昭和36年 「真駒内御料札幌線」の銘々
~清田区平岡から厚別川上流を辿り「真駒内御料地」に至る道~
1.「陸軍御用地」から「山鼻屯田給与地」へ
道道341号は、「真駒内御料札幌線」であることは、先にも記しました。
歴史としては、昭和36年(1961年)3月31日に、<北海道告示第616号>により道道338号として路線認定されました。告示の際、南区国道453号(常盤新橋付近)の交点から、「山鼻屯田給与地」の東側の区画道路(「御料線」)を経て、厚別区国道274号と合流する地点までを告示により「真駒内御料札幌線」と名称が付けられました。
その後。昭和48年頃(1973年)に、道路の概略が完成しています
そして、平成6年(1994年)10月1日に、<北海道告示第1468号>によって路線番号が道道341号に変更されています。
ところで、「御料線」の銘々については、「囚人が付けたらしい。」と平岡の水上繁雄氏が回想されましたが、囚人が何を根拠として付けたのか未詳でした。(根拠は後述)
「御料線」の名称は、周辺の方々によって話されていたらしいのですが、正式な名称になったのは、道路が一応完成をみた昭和36年になってからの事です。
それまでは、「厚別(あしりべつ)南通」「御料線」などの通称で呼んでいたようです。
その銘々について、拠り所を2つ考えていました。1つ目は「陸軍御用地」と、2つ目は「真駒内御料地」で、戦前に所在した事に依るものです。
その根拠(事由)について、ここで記して置きたいと思います。
下の図面は、「札幌縣治類典附録 明治十五年」(北海道立文書館 所蔵)より
「河西由造願地図面」<簿書 7440>
左記の一葉の「図面」は、願い地に添付した図面です。(上がほぼ東です。)
その中に「陸軍御用地」と記してあります。
この土地の状況を記すと、「御用地」の場所は、東は野幌川(大曲川)・西は厚別川・南は室蘭道(現在の旧国道36号線)・北は鉄道線(函館本線)に囲まれた地域のやや南に位置した所に、「陸軍御用地 百四十四万坪」(140万4千坪の誤り)の土地があったと記載しています。
現在の地域にすると、上野幌・平岡公園東・里塚等に及ぶ周辺となります。
後に「山鼻屯田給与地」となった土地の図面となります。
国土地理院の大正5年(1916年)の地図より
左の地図の右側(東側)に「陸軍地」と小さく記されています。
大正5年になっても「陸軍地」と記していました。かなり情報が遅い感じです。
既に、「山鼻屯田給与地」でした。
「陸軍御用地」の図面として、「札幌縣治類典附録 明治十六年地所下渡願 地理課」<簿書8113>(北海道立文書館 所蔵)には、「此邊 陸軍省御用地」とあります。
明治15,16年頃から「陸軍御用地」となっていましたから、当初、「御用地」が「御料地」と音韻変化し、「御料地」と一般化したものと推測したのでした。
「御用地」からの銘々の仮設(契機)も成立しない訳ではないように思われます。
しかし、地図等を調べてみますと、戦前に「真駒内御料地」が歴然と存在していました。
続いて、「真駒内御料地」についての銘々を記す事といたします。
2,大正6年測圖昭和10年修正測圖に依る「真駒内御料地」
下の地図は、大正6年測圖昭和10年修正測圖で、「眞駒内御料地」と記されてあります。
位置については、札幌市の石山から定山渓に向かう、藤野・簾舞の南側周辺です。
「真駒内牧場」の西側に、かなり広大な面積を占める「御料地」が所在しました。
下図は「大正6年測圖昭和10年修正測圖及び修正測圖」の全体図です。
この測圖「地理調査所 石切山」には、「小瀧ノ澤・湯ノ澤」の南側に大きく「眞駒内御料地」と記されてあります。
