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昭和22年 清田小学校の校庭にある「開拓功労碑」

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昭和22年 清田小学校の校庭にある「開拓功労碑」

 はじめに 
 現在、札幌市立清田小学校の校庭に石碑が建立されています。
 厚別(あしりべつ)、現在の清田地区の開拓に寄与された長岡家についての碑です。
 この碑の内容の判読は、さほど難解なものではありませんが、割合長い文でもあり、石に刻字したものなので、光の加減でかなり読み難い文字・文章となっています。
 そこで刻字全文を写字し、簡単な注釈を付けてみました。
 解釈の一助にして頂ければ幸いです。

1.「開拓功勞碑」の碑文

開 拓 功 勞 碑

長岡重治翁文久元年十一月岩手縣紫波郡長岡村ニ生レ明治四年四月北方開拓ノ大志ヲ抱キ息徳太郎等ヲ伴イ渡道同年五月月寒ニ入リ數年ニシテ當厚別ヲ永住ノ地ト選定入植ス 當時ハ舊室蘭街道僅ニ人馬ヲ通シ鬱々タル老樹密生猛熊跋扈シ狐狸燈火ヲ訪フ翁樹間ヲ跋渉耕適ノ地ヲ索メテ同志ニ斡旋自ラモ妻子ヲ勵シテ開墾ニ從ヒ驛遞旅館木材業等ヲ經営水田ヲ創設シ自費ヲ投シテ道路ヲ開キ橋梁ヲ架シ神祠ヲ祀リ墳墓ノ地ヲ定ム慧眼子弟教育ニ着目明治十九年自宅ヲ供シテ學校トシ後見上權太夫翁浪岡清一郎翁等ト相諮リ小學校設置ニ努メ敷地ヲ寄贈スル等開拓萬般ニ亘リ貢献至ラサルナシ徳太郎翁孫重太郎翁共ニ老翁ヲ援ケ開発ニ努ム四代ノ主格次氏ヨク先祖ノ開拓理想ヲ體シ昨秋厚別校改増築ニ際シ校地狭隘ト見ルヤ世人寸土ヲ惜シムノ時貴重得難キ耕地ヲ寄贈施設ニ遺憾ナキヲ期セラル 之レ私ヲ滅シ郷土永遠ノ繁栄ヲ希求セラルル崇高ナル理想ニ基クモノナリ 吾等古老ヲ訪ネテ開拓ノ史ヲ問フ長岡家ノ功績頗ル大ナルヲ知リ感謝ト敬意ヲ捧クルノミココニ同志ト計リ小碑ヲ建立シテ功績ヲ永遠ニ記念シ後人ニ語ラントス 厚別ノ人々ヨ先人ノ苦艱ヲ知リソノ理想ヲ継キ和衷協同郷關興隆ニ努メラレンコトヲ希求スルヤ切ナリ
  昭和二十二年十一月吉日
                       秋聲道人書

 (以上、原文のママですが、碑の文は縦書きです。)

