昭和期 清田小学校周辺の移り変わり
~地域の地図・図面より~
下の地図は、「ほっかいの住宅地図 1979年版 札幌市<豊平区>」(部分)です。
日本住宅地図出版株式会社 昭和53年(1978年)10月発行 となっています。
住宅地図は、前年に調査し発行しますから、昭和52・53年頃の様子と理解できます。
下の地図には、昭和期の公共的な建物、それに準じる施設が掲載されてあります。
それらのいくつかを取り上げて、経緯の概略を記してみます。
1.「清田(厚別)小学校」 2.「清田(厚別)中学校」 3.「ながおかストア(商店)」 4.「東部農協(くみあいチェーンストアー清田店)」 5.「警察官駐在所」(清田交番) 6.「ソーコ」(農業倉庫) 7.「清田郵便局」 8.「札幌市豊平区清田出張所」 9.「豊平町公民館」 10.「清田幼稚園」 11.「清田保育園」 12.「清田出張所」(あしりべつ郷土館) 13.「清田歩道橋」 14.「清田児童会館」
尚、〇1厚別神社 ・ 〇2あしりべつ病院 〇3厚別川の直線化と新国道36号線については、「あしりべつ郷土館」のHP<きよたのあゆみ>をご覧ください。
〇1 厚別神社は、「明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建」他
〇2 あしりべつ病院は、「清田地域の医療について」
〇3 厚別川の直線化と新国道36号線は、「昭和51年トンネ川が清田川と合流」
1.明治32年開校 「清田小学校」のこと
明治19年(1886年)厚別本通りの田中松三郎氏の土地に教育所(月寒小学校厚別分教場)が設置され、寺子屋式の学習が行われましたが、火災によって消失しました。
そこで、住民の寄附により平岡に学校が設置され、明治23年(1890年)1月5日、「月寒小学校厚別分校」の落成式が盛大に行われました。
ところが、児童の数が少なくなり、「月寒小学校厚別分校」が大曲へ移転したのです。
そこで、厚別(あしりべつ)の子どもたちの教育のため、長岡重治氏は、納屋(長岡商店に隣接の箇所・現在の宮田屋珈琲店辺り)を造り変え、「寺子屋式」の授業を行いました。
その後、明治32年(1899年)、長岡重治氏の元「休泊所」を改築して校舎とし、11月5日に「月寒小学校厚別(あしりべつ)分校」が開校しました。
<左の図が、開校した頃の校舎の模写図です。>
明治34年(1901年)5月24日に独立して「札幌郡厚別尋常小学校」と改称しています。
大正10年(1921年)開校20周年の記念式・記念事業が行われました。
大正13年(1924年)「札幌郡厚別尋常高等小学校」と改称しました。
昭和16年(1941年)「札幌郡厚別国民学校」と改称しました。
昭和21年(1946年)校地東側半分が長岡格次氏より寄贈されました。(校地が2倍)
昭和22年(1947年)「豊平町立厚別小学校」と改称しました。
(左の写真は、昭和22年の校舎)
昭和36年(1961年)4月5日、豊平町は札幌市と併合し、「札幌市立厚別(あしりべつ)小学校」と改称しました。
昭和47年(1972年)「札幌市立清田小学校」と改称しました。
※ 昭和40年代から50年代にかけて、清田地域全体の土地造成が進み、児童数が急増し、多くの子どもたちが新設校へ移籍しました。
平成13年(2001年)開校100周年記念式が行われ、令和3年(2021年)には、開校120周年を迎えています。
注:上記の経緯については、郷土館の冊子「清田小学校のあゆみ」を参照ください。
2.大正13年「清田中学校」のこと
「清田中学校」の前身は、「厚別(清田)小学校」の「高等科」にあります。
明治32年(1899年)「月寒尋常小学校厚別分校」が開校した当時は、修業年限が4年間でした。 (注:高等科は、ありませんでした。)
明治34年(1801年)独立し、「札幌郡厚別尋常小学校」なりましたが、修業年限は4年間で、明治41年(1908年)まで続きました。そして、明治42年(1909年)に修業年限が6年間になっています。(注:高等科のため、月寒小学校に通いました。)
大正13年(1924年)に、「札幌郡厚別尋常高等小学校」となり、高等科が設置されました。169人(尋常科)+31人(高等科)のスタートでした。
昭和16年(1941年)「札幌郡厚別国民学校」と校名を改称し、義務教育の修業年限が尋常科6年間+高等科2年間の8年間となりました。そして、尋常科3学級159人+高等科1学級56人の4学級での新たな出発となりました。
昭和21年(1946年)まで、同じ校舎内で授業が行われました。
昭和22年(1947年)戦後、6・3制の新制中学校の発足により、「札幌郡豊平町立月寒中学校厚別(あしりべつ)分校」として開校しました。