範囲は明確ではありませんが、空沼岳の東側裾野から北側全体・簾舞川の東側全体・オカバルシ川・藤野川・藤野沢川・野々沢川の上流に相当する地域です。
また、この辺り(真駒内川の西側)には、穴ノ川(ウゴツシンネイ)がありますが、それらの上流域一帯となります。
地図から「御料」の名称を抜き出してみると、「西御料・東御料・眞駒内御料地・眞駒内御料」と記されてあります。
昭和22年発行の地図にも同じように、「眞駒内御料地」の記載があります。
ちなみに「御料地」は、「御料所(ごりょうしょ)」とも言います。
天皇(皇室)及び幕府などが所有(直接支配)した土地(直轄地)の事です。
もう少し、地域を簡略に記すと、旧定山渓鉄道の駅名、「ふじのさわ」駅から「みすまい」駅の南部に当たる周辺となります。
現在の簾舞川の上流の西御料川の東側で、簾舞・藤野一帯ですが、明治期に「簾舞官林」と称された周辺ではと思われます。
「眞駒内御料」を路線名にしたのは、昭和19年に字名が改称される以前、清田や平岡地域を「厚別(あしりべつ)」・有明地域を「公有地」・滝野地域を「器械場」・常磐地域を「土場」などの名称で呼んでいましたが、知名度が低かったのかも知れません。
3.「札幌郡之圖」の地図による「眞駒内御料地」
下図は、筆者の「札幌郡之圖」の模写図です。官林名が記されています。
北海道大学北方資料室 所蔵
先の「札幌郡之圖」の全体図となります。
北海道大学北方資料室 所蔵
縮尺:1:125,000
北大北方資料室:図類209
内容説明:とくに官林およびその境界線を詳しく示す。
明治14・15年頃の地図か。
0D012210000000000
申請不要
「札幌郡之圖」には、札幌郡に所在した多くの「官林」名が記載されています。
「官林」については、先の「札幌郡之圖」の模写図を参照ください。
豊平川の中流に「八垂別官林・砥山官林・円山官林」、その上流に「簾舞官林・札幌官林・薄別官林・湯沢官林・白川官林」、発寒川の上流には「発寒官林」、石狩川と厚別川の間には「野津幌官林・輪厚官林・島松官林・月寒官林・厚別官林」があり、厚別水車器械所の用材や札幌区の建物のため「工業課属地・勧業課属地(本来は厚別官林)」が記されています。
〇札幌郡内の「御料官林境界」について
先の「札幌郡之圖」の模写図に、本来は記されていない赤線 ―が挿入してあります。
それは、「石狩國札幌郡札幌御料官林境界圖」<1898年・明治31年製作 軸物>
(北海道立文書館 所蔵)の図面より、「御料官林境界」を便宜上記載したものです。
正確を期しましたが、測図の際のゆがみが等あり、概略として捉えて頂きたいと思います。
「御料官林境界圖」から読み取れる事は、明治31年当時、札幌郡内の御料官林として、「簾舞官林・札幌官林・薄別官林・湯沢官林・白川官林」が該当すると言う事です。
札幌区の西側の官林のほとんどが御料林となっていたと言う事になります。
「御料林」の管理・管轄は、御料局・帝室林野局が設置され、明治から昭和の戦前まで御料林の管理経営を行っていました。しかし、第二次世界大戦後の昭和22年(1947年)に廃止されています。
4.御料地・御料林について
「新札幌市史」第2巻に、「御料林」について記していますので、転載します。
第3章 周辺農村の発展と農業の振興 第六編 道都への出発<P767> より
日清戦争後、移民の北海道流入にもとづいて次第に未開地の貸下・払下にも支障をきたしてきた。このため、(明治)三十一年には北海道御料地内農業地貸下規程を定め、貸下を許可した。(明治)三十三年以降簾舞に御料地内小作地(御料農場)が出現したのはこのためである。 (以下略)
明治の末期から昭和20年の第2次世界大戦が終わるまで、国土地理院の地図には大きく「眞駒内御料地」と記していましたから、札幌周辺に在住の人々にはかなり認知されていた事実と思われます。
