明治42年 清田区を流れていた「白石用水」
はじめに
清田区には、「吉田用水」という北野・大谷地を流れる大きな用水路が明治24,25年頃に開削され、稲作の収穫が拡大した実績があります。その他に、もう一つ大きな用水路がありました。
それは、「白石用水」と呼ばれた灌漑溝(用水路)です。「吉田用水」から分水をして吉田用水と平行するように掘り割りされた後、月寒川へと向かう水路です。
この「白石用水」の完成年は明治42年の11月末で、「吉田用水」よりかなり遅い完成です。
「白石用水」については、紺谷憲夫氏の「月寒川・厚別川下流域の開発と灌漑例」(昭和53年・1978年3月24日発行)に詳しい説明があります。
しかし、余り知られておりませんので、概要だけを記して置きたいと思います。
※「白石用水」を「吉田用水」と誤って記してある著作がありますので注意が必要です。
1.「白石用水」の経路と目的
紺谷氏の「月寒川・厚別川下流域の開発と灌漑例」には、「白石用水」の掘割について次のように記しています。
『白石用水とは大用水(吉田用水)から分水し,渇いた月寒川へ引水した全長2.5キロの用水溝を言うが,水門は大用水の取水口より850メートル下手に堰(せき)が設けられ,柏山(吉田山とも称された・現在の道営白樺団地付近)の裾野を堀り割り,東北通り(豊平区と白石区の境界の通り)の下(下流)350メートルの月寒川へ落水させた。』としています。
北野・大谷地地域の農家にとって、すでに「吉田用水」という大水路が通っていたため、特に用水路の必要はありませんでした。
この「白石用水」開削の目的は、月寒川流域の農家のための用水であり、貯水池(西岡水源池)が造られた事で、枯渇した月寒川の水量を補う工事であったのです。
2.「白石用水」開削の理由と経緯
「白石用水」開削の理由と経緯については、「蝦夷の農僕(のうぼく)」田島一郎著(昭和51年11月3日発行)に、詳細に書かれてあります。要点のみを箇条書きに記してみます。
<白石用水の開削の経緯>
イ. 明治41年、月寒歩兵第25連隊が使用する水について、月寒川(百番川)の上流を堰き止め貯水池を作り、水道管で歩兵第25連隊に送る計画の検討を始めました。
(計画は実行され、貯水池<西岡水源池>が造られ,水道管が敷設されました。)
ロ.その事により、月寒川下流域の水田農家は水不足を心配しました。
ハ.そこで、水田農家の人々が話し合いをし、解決案として、吉田用水の捨て水を、大谷地学校下の江別街道(現在の国道12号線)から引く案が出されました。
二.測量してみると、落差の関係から下流域の水田まで水が届かない事が判かり、明治42年、吉田用水から水を分け合うという事で話が決まりました。
(吉田用水を開削した吉田善太郎さんに相談し解決に向かっています。)
ホ.計画よりかなり上流からの引水となりましたが、土地所有者の承諾を得て計画書を提出し、組合員(地域の農民)自ら用水を掘ることとなりました。
へ.「吉田用水」から分水をし、月寒川に流れる「白石用水」の灌漑溝が完成したのは明治42年11月末でした。
以上が「白石用水」の開削の理由と経過です。
紺谷憲夫氏「野幌丘陵の農業の発達Ⅰ」には、白石用水の経路が書き添えてあります。
左図はその貴重な「灌漑用水路の図」です。
「昭和2年札幌郡豊平町白石村灌漑溝一般図より作図」とあります。
3.月寒歩兵第25連隊の水道敷設
第25連隊のための水道を敷設した理由については、「つきさっぷ歴史散歩」(2005年3月25日発行)に記されています。概要を書き留めて置きます。
月寒に明治29年、「独立歩兵大隊」が新設されました。その後、明治32年に「歩兵第二十五連隊」と改編される事となります。兵員は、平時で2,000人、戦時で6,000人が常駐したため水の確保は必須となったのです。井戸を掘ってそれに充てましたが、月寒地域は台地のため十分に賄いきれませんでした。
そこで、必要量の水を確保するため、ダム建設が決定されました。西岡水源地は、明治42年に完成し、次いで、現在の西岡4条8丁目に浄水場が設置されました。明治43年9月30日にすべての施設が出来て落成し各所に水が送られました。
送水された施設は、月寒歩兵第25連隊の兵営・官舎の他、衛戍(えいじゅ)病院(現在の第一高等学校に所在)・月寒学校(小学校)・月寒種蓄牧場(現在の農業研究センター)です。
水源地・浄水場は、豊平峡ダムが完成する昭和47年まで水道の水源として使われることとなりました。ダム建設によって、兵営の水不足は解消しましたが、月寒川下流域の水田農家の水不足が生じた他、月寒川上流に開墾されていた水田が水源地の出来たことによって池の下に水没してしまったのです。
※ メリットとデメリットが両方生じたことになりました。
4.地図で灌漑溝の流れを検証
「ゼンリンの住宅地図 札幌市(南部郊外編 昭和45年度版)より
この地図には、厚別川に3つの用水路が設置されてあります。
右が「第二用水(吉田用水)」・中央が「吉田用水(大用水)」・左が「白石用水」となります。
