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厚別川に架かる「橋名」について

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厚別川に架かる「橋名」について
~ 厚別の歴史が偲ばれる 柳瀬橋・高木橋・田の中橋・実橋のこと ~

1.はじめに
 清田区には、空沼岳の麓からの降雨や雪解け水を集めながら、区の中央を厚別(あしりべつ)川が流れています。
 昭和51年(1976年)の厚別川の直線化工事(河川・河道の整備や築堤)が完成する以前は、蛇行の多い川でした。
 昭和35年(1960年)に、地域で厚別川河川改修期成金を設立し、昭和38年(1963年)には、部分改修に着手しました。翌39年(1964年)に、全面改修工事が始まり、昭和43年(1968年)に、国道三十六号線まで完成し、昭和51年(1976年) に漸く竣功を見たのです。
 大きな川は、人々の交通にとって渡れないという支障となりますから、皆の協力で架ける事となりますが、厚別川にはその橋名に、人の名前の付けられた橋があります。

2.人の名前の付けられた橋
左図は、「街の達人札幌情報地図」より
2012年(平成24年度版)発行です。
平成24年頃の地図ですが、厚別川下流から上流に向け、清田橋まで設置の橋名を記してみます。

〇 柳瀬橋 昭和44年(1969 年)10月竣功
昭和60年(1985 年)12月竣功
北野7条3丁目 東北通(栄通・堺通)所在

〇 ふれあい橋 昭和63年(1988 年)12月竣功
北野6条3丁目 所在

〇 高木橋 昭和62年(1987 年)3月竣功
北野5条3丁目 所在

〇 田の中橋 平成25年(2013 年)12月竣功
北野3条3丁目 所在

〇 北野橋 昭和55年(1980 年)10月竣功
北野2条3丁目 所在

〇 実橋 平成15年(2003 年)3月完成
コカ・コーラ工場の東側
北野2条3丁目 所在

〇 厚別橋 平成8年(1996 年)12月竣功
(開拓使により、明治6年に架橋される)
清田1条1丁目 所在

〇 清田橋 昭和44年(1969 年)12月完成
清田2条3丁目 所在

 以上ですが、ここでは、「柳瀬橋・高木橋・田の中橋・実(みのる)橋」の人の名前が付いた4つの橋名について記す事と致します。
 厚別川は、時により洪水を引き起こす暴れ川でしたが、4つの橋は人の行き来には欠かせない通り道(所用や運搬等)となりました。
 それでは、橋の架橋の年代や人名の関り等について記してみます。

3.「柳瀬橋」<東北通に掛かる橋>について
 「柳瀬橋」については、「とよひら物語 古老をたずねて」平成4年(1992年)3月発行(P114)に以下の様(抜粋)に記されてあります。

   「とよひら物語 古老をたずねて」より

   空飛ぶ郵便 柳瀬 清太郎  (北野七条三丁目)  (中略)
  郵便物が飛んでくる
 厚別川は、今と違って曲がりくねっていて、毎年のように水害があったんだ。吉田川のあたりはすごい沢だった。厚別川にも橋なんか架かってなくて、平岡の方へは行くことができなかった。厚別の郵便局に届いた郵便物は、集配の人が川の向こう側までやって来て、大きな声で「柳瀬さーん」って叫んで、川原に落ちている石を縛りつけて、こっちへ投げてよこすんだ。その後で、柳瀬橋、高木橋、田の中橋ができたんだ。これで、平岡方面へも行き来ができるようになったんだ。 (以下略)

 お話をされた柳瀬 清太郎氏の居宅は、北野7条3丁目に(平成4年当時)あり、住まいされておられました。経歴が記されてありますから転載します。
  <経歴>
・明治37年(1904年)10月24日
  豊平村大字月寒村字厚別北通に生まれる。
  家業の農業に従事する。
・昭和12年(1937年) 厚別神社総代を務める。
  厚別産業組合理事などを歴任。

 

左図は、「ゼンリンの住宅地図」
1969年(昭和44年度版)です。
「柳瀬橋」と記してはいませんが、現在の「東北通(栄通)」に架けられた橋です。

「東北通(栄通・堺通)」は、白石村と月寒村の境界となる通りでした。

橋の西側に、柳瀬 清太郎の居宅が、東側には、遠藤三郎の居宅が明示されていま す。

いつ頃、「柳瀬橋」が架けられたのか、その年代を記して置きます
 明治23年(1890年)、柳瀬清太郎の先代(両親)は、この地に入植したと「とよひら物語」に記しています。
 明治37年(1904年)に清太郎氏が誕生し、物心着いた頃の様子では「柳瀬橋」が架けられていなかったようです。
 「その後で、柳瀬橋、高木橋、田の中橋ができたんだ。」と記していますから、明治40年(1907年)代に架けられたものと推測されます。明治の末頃の架橋となります。

