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昭和45年 厚別(あしりべつ)青年会と「清田会館」

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昭和45年 厚別(あしりべつ)青年会と「清田会館」

はじめに
 あしりべつ神社の境内の東側に昭和45年(1970年)建設され地域住民に親しまれてきました「清田会館」が、平成14年(2002年)11月に解体され、32年間の歴史に幕がおろされました。
 清田会館と言っても、最早知っておられる方も少なくなったのではと思われます。
 「あしりべつ」地域にとってこの清田会館は、多くの「思い」が詰まった建物でした。

 私の手元に、「清田会館の歴史―追想―」と題する冊子があります。

52頁程の本となっています。
発行:平成15年10月
編纂:泉 豊吉(清田幼稚園園長)
監修:長岡 武夫
(清田会館運営委員会長)
 そこには、「あしりべつ」に明治初期に移り住んだ代々の青年たちが、あしりべつの地に根差し、様々な活動を通してこの地を愛し、郷土への奉仕を目指した足跡が記されています。

 ここでは、青年会(青年の山)の誕生の契機と「清田会館」の建設と解散までについて記したいと思います。詳しくは、冊子「清田会館の歴史」(あしりべつ郷土館 所蔵)をご参照ください。

1.「厚別青年会」のこと
「清田会館の歴史」より転載します。 <P10より>

(一) 厚別青年会の誕生
 先人が厚別に入植してから四五年、代が変わり開拓人口も増え、耕地も急速に広がってきた。第一次世界大戦の最中、勤勉・倹約の精神と逞しい開拓魂を持ち合わせた厚別の青年たちは、自らの郷土「あしりべつ」の発展のために遠大な計画を持っていた。その一つが、青年会の発足である。
 大正三年六月一日厚別青年会が設立された。厚別青年会は、労働・研修・奉仕に大きな夢をかけ即座に活動を開始した。
(二) 青年会と部落の活動
 厚別青年会は神社に関係する事や部落の活動の推進役を務めていた様である。神社の新築に関わる行事について次の様な記述がある。
 『大正六年五月一日、厚別神社新築落成式を挙行す。午後三時餅蒔きを行い、これより本会主催に係る手踊芝居あり。同午後十一時迄興行し盛会裡に解散せり。』
(三) 青年の山の購入
 大正初期の青年は、開拓に入った初代の精神である勤勉の文字そのままを実践で表現し、元老の意見を聴しつつ(ママ)常に地域社会の中枢として活躍していた。
 互いに固い団結で地域発展のために心血を注ぎ、今日の郷土建設への強固な基盤を一歩一歩着実に築いていた。
 厚別青年会は一致団結して活動をする中で、大きな事業について話し合ってきた。
 以前から、各自毎月五銭貯金をして積み立てたり全会員が毎年二回市有林の下草刈りをしたり種々の活動により資金も蓄えてきた。そこで得た結論は、山林を買うことだった。植林をしたりして得た資金は郷土のために生かしたいと願った。

 大正3年(1914年)6月1日に、郷土愛に燃える青年たちによって「厚別青年会」が結成し、設立された。「労働・研修・奉仕に大きな夢をかけ、即座に活動を開始した。」とあるように、結束力によって「あしりべつの地域」の発展を支えようとする意気込みが伝わってきます。各自の貯金や労働奉仕、そして、郷土のための山林の購入と一人一人が地域に貢献することを厭わず、目的に向かって邁進している姿が目に浮かぶようです。

 左図は、大正3年(1914年)12月8日に地主 太田喜三氏から取得した山林(落葉松林)の位置です。
 現在の北野2条2丁目付近の<霜踏山>と呼ばれた小高い山でした。
 注:「霜踏山(しもふみやま)」は、「霜降山(しもふりやま)」とも呼ばれました。
 場所は、札幌郡豊平町大字厚別 特七百六十七番地。
 面積は、二町九反二畝二五歩也でした。
 登記月日は、大正3年12月18日登記完了。
 買入金は、137円50銭にて契約しました。
 翌年には、桜500本・松200本・落葉松5000本を植樹しています。

  厚別青年団基本財産全景  現在の北野3条2丁目付近 <霜踏(降)山>

<霜踏山(しもふみやま)の広さ>
 清田通りの東側に当たる地域で、南北の長さは、光圓寺の北側から北野児童会館(北野連合会館)の辺りまでの約1,000mで、北野小学校・ホーマックデポを含みます。
 現在の北野2条2丁目・北野3条2丁目・北野4条2丁目の周辺でした。
 東西の長さは、約200mで、かなり広い面積の高台となっていました。
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 このような活動は、大正の結成期から昭和の20年代まで続いていました。
 しかし、厚別(あしりべつ)地域は、昭和30年代に入ると住宅地の造成が進み、急激な変化が見られる様になり住人の流入が続きました。
 あしりべつに昔から住んでいた人は150戸ほどに対し、新しい住人はその5倍の1000戸となりました。青年団の入会も減少しついには2,3名となってしましました。
 そこで、昭和40年「厚別(あしりべつ青年会」を解散することにしました。
 次いで、昭和42年(1967年)7月10日「厚別青年団基本財産開発期成会」が発足し、「厚別青年会」の財産を「清田会館」建設に向けて動き出す事となったのです。

