明治33年設置 月寒歩兵第二十五聯隊

1.月寒に「歩兵第二十五聯隊」が設置された経緯
 「豊平町史」P323には、「二十五聯隊」の設置について、次の様に記してあります。

 月塞に兵営を建設するに当って大きな問題は土地のことであった。初めは現在の平岸の辺に予定されたようであったが価格の点で折り会わず、遂に月寒に相したわけであるが、これについては吉田善太郎の働きが功を奏したのである。吉田善太郎は価格を安くすることに奔走すると同時に、手宮の荒沢僖平、札幌の斉藤橘彌と共に多くの土地を寄附して連隊設置に協力したのである。
 その時の献納願があるので、次に記して見る。

      献   納   願
 畑地外合計 二町五反五畝二二歩 此ノ価格金七百六十七円二十銭
 今般第七師団兵営敷地トシテ御確定相成候ニ就テハ此際戦後経営トシテ軍備拡張ノ主旨ヲ体認致候ニ依リ前記之所有地献納仕度此段相願候也
  明治三十九年九月十七日
      石狩国札幌郡月寒村十九番地 吉田 善太郎 ㊞
  陸軍大臣候爵 大 山   巌 殿
 前書ノ通願出供ニ付進達候也
  明治三十九年九月十七日
  札幌郡豊平、上白石、白石、平岸、月寒五カ村戸長 舟橋 八五郎 殿
    寄   附   願
             石狩国札幌郡月寒村三十六番地甲ノ丙
 一、畑一反一畝十九歩
    此ノ価格金二十九円八銭三厘
   同   文
  明治二十九年九月二十日
        北海道後志国高島郡手宮十七番地 荒沢 僖平 ㊞
  北海道庁長官  原  保太郎 殿

  <注:: 1町は10反、100畝、3000歩で、約1haとなります。>

 「歩兵第二十五聯隊」の設置については、様々な思惑・画策があったようで、平岸村に概略決定した後、月寒村に移った経緯を次の様に記しています。

   月寒に兵営ができるまで
 明治二十九年五月一日独立歩兵大隊の新設を命ぜられ師団の連隊兵営予定地としては最初平岸村ということに、ほぼ決定していた。今の丁度坂の下あたり、西山の下の方面今の果樹園のあるところ、それで当時の所有者から見積価格を取ったが一反二百五、六十円という見積を出された。それでは経費の関係でどうにもすることができないというので、当時月寒に開拓使以来住んでいた吉田善太郎という人が相当多数月寒に所有地があり、当時月寒は反五円の評価で非常に安く、しかも一面当時の師団長中山下が吉田氏と非常の御親交の間柄であったため、辻村という今一人とはかり連隊の兵営が設けられるならば、国家的であるので、自分の所有地を寄附しよう。それから附近所要の所はなるべく価格を下げ、国家のため奉仕的にというような犠牲的精神をもつて尽力され、遂に月寒にできることに決定した。当時営門前は坪二十銭ならばどこでも自由に買えた。しかし二十銭では高くて買う人がなかった。
大倉組が兵営を請負い、岩本という人が全部十銭とかで買ったという。

 少し理解しがたい部分のある記述ですが、平岸村での投機的な土地の値上がりによって、兵舎の設置が予算上出来なくなり。そこで、月寒村の吉田善太郎を中心とした対策(土地の寄付や安い値での土地対応)によって、「歩兵二十五連隊」の設置の箇所を月寒村に決定したとしています。

 「区制施行30周年記念 豊平区の歴史」(平成14年4月1日発行)<P87>には、「歩兵第二十五聯隊」として聯隊が形成される過程が記されています。

    歩兵第25連隊と北部軍司令部
 日清戦争時の明治28(1895)年3月、屯田兵からなる第7師団が臨時に編成され、翌29(1896)年には正式な第7師団となって、月寒村に歩兵、砲兵、工兵からなる野戦独立隊がおかれました。
 明治32(1899)年には歩兵隊を25から28の4つの連隊に分割し、翌33(1890)年からは26から28連隊が旭川に移転したため、札幌には月寒の歩兵第25連隊のみが残ることになりました。
 昭和12(1937)年に日中戟争が始まると、札幌市と豊平町には軍の施設が次々と造られました。月寒には、昭和15(1940)年、北部軍司令部が開設しました。この司令部は北海道、樺太、千島、青森、秋田、山形、岩手を管轄し、昭和19(1944)年には第5方面軍司令部に改めて、北海道、樺太、千島に限定した作戦を担当することになりました。
 そのほかにも、月寒には軍隊の訓練をする練兵場、兵隊が生活する官舎や病院なども造られましたこれらの軍施設は、現在の月寒中央通7丁目付近にあたります。

 

