明治24年「山鼻屯田公有地」の入植者と民有地 外
~「山鼻屯田公有地」の入植地域と民有地に関する事 ~

1.山鼻屯田公有地について
 下図は「明治三十五年山鼻兵村給與配當調」(北大北方資料室 所蔵)に記載があります、「札幌郡豊平村大字月寒村所在 山鼻兵村公有財産地之圖」で、現在、札幌市豊平区羊ケ丘に所在しています「北海道農業研究センター」の敷地の一部となっています。
 :図面は、上が南となります。図の下側の道路は、国道36号線で、当時の「札幌本道(室蘭街道)」です。下方の敷地外の右側の角地(民有地)一部は、現在「札幌ドーム」が設置されてあります。
 左図の「山鼻屯田兵村公有地」は、明治24年(1891年)4・5月頃に山鼻兵村に下付された土地です。
 様々な紆余曲折があり、明治39年(1906年)7月に「農商務省 月寒種牛牧場」(面積凡そ1620町歩)が創設され、明治41年に、「月寒種畜牧場」と改称されています。
 その後も名称は次々と変わっています。
 上記の図面に「山鼻兵村公有財産地之圖 総地積 貮百拾四万壱百四坪」と、記してあります。概略の面積は、以下の通りです。
  東側の面積 (一号 原野・二号 山林)が、小計 約151万坪
  西側の面積 (三号 畑)が、小計 約 63万坪
  敷地面積が、 合計 約214万坪 です。
 明治24年に下付された「山鼻兵村公有地」には、明治28、29年頃より小作人が入植しこの土地の開墾を進めていました。小作人の戸数は、入地や移転があり)定的ではありませんが、57戸程が入っていたと思われます。

 ここでは、「山鼻兵村公有地」の入植者の氏名・入植地について、及び「月寒種牛牧場」となった右側の角地(民有地)の氏名・敷地について調査考察をする事と致します。

2.「札幌郡豊平村大字月寒村所在 山鼻兵村公有材産地之圖」 <筆者の模写図>
 「月寒種牛牧場」の設置には、吉田善太郎氏等が関り月寒村に誘致する事が決定しました。
 <敷地面積の数値>
南横 1234.6間
西縦 1309.2間
東縦 1923.6間・56間
西横(右から)81.8間・114.5間・302.6間
西縦 550.6間
北横 15.7間・30間・353.5間・25.8間・180.3間・61.3間・
69.9間・23.2間
西側の面積が、小計 約 63万坪
東側の面積が、小計 約151万坪
〇敷地面積  合計 約214万坪

 凡その面積を挙げると次のようになります。(上が南側です。)
右側(西側)の土地は、1300間×500間-2万坪(民有地)=63万坪
 縦は、1300間(約2340m)で、横が、500間(約900m)となります。
 63万坪は、面積 208万㎡=約2ha の広さとなります。
左側(東側)の土地は、1900間×800間-1万坪(民有地)=151万坪
 縦は、1900間(約3420m)で、横が、800間(約1440m)となります。
 151万坪は、面積 498万㎡=約5ha の広さとなります。
63万坪+151万坪=214万坪 総面積 706万㎡=約7ha の広さです。

注:上記の札幌ドーム外(ほぼ四角形)の敷地は、当時、民有地となっていました。その他に民有地は、南側に1か所・東側に1か所が設定されてありました。札幌ドーム外(四角形)の縦横の長さは、測量に依り、変化があったと思われますが、登記の記載数値からから、概略500間×500間が実際の状況だったようです。

3.「山鼻屯田兵村公有地」の経緯
(1)公有地の対応
 明治24年に付与された公有地(月寒村西陸軍地)について、山鼻屯田兵村では、早くから売却処分をしたいと考えていました。荒蕪地(こうぶち)であり、開墾に手間取り有効活用が見込めないと判断をしていました。しかし、公有地についての規則があり、直ぐには売却出来ずにいました。

