昭和42年 北野地域に所在した「水稲試験場」
1.稲作の試験場の設置
明治の初期、北海道は寒さが厳しいため、稲作米作りには向かいないとされました。
北海道開拓の顧問をされたケプロンや、 札幌農学校のクラーク博士も畑作、酪農を奨励しました。屯田兵の人々には、稲作の禁止が出された程です。
しかし、本州から移住した人々は、長い稲作文化に育ってきましたから、当然米作りについては、「熱い思い」を持っていたのです。
移住した農民の多くが、稲作づくりに夢を見ながらの渡道であったと言えます。
そして、明治20年代になると、道内の各地で稲作づくりに見通しと手応えがあるとの情報が駆け巡り、用水路の開削が次々と行われた結果、稲の大きな収穫を得たのです。
明治26年(1893年)になると、「札幌郡白石村北海道庁試験場」が設置される等、道庁も遅ればせながら、「米作の権威者」酒匂常明(さこう つねあき)が財務部長に就任するに至って、稲作奨励に転換したわけです。
その結果、北海道の稲作については、肥料をきちんと与え、植え付け時期は早めにし、籾については品種を選び播種(はしゅ:種をまく)することで可能であるとの結果が出されたのでした。
2.清田の稲作
厚別地域の稲作作りについては、「郷土史あしりべつ」(昭和46年5月発行)P108に
と、明治10年頃に稲作を現在の清田小学校のグランド周辺で行ったと記しています。
「休泊所」を経営していた中西安蔵が都合により、留守(管理人)を長岡重治に依頼した届書の文書では、明治11年4月21日付けとなっていますから、この頃と思われます。
「休泊所」の敷地内に厚別川が流れていた事で、条件がそろっていたと思われます。
「昭和7年7月調査 札幌郡豊平町字月寒村土地整理原圖 第六十號」より
(札幌法務局南主張所 所蔵)「旧地番地図」図面より
左図は、昭和7年当時の清田小学校の ━校舎と━敷地(グランド含む)の様子です。学校の南側グランド附近には、厚別川の蛇行した流れが敷地に接するように流れています。
注:「黄緑」の線は、「休泊所」の宅地を示し、「黄土色」の線は、耕地を示しています。
「廣島町の歩み」には、中山久蔵より頒布(はんぷ)のあった方々の氏名が記してあります。
一 籾(もみ)種壱俵糯米(もちごめ)種五升 月寒村 長 岡 重 治
「廣島町の歩み」の記録では、月寒村の星川喜助・長岡重治が、中山久蔵からの籾種の頒布を早い時期に受けていたのです。この記録にない初期段階でも、何回か交流を行い籾の頒布があった事が考えられます。
厚別(清田地域)・月寒村の人々の稲作に対する熱い「思い」が伝わってきます。
3.北野に所在した「北海道農業試験場 水稲圃(ほ)場」
〇住宅地図の「水稲試験圃場」その1
昭和45年度版(1970年)ゼンリン住宅地図
札幌市(南部郊外編)<P57>より
「北海道農業試験場」と「水稲試験圃場」の記載があります。
左記の地図は、現在の北野5条4丁目の周辺となります。
西側に厚別川が流れています。(厚別川は蛇行しています。川の直線化される以前の状況です。)
注:住宅地図は、前年に調査した地域の情報を、翌年に印刷発行することが多いようです。ですから、この地図は昭和44年頃と考えられます。
厚別川から水を引いて、ため池のようなものを作り、水温を上げた水を田に注ぎ入れる方式をとっているようです。(用水ポンプなどを使用したのかも知れません。)
田の水が十分に満たされると、余った水は、水路を通って再び厚別川に排水するよう、捨て水の水路が田圃(たんぼ)の北側に設定されています。
田に仕切り(あぜ道)を造り、田の水稲の状況が確かめられるように工夫されているように思われます。
田圃の面積は、概算ですが、150a(4500坪)程であったと思われます。
〇住宅地図の「水稲試験圃場」その2
昭和53年10月(1979年)発行
ほっかいの住宅地図
札幌市(豊平区編)<P170>より
厚別川が西側を流れています。
「北農試水稲試験圃場」と記しています。(北農試は、北海道農業試験場の略)
田圃の区画が、22個に分けてあります。「水稲試験圃場」は、高木橋と田の中橋の間に所在してありました。
田の中橋の辺りから水路を造り、必要な水量を補給していたようです。
敷地の区画は明確ではありませんが、かなり広い面積を保有しているように思われます。
4.「北海道農業試験場 水稲圃場」の設置
「北海道農業試験場 水稲圃場」が北野地域に設定された事について、「清田百年史」(昭和51年(1976年)9月発行 P340)には、次の様な説明がなされています。
『全盛期には北野に水稲試験場が設けられ、本道の稲作りの試験田となって、北海道の稲作りに大きな役割をもたらした・・・・・(以下略)』と、記されています。
しかし、いつ頃に設置されたかについては触れられておりません。
「北海道農業試験場 水稲圃場」が、清田区に所在して、北海道の稲作づくりに重要な役割を果たしたのですから、きちんと確かめて置く必要を感じました。
5.「北海道農業試験場(現 農研機構北海道農業研究センター)」の方の情報
そこで、「農研機構北海道農業研究センター」に問い合わせてみました。