昭和45年の時点で、用水路がかなり屈曲しているところ考えると、出来た当初に近いコースであったと思われます。
また、紺谷憲夫氏の作図された水路より、吉田用水と白石用水が接近した箇所を流れていたことが分かります。
「白石用水の取水口」となる「吉田用水の 水門から850メートル」の箇所は、この地図によると、現在の地番で、北野3条3丁目2番地の地点からであったと思われます。
この地点は、現在も吉田用水の痕跡が僅かに残されている箇所です。付近には側溝が走っており、緑地帯となっています。
上図について、追記しますと、明治25年頃完成の「吉田用水」の取水口は、地図下方の×となります。そこから850メートルの地点に「白石用水」の取水口がありました。
現在の「DCMホーマック北野通店」の東側に当たる、北野3条3丁目2番地の付近です。
そこから、「吉田用水」の水路と並行するように北野地区を北上しています。
東北通りに達し、その下流350メートルで月寒川へと落水(排水)するような掘割です。
現在のサイクリングロード(旧千歳線)を越えた辺りから西側に方向を変えています。
「吉田用水」は、生協(ルミネ)の東側を流れているのに対し、「白石用水」は、生協(ルミネ)及び徳洲会病院の西側を流れるコースでした。初めの、「大谷地小学校付近の国道12号線から引水する案」に比べると2.5倍ほどの距離となります。
※清田の稲作地帯は、どちらかというと吉田用水の東側付近に広がっていました。
光円寺から霜踏山を経てDCMホーマックの西側は、地形的に高く水が届かず、水田には不適な地域で畑や牧草地・樹木林となっていました。
白石用水の水路を計画した際の難しさを改めて感じます。
5.月寒川に設置された「打越水門」の設置
左記は、明治32年提出の「打越水門建設願」によって用水に造られた「打越水門構造図」です。
※ 白石用水が開削される以前の願い出です。
石狩国札幌郡白石村百番地 田島辰三郎外16名の連名となっています。
下流の田んぼに水が配分されるよう、川の水量を確保するための水門で、水の必要に応じて水門を開閉する仕組みとなっています。
水利に関する法律(河川法)は、明治29年に制定されました。それまで、稲作農家は、各自川を堰き止めて田に導入していたのです。
法律制定の後、許可を得て川の水を導入することとなりました。(水利権の発生があったのです)
勝手に川の水を田に水を引くことが出来なくなったのです。
6.「打越水門」の仕様
「打越水門」を設置した月寒川の川幅を、3間(約5.4m)としています。
「打越水門」は、水底に長さ3間半(約6.3m)・太さ5寸(約15cm)角の木を埋め土台として、5寸角4本を建柱としてその上に5寸角の1本を桁(冠)とします。
止水板は、長さ4尺(約1.2m)3枚・厚さ1寸(約3cm)・巾1尺(約30cm)です。
左右の袖は、巾2間(約3.6m)・高さ3尺5寸(約1m)・長さ4間(約7m)としました。
水門の前後に1間(約1.8m)ずつ両袖が付いていました。
水門袖の羽目板は、巾1尺(約30cm)・厚さ1寸(約3cm)・長さ5尺5寸(約1.6m)であり、その両脇の羽目板は、巾1尺・厚さ1寸・長さ2尺5寸(約45cm)としました。
川の水量に応じて、止水板を取り付けたり・外したり出来るよう工夫が凝らされていたのです。
この水門の仕様は、単に月寒川の止水(取水口にも応用が可能)ばかりでなく、多くの箇所で用いられていた工法であると思われます。
参考となるので、紺谷憲夫氏「野幌丘陵の農業の発達Ⅰ」より転載しました。
この「打越水門」が設置された場所は、月寒川の中ですが、その位置は、江別街道(現、国道12号線)と月寒川の交点の付近に設置されていたとしてあります。
「白石用水」が完成後に至っても、更に有用な水門となったことが考えられます。
まとめとして
下図は、「白石用水」の経路を現在の地図に当てはめて作図した水路図です。
右側の川「厚別川」 ・ 左側の川「月寒川」
赤線の川「吉田用水」・緑線の川「白石用水」
筆者は、「白石用水」の経路を探るための現地調査を何遍か繰り返しました。
そこで知り得たことは、「吉田用水」と違い、「白石用水」の落差がきわめて小さかったであろうということです。
「吉田用水」の数メートル上を水路が走るのですから、経路の選定には苦慮したと思われます。
それも、月寒川沿いの田に水を運ぶという、実に変則的な工事で、吉田山が東側にあり、それ程広くはない水田への水の供給です。
しかし、農家の人にとって米づくりは、生きる糧であり夢であり、開墾した水田を活かすための水路計画であったと推測します。
様々な難題を乗り越えながらの当時の農家の人々は、生活のために工事を行ったのです。
現在、その水路(排泄管として地下に埋設されているようです)・水田の跡は、造成工事によってほとんど見出す事が出来なくなり、住宅地と化した付近に面影を想い描くばかりです。
記:きよた あゆみ(草之)