(2)公有地の処分方針
 明治34年12月に山鼻兵村公有財産取扱委員会は、「本土(公有地)ハ概シテ凹凸且ツ地質軽鬆(けいしょう・サラサラしている・火山灰土)ニシテ耕地ニ適サザルノミナラズ水源ニ乏シク甚シキハ時トシテ飲料水ノ欠乏ヲ告ゲ活路ヲ失スル等今日迄ノ経験ニ依リ将来ヲ推測スルニ倒底耕地トシテ永遠ノ見込ミ無之」として、「賣却處分シ代金ヲ以テ有價証券ニ替ヘ以テ本財産ノ主意ヲ全フセント欲ス」と、この土地の、売却処分の方針を固めました。

(3)公有地の小作人の補償
 公有地を売却する方針は立てましたが、山鼻兵村ではこの公有地の売却処分をすぐに実行に移せないでいました。公有地には、9年程前にこの土地に入植して開墾を進めていた小作人が57戸程あり、その補償などに対応する必要があったためです。
 道資料050(北海道大学北方資料室 所蔵)「山鼻兵村 公有地財産其他関係書類綴」より
 <「山鼻兵村」に関する委任状による小作人の氏名>(P241~245)

   委 任 状
今般拙者共義都合ニ拠リ札幌郡豊平村大字月寒村字山鼻兵村公有地部長西川治郎左エ門 竹田伊三郎 松本末吉 清平小助 福田政次郎ノ五名ヲ以テ部理代人ト定メ左ノ権限ノ事ヲ代理セシム (注:5名は、文書では、「小作人総代」としています)
 一、札幌郡豊平村大字月寒村山鼻兵村公有地永久小作方之儀及ビ該地買得方ヲ限リトス
        右委任状処件                           明治三十八年十二月五日
     札幌郡豊平村大字月寒村字山鼻兵村 小作人
 安知清兵衛・家山 文蔵・山田辰三郎・山田安太郎・木村清左工門・佐藤サワ
 井筒勝太郎・山本 近蔵・松本 作蔵・佐藤 梅吉・山本 由松・牧野重太郎
 松本 徳松・石原 平助・大畑亀之助・升田長次郎・和田小治郎・山本九十郎
 畑  伊助・小林 又七・渡辺卯三郎・沼田佐三郎・小橋常次郎・坂本亀太郎
 田中弥兵衛・中村喜四郎・鹿内卯之助・大谷六次郎・坂井丈次郎・坂井三四郎
 山本源次郎・山本権太郎・中川小三郎・西川 留吉・若林市太郎・川中 末吉
 高  ヒナ・木下與三郎・蟹谷 孫助・土屋助太郎・佃  伊助・坂本 重吉
 加賀谷善四・辻谷 要蔵・寺西 久蔵・吉田 与平・大藤喜代蔵・谷山 音吉
 山本 寛蔵・山口 皆吉・有原 丈助・大久保長八
(以上、小作人の連名で、一人1行ずつ記し、各氏名の下に㊞が押してあります。)

(4)公有地の売買契約
 ところが、「農商務省 月寒種牛牧場」が設置される事を察知した買主が現れました。
2名の買主は、土地の代金を9、811円也としています。今でいう土地ころがしを目的に買い付けの契約を行ったようです。また、山鼻兵村は、この事実を小作人には知らせないままで契約しました。売買契約を終えて後、小作人から不満が出ない様にするため、小作人に対して「委任状」を、明治38年12月5日付けで取っていたのです。
  ◎確認できる小作人数は 57戸、(新聞では、60余戸と記しています。)

(5)「種牛牧場」設置とからんだ汚職と小作人の「請願書」
 山鼻兵村の会長は、公有地の売買について公明正大に事を進めて居りますと、留守第七師団長黒瀬義門に申請書を提出しましたが、なかなか売買の了承の返事が来ませんでした。
 当時、「種牛牧場」設置にからんだ汚職等が蔓延っていたらしく、噂話が流れていました。
 そうしている間に小作人にも知れ渡り、小作人一同は、土地の売買に関する「(補償等の)請願書」を、明治39年2月25日付けで留守第七師団長黒瀬義門に提出しました。