その質問に対しまして、北野の水稲試験圃場が移転してから、かなり時間が経っていましたが、記録として残っていた文書によって、設置年や経過等のご回答がありました。
北野に所在した「水稲試験圃場」についての記載の内容を記して置きます。
1990年(平成2年)発行の「北海道農業試験場 場報」より <抜粋>
しかし、1975年(昭和50年)頃から用水の確保が困難になってきたこと、圃場周囲の住宅化が進み交通事情が悪化してきたことなど、さまざまな問題が顕在化してきました。このため水田委員会を中心に水田移転の検討が進められ …(中略)…ようやく羊ヶ丘に移転することが決まりました。
工事は1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)までの2年間にわたり進められました。
新しい水田圃場は、北海道農業試験場のからまつ並木横に移されて水稲の研究が続けられました。 (以下省略)
との、圃場についてのいきさつが分かり易く記録として残されていました。
上記の記載により、北野の水稲試験圃場は、北海道農業試験場に近い場所に所在したことによって、設置された事が分かりました。
また、北野(北野5条4丁目)の「北海道農業試験場の圃場」が、1967年(昭和42年)から1987年(昭和62年)頃までの20数年間にわたり北海道産米の研究に関わっていた事も判明しました。
そして、「北海道農業研究センター」が育成した水稲で、現在一般に流通している品種として「おぼろづき」がありますが、その研究開発が始まったのは記録によると1995年(平成7年)からで、すでに水田圃場は北野地域から羊ヶ丘の圃場に移転した後になるとの事でした。
以上のような事から、水稲づくりの研究は、「北野の圃場」から「羊が丘の圃場」へと連綿と引き継がれていたのでした。
このような経過を考えると、北野の水稲試験圃場が、水稲づくりの研究の分野の一端を担っていた事となり、ロマンを感じずにはいられません。
稲の研究については、現在では、品種改良、肥料の可否、作付けの時期などといった初期の分野だけでなく多岐にわたっていますので、ここでは記載を控えたいと思います。
6.住宅地図にある「北野水稲試験地」
平成4年度版(1992年)ゼンリン住宅地図 札幌市(豊平区)
地番は、北野5条4丁目です。
「農林水産省北海道農業試験場 北野水稲試験地」の記載があります。
地図には「農林水産省北海道農業試験場 北野水稲試験地」の記載があります。
圃場が4つに仕切られ、整然とした形に造られています。試験場らしき形態となっていますが、水稲の試験は行われていなかったと思われます。
注:圃場の工事を終えて、区画は、道路などを設定した後の状況であると推測します。
平成5年度版(1993年)ゼンリン住宅地図 札幌市(豊平区)
地番は、北野5条4丁目です。
「農林水産省北海道農業試験場 北野水稲試験地」などの記載は、一切ありません。
田圃の形跡、あぜ道の跡、田圃に水を引いていた水路の跡も全くありません。
わずかに、ため池らしきものを見受けます。
以上のことから、「水稲試験場」の土地は、完全に更地として戻したものと思われます。
令和3年地図(2021年)より
当時の「北海道農業試験場」「水稲試験圃場」の跡地は、現在「北野中央公園」及び「北野サンタウン」となっています。
尚、「北野中央公園」は、2つの公園から形成されたような形となっています。
「ふよう公園」が試験場の敷地であったのかは未詳です。
まとめとして
北海道の稲作の記録としては、比較的温暖な道南地方の北斗市付近で開田から始まり、北海道全域へと拡大していきました。品種改良や生産技術の進歩によってオホーツク地域での栽培も可能になっています。
そして、昭和30年には173,600haから、昭和44年(1969年)には、北海道の作付面積は266,200haと、日本一までになりました。
しかし、米の需要が、昭和37年(1962年)をピークに減少し、昭和45年、政府は「生産調整」による減産政策を実施しました。
その結果、稲作農家の離農が相次ぎ、北海道米の作付面積は、昭和48年(1973年)には、145,300haにまで落ち込んだのです。
※ 北海道の稲作づくりの現状としては、食生活の変化による需要減と担い手の高齢化等が課題としてあり、その経緯による作付面積の数字となっています。
昭和55年にスタートした「特別自主流通米制度」では、北海道米は、品種銘柄による販売が可能となりましたが、裏返せば、販売先を探さなければならなくなりました。
そこで、北海道庁は「やっかいどう米」と揶揄(やゆ)された米から脱却し、「優良米」作りに向け、「早期開発試験プロジェクト」を設置しました。
美味しい北海道米を目指しての品種改良への取り組みが始まったのです。
そうしてついに、昭和63年「きらら397」などの新種の稲が誕生したのです。
美味しい優秀な北海道米が作り上げられる過程の中には、紆余曲折があっての結果なのですが、その地道な研究に「農林水産省北海道農業試験場 北野水稲試験地」が一翼を担い関わっていた事を、清田の歴史に刻んで置きたいと思います。
記:きよた あゆみ(草之)