現在の清田区平岡地域の「真駒内御料札幌線」は、「厚別」「公有地」「器械場」「土場」を通って、起点である札幌市南区常盤6条2丁目(国道453号交点)に行き着きます。
昭和36年(1961年)当時、開発が余り進んでいない時代です。名称を「平岡・有明・滝野・常磐」等と付けても、理解出来兼ねる名称であった可能性を感じます。
そこで、起点の常盤に近い皇室の所有地であった「真駒内御料地」を目印にして、銘々したものと思われます。(この道を「御料線」と呼び行き来した人がいたのでしょう。)
戦前の皇室の権威や知名度は、現在と比べ物にならない程、大きかったと言えます。
参考として、「大正6年測圖昭和10年修正測圖及び修正測圖」には、恵庭村の漁(イザり)川の上流に、「漁御料地」があり、また、盤尻の箇所には「川端御料」が所在していました。
道内の各地に、「御料(林)地」があり、その知名度が高かったための銘々と推定されます。
5.札幌支庁管内の御料地のこと
明治39年11月1日現在の札幌支庁管内の御料地については、北海道立図書館に「御料局札幌支廰管内御料地位置面積並管理區域一覧表」に、次の様な記載があります。
札幌出張所(位置 札幌區北二條西一丁目)関係のみを抜粋して掲載します。
〇名称 定山渓・簾舞 〇位置 札幌郡豊平村大字平岸 〇國 石狩
〇郡區 札幌・札幌區 〇町村 豊平・札幌・圓山
〇大字・御料林名・林地及び農地の面積 以下の通りです。
その1<定山渓>
林地が、合計で 31373町7反4畝19歩、農地が、390町5反2畝となっていました。 (注:1町は、約1ha となります。)
その2<簾 舞>
林地が、計で 7,803町4反9畝05歩、農地が、545町8反6畝07歩となっていました。<定山渓>31,764町2反6畝19歩 <簾舞>8,349町3反5畝12歩との合計が、40,113町6反2畝01歩(約4万ha)の広大な御料地でした。
札幌支庁管内の御料地の記録としては、北海道立図書館や北海道立文書館に多くの文書が有りますが、もう1つだけ<資料>として掲載します。
「昭和8年10月 管内御料地概要 帝室林野局札幌支局」の文書です。
「御料地面積表 其二 昭和八年六月三十日現在」<P8,9>として、
上記の様な御料地があったことが記されています。
明治39年の「御料地」が約4万ha(町)であったのに対し、昭和8年には約9万ha(町)となっています。帝室林野局札幌支局が、札幌近郊ばかりでなく輪厚・漁(いざり)・厚田・浜益の地域を御料地としたことに依るものと資料から読み取れます。
その中で、明治39年11月1日現在、札幌支庁管内の御料地に「眞駒内」と記載されてありますが、昭和8年10月 管内御料では、「簾舞」の一部となっています。
「眞駒内御料地」の名称は、明治の「御料林名」がそのまま引き継がれて、地図などに記載されたものと思われます。
但し、戦後程なくして皇室の「御料地(林)」が解放され、地図上から「眞駒内御料地」の記載がなくなりました。
現在の状況(最早、「眞駒内御料地」は存在していません。)では、名称として適当であるか判断付きかねますが、当時としては分かり易かったのかも知れません。
歴史を残す事を考慮すると、「真駒内御料札幌線」の名称は、大切にされるべきでないかと考えます。(なかなか難しいところのある名称ですが・・・・)
尚、現在の地図の中に、「厚別滝野公園通」と記してある道路図があります。
「厚別滝野公園通」は、「札幌圏都市計画道路の区間」で、真栄5条2丁目以北の区間となっています。こちらの方が誰もが(車を運転する際など)、より理解がし易いと感じました。
<付記として> 「簾舞」地域の範囲について