(6)山鼻屯田公有地の交換
 「農商務省の種牛牧場」の設置にからむ情報(汚職など)について、明治39年12月7日付「北海タイムス」に、様々な画策があったことを報じています。
 また、新聞には、月寒村の「山鼻公有地」は、「交換を實行し了せり」と報じています。
 この「交換」とは、すなわち、山鼻兵村に交付された「月寒村の公有地」を反故とし、交換地が選定され、別の土地を公有地として交付したと新聞に記してあります。
 交換地については、「簾舞地域」及び「手稲地域」の両地に、月寒公有地の面積に応じた土地(面積は未詳)が交付されたとしています。月寒村の「山鼻兵村公有地」は、下付を破棄され、再び官(第七師団長所属・陸軍省の土地)の管理下に置かれたようです。

(7)「農商務省 月寒種牛牧場」の設置
 契約等に疑義(問題が大きくなるのを抑えるため)を感じて、第七師団は土地を交換し、決着を付けた後、明治39年7月に「農商務省 月寒種牛牧場」の設置となりました。
 「山鼻屯田兵村」に付与された公有地(「月寒村陸軍地」)は、「山鼻兵村」によって売却出来ない結果となりました。また、「山鼻兵村」の公有地の開墾を行い、「請願書」を提出した小作人の対処ですが、不憫にも一銭の補償もなく畑を取り上げられ、他の地へと移転する事となったようです。注:移転後、平岡に在住した大藤喜代蔵(明治26年札幌へ移住)は、この地を出なければならなかった一人でした。(「ひらおか」平成11年出版より)

(8)吉田善太郎の功績
 付記として「農商務省 月寒種牛牧場」の設置について、尽力した方がおりました。
 月寒公園に在る吉田善太郎の功労碑の「開拓餘光」には、『農商務省の種蓄牧場をも またこヽに設けらるるに至りしことは 専らぬしがなみならぬ こヽろ盡しの賜ともいひつべく』と記されてあります。彼の一方ならぬ尽力があった事が充分に窺えます。
 「月寒歩兵二十五聯隊」の誘致の際も様々な問題が持ち上がりましたが、その解決のために吉田善太郎が奔走し月寒の地に導きました、その結果、地域に多くの兵舎等々の施設が出来、終戦まで月寒村の中心部は軍都となり隆盛を極めました。
 吉田善太郎の対応によって、現在の「北海道農業研究センター」が設置され、住人の働く場所が出来、地域の発展に寄与する事となりました。

4.「山鼻屯田兵村公有地」に入植した人々の入植地
 ところで、「山鼻兵村」の公有地の開墾を行い、「請願書」を提出したにも関わらず、補償もなく畑を取り上げられた小作人の人々は、どの辺に住まいし開墾を行っていたのでしょうか。入植の時期は、明治38年(1905年)を遡ること9年程前としていますから、明治28、29年(1896年)頃です。明治20年代後半の入植となります。
 「山鼻兵村公有地」が付与されてから数年しての入地です。月寒村の入植・開墾が明治4年ですから、決して早い入植であったとは言えません。
 開墾者の入所地を探ってみましたが、明治38年頃の地図が見当たりませんでした。
 但、明治43年(1910年)3月1日印刷の「歩兵二十五聯隊製圖 月寒」の製図(明治41,2年頃の測量図)があり、その図面を基に推察する事とします。