注:「ひらおか」(平成11年10月30日発行)<P83・P364>より
 柳瀬 清太郎氏の祖父が、柳瀬 與十郎氏で、父が柳瀬 藤次郎氏、長男が柳瀬 清太郎氏となります。
 父の柳瀬 藤次郎氏は、富山県(中新川郡引庄村大字横越村)出身で、安政5年生まれ、明治28年(1895年)白石村番外地大谷地に入地(当時37歳・現在の高倉氏の土地)し、その後、吉田善太郎氏の口利きで、厚別北通り(現在地)に移住したそうです。
 柳瀬 藤次郎氏は人望が篤く、昭和7年(74歳)に豊平町議会議員となっています。

 ですから、柳瀬 藤次郎氏は、「柳瀬橋」を架ける契機を創られた方であったと思われます。
 高木橋、田の中橋・実橋も、先代が居られて地域の発展に寄与された方々です。
 橋の銘々に大きな影響があったと推測しています。

4.「高木橋」<国道から12号線に向かう橋>について
左図は、国土地理院地図
昭和25年(1950年)の地図です。

右下の国道36号線から、厚別川に向かい通り抜けて12号線に向かう斜めの道路があります。

それが「高木橋」です。
国道より斜めに北野小学校横を通り、「霜踏山」を通り抜け、厚別川を渡ると大谷地の地域に至る通りとなっていました。

左図は、国土地理院地図 大正5年(1916年)の地図です。
架橋の年代は未詳ですが、大正5年の国土地理院の地図では、4つの橋全て架橋されています。

左図では、2つの橋に架けられています。
左図の上部が「高木橋」です。
左図の下部が「田の中橋」です。

「柳瀬橋」と同じく、明治40年(1907年)代に架けられたものと推測されます。

 「高木橋」については、高木家に依る橋の銘々であると思われます。
 光圓寺の沿革誌に、明治期の高木氏の姓の方々のお名前が記されてあります。
 厚別小学校の卒業名簿に(明治37年卒)高木喜作氏の名前を見受けました。
 ですから、明治の末頃に入植されたと推測されます。
 橋の直ぐ傍に、昭和40年(1965年)代、髙木春実氏が所在されておられました。
 現在、北野5条4丁目の広い敷地に、高木家が住まいされておられます。

5.「田の中橋」<水田地帯の中の橋>について

左図は、「札幌市内区分地図」
1977年(昭和52年度版)です。

地図の上部(北側)に「高木橋」が記されています。

その下部(南側)に「田の中橋」(清田高校の北側)が記されてあります。

そのまた下部(南側)に橋が記されてありますが、名が記していません。
この橋は、「実(みのる)橋」と思われます。

昭和52年(1977年)頃は、厚別橋まで、4つの橋が架けられていたと言えます。

 「田の中橋」は、田中南三氏に依る橋の銘々と思われます。
 田中南三氏の経歴について、「とよひら物語 古老をたずねて」平成4年(1992年)3月発行(P106)に以下の様に記されてあります。

<経歴>
大正 3年(1914年)1月25日 豊平町大字月寒村字厚別北通に生まれる。
昭和20年(1945年) 復員後、家業である農業に従事。
昭和46年(1971年) 札幌市議会議員を二期務める。
昭和53年(1978年) 市政功労者表彰受彰。
※田中氏は、清田小中学校のPTA会長を歴任される等、地域に貢献された方です。
 田中南三氏のお住まいは、北野4条5丁目でした。
 銘々については、伝聞で教えられました。納得できます。
 尚、大正3年に田中南三氏が、月寒村字厚別北通に誕生されておられますから、先代が既に北野に入植し定住しておられたと思われます。先代(両親)については、福井県出身者であることだけ「豊平東部農業協同組合三十年史」で判明しております。

6.「実(みのる)橋」<厚別橋の北側に所在した>について

左図は、国土地理院地図
大正5年(1916年)の地図です。

地図の「霜踏山」から東側に道があり、厚別川の箇所に橋があります。
「田の中橋」となります。

その下部(南側)に、旧国道36号線からの道を東に進むと橋が記されてあります。
この橋が、「実(みのる)橋」です。
周囲には、田圃が広がっていた様です。

左図は、国土地理院地図
昭和25年(1950年)の地図です。

昭和25年(1950年)の地図ですが、大正5年(1916年)の地図と同じような道を通り、橋を渡る経路です。

現在の「清田公園」を通り、グランドに至る道でした。

 山崎實氏の経歴について、「とよひら物語 古老をたずねて」平成4年(1992年)3月発行(P116)に以下の様に記されてあります。
<経歴>
明治41年(1908年)3月22日 豊平町大字月寒村字厚別北通に生まれる。家業の農業に従事。
昭和36年(1961年)月寒果樹生産組合長を務める。
昭和42年(1967年)北野町内会会長などを歴任。
現在(平成4年当時) 北野地区町内会連合会顧問。
※ 山崎實氏のお住まいは、北野1条2丁目でした。