2.明治期44年(1911年)頃の「月寒第二十五聯隊」の兵營関連の位置図
 明治44年頃に月寒に所在していた「月寒第二十五聯隊」の兵營関連の位置図です。
 聯隊の施設の配置については、聯隊の設置の当初は、何もないところから出発しましたが、1,2年もすると兵舎が続々と整えられ連隊としての運営に必要な平屋が完備して行きました。次の図面は、軍の施設として、射撃場、歩兵營、練兵場、札幌衛戍病院等が記されてあります。周辺には、兵員の官舎・関連の商店が軒を並べるようになって行きました。
  明治44年頃の「第二十五聯隊」の施設の配置 (札幌文化資料室所蔵)部分

 (明治二十八年所定ノ五万分一圖圖式ニ準スル・明治二十九年製版修正ノ部分ハ明治四十二式地形測圖原圖々式ニ據ル・同四十三年改版 明治四十四年一月二十五日  印刷・同一月三十日発行・陸地測量部 北海道廰 石狩郡 札幌區)より
 注:「月寒川」と記してありますが、「望月寒川」のことです。
 明治44年頃には兵営がほぼ完成し、多くの施設の建物があった事が確認できます。

 「新札幌市史」(平成3年10月19日発行)第二巻<P971>には、兵営が出来てからの月寒村の村民の対応が記されてあります。

     月寒村民と兵営
 月寒村では、村の中に第七師団が突如設置された関係から村の姿が次第に変化しつつあった。第七師団は、(明治)三十三年から三十五年にかけて旭川に移転することとなるが、独立歩兵大隊の後身歩兵第二十五聯隊(三十二年改称)と札幌聯隊区司令部を札幌に残したので、以後も月寒村は歩兵第二十五聯隊のある村として全国にその名を知られるにいたった。
 ところで第七師団の兵営施設の存在は、食糧の調達からはじまって、被服、諸雑貨日用品、軍馬等にいたるまで大消費施設でもあった。また、兵営でのさまざまな仕事に村民が雇われたり、兵営の周囲には日用品販売や飲食店など兵営に依存した商店が並ぶようになった。さらには、これまで農地や草原でしかなかった土地を将来を見越して買い占めようとする商人が続出したり、借地代もこれまで一坪四銭であったのが三十年十月には一坪五、六銭に値上がりし、借家賃も二間半に四間半の建家で月四円から六円五〇銭と値上がりする始末であった。このため買上げられたままの荒蕪地や借り手のないままの空屋が目立ち、村の有志たちは、地代を坪一銭以内に引下げることや、家賃を札幌よりも二割以上減じることを提案した。
 また、兵営が建設されたことにより、飲食店の増加は風紀上の問題を生み出し、兵営側からも健全な娯楽施設の設置を望む声も聞かれた。それとともに、農民たちが困惑したことは、自分の農地へ行くにも兵営が障害となって大きく迂回していかねばならない不便が生じたことである。この道路問題は兵営側にとっても同様で、訓練に出ようにも畑の中を通らねばならず、早晩道路整備の問題が急がれた。
 しかし、次第に村民は、聯隊に対し親しみを深めてゆき、兵営内に桜木一〇〇本を寄贈したり、毎年十二月の入営兵の歓迎には、村民有志が礼服着用し、小学生までが門前に整列して「万歳」を唱えるのだった。

 兵営等の設置は、村民にとって戸惑いの中にも雇用や兵員の大量消費によって経済の潤いをもたらし、歓迎の方向へと動いていったようです。
 また、「歩兵第二十五連隊史」(昭和11年8月19日に開かれた)「連隊の昔を語る」という座談会では、射撃場の造成について、「射撃場は大正元年から五年まで、五年計画で延人員五万二千人で連隊長以下皆従事して作った。」などの記載があります。

3.「月寒歩兵第二十五聯隊」の兵營図
   明治40年代初期の兵営図   (札幌市公文書館 所蔵)


    上記の「歩兵第二十五聯隊兵營圖」に記されている内容

    歩兵第二十五聯隊歴史大要
明治三十三年十月二十五日獨立歩兵大隊ヲ廢シテ歩兵第二十五聯隊ト改稱セラル仝三十三年三月十二日御勅諭ヲ賜ル。 仝十月三十一日陸軍歩兵中佐渡邊水裁被補聯隊長。仝十一月二十二日札幌練兵場ニ於テ軍旗授與式ヲ擧行セラル仝三十七年八月四日動員下令。仝十月三日屯營出發。仝十一月十八日清國青泥窪上陸。仝二十六日旅順攻撃参加。仝二十八日赤坂山戰闘。仝十二月五日二〇三髙地占領。仝二十三日後楊樹溝東北髙地占領。
仝三十八年一月一日後三羊頭村南方髙地占領。仝二月二十八日奉天方面阿司牛附近ニテ戰闘。三月二日達子保ニテ戰闘。仝六日対家禽棚付近ニテ戰闘。仝七日轉湾橋占領。仝九、十日北陵戰闘。仝四月二,三日金家屯戰闘。仝十六日三家子戰闘。仝六月二十六日遼陽家禽棚付近ニテ戰闘。仝七月一日獅子峪附近ニテ戰闘是レ日露戰役最終ノ戰闘ナリ。
仝三十九年二月二十五日凱旋ノ爲ノ柳樹屯乗舩仝三月四日屯營歸着。仝七月十一日功三級伊藤大佐被補聯隊長