 下図は、「歩兵二十五聯隊製圖 月寒」(部分・農商務省 月寒種畜場の周辺地図)です。
   明治43年3月1日印刷 注:筆者の彩色による図となります。

 上の図面から読み取れる事柄を箇条書きにしてみます。
 注:西側(左側)から、川名を記して置きます。月寒川・ウラウチナイ川・ラウネナイ川吉田川・厚別(アシリベツ)川 となります。
(イ)明治43年3月1日印刷・発行の地図です。明治39年(1906年)7月に設置された「農商務省 月寒種牛牧場」は、明治41年(1908年)には、「月寒種畜牧場」と改称されています。地図の表示は、そのような記載となっています。
(ロ)「月寒種畜牧場」の場内には、第一線道路・第二線道路が記され、敷地が区画された状況となっています。場内には、「中川」(現在の「ラウネナイ川」)と現在の「吉田川」が流れ、その中間を安政4年開削された「札幌越新道」筋が斜めに道路が設定されています。
 開墾者の生活用水・牛などの飼育に必要な飲料水は、川筋から確保するよう配慮して、入植者の家屋ないし、種牛牧場の厩舎を設置しています。
(ハ)周辺には、「渡邉丘」「日和台」「春日森」「塩見台」「小野坂」と称される地区が在り、東側には「放牧地」が開放されたていたようです。
(ニ)民有地(現、札幌ドームの敷地は、民有地の約北半分・国道側です。)全区画については、明治41年3月に「内務省」の所有となり、その後、「農商務省」に移管されたと思われますが、札幌本道沿いの西側角地4分の1区画の敷地が「月寒種畜牧場」と確定されていたのか未詳です。未だ民有地であった可能性が感じられる図となっています。
(ホ)現在の「ラウネナイ川」と「吉田川」の周辺には、家屋と思われる建物が点在しています。この建物は、「月寒種畜牧場」の厩舎であるのか、明治28、29年頃より小作人が入植した家屋であるのか定かではありませんが、大正6年の厩舎配置図からすると、入植者の家屋が残っていたと推測されます。入植者にとって、用水の確保は開墾をする上で重要な糧となるからです。当時の入植者の回顧談では、「札幌本道」沿いではなく、道路からかなり奥地(森林地)に居住したとの古老談があります。
(ヘ)「山鼻屯田兵村公有地」の南北の奥行は、2,000間程ですから、「札幌本道」沿いからほぼ500間から600間程に位置する箇所に、小作人の入植者が居住したと想定しました。この辺は、前にも記しましたが安政4年に開削された森林の中の径「札幌越新道」が在り月寒村の中心部へも通じ、千歳方面にも行く事が出来たと思われます。往来に利便性のある個所であった事となります。(札幌本道への近道もありました。)
(ト)地図には他に次のような施設があり、当時の月寒村の様子を窺うことができます。
 中心部に「月寒歩兵二十五聯隊」が所在し、関連の練兵場・射撃場・衛戍病院などが併設されていました。練兵場の東側には、吉田善太郎の「吉田牧場」が広がり、ラウネナイ川・吉田川の中程に「二里塚」の里程標(現、月寒温泉周辺)が建てられ、その東側には嵯峨半蔵の広大な「嵯峨牧場」が開けていました。(注:白石村方面は省略します。)

 要は、「山鼻兵村公有地」に入植した拠点の場所は、「札幌本道(室蘭街道)」沿いから南へ約1キロメートルの箇所であったと特定しました。そこにはラウネナイ川・吉田川の湧水があり、開墾生活をするには利便性があるとの考えから決定したと推測しました。

5.「山鼻屯田兵村公有地」に隣接した「民有地」に入植の人々
 「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」(あしりべつ郷土館 所蔵)に、「山鼻兵村公有地」に隣接する「民有地」について、「地番・氏名・土地面積」の一部記載があります。
 更に、この地番を基に、福住郷土研究家の増田壹栄氏により調査が深まりました。
 増田壹栄氏による調査とあしりべつ郷土館所蔵の「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」の記載を合わせて検証する事で、「民有地」の概要を記す事とします。

 現在の札幌ドーム外周辺の「民有地の区画と所有者」は、以下の通りとなりました。
 左図は、「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」に、筆者が氏名を付加した図です。
 区画は、10区画となります。
 10名の所有者の坪数は、1人に付き、1万坪から3万坪となっていました。
 土地登記については、明治15・16年頃ですが、所有者が次々と変わっています。

 

