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明治39年頃 「山鼻屯田公有地」の顛末

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明治39年頃 「山鼻屯田公有地」の顛末

はじめに
 北海道の水田作、畑作、酪農等の先駆的な研究を行っている「北海道農業研究センター」は、明治39年7月に「農商務省 月寒種牛牧場」(面積凡そ1620町歩)として設置され、酪農に関する研究を行う場となった事が始まりです。この「月寒種牛牧場」の敷地の大部分は、元「山鼻屯田兵村公有地」(明治24年4・5月頃に給与された。)でした。下図を参照ください。
 ところで、明治39年「月寒種牛牧場」とする際に、土地の売買が行われて公有地の南側には広大な敷地が誕生し、不必要だと考えられた「山鼻屯田公有地」の一部分が売却されたと思われます。その売却された土地が、現在の札幌国際大学・清田有楽町内会・清田第五町内会の用地等として、清田区に属する地域となっています。

1.山鼻屯田公有地について
「明治三十五年山鼻兵村給與配當調」
(北海道大学北方資料室所蔵)

 「札幌郡豊平村大字月寒村所在山鼻兵村公有財産地之圖 総面積 貮百拾四万壱百四坪」と、記してあります。
(明治24年4・5月頃の下付です。)
 図面は、上が南となっています。

<左図は現在の図面です。上が北です。>

 現在の札幌ドーム付近の一角が、民有地となっていました。
 北東の曲線部分は、旧国道36号線です。
 この公有地の現在の主な道路については、北は、国道36号線・東は、清田通・西は、道道西野真駒内清田線・南は、農業センター内によって囲まれた敷地となります。

 そして、現在の札幌国際大学・清田有楽町内会・清田第五町内会の用地を含んでいます。

2.「山鼻兵村公有地」の敷地

「月寒種牛牧場」の誘致には紆余曲折があり、吉田善太郎氏等が関り月寒に設置する事が決定しています。

<敷地面積>
南横 1234.6間
西縦 1309.2間
東縦 1923.6間・56間
西横(右から)81.8間・114.5間・302.6間
西縦  550.6間
北横  15.7間・30間・353.5間・25.8間・180.3間・61.3間・69.9間・23.2間
西側の面積が、小計 約 63万坪
東側の面積が、小計 約151万坪
〇敷地面積  合計 約214万坪の公有地でした。

3.「山鼻屯田兵村公有地」の経緯
(1)公有地の対応
 明治24年に付与された公有地(月寒村西陸軍地)について、山鼻屯田兵村では、早くから売却処分をしたいと考えていました。荒蕪地(こうぶち)であり、開墾に手間取り有効活用が見込めないと判断をしていました。しかし、公有地についての規則があり、売却出来ませんでした。

(2)公有地の処分方針
 明治34年12月に山鼻兵村公有財産取扱委員会は、「本土(公有地)ハ概シテ凹凸且ツ地質軽鬆(けいしょう・サラサラしている・火山灰土)ニシテ耕地ニ適サザルノミナラズ水源ニ乏シク甚シキハ時トシテ飲料水ノ欠乏ヲ告ゲ活路ヲ失スル等今日迄ノ経験ニ依リ将来ヲ推測スルニ倒底耕地トシテ永遠ノ見込ミ無之」として、「賣却處分シ代金ヲ以テ有價証券ニ替ヘ以テ本財産ノ主意ヲ全フセント欲ス」と、この土地の、売却処分の方針を固めました。

(3)公有地の小作人の補償
 公有地を売却する方針は立てましたが、山鼻兵村ではこの公有地の売却処分をすぐに実行に移せないでいました。公有地には、9年程前にこの土地に入植して開墾を始めていた小作人が57戸程あり、その補償などに対応する必要があったためです。

(4)公有地の売買契約
 ところが、「農商務省 月寒種牛牧場」が設置される事を察知した買主が現れました。
 2名の買主は、土地の代金を9、811円也としています。今でいう土地ころがしを目的に買い付けの契約を行ったようです。また、山鼻兵村は、この事実を小作人には知らせないで契約しました。売買契約を終えて後、小作人から不満が出ない様にするため、小作人の「委任状」を、明治38年12月5日付けで取っています。