<注:中学校の教育の場は、現在の清田小学校内に設置されました>
昭和23年(1948年)「豊平町立厚別(あしりべつ)中学校」として独立しました。
昭和30年(1955年)「厚別(清田)小学校」の敷地に別校舎を新設しました。
昭和32年(1957年)玄関・体育館が落成しました。<現、清田小学校敷地に新設>
昭和33年(1958年)開校10周年記念式典を挙行しています。
※ <学級数 3学級・生徒数 124名 でした。>
昭和36年(1961年)札幌市合併により「札幌市立厚別(あしりべつ)中学校」と改称しました。
昭和39年(1964年)「厚別中学校」(現在の清田中学校)の新校舎が造られ、新しい校舎へ生徒が移りました。 <学級数 7学級・生徒数 252名でした>
<注:住所は、清田191番地で、現在地の札幌市清田区清田3条3丁目7-1です。>
昭和40年(1965年)新築校舎と体育館を合わせて落成式を挙行しました。
昭和47年(1972年)「札幌市立清田中学校」と校名を変更しました。
※ <学級数 11学級・生徒数 451名でした>
上記の写真は、昭和50年頃の「清田中学校」です。
昭和52年(1977年)開校30周年記念行事を実施しました。
注:昭和46年~昭和58年頃まで、校舎・体育館等の増築工事が進められました。
昭和60年(1985年)新校舎が落成し、モニュメント(飛翔への胎
動)<左記の写真>が建立されました。
平成10年(1998年)開校50周年記念式典を挙行しました。
平成30年(2018年)開校70周年記念式典を挙行しました。
令和 2年(2022年) 学級数は、25学級・生徒数 733名です。
以上の内容は、「清田(厚別)小学校沿革史」「清田地区百年史」等を参照しました。
3.明治20年「長岡(ながおか)商店」のこと
下図は、昭和29年(1954年)頃の「厚別小中学校の配置図」(部分)です。
長岡(ながおか)商店の開業は、明治20年(1887年)にさかのぼります。
長岡商店は、「東部農協」(豊平東部農業協同組合)の建物の東側に在りました。
(旧国道36号線沿いの清田小学校の向かい側に、店を開いていました。)
大正8年(1919年)に、切手売捌所(きってうりさばきしょ)も行っていました。
現在の住所は、札幌市清田区清田1条3丁目1番1号 です。
商店は、有限会社で、屋号が「丸十」(まるじゅう)で、⨁ と記します。
上記の右側の写真・商店の上に、「⨁ながおか商店」と表示されています。
「長岡(ながおか)商店」の東側の角にレンガ造りの倉庫が在りますが、商店で販売するための食糧を保管していました。昭和32年(1957年)に、長岡武夫氏が建てた倉庫で、リンゴの保管は行っていなかったそうです。昭和50年代まで使用されていました。
商店は、平成13年(2001年)頃まで開業していましたが、現在はついては未詳です。
4.昭和23年「東部農協」(豊平東部農業協同組合清田支店)のこと
下図は、昭和29年(1954年)頃の厚別小中学校の配置図(部分)です。
左図の「農協倉庫」の右側に、「東部農協」と記されています。
「東部農協」とは、「豊平東部農業協同組合清田支店」のことで、「農協倉庫」は、農作物を納めて置く倉庫です。
当時の清田地域は、農業が盛んでしたから、農協の組合員となり様々な対応を行っていました。
この建物は、大正6年(1917年)に開店した「森田商店」でした。大正から昭和の初期頃まで、地域の方々が買い物をした商店です。
その後、昭和10年(1935年)頃、豊平町産業組合(現農協の清田支店)の組合員の方に利用されました。
しかし、老朽化して改築することとなりました。
昭和39年(1964年)6月17日に改築の着工、9月に完成し、10月1日に落成記念式が行われました。
左がその落成時の写真となります。
店舗は間仕切りをして、戸田商店・白岩商店などに貸していました。
現在も商店が、販売を行っております。
※ 「東部農協」について、沿革を記して置きます。
明治40年「豊平農会」・大正7年「北海道信用購買利用組合」・大正9年「豊平町産業組合」・昭和19年「豊平町農業会」・昭和23年「豊平東部農業協同組合」・昭和34年「豊平東部農業協同組合清田支店」との経過をたどっています。
5.大正11年「警察官駐在所」(清田交番)のこと
清田地域の「交番」は、大正11年(1922年)、4月に駐在所の建物が完成し、5月1日より「(豊平町)厚別巡査駐在所」が開設されました。初代は、森川周七巡査でした。
厚別小学校創立20周年事業の一環として、「厚別交番」が設置されました。
住所は、豊平町字厚別108番地です。「厚別一帯連絡図」での「108番地」は、厚別川の西側ですから、橋の西側のたもとに所在していたと思われます?