 各土地の所有者名・地番・区画の間数・坪数を下記の様な表としてみました。


  注: 1歩=1坪 1畝=30坪 1反=300坪 1町=3000坪

 上記の土地①~⑩までの登記は、明治15・16年頃です。全てが、次々と所有権が移籍し、最終的には、青森県東津軽郡後深村大字小橋村六九番地 柴田 フリが、明治39年6月に所有権移転を行い個人の所有となりました。その後、明治41年3月21日に所有権移転が行われて、「内務省」の所有となっています。
 「種牛牧場」が設置されたのは明治39年7月ですから、「種牛牧場」が出来た当初は、柴田 フリ個人の所有地であった事となります。
 明治41年3月21日まで交渉を続けられ、明治41年3月に「内務省」の所有となり、その後、「農商務省」に移管されたと思われます。
<付記>⑧大竹 啓助は、羽前国東村山郡十日町と「土地台帳」に記載されているため、羽前国東村山郡(山形市)十日町に生誕した「大竹敬助」と思われます。
 「大竹敬助」は、本道屈指の「旅館札幌山形屋」「敬山楼」等の経営者(主人)で、札幌農科大学・札幌第二中学校の設立の際、費用として大金を寄付しています。

6.「農商務省 月寒種畜牧場 要覧」による各施設の設置

 左図は、「第二回農商務省 月寒種畜牧場 要覧」の表紙です。
 明治四十四年七月二十日発行 月寒種畜牧場 編纂 より
 「月寒種畜牧場要覧」添付の下図(場内図)をご覧ください。

 「月寒種畜牧場」の場内の建物配列圖が記載されています。
 敷地全体図となっていませんが、厩舎等が配列されています。

 明治43年3月1日印刷 「歩兵二十五聯隊製圖 月寒」の図面と比較対照して頂けると、その施設関係が明らかとなります。

 

 下記は、添付の「月寒種畜牧場 建物配列圖」です。
 図には、国道36号線(室蘭街道)の南側に多くの建物が配列されています。
 図の右下に「凡例」(設置畜舎など)が記してあります。以下の通りです。
                             <凡 例>
イ事務所 ロ官舎  ハ倉庫
ニ定夫舎 ホ釜場   ヘ牝牛舎
ト牡牛舎 チ犢羊舎 リ製乳所
ヌ羊舎  ル病畜舎 ヲ役畜舎
ワ器具庫 カ収穫舎 ヨ穴蔵
タサイロー レ鍛工場 ソ堆草舎
ツ堆肥舎 子衡器舎 ナ産牛舎
ラ薬浴舎 ム馬繋場 ウ定夫溜所
エ場員詰所 ノ物置  オ氷室
ク交尾所 ヤ削蹄場 マ風車
道路・木柵・谷・レール・水路・樹林地

 上記の凡例を1つずつ確認すると、かなり計画的に多くの施設を建設した事が判ります。
 物の間隔も十分にとって、余裕のある設置の「月寒種畜牧場」となっています。
 これらの建物の配置からすると、明治43年「歩兵二十五聯隊製圖 月寒」の図との違いを感じざるを得ません。
 明治44年7月「月寒種畜牧場 建物配列圖」の建物配置図を拡大してみます。
 明治43年「歩兵二十五聯隊製圖」では、雑然とした建物の配置となっていますが、明治44年「第二回農商務省 月寒種畜牧場」配列図では、建物ばかりでなく道路・水路・木柵・樹林地等が整然と配置されてあります。

7.開墾地と民有地の状況のまとめ
 <開墾地の位置と状況>
 二つ図面の違いは、単に1年後の図面とするのではなく、「歩兵二十五聯隊製圖」については、入植当時の居宅が未だ残された状態にあったと想定しました。
 そして、「月寒種畜牧場」となっても、ラウネナイ川・吉田川の水源の地域が拠点となって施設を設置し整備を図ったものと思われます。飼育する牛や羊の給水の面でも、畜舎などで作業をする人々にとっても、利便・効率性を考慮しての設置であったと思われます。
 明治43年「歩兵二十五聯隊製圖」は、施設の設置過程の図面であり、開墾者の建物を徐々に解体しながら設計された厩舎配置へと向かう途中であったと推測します。