(5)「種牛牧場」設置とからんだ汚職と小作人の「請願書」
 山鼻兵村の会長は、公有地の売買について公明正大に事を進めて居りますと、留守第七師団長黒瀬義門に申請書を提出しましたが、なかなか売買の了承の返事が来ませんでした。
 当時、「種牛牧場」設置にからんだ汚職等が蔓延っていたらしく、噂話が流れていました。
 そうしている間に小作人にも知れ渡り、小作人一同は、土地の売買に関する「(補償等の)請願書」を、明治39年2月25日付けで留守第七師団長黒瀬義門に提出しました。

(6)山鼻屯田公有地の交換
 「農商務省の種牛牧場」の設置にからむ情報(汚職など)について、明治39年12月7日付「北海タイムス」に、様々な画策があったことを報じています。
 また、月寒村の「山鼻公有地」は、「交換を實行し了せり」と報じています。
 「交換」とは、すなわち、山鼻兵村に交付された「月寒村の公有地」を反故とし、交換地が選定され交付されたと新聞に記してあります。
 交換地については、簾舞地域及び手稲地域の両地に、月寒公有地の面積に応じた土地(面積は未詳)が交付されました。月寒村の山鼻公有地は、再び陸軍省の土地となったのです。

(7)「農商務省 月寒場種牛牧」の設置
 契約等に疑義(問題が大きくなるのを抑えるため)を感じて、第七師団は土地を交換し、明治39年7月に「農商務省 月寒種牛牧場」の設置となりました。
 「山鼻屯田兵村」に付与された公有地(「月寒村西陸軍地」)は、「山鼻兵村」によって売却出来ない結果となりました。
 また、「山鼻兵村」の公有地の開墾を行い、「請願書」を提出した小作人の対処ですが、不憫にも一銭(円)の補償もなく畑を取り上げられ、他の地へと移転する事となりました。

(8)吉田善太郎の功績
 付記として「農商務省 月寒種牛牧場」の設置について、尽力した方がおりました。
 月寒公園に在る吉田善太郎の功労碑の「開拓餘光」には、『農商務省の種蓄牧場をも またこヽに設けらるるに至りしことは 専らぬしがなみならぬ こヽろ盡しの賜ともいひつべく』と記されてあります。彼の一方ならぬ尽力があった事が充分に窺えます。
 月寒歩兵二十五聯隊の誘致の際も、様々な問題が持ち上がり、その解決のために奔走し、月寒の地に導き、その後、地域は隆盛の軍都となりました。
 吉田善太郎の大きな功績によって、現在の「北海道農業研究センター」があり、地域農業の発展に貢献されております。

4. 北海道農業研究センターの沿革
 「月寒種牛牧場」のその後の沿革については、「北海道農業研究センター」のHPを参照して作製してみました。月寒村の関係分を列記すると、次の様な経緯を辿っています。


 明治39年に設置された「農商務省月寒種牛場」は、改組などを経て、平成27年からは「国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 北海道農業研究センター」という名称で北海道地域の農業や酪農等の研究を行っております。

5.明治39年7月設置の「種牛牧場」の新聞記事
 明治39年7月設置された「種牛牧場」について、「明治42年10月29日付け 北海タイムス」には、次の様な説明がなされています。
 「明治42年10月29日付け 北海タイムス」より

      ●  月寒種畜牧場
本場は明治三十九月七月農商務省告示に依りて創設せられ、札幌郡豊平町及空知郡瀧川村の二個所に位す、札幌郡月寒村に事務所を設け、始め月寒種牛牧場と称せしも昨年四月官制の改正ありて月寒種畜牧場と改称す、瀧川用地は瀧川市街より東北二里半十勝道路に沿ひ総地積千六百町歩あり牧場として實に有望なるも未だ事業経営の運びに至らず目下は単に牧草地に充てつゝあり、本場の地勢は南北に長く東西に短し、東北方一帯は平坦開闊にして所謂石狩平野に連なり農耕地に好適なれども中央より西南方に亘りて丘陵起伏波状を呈し樹林地又は放牧地に供用して有利なり、場内の最高丘を四望臺と称し海抜約五百尺とす、本場の総面積は未だ實測に至らざれば正鵠を期し難きも約一千八百町歩にして将来農耕地に利用し得べき  (以下省略)