         「歩兵第二十五聯隊兵營圖」の二人の人物について

4.「月寒歩兵第二十五聯隊」の兵營舎の施設
(1)明治40年代初期 「歩兵第二十五聯隊」兵営図に記されている主な施

(2)昭和初期の「歩兵二十五聯隊配置図」施設
   「札幌歩兵二十五聯隊誌」高橋憲一著(1993年7月発行)附録図より

  「昭和初期、第7師団部に提出したものである」と記してあります。
  注:上が北です。右下の正方形の施設が「将校集会所」です。

 先の「明治40年代初期」の兵営図にはなかった施設としては、南門の箇所に「将校集会所(付属家・撃剣場・合同宿舎を含む)」が国道36号線までの大きさで設置がされてあります。かなり整備された兵舎の配置関係となっています。

(3)明治33年設置された「歩兵二十五聯隊 連隊将校集会所」
 「将校集会所」があった場所は、現在の月寒中央7丁目で、「つきさっぷ中央公園」「月寒交番」「月寒公民館」が所在しています。
 「つきさっぷ中央公園」には、「将校集会所」があった事を記した小さな案内板があり、そこには次の様な内容の説明が記してあります。

    歩兵25連隊将校集会所、豊平町役場
 明治33年、ここに歩兵25連隊将校集会所が建てられた。その後偕行社と改称された。
 戦後は豊平町農業会、豊平自治体警察署などに転用され、昭和31年から昭和36年まで豊平町役場庁舎として使用された。
       月寒地区豊平¨ふるさと再発見¨委員会・札幌市豊平区

 しかし、歩兵二十五聯隊の設置は明治33年(1900年)と記してありますが、「将校集会所」の設置はもう少し後からではないかと推測します。

5.「月寒歩兵第二十五聯隊」歴代の連隊長名
     月寒歩兵25聯隊・歴代の聯隊長名と任期

 明治33年(1900年)~昭和20年(1945年)までの45年間に、連隊長は20代続いています。最後の連隊長は、昭和20年4月1日に、山沢 饒氏(大佐)が任に就き、その年の8月15日過ぎに解任となったようです。
 初代の渡辺水哉(渡邉水哉)<少将>氏の経歴は、嘉永5年11月15日生、明治7年陸軍教導団入、明治9年陸軍教導団卒業、明治9年神風連の乱、明治10年西南戦争出動などし、明治33年(1900年)10月31日に連隊長となった人物です。
 この明治33年に月寒の歩兵大隊は、「歩兵第25連隊」へと改編し、2,000人の兵士が駐屯する部隊となりました。

6.大正5年頃の「月寒歩兵第二十五聯隊」の施設
     大正5年頃の「第二十五聯隊」の施設の配置

       国土地理院 大正5年測圖

 兵營関連の敷地は、ほとんど同じです。敷地内の建物の配置についても先の「歩兵第二十五聯隊兵營圖」に酷似していますが、多くの施設が統合化された形で敷地内に再配置されたようです。
 大正5年測圖では、第二十五聯隊の管理下にある敷地や施設とそれ以外の関連の建物を2種類(右斜線・左斜線)の斜線に分けて表示しています。
 「歩兵第二十五聯隊兵營圖」に示した敷地・建物と各施設(装備品の倉庫や兵員の官舎、病院等の設置)を概観すると、戦時に備えて、臨戦態勢を執っていた事が感じられます。

 月寒地域の「札幌本道(室蘭街道)」<国道36号線>の両側は、「歩兵第二十五聯隊」関連の商店が軒を並べ活況を呈していました。
 軍関連の諸商店には、衣食住ばかりでなく、軍馬・軍服・銃装備品の専門店等もあり、軍の御用商人が出現し、月寒地域一帯は軍都として賑わいを見せていました。

7.月寒歩兵第二十五聯隊の施設の画像

 

将校集会所(大正11年)

 

 

 

 

 

 

衛門と将校集会所(昭和初期)

 

 

 

 

 

 

 

 

歩兵二十五聯隊正面 聯隊本部衛兵所 昭和11年頃

 

 

 

 

  「区制施行30周年記念 豊平区の歴史」(平成14年4月1日発行)より
    歩兵第25連隊兵営(昭和7年、北海タイムス社セスナ機より写す)