 <「札幌越新道」について>
 「札幌越新道」は、安政4年(1857年)、ロシアの南下に危機を懐いた幕府の命により松浦武四郎等の助言によって開削(千歳~銭函間)された巾2間ほどの道でした。
 11年後には、明治元年(1868年)となり幕府が崩壊しました。北海道に対する幕末の事業は、その後、明治政府の「開拓使」に引き継がれ「札幌本道」の開削となります。
 「札幌越新道」は、けもの道を利用しての径と考えられ、1年程で完成させています。道中に、「小休所」を星置(ホシオキ)・発寒(ハッシヤブ)・島松(シママツフ)・漁川(イサリ川)に建てられ、豊平(トヱヒラ)・千歳(チトセ)には、「通行屋」が建てられました。
 「札幌郡豊平町大字月寒村字厚別一帯連絡圖」の「山鼻兵村公有地」には、ラウネナイ川と吉田川の中程に、斜めの径が薄っすらと記されてあり、民有地にも径が見え、福住地域には、明確な道が記されています。札幌ドームの南側と羊が丘通りとの中間周辺を通り、札幌第一高校方面(古道)へと向かっていた事が想定されます。

 <民有地の状況>
 ②の永山武四郎は、取りも直さず、明治21年(1888年)6月に第2代北海道庁長官となった方の敷地です。その方が、自らこの敷地を買い求め開墾をしたとは到底考えられません。明治10年(1877年)4月には、屯田兵第1大隊長に就任し、西南戦争へ赴いています。何かの褒賞(詳細は未詳です)として土地が付与されたのではないかと推測してみました。その後、政治家・公家・華族・貴族院侯爵議員の菊亭修季(きくてい ゆきすえ)に、土地(東京市麹町区元園町)の権利が移り、次いで札幌農学校の一期生である黒岩四方之進へと所有権が移行しております。
 その他9名の土地の入手についても、転売が繰り返されていますから、この未開地を開墾して農業に依って生活するとの意図が感じられません。
 土地を所有した経緯の中で、「月寒種畜牧場」の計画が持ち上がり、柴田フリによって買い取られ、「内務省」の所有となったものと思われます。
 土地に関する付与・買収等々には、様々な憶測・画策が付き物です。本題の検証と離れる事となりますので、それらについては控える事と致します。

8.「山鼻屯田公有地」の経緯
 その1 「上局往復留 明治十四年」簿書4594(23)より (添付図の部分)

<筆者の加筆あり、部分図です。>
○「陸軍地」と推定される図面
甲 百四万坪 八百間×千三百間
 道路ヨリ十五丁 札幌ヨリ二里
注:山鼻屯田公有地となった土地です。

乙 百四万坪 八百間×千三百間
 道路ヨリ十五丁 札幌ヨリ四里
<北海道立文書館 所蔵>

 

 一、石狩國札幌郡月寒村ノ内
 甲ハ月寒ニ於テ本廳ヨリ東南ニ離ル二里 室蘭通路ヨリ懇成地凡十五町ヲ距テ西南へ八百間東南へ千三百間其ノ部内ニ丘原ヲ取込ミ此坪数百四万坪
 乙ハ字ワーツニ於テ本廳ヨリ東南ニ離ル四里
 ※ 明治14年頃の測量図です。陸軍省が石狩國札幌郡月寒村の中に陸軍地を求めていた史料となります。甲は、「西陸軍地」、乙は、「東陸軍地」と呼称されていた様です。

 <その2> 「札幌縣公文録 山林罹災之部 明治十六年中上」(簿書7963)より

 「明治十六年七月十六ヨリ二十二日マデ
 厚別月寒西官林延焼 略図」より(部分図です。)
 明治16年7月の頃
 山鼻屯田公有地敷地は、「陸軍省用地」及び 北部角と東部角、が「民有地」となっていました。
 <北海道立文書館 所蔵>

 

