真栄地域に所在した「小休所」の大隅安蔵
はじめに
あしりべつ郷土館HP「きよたのあゆみ」の『<外伝>明治3年 アシシへツ「小休所」の「木村某」について』では、札幌越新道筋に在った、真栄地域の「小休所」の守(管理人)は、「木村某」ではなく、「大隅安蔵」であったとしました。
各HPや著作物では、年代が明確でなく、管理人を「木村某」であるとの記載が様々に有ったからです。そのため、「大隅安蔵」の資料(根拠)が有る事を提示しました。
ここでは、明治3年12月に設置された記録と共に、「小休所」の守(管理者)が、「大隅安蔵」である資料の提示と、「中西安蔵」小休所守(管理人)の関係について記してみたいと思います。
1.アシリベツの「小休所」の設置について
札幌越新道筋(旧道筋)にあった「小休所」(通行屋)に関する資料として「北海道志」に、次の様に記されています。
「北海道志」(明治17年3月大蔵省刊行)の<地理の条>より
白石村ノ南ニ在リ明治四年岩手縣ノ民ヲ募リ移住セシム
厚別ト唱フル所アリ 此地ハ明治三年十二月開拓使三等出仕西村貞陽権幹事タリシ時函館ヨリ札幌ニ赴クニ當リ属官ト共ニ大雪中露宿セシ所ナリ當時札幌千歳十里許ノ間唯漁村土人ノ家及ヒ島松ニ漁人ノ空家アルノミ故ニ千歳ヨリ糧ヲ齎シ空家ニ泊シ翌日札幌ニ達スヘシ時ニ大雪人跡絶シ路脈ヲ辨セス先導土人ノ足跡ヲ踏ミ行ク中途日暮ル終ニ六尺有餘ノ積雪ヲ穿チ火ヲ燃シテ天明ヲ待ツ其困難ナルヲ以テ札幌ニ至ル後奨助シテ休泊所ヲ此ニ設ケシム
是千歳札幌間移住民ノ居ヲトスル始ナリ 四年村名ヲ付ス
開拓使三等出仕西村貞陽(さだあき)権幹事が、札幌に赴任した際の事が記されています。
明治3年12月「厚別・あしりべつ」に着いたが、宿泊したり休憩する様な施設がなくて難儀(遭難)しそうになり、そこで「奨助シテ休泊所ヲ此ニ設ケシム」とあり、「休泊所(小休所)」が設けられた理由が記されています。
2.西村権監事が遭難をした日付について
西村権監事が札幌に到着の日取りについては、「新札幌市史 第2巻」<P78>では、次の様に記しています。<資料は「十文字日記」に依っています。>
「新札幌市史 第2巻」<P78>より
(十文字日記)。 広川大主典は十一月二十二日函館を出発する。
(細大日誌 函図、東久世長官「日録」では広川大主典の函館を出発は、23日。)
(広川大主典の札幌着は、十文字大主典の『日記』では、12月9日頃です。)
この記述では、西村権監事が札幌に到着したのは、11月晦日(30日)としています。
月寒村厚別で難儀(遭難)したのは、前日の29日から30日という事になります。
後から函館を出発した広川大主典は、12月9日頃に札幌に着いています。
明治3年の11月の晦日頃の到着は間違いないようです。大雪で難儀(遭難)した事も確かであったようです。もう少し資料を求めると、次のような記述があります。
「十文字日記」(新札幌市史 第六巻) <P772>より
巳の中刻橋爪外独り来り西村昨夜野宿の段幷迎の人足幷槍の相談也則川辺江申遣ス時ニ同人泊り也○巳の下刻出頭○午の中刻過西村着を報ス○申の八分下宿直ニ西村ヲ訪ふ嶋氏干今閑暇也と」(ママ)小樽ハ出店の都合黒沢ヲ呼候様ニと外水沢の者の事を申談し度と彼れ疲れ候ハ必然也早々ニして去ル (以下略)
と記されてあります。 明治3年11月30日(晴れ)の日記としての記録です。
〇巳(み)の刻は、現在の午前10時正刻です。巳の中刻は、10時20分頃となります。
橋爪の他に独り来て、西村権監事が昨夜野宿をした等の話をする。〇巳の下刻(11時頃、(開拓使に)出頭する。〇午(うま・12時正刻)の中刻過ぎ(午前12時20分過頃)「西村権監事が札幌に到着した」事を報告する。〇その後、(十文字龍助は、)申(午後4時正刻)の八分(4時40分頃か?)に西村権監事の下宿を訪問する。(彼れ・西村権監事が、)「疲れ候ハ必然也 早々ニして去ル」と、配慮をしたとしています。