2.「開拓功勞碑」の意訳

    開 拓 功 勞 碑
 長岡重治(ながおか じゅうじ)翁、文久元年十一月(文久元年は誤り。 文政9年11月10日生が正しい)岩手縣 紫波(しわ)郡 長岡村ニ生レ、明治四年四月、北方開拓ノ大志ヲ抱キ、息徳太郎等(子息・長男の徳太郎他6人家族で月寒村に移住しました)ヲ伴イ渡道、同年五月月寒ニ入リ、數年ニシテ、當(とう)、厚別(あしりべつ)ヲ永住ノ地ト選定入植ス(明治6年頃に、ここ厚別の地に移り住み、開墾を始めました)
 當時ハ、舊(きゅう)室蘭街道(室蘭街道は、明治6年に開削されました。「札幌本道」現在の旧国道36号線のこと)、僅ニ人馬ヲ通シ、鬱々(うつうつ)タル老樹密生・猛熊跋扈(もうゆうばっこ)シ狐狸燈火(こりとうか)ヲ訪(と)フ。(翁は、重治氏)、樹間ヲ跋渉(ばっしょう)(跋渉は、色々な所を歩き回ること)耕適ノ地ヲ索(もと)メテ同志ニ斡旋、自ラモ妻子ヲ勵(はげ)シテ開墾ニ從ヒ、驛遞・旅館・木材業等ヲ經営(駅逓・旅館・木材業などを行いました)水田ヲ創設シ、自費ヲ投シテ道路ヲ開キ、橋梁ヲ架シ、神祠ヲ祀リ、墳墓ノ地ヲ定ム(水田・道路・橋  神祠は、厚別神社  墳墓は、北野墓地を定めたのです)
 慧眼(けいがん)(慧眼は、将来を見通すこと)、子弟教育ニ着目、明治十九年(明治19年は誤りで、明治28年です)自宅ヲ供シテ學校トシ、後、見上權太夫翁、浪岡清一郎翁等ト相諮(はか)リ、小學校設置ニ努メ(明治32年の「月寒小学校厚別分校」の創立に努めました)、敷地ヲ寄贈スル等、開拓萬般ニ亘リ、貢献至ラサルナシ。徳太郎翁 孫 重太郎翁(初代 重治氏・2代 徳太郎氏・3代 重太郎氏) 共ニ老翁ヲ援(たす)ケ、開発ニ努ム。
 四代ノ主、格次(かくじ)氏(4代 格次氏)ヨク先祖ノ開拓理想ヲ體(たい)シ、昨秋(昭和21年の秋のこと)、厚別校改増築ニ際シ、校地狭隘(きょうあい)(狭いこと)ト見ルヤ、世人寸土ヲ惜(お)シムノ時、貴重得難キ耕地ヲ寄贈(現在の校地の東側半分、約2400坪を寄贈)
 施設ニ遺憾(いかん)ナキヲ期セラル。之レ私ヲ滅シ、郷土永遠ノ繁栄ヲ希求セラルル、崇高ナル理想ニ基クモノナリ。吾等、古老ヲ訪ネテ、開拓ノ史ヲ問フ。
 長岡家ノ功績、頗(すこぶる)ル大ナルヲ知リ、感謝ト敬意ヲ捧クルノミ。
 ココニ同志ト計(はか)リ、小碑(「開拓功勞碑」のこと)ヲ建立シテ功績ヲ永遠ニ記念シ、後人ニ語ラントス。
 厚別ノ人々ヨ、先人ノ苦艱(くかん)ヲ知リ、ソノ理想ヲ継キ、和衷協同(わちゅうきょうどう)(心を合わせ仕事をすること)郷關興隆(きょうかんこうりゅう)(故郷の興隆に努めること)ニ、努メラレンコトヲ希求スルヤ切ナリ(心から願っています)
  昭和二十二年十一月吉日(この年「豊平町立厚別小学校」と学校名が改称になっています。校地も広くなり、校舎の大増築が行われました)
               秋聲道人書(月寒在住の書家、大井秋聲氏の書)

3.碑と長岡重治肖像
○この碑の碑材(碑石)と請け負った業者は、豊平の山崎石材店(山崎岩吉氏)です。
○阿部與之助氏の「表懿徳碑」の碑石・豊平開町五十周年記念碑と同じ制作業者です。
○台石については、手稲の向野氏より無償提供されました。
○碑文の文面の内容は、当時 豊平町立厚別小学校(現在の札幌市立清田小学校)の八代校長 沢口 石蔵先生によって作製されています。

     <この地 あしりべつの功労者  長 岡 重 治 翁 >

 長岡 重治氏は、明治6年頃、この地厚別に移り住み、明治10年頃には、厚別で最初の稲作に取り組み、明治11年「厚別休泊所」(駅逓)守りとなり、明治15年「切手売下所」(郵便)を任命され、明治18年「札幌駅組合」(旅館)を認可されています。
 重治翁は、上記のほかに、学校の創建・神社の創設・墓地の設定・道路の補修・橋の架橋等など、多くの功績を残され大正8年(1919年)に逝去されました。
 文政9年(1826年)生(数え年での年齢)ですから、享年93歳の長寿をまっとうされての生涯であったと言えましょう。

記:きよた あゆみ

 

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