しかし、昭和26年(1951年)12月24日、「清田巡査駐在所」が30年を経て老朽化したため、敷地35坪の寄附を受けて新設し、24坪5勺の新庁舎が完成しました。
左の図面は、昭和29年(1954年)頃の厚別小中学校の配置図です。
住所は、豊平町字清田無番地でした。現在の清田1条4丁目3 です。
位置は、上の図面に警察と記されてあるように、旧国道36号の厚別橋の袂です。
昭和44年(1969年)12月、「清田交番」は、新国道36号線(北野~里塚 間)の造成に伴い、交通量が増えたため、清田橋のたもと(現在地)に移転しました。
「清田巡査駐在所」から「清田巡査派出所」となり、三交代勤務で取り締まり・指導治安に対応するようにしたのです。
管轄区域は、豊平町字 北野・清田・平岡・真栄・里塚・有明の地域でした。
現在、「豊平警察署清田交番」と玄関に看板を掲げ、厚別川右岸通に設置されています。
住所は、札幌市清田区清田1条4丁目3-1です。
正式名称は、「北海道警察本部豊平警察署交番清田」としています。
注:警察の組織は、明治19年に「札幌警察本署」を、「北海道警察本署」として、全道を網羅するようにしましたが、管轄については、「札幌警察署」が当たっていました。
尚、戦後に警察法の改正が何度か行われ、現在に至っています。
6.昭和8年「農業倉庫」(ソーコ)のこと
農業倉庫は、農業者が生産した農作物を出荷の時期まで収蔵し、農産物の価格調整をし、値崩れするのを防いだほか、運送の仲立ちや保管物の荷作り作業等を行いました。
しかし、地域の土地の宅地化により必要性がなくなり、解体されました。
下の写真の倉庫は、旧国道36号線沿い、清田小学校の西側に所在していました.
「豊平東部農業協同組合三十年史」(P286)より
「清田農業倉庫」は、昭和8年(1933年)に建設されました。
平成3年(1991年)には別の建物(MC等)に変わっています。
注:有明軟石によって造られたと思われます。
7.昭和15年「清田郵便局」のこと
郵便局の始まりは、「東月(ひがしつき)寒(さっぷ)郵便局(三等)」(「清田郵便局」の前身)として、昭和15年(1940年)11月21日に設置され開局しました。設置の住所は、「札幌郡豊平町大字月寒村厚別本通」で、現在の札幌市清田区清田1条2丁目2-1と思われます。(古地図には、本道沿いに所在しています。)
現在の清田小学校(当時の厚別小学校)の玄関の真向かいに近い所でした。
「東月寒郵便局」は、昭和25年10月20日に、名称を「清田郵便局」と改称しました。
その後、昭和29年(1954年)に郵便局を新築しています。(清田1条2丁目2-2)
(旧郵便局より少し北側に新設しました。上の写真は、当時の「清田郵便局」です。)
しかし、平成15年(2003年)10月20日、「清田郵便局」は、北海道銀行清田支店の北側に移転しました。(住所は、札幌市清田区清田1条4丁目5-48)
現在(令和5年)も営業を続けています。(左の写真は、現在の「清田郵便局」です。)
8.昭和22年「消防団」「清田出張所」「清田消防署」のこと
昭和22年(1947年)8月、「豊平消防団第二分団」(清田地域)が設立され、昭和24年(1949年)8月、「清田消防団」の<消防車庫>(器具置場)が厚別小学校の東角地に出来きました。
昭和31年(1956年)9月、「清田(消防)分遣所」となり、ポンプ車1台が配置されました。また、動力サイレンが設置され、消防士1名が配置されました。
昭和45年(1970年)5月、トヨタ救急車1台が配置となり、その後、水槽車が配置されています。
(左の写真は、「清田消防団」の建物と消防車です。)
昭和48年(1973年)10月に、学校の東角地の「清田(消防)分遣所」を廃止し、「豊平消防署清田出張所」を新設され開所しました。
所長以下14名の定員となっていました。
(左の写真は、新設の「豊平消防署清田出張所」です。)
平成9年(1997年)、清田区誕生に伴い、「清田消防署」が新設され、「豊平消防署清田出張所」が廃止となりました。
清田小学校の東角地は、移転に伴い更地としました。(現在は、「ゆめたんぼ」となっています。)
新しい「清田消防所」は、「清田区役所」の西側に設置されました。
住所は、札幌市清田区平岡1条1丁目2-2 です。
現在は、「札幌市清田消防署」として、清田区を管轄する消防署となっております。