以上の資料から、西村権監事が、大雪に依り野宿したのは11月29日で、札幌の到着は、明治3年11月30日(晦日)となります。
西村権監事は、札幌に着いて、後から札幌に来る広川大主典に配慮するため、急遽、厚別(あしりべつ)に休泊する様な施設を造るよう、開拓使に進言したと思われます。
それは、12月6日の日記に、(福原)亀吉(アシシベツ小屋建設大工請負)の妻が、十文字龍助宅を訪れ、「通行小家江(通行小屋へ)大工ヲ遣候(遣わし候)様子」と記してあるので、この頃(12月3日~6日頃)には通行屋(小休所)の建設に関わった事が窺われます。
広川大主典が札幌に12月9日頃に着いていますから、それ以前に、15坪程の仮小屋(小休所)が造られていたと思われます。
3.明治3年の「アシヽへツ通行家」の除雪のこと
十文字龍助関係文書「御金遣払帖 札幌分 控」の「午七月より同十二月迠」より
注:「午七月より同十二月迠」は、明治3年(庚(かのえ)午(うま))の7月から12月までの控えです。
(新札幌市史 第6巻 P719より)「アシヽへツ通行家」のことが記載されてあります。
同(注:廿九日)の月は、12月です。この記載は、明治3年12月29日となります。
この文書は、明治3年12月29日、「アシヽへツ通行家」に、かなりの雪が積もっていたための対応策です。通行屋(小泊所)の利用を可能にするため、除雪を福原亀吉に依頼した文書となります。
言うまでもなく、「アシヽへツ通行家」は、真栄地域の「あしりべつ小休所」です。
この時点では、「小休所」の管理人が決まっていなかった事が推測されます。
(札幌文庫・別冊 「札幌歴史地図」<明治編> 昭和53年9月出版)より
上記「一之御宮」の右隣に、大工関係の人々が住まいしていた様子が分かります。
右端長屋より、大工亀吉居小家・大工弥平衛居小家・木挽金十郎、(その左隣の長屋には)大工甚八・土方友次郎、由松 の名前が記されてあります。総勢で6名です。
※ 年代的に、篠路・簾舞・常山渓・三樽別等の小休所・休泊所の建設を、福原亀吉が請け負ったと思われます。
新札幌市史の「福沢((ママ))亀吉」に「ママ」とあるのは、「福原(ふくはら)亀吉」の誤りであることを指摘しているものと思われます。
明治3年12月29日に、「アシヽへツ通行家」他の雪除(除雪)を大工頭取の福原亀吉に、「金 174両1分永245文」を支払っています。
※ 雪除の賃金の支払いの記載により、小休所への管理・配慮が窺える記録となりました。
◎12月に出来上がった仮小屋(小休所)について、「開拓使事業報告 原稿」には、次の様に経過等が記してあります。
「開拓使事業報告原稿 工業課報告 札幌」(簿書7141)より
地名は、石狩國札幌郡月寒村字芦別。「芦別」は、厚別で、アシリベツのことです。
経費は、384円59銭でした。新築ではなく修繕としてあり(明治4年の記録を基本とするためです。)、「小休所建直幷建足」となっています。
坪数については、2つに分けて記してあります。
1つは、「15坪」で、明治3年12月に急遽<起工>したアシヽベツ小屋です。
もう1つは、「14坪7合5勺」で、明治4年に雪解けを待って立て直しと増設をし、12月に<竣功>した、合計で29坪7合5勺の「小休所」となりました。
それでは、「小休所」の経営・管理はどのようにして行っていたかを見てみます。
4.アシリベツの大隅安蔵の「通行屋」(「小休所」)
「従明治三年 至同四年 農夫扶助米並び塩噌料
仕上ヶ御勘定帳 開墾掛」(簿書 322)
(北海道立文書館 所蔵)
