた あゆみ

<本編>明治19年 「月寒小学校厚別分教場」創立までの経緯

<外伝>明治19年 「教育所」の在った田中松三郎の土地

<外伝>明治38年 三里塚小学校の教育の場所となった箇所

<外伝>明治37年 有明(公有地)小学校の創立

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