8.現在の地図での「月寒歩兵第二十五聯隊」
  現在の地図(平成8年頃)による「第二十五聯隊」の施設の配置です。

(1)「射撃場」は、美園4-7から月寒公園へ向けての広い敷地面積を確保していました。
  射撃の的は、月寒公園側に設置されていたのです。
(2)「第二十五聯隊兵營」の敷地は、月寒東1-3から月寒東1-7まであり、現在では、札幌月寒高等学校、月寒保育園、札幌南税務署や豊原寺・明了寺等が所在しています。
 尚、歩兵25連隊の兵舎群は、昭和20(1945)年10月から22(1947)年までアメリカの進駐軍が「キャンプ・シーテンバーグ」として使用されました。
(3)「練兵場」の敷地は、月寒東1-8・9から月寒東3-8・9まであり、現在では月寒体育館や北海道開発局月寒庁舎等があります。
 尚、この敷地(月寒体育館及び屋外競技場)には、昭和24年(1949年)から昭和36年(1961年)まで、「札幌競輪場」が設置されていました。
 月寒の札幌競輪は、風紀が悪くなったり、競輪の依存症で問題が起きたりとする廃止の動きがあり、昭和35年(1960年)11月5日の開催が札幌競輪場の最終日となり、10年間開催された歴史に幕が降ろされる事となりました。
(4)第二十五聯隊専属の病院である「札幌衛戍病院」の敷地(月寒西1-9)は、現在では「札幌第一高等学校」となっています。
(5)現在の「つきさっぷ資料館」は、もともと「旧陸軍北部軍司令官官邸」として昭和16年に建てられました。戦後は、北海道大学の学生寮として使われました。
 昭和60年に「つきさっぷ郷土資料館」として開館しています。
(6)「将校集会所」の敷地は、月寒中央7丁目にあった。現在の「つきさっぷ中央公園」「月寒交番」「月寒公民館」が所在している。道路のそのすぐ東側には、「聯隊長官舎」があり、そのまた道路の東側には「将校官舎」があった。
(7)月寒公園は、「干城台」(かんじょうだい・盾の城の台地)と名づけられて、明治30年代には、歩兵第二十五聯隊の射撃場となっていた。戦後は、その後、昭和28年まで進駐軍が射撃場として使用していました。

 標的は、現在の坂下野球場の外野フェンス辺りに築かれ、北方向から射撃訓練を行っていたようです。
  「豊平町史」より  「大正十年前後の月寒本通」の様子 <P571>より

 月寒本通には「第二十五聯隊」関連の建物としては、北側に将校集会所・聯隊長官舎があり、南側には陸軍官舎が4棟、衛戍(えいじゅ)病院(陸軍病院)が設営されてありました。
 「衛戍病院」の位置は、現在の「札幌第一高等学校」の敷地となっています。
 その他に、多くの商店が軒を並べるようにあり、そのほとんどは「第二十五聯隊」の需要に応じるための店舗であったと言ってよいでしょう。

 飲食店・大工・写真屋・パン屋・洋服店・理髪店・薬店・獣医・自転車店・浴場・代書屋・飴屋・精米所・下駄屋・餅屋・そば店・菓子店・桶屋・魚屋・下駄屋等々の店が連ねるように所在していました。
 衛戍病院の通りは、本来考えられない位置ですが、古道(安政4年に開削された「札幌越新道」)筋の開墾地で、そこに建てられた病院です。
 尚、「札幌越新道」は、松浦武四郎の助言によって、江戸末期に開削された、和人に依る本道開削の端緒となった道路です。1年間で開削された径巾は、2間ほどの小径でした。
 その径が時代の動静によって一気に隆盛を極める商店街へと変貌したのです。

 月寒地域は、軍に冠した商店がひしめく様に林立し、軍都として重要な役割を担い、終戦まで北方関係の戦いに関連した指令と派兵を行っていたのです。
 現在の札幌第一高等学校の場所には、当時、衛戍病院(陸軍病院)として設置されました。

 

札幌衛戍病院(昭和初期)

 

 

 

 

 

 

 

 

衛戍病院
醫 務 室
(昭和初期)

 

 

      歩兵二十五聯隊正面 聯隊本部衛兵所(明治36年)

 

衛門(営門)表門の両側に松が植えられていました。

現在もこの地の箇所にこの松が枯れることなく立っています。

 

 

    営 門 の 松
 明治29年、独立歩兵大隊が置かれ、後に歩兵25連隊に改編された。この兵営正門(営門)前に植えられた2株のうちの1つ。多くの兵士が出征、凱旋するのを見守った松である。
      月寒地区とよひら〝ふるさと再発見〝委員会 札幌市豊平区

 「兵者(つわもの)どもが夢の跡」の様な「松の木」ですが、近くに行かれるような事がありましたら、立ち止まってご覧いただけましたなら幸いです。

記:きよた あゆみ(草之)