 (注)本場は、「月寒種牛牧場」及び「月寒種畜牧場」のことを指しています。
    四望臺は、焼山の北に在り、現在も「四望台」(206m)と呼称されています。
    海抜約500尺は、約150mですから、高さが正確とは言えません。
 岩波場長の話からすると、この月寒種牛牧場は1800町歩(ha)あったことになります。
 「内譯すれば、既墾地二百五十町歩(ha)、放牧地八十町歩(ha)、建物敷地三十町歩(ha)、樹林地及野草地一千百町歩(ha)、薪炭用地二百六十町歩(ha)なり」と記してあります。
 しかし、牧場の実際の面積は、1600町歩(ha)であったと思われます。

6.「農商務省 月寒種畜牧場 要覧」(明治四十四年七月二十日発行)の図面より

 左図は、「月寒種畜牧場 建物配列圖」添付
 国道36号線(室蘭街道・地図の上部)の南側に建物配列圖を記していますが、右側(東側)の敷地が斜めに切り取られ、直線となっていません。本来であれば「清田通」までが敷地で直線であったのですが、売却されたようになっています。

  「月寒種畜牧場」の面積と土地状況(注:明治41年に「月寒種畜牧場」と名称が変更)

「第二回農商務省 月寒種畜牧場要覧」より
明治四十四年七月二十日発行
土地の面積は、1600町歩
1町歩は、約1ha です。

  < 参 考 の 図 面 >
左図は、昭和2年(1927年)頃の「月寒種羊場略圖」の図面です。

 用地は現在の様な区画となっています。清田通から西側の区画(札幌国際大学に至る附近の用地)が、月寒種牛牧場から除かれた敷地となっています。
 現在の札幌ドームの箇所は、山鼻屯田公有地ではなかったのですが、買収して、敷地となったようです。

左図は現在の状況です。

 山鼻屯田公有地の時には、「清田通」が直線(緑色の線)となっていて、東側の境界となっていました、
 その後、月寒種牛牧場(種畜場)が設置されて、現在の有楽団地の西側が境界となりました。
 「月寒種牛牧場」を設置する際、国際大学周辺の土地が売却されたものと思われます。

 この様にして、現在は清田区の敷地となりました。

7.境界線の清田通り
 「清田通」(東北通りから旧国道36号線を抜け国道36号線に達する工事)は、札幌市土木部建設課の記録では、昭和55年着工・56年3月竣功となっています。
 (航空写真では、昭和54年に着工しているように映っているものもあります。)
 工事が終わった後、(冬場に書類の準備をし)翌年工事についての実地点検をし、56年3月竣功となったものと思われます。
 (土木現業所の方から、工事は56年にも続けられたとの説明がありました。)
 竣工と言っても、部分的な改修工事が行われたと思われます。

左図は、豊平区との境界線と清田通

 札幌国際大学の東側を走る「清田通」が、2019年(令和元年)12月20日にようやく全面開通しました。
左図の赤線━━の道路です。

 以前までは、羊が丘通から清田7条へ向かう場合、札幌国際大学の正面から左折し、再び右折して、清田中央公園の西側の通りを南進し、細い通りを、再び右左折を繰り返さなければ向かえませんでした。

 今回の開通により交通事情が大幅に改善されたと言えるでしょう。

8.まとめとして

 左図は、開通した札幌国際大学東側の清田通で、手前が北・奥が清田7条方面となります。

 かなりの段差(崖地)がある事が一目で分かります。この事で工事が進まなかったと言えるでしょう。

 最後に、月寒種牛牧場(種畜場)が設置される際、この地を何故売却したのかについての疑問です。1つ言える事は、現在の農業研究センターの用地は、割合なだらかな土地が多く、牛の放牧に適した用地ですが、この地に限ってトンネ川の川筋がいくつもあり、土地の浸食によって深い溝の川があったため、種牛牧場に適さないと判断したのではないかと考えます。
 その他にも要因はあると思われますが、地形的な事が手放した主因であったと思われます。

記:きよた あゆみ(草之)

 


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