ところで、「簾舞」と称される地域は、「簾舞(通行屋)」の周辺だけでなく、明治初期には、石山の西側から定山渓に至るかなり広範囲な地域を指していました。その後、藤野から小金湯の間の国道230号沿いの地域(豊滝を含む)全体を指しました。
旧豊平町大字平岸村字簾舞(昭和19年改正)での字名として、『野の沢・東御料・西御料・上砥山・下砥山・板割沢・東簾舞・西簾舞』を含む範囲と狭くなっています。
「簾舞」は、アイヌ語で「ニセイ・オマップ、ニセイ・オマプ(絶壁の処・峡谷にある川)」と呼ばれていたのがなまり、「ミソマップ(簾舞)」となったと、山田秀三氏が記しています。
開拓使が、明治5年(1872年)に「簾舞」の漢字を当てています。尚、「絶壁の処」とは、「豊平川」の川崖を意味しているとしています。
6.現在の地図に置いての「眞駒内御料地」について
下記は、国土地理院 昭和50年第2回改測 平成18年改新 平成18年10月1日発行(部分図)の地図です。(注:簾舞地域を主とした地図のみとしました)
豊平川の南側には、川に沿う様に石山から定山渓へと国道230号が走っています。
その下方には、石山・藤野・簾舞の地域が広がっています。
そして、石山には真駒内川・穴の川、藤野には、オカバルシ川・野々沢川、簾舞には、簾舞川が流れています。簾舞川の上流には支流の「西御料川」(地図の左下)が現在も銘々されて残されています。南側全体は、山地となっていますから、焼山の他に、藤野スキー場・すすらんゴルフ場・真駒内スキー場などの施設が各所に設けられています。
「御料地」が所在したのは、豊平川の北側支流の白川に沿ったかつての「白川官林」と思われます。此処には、烏帽子岳・手稲山などの山々が連なっています。
そして、豊平川の南側支流野々沢川の上流のすずらんゴルフ場から真駒内スキー場・真駒内ゴルフ場の下部周辺の西側と言う事が出来そうです。かつての簾舞官林・札幌官林であったところです。
此処には、空沼岳・札幌岳などの山々があり、深い森林地帯となっています。
次いで、もう少し地図の南側(下側)を見て行く事にします。
下記は、国土地理院 昭和50年第2回改測 平成18年改新 平成18年10月1日発行(部分図)の地図です。
そこには、真駒内川と支流が東西に横断するように各河川が流れています。
北側から、鳥居沢川・真駒内川・小滝の沢川・中の沢川・湯の沢川・万計沢川などがあり、空沼岳の麓からの流れと思われる川筋を探し出すことが出来ます。
そして、この真駒内川の下流筋一帯が、「真駒内御料地」であったようです。
「大正6年測圖」には、名称について明確に記しているのですが、その範囲については明示しておりませんから、正確に捉えられません。
地図を比較参照しながら「真駒内御料地」であったと思われるとして置きます。
以上です。「真駒内御料札幌線」(道道ですが、全線が札幌市管理路線です。)の名称が消え失せないうちに記して置きました。
参考として、「真駒内御料札幌線」の全線の地図を掲げて置きます。
<参考>
下図の橙色のー線が、「真駒内御料札幌線」となります。
「真駒内御料札幌線 OpenStreetMap」より
注:下図の「真駒内御料札幌線」の道は、筆者が彩色を施したものです。
上記の地図を眺めて見ますと、「真駒内御料線」が「厚別川」を遡る形で進みます。
上流域に達し、「滝野すずらん公園丘陵」を過ぎると、戦前には判然と「真駒内御料地」が所在したと思われる位置に達します。
「(陸軍)御用地」から「(真駒内)御料地」へ(国道453号線「真駒内通」を北上すると札幌区へ)と通じる道を「真駒内御料札幌線」と銘々した理由を、少しでも納得し理解して頂けたならば幸いです。
記:きよた あゆみ(草之)