この文書の中に「アシヽへツ通行家」に対する扶助の記録があります。
あしりべつの旧道沿い(札幌越新道)に「小休所」が、明治3年12月に起工しました。
未完成ですが、「小休所」の管理が必要でした。「仕上ヶ御勘定帳」には、設置された「仮小屋」(アシヽベツ小屋)に、明治4年2月から、大隅安蔵が選任され、家族(人員)5名が共に住まいし、管理を行うために米及び金銭を扶助された記載があります。
<明治4年2月から10月までの記録>
「小休所」が、「アシヽベツ小屋」から「休泊所」へと名称が変化し、建設が進行している様子が分かります。当時、森林地帯だった厚別(あしりべつ)地域の中に在って、扶助なしに生活することが不可能な環境であったため、米・味噌・醤油や金銭等が支給されました。
<扶助の様子について>
明治4年3月の記録には、米6斗9升6合が、アシヽヘツ小屋の大隅安蔵(家族の人員5名)当てへ給与されています。内訳は、5人の内15才以上4人に1日1人に付き米5合で計5斗8升(29日分)、14才から10才迄1人で、1日1人に付き米4合で計1斗1升6合(29日分)が届けられたことになっています。1か月分の給与記録となります。
「小休所」(アシヽベツ小屋)が、開拓使による建設であることは、記録用紙を見ても明確です。経営・管理人(守)は、大隅安蔵となっています。
※ 「豊平町史」等に記された管理人名の「木村某」なる名前は、どこにも記しておりません。全く関係が無かったと筆者は考えております。
5.明治6年 中西安蔵の検地図面
この図面は、真栄地域に在った「小休所」を検地したものです。
「アシヽヘツ」の中西安蔵の土地を、明治6年7月7日に調査した図面です。
「明治六年
札幌村外十一ヶ村検地野帳 」
月寒村 七月七日調
北海道立文書館所蔵 より
(道文00655)
○検地四十五番
中西安蔵の検地
「札幌越新道」(旧道筋)の検地で、「札幌本道」に移転する以前の記録となります。
明治4年2月の時点では、姓名を「大隅安蔵」としていましたが、明治6年7月7日の時には、「中西安蔵」と名前が変わっています。
耕地が2つに区分され、大きい方が三十間×二十四間 七百九坪とし、小さい方は二十二間×二十二間・四百八十四坪と記しています。
また、中西安蔵の家族が五人で「休泊所守」をしていると記し、休泊所らしき建物とその傍らに小屋が1軒(納屋・馬小屋と思われる)あったように素描しています。
中西安蔵は、「休泊所」を経営するかたわら、蔬菜等を得るため土地の開墾に精を尽くしていたと思われます。
この検地の他に、「明治12年 地価創定請書」の記録があります。
「明治12年 地価創定請書」(簿書3148)より (北海道立文書館 所蔵)
注:宅地の項には、「壬申前従来家屋當構 月寒村」と記してあります。
「壬申」は、「明治4年」の事で、その前に建築があった事を示しています。
「地価創定請書」は、開墾地の宅地と耕地(不動産)を記した記録となります。
明治4年の時点で、大隅安蔵でしたが、明治12年の時点で中西安蔵となっています。
明治4年4月割渡しの不動産ですから、同一人物の所有物件であると考えられます。
ところで、明治4年2月から10月まで、「大隅安蔵」の姓名が、明治6年7月には「中西安蔵」と姓が変更されています。同一人物と思われるのですが、同一人物であれば何故苗字を改姓したのかを推察したいと思います。
7.明治4年、旧姓、松村久蔵を改姓して中山久蔵に
「大隅安蔵」「中西安蔵」の姓について検討する前に、中山久蔵の件を記してみます。
<中山久蔵の姓について>
「中山久蔵」の本来の姓名は、「松村久蔵」でした。
松村久蔵(1828年~1919年)は、文政11年(1828年)3月21日、河内国石川郡春日村(現、大阪府南河内郡太子町春日)の農業を営む、旧家松村三右衛門の次男として生まれています。(※ 中山久蔵の履歴は、概略に留めます。)