 注:「厚別青年会」については、「平岡農事実行組合創立六十周年記念史 ひらおか」及び「郷土誌あしりべつ」に日誌の記録が記されてあります。参照ください。

2.「清田会館」建設のこと 
「清田会館の歴史」より転載します。 <P30より>

 一、清田会館
 この会館は、大正三年に当時厚別青年会が将来のために取得した「青年の山」の売却により厚別神社と共に昭和四五年九月に一五〇〇万円を投じて建立されたものである。この種の地区会館としてはまれにみる広い設備の整えられた立派な建物で、地区住民の誇りでもあった。
  (一)青年の山身売り
     道新四五・三・三付記事
 市の東南部、国道三六号線に沿った旧アシリベツ地区は、明治初年に開拓の鍬がおろされたリンゴと野菜と米の産地。近年は交通の便利な住宅地として変容が激しく、田畑は年ごとに切り売りされて、モダンな家々が立ち並ぶようになった。
 大正三年頃当時の厚別(あしりべつ)青年団員たちが団の財産作りに植林した丘「青年の山」にも、宅地化の波が押し寄せてきた。そのころの青年団員だった高木喜作さん(七八)らはいずれも八〇歳近く、地元に残るのは高木さんの他二、三人だけ。いっそ「青年の山」を売って、代金を地元のために生かしてはと計画、青年団の後輩に当たる平岡、農業、北川成好さん(六五)らが、このプランを引き受けた。
 二・三ヘクタールの山林は二四〇〇万円で売れた。「これで地区会館と運動場を作ろう」 そして、さらに町内会連合会で一千万円の寄付を集めることにした。会館は、国道を見下ろす厚別神社の境内に、木造モルタル塗り二階建て、延べ三三〇平方メートルで建てることにし、赤松林の間にすでに土台がすえられた。地区の会合の他お年寄りたちの憩いの場としてフルに使う予定。グラウンド用地は、その後ろに八〇アールの畑を買収した。           (以下省略)

 この様にして、昭和45年(1970年)に「清田会館」(グランドを含む)をあしりべつ神社の境内に1500万円で建設された。
 「清田会館」の概要は次の通りとなっています。
〇建設敷地:52,5坪  〇建物:1階52,5坪 2階50,0坪 計102,5坪
〇支出:建物 937万2900円 ・道路 325万円 ・雑用費 10万円
〇「清田会館」は、木造モルタル造り、2階建、延べ330㎡。
〇その他にグランド用地80アール(現在厚別神社の駐車場他の利用がなされています。)

 厚別神社の現在裏参道としている道は、当時、清田会館への通路でした。道路用地は、経費として計上されていません。「取得(買得)」の形となっていませんから、神社の境内の用地であったと思われます。会館建設と同時に出来た道となります。

3.「清田会館」閉館のこと 
「清田会館の歴史」より転載します。 <P37より>

  会長清田会館の存続を危倶す
 当時の会館運営委員会会長の水上繁雄氏は、清田会館の存続を危倶し運営委員会の招集を行っている。
 平成一一年六月二五日
  清田会館運営委員会会長 水上 繁雄
 時下新緑の候、各位には益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
 さて、日頃清田会館運営につきましては、ご協力を賜り厚くお礼申し上げます。
 当会館も早三〇年の歳月を経て、地域の中で大事な集会所として現在まで役割を果たして参っております。しかし、時代の多様化もあって他に多くの施設も整備され、従って当会館の利用内容も全く変わってまいりました。また、同時に建物の傷みも目立って参り維持管理にも苦労が伴って参りました。しかし、歴史のある当施設の今後については慎重に対処しなければならないと思っております。
 つきましては、関係の深い皆様方にお集まりいただき忌惇のない御意見を拝聴致したいと存じますので、万障お繰り合わせの上ご出席賜りたくご案内申し上げます。
  日 時  平成一一年七月二日
  場 所  清田会館和室