尚、清田区には出張所として、「清田消防署北野出張所」(札幌市清田区北野7条5丁目)と「清田消防署里塚出張所」(清田区里塚1条4丁目)が配置されてあります。
9.昭和33年 「豊平町公民館」のこと
昭和33年(1958年)6月に法律が定められて、「豊平町公民館」が厚別小学校(現清田小学校)の敷地(「現在のゆめたんぼ」の付近)に設置されました。
「豊平町史」(昭和34年発行)には、条例その他について、次の様に記してあります。
この条例には社会教育法に基ずいて、同法第二十条、第二十二条の目的及び事業を行うために、本町に公民館を設置し、名称を豊平町公民館と称して月寒会館内(旧役場庁舎改造)に設ける、とあり、また地区公民館をおくこともでき、平岸、石山、簾舞、清田(厚別)、定山渓に設置することになった。
既設の会館を利用するものと、石山(モルタル一部二階建八五・五坪、二四〇万円)簾舞(同)のように新築中のものもある。そして管理は町教育委員が行い、館長一名、職員若干名をおき、公民館運営審議会(委員二十名以内、任期二年)によって運営されることになっている。
開設当初の「厚別地区公民館館長」は、上田光男氏でした。
厚別(清田)地区の「公民館」の大きさは、玄関が幅2間・奥行1間、そして、公民館は、幅4.5間・奥行12間・坪数56坪 の、かなり大きな建物だった様に思われます。
(下記の写真からの推測ですが、平屋造りの構造であった様です。)
大きさにつきましては、下の図の実測図より推測しました。
昭和32年(1957年)7月 實測現況圖 厚別小中学校 模写図(右は拡大図)
学校敷地の東角地に細長い形状の「公民館」が設置されていました。(左の写真の建物です。)
その後、札幌市との合併により「月寒公民館厚別分館」と名称が変更され、館長は厚別小学校の校長先生が兼ねていました。(注:「清田小学校」の校名となったのは、昭和47年です。)
公民館運営委員制度もでき、総務、文化、産業、体育、青年、婦人部が構成され、それぞれ地域の実情や実態に即応した自主的活動を推進し、漸次公民館活動の浸透が計られました。
当時、地域の諸活動(講演・料理・手芸・生花・書道など)が行われる場となりました。
また、この「公民館」は、「清田季節保育所」としても利用されました。
広く活用利用されていましたが、建物が古くなり、昭和47年(1972年)に解体され、その跡地に「豊平区 清田出張所」が建設されました。
10.昭和44年 「清田幼稚園」のこと
清田地域で最初の「幼稚園」として、昭和43年(1968年)に認可を受けました。
昭和44年(1969年)4月1日入園式が行われ、3学級64名で開園しました。
(左の写真は、開園当初の園舎です。)
昭和49年(1975年)3月22日、創立5周年記念式典が行われました。
平成5年(1993年)開園25周年を迎えました。
平成8年(1996年)9月、園舎が老朽化したため、少し北側に新しい舎屋を新設しました。く落成は、9月25日です。>
(左の写真は、新築された園舎です。)
住所は、清田区清田1条2丁目3です。
平成12年(2000年)保育日の「預かり保育」を実施しました。
平成14年(2002年)完全遇5日制の実施となりました。夏・冬休みの「預かり保育」を実施しました。
平成15年(2003年)スポーツ教室・春休みの「預かり保育」を実施しました。
平成20年(2008年)未就園児数室「にこにこくらぶ」を実施しました。
平成21年(2009年)開園40周年の記念行事を行いました。
平成29年(2017年)満3歳児の入園を受け入れるようにしました。
平成30年(2018年)開園50周年を迎え、記念行事を行いました。「子ども子育て支援新制度」に移行しました。
現在も、子どもたちの幼児教育を行っております。
11.昭和45年「清田保育所」のこと
昭和27年(1952年)に、「青年会館」<昭和9年・1934年、厚別(清田)小学校の西角に新設された会館>を借り受けて、「清田季節保育園」が開設されました。
昭和33年(1958年)に、「豊平町公民館」が厚別小学校(現清田小学校)の敷地に設置されました。地域の諸活動(講演・料理・手芸・生花・書道など)が行われる場でしたが、この「公民館」は、「清田季節保育所」としても利用されました。
昭和27年(1952年)から昭和45年(1970年)の19年間にわたり、地域の自主運営によって、幼児の保育が行われました。