松村久蔵は、明治4年(1871年)単身島松に入植します。苫小牧からの途中、数株の山ユリを掘ってきて、島松に植えたのが翌年以降増え続けて数十万株にもなったそうで、久蔵はこの山ユリや雑穀栽培を自分の農業の第一歩として、島松で六千坪を開墾しています。
この時期(明治4年~5年頃)、姓を「松村」から「中山」に改めています。
それは、黒田清隆長官(開拓使長官 期間・明治3年~明治5年)に、「島松の山林に開墾の鍬を入れられ、山の中に居られるので、中山と名乗りなさい。」との助言を受け、一人で立ち向かう決意を込めて「中山」の姓にしたと言われています。
上記のような、長官による姓を変更する助言の逸話が残っています。
(1)「大隅安蔵」は、「中西安蔵」と同一人物か
1つには、「大隅安蔵」と「中西安蔵」の家族数です。どちらも5人家族となっています。
亦、名前は、どちらも「安蔵」としています。
もし、「大隅安蔵」と「中西安蔵」が同一人物でないとするならば、明治4年12月から明治6年7月の1年半ほどの間に、開拓使が任命した事となります。
当時、移住者を募り進めていた時期で、居住者はそれほど多くは居りませんでした。札幌市街からほど遠い森林地帯の箇所に、他の家族を入れ替えたとは考えられません。同一家族とするのが妥当であると思われます。
それ以上は、史料が現存しませんので言及を控えます。
(2)「大隅安蔵」を「中西安蔵」と姓を替えた時期について
先に、中山久蔵の姓の変更を記しました。確かな史料は現存しませんが、「大隅安蔵」の姓の変更は、黒田清隆長官の助言を受けての変更ではないかと推察しました。
中山久蔵の西側に位置する箇所に「小休所」が所在しましたから、「中西」とするよう示唆を受けたとする推測は、時期的にも明治4年から5年ですから、それほど無理はないと考えました。
それ以上の推測・類推・憶測は避けたいと思います。
8.まとめとして
明治3年12月に急遽設置された「小休所」。それから翌年の2月に管理人とされた「大隅安蔵」の家族。そして、検地では「中西安蔵」として「小休所」守となっています。
明治6年には「札幌本道」が造成されて、本道筋の現在の清田小学校の敷地内に移設されました。移設された休泊所を、中西安蔵が守として引き継いでいます。
扶助は有ったとはいえ、鬱蒼と生い繁った森林地帯の中に在って、どのような生活を送っていたのでしょうか。
また、どのような経緯で明治3年頃に、未開の札幌にまで辿り着いたのでしょうか。
明治11年には、中西安蔵が四国に帰る事となり、長岡重治が「休泊所」を継いでいます。
「中西安蔵」は、四国のどの地方の出身なのかは、判明していません。
疑問は、いくつも残っていますが、清田地域の開墾の当初に住み着いた人物としては、月寒村の移住者に先立つ人(家族)でした。
貴重な歴史を刻んだ人物として、今後も研究を深めたいと思います。
記:きよた あゆみ(草之)
<付記>
〇 和田郁次郎の「広島村」について
北垣國道長官が酒匂常明を随員として、明治26年(1893)年10月に広島開墾の状況を視察した際、広島墾地の開拓の実況に感銘し、「一村独立の資格を十分に備えている事を認め」、村名に開拓推進の中心人物であった和田郁次郎の「和田名」をもって「和田村」とするとしました。
しかし、和田郁次郎は、この土地は広島県からの移住者によって一村を開拓したので、その件は固辞し、郷里の名を留めて「広島村」と致したいと申し出ました。
ですから、「和田村」ではなく、現在「広島村」から「北広島市」となっています。
このように、時の長官が苗字(姓名)や村名の助言をしている事実があります。