 平成9年(1997年)11月に、豊平区から分区して新生「清田区」が誕生しました。
 その事により、区役所・消防署・区民センターが建設され、区内に連絡所・児童会館の設置されました。また、地域町内会会館が次々と建てられていきました。地域が大きく変化をしていったのです。
 「清田会館」の役割を果たす機関施設が清田区の各所に造られていきました。
 一方、「清田会館」は、30年の歳月を経て、施設の老朽化が進み傷みも目立ち維持管理にも経費がかさむ様になってきたのでした。
 何回かの運営委員会の話し合いを行い、平成13年(2001年)5月16日の会議において結論が出されました。「清田会館」を平成14年(2002年)10月31日付けで閉館とするとしました。会館の老朽化・維持経費の課題もありますが、時代の流れが、そのような結論を導き出す事となったと思われます。
 検討結果には、惜しくもあり、無念の思いですが仕方がないと言えます。
 平成14年11月6日「清田会館解体清祓式」を行い、「清田会館」が解体されました。
在りし日の「清田会館」航空写真

「地勢堂 札幌市航空写真地図 豊平区 geo 特別限定版」より
(昭和60年7月1日頃 出版)
<住所・地番>
・清田会館     平岡 63番地
・厚別神社     平岡 59番地
・厚別神社社務所 平岡 59番地

清田会館と厚別神社・厚別神社社務所 の配置関係がお分かりになるかと思います。
また、厚別神社社務所の北側には、清田会館グラウンドと記されています。
清田会館グラウンドを会場として、地域の様々な行事が行われました。

 地域に様々な形で貢献した「厚別青年会」の存在があって、「あしりべつ」の地に潤いと発展の萌芽を生み出して来ました。その基盤が時代の流れの中で消滅する帰結となりました。
 単に、致し方ないと見かぎることが出来ず、「厚別青年会」という地域のために動いた青年たちの思いを伝えるために、この項をまとめることにしました。

 〇 結びとして、「厚別青年会」と「清田会館」の略歴を記して置きます。

  <厚別青年会と清田会館の略歴>

大正 3年  6月1日 「厚別青年会」が設立される。
大正 3年 12月8日 「厚別青年会」が将来のために山林(土地)を取得する。(落葉松林)
場所は、札幌郡豊平町大字厚別 特七百六十七番地  2町9反2畝25歩也。現在の北野2条2丁目の<霜踏山>であった。(大正3年12月18日登記)。買入金137円50銭にて契約、土地の広さは、約6,000坪である。
昭和13年 「青年の山」で育った成木を用材として売却。
売却代金(当時2000円)で里塚に新たに土地2町5反を購入する。
場所は、現在の里塚の桂台町内会の辺り。笹山であった。
翌年より落葉松の植樹を行った。
昭和19年 厚別(あしりべつ)の地名が変更となる。
<清田・平岡・真栄・北野・里塚・有明>と呼称される。
昭和20年 昭和13年に購入した里塚の桂台町内会の辺りの落葉松林は、終戦後の農地。解放制度により未開墾地として開放される。
昭和40年 7月10日 「厚別青年団基本財産開発期成会」が発足する。
昭和44年 「清田会館」建設期成会が発足する。
昭和45年 3月3日頃 「厚別青年会」の山林(土地)2,3haが2400万円で売れる。(記事が道新に掲載される。)
昭和45年 「清田会館」(グランドを含む)をあしりべつ神社横に1500万円で建設する。建設敷地:52,5坪  建物:1階52,5坪 2階50,0坪 計102,5坪  その他にグランド用地80アール(現厚別神社の駐車場他の利用がなされている。)
昭和48年 3年後、二階階段位置の変更工事を行う。
昭和49年以降 会館の拡充について話し合いが行われる。
水道設置、暖房施設の入れ替え、屋根及びトイレの修理などを実施した。
昭和58年 一部老朽化と利用度の向上に対応するため会館の増改築が行われた。
平成5年以降 平成に入ると、支出の増大、収入減、預貯金の大幅な減額が見られる
平成9年 11月 新生「清田区」が誕生する。
区役所・消防署・区民センターが建設され、区内に連絡所・児童会館の設置があり、地域町内会会館が建てられた。(地域が大きく変化をしていった。)
平成14年 10月31日 「清田会館」が閉館となる。
平成14年 11月 「清田会館」が解体され、32年間の歴史に幕がおろされた。

 下図は、ゼンリンの住宅地1997年(平成9年)発行 札幌市豊平区<東部版>より
 あしりべつ神社の境内に在りました「清田会館」の位置図です。

 

記:きよた あゆみ(草之)

<本編>明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建

<外伝>厚別(あしりべつ)神社の「碑」について

<外伝>清田区の文化財 厚別神社の「旧本殿」

<外伝>昭和45年 厚別(あしりべつ)青年会と「清田会館」


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