 「実(みのる)橋」については、厚別川直線化に伴い新しい橋の架橋に当たり、子息の山崎 智好(ともよし)氏により銘々されました。それまでは無名の丸太橋でした。

7.昭和10年頃の橋の様子
「豊平東部農業協同組合三十年史」
昭和55年9月15日発行<P83>より
「昭和10年当時の有明の木橋」との説明が記されています。
 丸太の杭を川に打ち付け、その上に丸太を渡し、その上に木を割って並べた様な造りです。
 当時の清田地域の木橋の構造も似たような造りであったと思われます。

大正8年 「千歳橋」の写真です。
千歳市HPより

 橋の両側に欄干が取り付けられ、幅が広い安全を配慮した造りとなっています。
 大正時の「厚別橋」も、この様な造りの橋であったと思われます。

 尚、4名の方について、「厚別小学校」及び「大谷地小学校」の「卒業名簿」を操ってみたところ、次のような卒業年次であることが判りました。
 ・柳瀬 清太郎氏(大谷地小学校 大正 4年修業)
 ・髙木 末吉氏 (厚別小学校 大正 5年卒業)
 ・山崎 実氏 (厚別小学校 大正 9年卒業)
 ・田中 南三氏 (厚別小学校 大正15年卒業) 以上です。

 柳瀬橋・高木橋・田の中橋・実橋について記して来ましたが、明治40年代以降に架けられた橋(丸太橋)であることが判明しました。それは、通常の行き来や田の作業する際の通路であり、農作物を運送をするためのものであったと思われます。
 橋を架けるに当たっては、先代の方々が移住され、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦を乗り越えての開墾(伐木・畑地や田圃の開発)があってこの地が開かれ、永住が出来るような土地状態になった功績を記して置かなければならないと考えます。
 橋の名は、橋の近くに住んでいたこと、架橋に対し中心になった人のお名前から、それぞれ地域の人々が呼称するようになったのでしょう。
 親しみのある方のお名前から、厚別の先人たちの苦労と歴史が偲ばれるという事です。

 < 資 料 >
 左図は、「ゼンリンの住宅地図」1969年(昭和44年度版)です。

 昭和44年頃の地図ですが、下流から「柳瀬橋・高木橋・田の中橋」です。

 地図には見えませんが、田の中橋の下部に「実橋」がありました。

 昭和44年当時の、柳瀬氏・高木氏・田中氏・山崎氏、4名の居宅地をで 記してみました。

 参照ください。

 左図は、昭和10年修正・昭和12年3月発行の国土地理院の地図です。

 厚別川と渡河されたと思われる箇所に通路が点線で記されております。
 ここが「実橋」となりました。
 また、その周辺に「吉田用水」の水路が上流より記されてあります。

 昭和12年頃は、「無名」の丸太2本を渡しただけの簡素な橋でした。

 <山崎実氏のご子息山崎智好氏のお話 ・令和6年4月11日の郷土館にて聞き書き>
 『昭和40年(1965年)頃、厚別川の直線化に伴い新たに架橋する事となり、開発局より依頼がありました。土地所有者の山崎智好(ともよし)氏が、父親名の「実(みのる)橋」と銘々しました。』との事でした。(架橋の竣功は、昭和44年頃と推定されます。)
 最初の鉄筋コンクリート橋は、車1台(1トン車1台)が通れるような幅の狭い橋であったと回想しています。現在の橋は、鉄筋コンクリート造の2代目で、平成15年(2003年)3月に完成しています。尚、曾祖父の山崎銀之助氏は、「吉田用水」開削者の1人であり、「用水碑」に名が刻されています。智好氏は4代目に当たります。

 各橋の画像を<資料>として記して置きます。
 〇柳瀬橋 やなせばし 昭和44年10月竣功・昭和60年12月竣功

〇きたのふれあいばし 昭和63年12月竣功

〇高木橋 たかぎばし 昭和62年3月竣功

〇田の中橋 たのなかばし 平成25年12月竣功

〇北野橋 きたのばし 昭和55年10月竣功

〇実橋 みのるばし 平成15年3月完成(竣功)

〇厚別橋 あしりべつはし 平成8年12月竣功

〇清田橋 きよたはし 昭和44年12月完成(竣功)

<付記として>
 上記に撮影した写真の「柳瀬橋(やなせばし)」には、昭和44年10月竣功と昭和60年12月竣功との記載が、橋の鋳造された板に刻されています。
 最初の「昭和44年10月竣功」が、鉄筋コンクリート橋の最初ではないかと推測しました。川の直線化の時期と重なります。それ以前の橋の造りは、「実橋(みのるばし)」と同様に、丸木橋又は木橋であった可能性があります。
 「高木橋(たかぎばし)」の「昭和62年3月竣功」については、それ以前に鉄筋コンクリート橋として(昭和40年代に)竣功したように思われます。
 「田の中橋(たのなかばし)」の「平成25年12月竣功」についても、昭和40年代から50年代に竣功したように推定されます。

 清田区の橋の架橋については、川の直線化を契機として鉄筋コンクリート橋となったようですが、丸木橋や木橋であった時代が長く続いていたと言う事です。
 現在、多くの橋が鉄筋コンクリート橋となっていますが、その歴史的経過を今後も追って行く必要を強く感じた次第です。

記:きよた あゆみ(草之)

 


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