(注:当初は、通年の保育ではなく、農繁期(田植えの時期や稲刈りの時期)に幼児の面倒を見てもらう事を目的とした事業・対応でした。)
そのような状況の保育の中で、昭和45年(1970年)10月25日、「清田保育園」が新設されました。
当初の住所は、札幌市平岡52番地の2(現、清田区清田1条3丁目7です。)
左の写真は、開園当初の園舎です。
しかしながら、30年を経て施設・建物が老朽化したため、新築する事となりました。
平成14年(2002年)12月1日、新園舎が転居・新設し開園しました。
住所は、清田区平岡1条2丁目11です。
現在も、子どもたちの保育を行っております。
尚、詳細につきましては、あしりべつ郷土館のHP「きよたのあゆみ」<昭和27年 清田の「保育所」の始まり>をご覧ください。
12.昭和47年「清田出張所」と「あしりべつ郷土館」のこと
昭和33年(1958年)、「豊平町公民館」が、厚別小学校(現清田小学校)の敷地の左角地付近に設置されました。そして、地域の諸活動(講演・料理・手芸・生花・書道なお)が図られました。また、この「公民館」は、「清田季節保育所」としても利用されました。
その後、老朽化のために昭和47年(1972年)解体され、その公民館跡地に「豊平区 清田出張所」が建設され設置されました。
(左の写真は、「札幌市豊平区清田出張所」です。)
昭和57年(1982年)10月「清田コミュニティセンター」(清田1条2丁目5-35)が竣工し開所しました。
そのため、昭和58年(1983年)5月、旧「清田出張所」を改造して、「あしりべつ郷土館」が開館しました。
「あしりべつ郷土館」は、平成14年(2002年)、建物が老朽化したため、1月に「清田区民センター」内ヘ移転しました。
昭和57年に創設された「清田コミュニティセンター」は、増改築して、平成10年に「清田区民センター」として開業しています。そして、旧「あしりべつ郷土館」は、解体され更地となりました。
(左の写真は、当時の「あしりべつ郷土館」の建物です。)
13.昭和42年 清田小学校前「歩道橋」の設置のこと
昭和42年(1967年)10月、清田小学校の前に「清田歩道橋」が設置されました。(写真は、当時の「歩道橋」です。)
旧国道36号線(室蘭街道)の交通量が増え、児童の安全を考えて敷設されました。この歩道橋を利用して、子どもたちが登下校の際に、道路を渡るために使用しました。
しかし、長年使用した事により、老朽化が目立つようになりました。また、高齢化による利用者数の減少など、横断歩道橋を取り巻く環境が架設当時から大きく変化しました。
「清田歩道橋」に対する存続について検討が行われ、信号機の整備を行う等の配慮をし、撤去する事が決定しました。
平成23年(2011年)、これまで交通安全に大きく貢献してきました「清田横断歩道橋」は取り除かれました。
14.昭和52年 「清田児童会館」開館のこと
昭和52年(1977年)11月、清田小学校の敷地内に「清田児童会館」が、札幌市内11番目の「児童会館」として開館しました。
平成29年(2017年)、「清田児童会館」(清田1条4丁目)は、40周年を迎え、11月18日(土)に、40周年記念式典を行いました。
まとめとして
清田区の旧国道36号線は、明治6年に開拓使により開削されました。
「札幌本道(室蘭街道)」の開削です。函館から札幌本府までの車馬道でした。
本州からの旅人が、函館から徒歩で森に至り蒸気船に乗り、室蘭で下船するとまた徒歩で札幌までの遠い道のりを歩き抜きました。
途中、旅人宿で泊まったり休息を取り、未だ街の形さえ出来ていなかった北の都札幌の発展に個々の未来を賭けての歩みでした。
その札幌本道の道の途中、月寒村の外れに、「厚別(アシシヘツ)」という、小さな村落が形作られました。豊平村・豊平町の時代になっても、田園の広がる農村地域でした。
今でこそ、清田区として札幌のベットタウンや商業地域となり、多くの住宅・商店等が立ち並んでいますが、それ程目立った地域ではなかったのです。
しかし、住民が生活する中で、現在の清田小学校周辺に各種の行政的な建物が出来、村の中心地となって地域の人々を支えていました。
そこで、主だった施設・建物を選び抜き、昭和期と言う視点から記してみました。
未だ、記さなければならない事項が多数ありますが、今回はここまでと致します。
記:きよた あゆみ(草之)