 明治16年頃、東部角は、現在のヤマダ電機(元ダイエー)の周辺は、民有地でした。
 この周辺の土地については、買収ない接収なのかについて未詳です。
 上記の様な経緯を辿りながら、「山鼻屯田公有地」として下付されました。

9.補足として 山鼻屯田公有地の民有地の周辺の開発
 「山鼻屯田公有地」の下付が取り消され、「種牛牧場」「種畜牧場」となり、戦後、昭和25年(1950年)に、「北海道農業試験場」として発足して事業が続けられたましが、近隣周辺は、農業を主体とする集落として地道な生産活動を行っていました。
 ところが、30年代頃より札幌のベットタウンとして月寒の中心地が俄かに注目を集め土地造成が盛んに行われるようになりました。
 そこに注目したのは、月寒学院(現八紘学院)の栗林元二郎で、所有の農地の一部35町歩を「札幌郊外緑地都市(仮称)建設用地」として分譲するよう、昭和31年3月30日に役員会を開き承認を得ました。(大正12年開発の東京田園調布を参考としたようです。)
 その分譲地の概要をまとめ記したいと思います。
 「羊ケ丘分譲住宅地(土地区画事業)」の計画
 「八紘学園七十年史」<P353>
 左は、「札幌緑地都市株式会社」発行のパンフレットです。
  <記されています広報紙の文言>
    施行地区の位置
 市の中心より東南方約7.5kmの位置にあって,札幌都市計画区域の南北限界のほぼ中央、東西限界では中央3分の1の東端に位しており、札幌千才間国道1級を挟んでいる。豊平町字月寒の中心街より約lkm海抜約60mの高台で北方に向ってゆるい傾斜地をなしている地区で面積は44haである。

 

  事業決定の経過
 先年札幌千才間の国道舗装完成と共とにこの沿線に当る豊平町月寒に於いて住宅 の建設が急速に増加しつゝあり、既に現在望月寒川の西岸まで及んでいる。以上の 現状から早晩住宅地は舗装の完備した国道を中央にはさむ本事業の施工地区を越えて拡大されるものと考えられているので早急に土地区画整理事業を行い完全な道路,上下水,ガス等の施設をなし,又加えて公園等の敷地を配置して理想的住宅団地を造成することを目的とする。

   年度計画と施行代表者事業者
 昭和32年~昭和38年までの7か年計画とする「羊ケ丘土地区画整理事業」でした。
 施行認可は、昭和32年7月11日に受けています。「羊ケ丘土地区画整理事業」共同施行代表者は、財団法人月寒学院理事 栗林元二郎 となっております。
 明治39年頃には竣功しています。完成に応じて各区画を販売していました。
 当時は、1戸の面積平均約300坪を予定し、合計500戸を目標としています。
 販売価格については、1坪平均500円を売値と推定したようです。売り払い代金は、5,250万円を想定して、借金の返済や月寒学院の経営改善に当てたようとしました。

 左図は、「札幌市内区分地図」(昭和52年・地勢堂 出版)の豊平区の部分図となります。
 「羊ケ丘分譲地」との記載があり、国道36号線の左右の分譲地には入居した住人の生活を感じさせます。
 周辺には多くの商店・学校等が建ち並んでいる事が判ります。

 

 想定された宅地造成の全土地敷地は、現在の地図では、下記の区画となります。

 当初は、35町歩(約35ha)であった様ですが、その後土地を買収して42ha程になった様です。
 現在の住所では、月寒東1・2条14・15丁目・福住2・3条1・2・3・4・5丁目周辺となります。
 東西に長く連なる形の造成地です。概略図として捉えてください。

 

 初期に配布しましたパンフレットの敷地とは、多少異なる区画となります。

 以上のような推移・経過があって、現在の福住地区の街並みが造られて行きました。
 この様に、月寒学院(元八紘学院)の栗林元二郎による様々な構想があって、現在の八紘学園や周辺地域の基盤が形成された事を記録として留めて置きます。

記:きよた あゆみ(草之)