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厚別演習場(平岡)の弾薬庫のこと

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 厚別演習場(平岡)の弾薬庫のこと

1. 平岡、厚別演習場の弾薬庫
 厚別演習場(平岡)に、月寒歩兵25聯隊の「弾薬庫」が在ったという証言が、「ひらおか」に記されてあります。どの様な内容かについて、抜粋し概略を転載します。

「平岡農事実行組合創立六十周年記念史 ひらおか」(1999年10月発行)<P143>

   秘話・平岡にあった弾薬庫
 昔から平岡に住んでいた人々には、太平洋戦争と平岡の関わりは、直接的には余り無かったような印象を持っているように思われます。それは、米軍機の爆撃も無かったし、平岡で地上戦があった訳でもなかったからです。
 しかし、太平洋戦争も敗色濃厚な昭和十九年、本土決戟を覚悟した日本軍は、此処平岡でも山腹をくり抜いて弾薬庫の建設に着手していました。
 当時軍の機密で、殆ど民間には知られていなかった、この弾薬庫の話とは次のようなものです。
 平岡でも厚別に近い丘陵地帯の、牧場数戸の牛舎を兵舎として、毎日そこから兵隊達が現場までの五、六㎞の道を、ツルハシやスコップを担いで穴掘りに出掛けていました。
 今から思えば山腹に縦横三、四米程の穴を掘り、リヤカーで土を運び出す人海作戦で建設していたのです。この作業には、数百人が動員されていたようですが、朝夕隊列を組んで整然と、現場に向かう姿が見られました。時には米軍のグラマンの飛来で、慌てて木陰に身を隠したりしていました。
 この地下壕は全部で、二十箇所位あったようですが、その他にも原野の中に三角兵舎と呼ばれる建物が、十数棟ありましたが、この建物は半地下式で、それに屋根を掛け、芝生などで偽装してありました。その施設には、何が貯蔵されているかは軍の機密で、何時も歩哨が立ち見張りを続けていましたから、恐らく弾薬庫だったと思われます。
 昭和二十年八月の終戦で、札幌にも米軍が進駐しました。この弾薬庫と思われていた、地下壕の一部に貯蔵されていた弾薬類は、米軍の手で爆破されましたが、この時は周辺住民に避難命令が出され、当時は付近の民家なども被害を受けるのではと、色々不安がられたものだったと言われています。 (中略)
 残されていた弾薬の爆破で、丘陵はその姿を大きく様相を変え、赤茶けた火山灰だらけの跡地は、その後三十数年経っても草木の生える事はありませんでした。  (中略)
 米軍の事前調査は綿密で、詳細な航空写真や情報に基づいた空襲だったと言われています。
 平岡の弾薬庫施設は、幸いにもその中には含まれる程のものでは無かったようです。
 それにしても、今は平和な都会化した平岡に、そんな事実があったとは夢のような話。
 二度と繰り返したくは無いものです。

 この記事をどなたが話されたのかについては不明ですが、執筆は村上健治氏と思われます。
 お話の内容は、かなり具体的(年代・数字・手順・状況・様子等)で信憑性を感じます。
2. 平岡の弾薬庫他の軍事施設についての概略
 弾薬庫について、箇条書きにすると次のようになります。
(1) 平岡の厚別に近い丘陵地帯の牧場数戸の牛舎を兵舎としていた。
(2) 弾薬庫のため、人海作戦で山腹に縦横3、4メートル程の穴を掘る作業をしていた。
(3) この作業には、数百人が動員されていたようである。
(4) 弾薬庫の地下壕は全部で20箇所位あったようである。
(5) 弾薬庫の場所(現場)まで、兵舎から5、6㎞の道を、隊列を組んで出掛けていた。
(6) 平岡の原野には、その他に、三角兵舎と呼ばれる建物が10数棟あった。
(7) 三角兵舎の建物は半地下式で、それに屋根を掛け、芝生などで偽装してあった。
(8) 三角兵舎に何が貯蔵されているかは軍の機密で、何時も歩哨が立ち見張りを続けていた。
    以上のような内容となります。

3.昭和10年頃の「厚別演習場」の様子

1/25000 国土地理院地図 「輪厚」より
昭和10年修正・昭和11.9.30発行 戦時改描の可能性

「厚別演習場」の敷地(範囲)が点線によって概略把握出来るような地図となっています。
「厚別演習場」内の道は、旧国道36号線の外に3本あるように見えます。

1つは、現在図で、イオンの西端からパチンコ店ライジング(旧国道36号線沿い)東角までの径
2つ目は、NTTビルから観霊院を経て真駒内御料 線(厚別南通り)に至る径
3つ目は、NTTビルから清田体育館を経て美しが丘緑小学校を通り、里塚霊園への径です

 当時、「厚別演習場」の敷地を25聯隊が管理していましたが、その他に現在の平岡地域・美しが丘地域・里塚霊園の範囲(未開墾地)まで及んでいた可能性を窺えるような状況です。

4. 里塚の現美しが丘地区及び里塚霊園地区について

  左図は、「札幌市清田区地形復元図」を基にした、現在の地図での三里川の川筋の概略図(平岡・里塚地域付近)

 現在の「美しが丘地区」及び「里塚霊園地区」は、開墾するには多くの河川が走り、起伏が激しく難しい地域となっていました。昭和46年になってようやく国道36号線(北野~里塚 間)が開通しました。直線化するにはかなりの歳月と時間が要するような地形だったと言えます。
 36号線の南側の里塚地区は、戦後の昭和23年になって「厚別演習場」と同じく開拓団が入植(19世帯)した地域です。入植当初は、「里塚右」と呼称されました。後に「里塚南」地区としています。酪農が主で、燕麦エンバクキビ、豆類、馬鈴薯等を作っていました。昭和38年に公園墓地(里塚霊園)が設けられることが決まりと7戸が離農し、昭和55年には宅地化が進み8戸となっています。

5.弾薬庫と三角兵舎の所在した場所の推測
(1)「弾薬庫」の特定について
 「弾薬庫」については、「現場まで、兵舎から5、6㎞の道」があったとしています。
 往復なのか片道なのかは解りませんが、決して近くと言えない道のりです。
 「厚別演習場」から厚別南通り沿いに、有明の方面に向かったとは考えられません。
 経路は限定的となり、推測されるのは、「里塚霊園」方面への道しかありません。
 場所は特定出来ませんが、「里塚霊園・斎場」までならば距離で、約3,5kmです。
 それより先は、厚別川と大曲川の地域となり、かなり場所的に不向きな箇所と考えます。
 推定の域を出ませんが、以上の事から、「里塚霊園・斎場」までの間に20箇所位、場所を選定し確保するような地下壕を造ったのではないかと考えます。(検証が必要です。)
(2)「三角兵舎」の特定について
 「平岡の厚別に近い丘陵地帯の牧場数戸の牛舎を兵舎としていた。」とあるので、兵舎については、札幌本道(旧国道36号線)沿いにあった牧場の牛舎を強制的に、使用した事が考えられます。
 丘陵地帯と記してあるので、どちらかというと札幌本道の南側にあったと推測します。
 10数棟在った三角兵舎については、半地下式で偽装の必要があったとしていますから、崖地等を利用して掘り下げて兵舎を配置したものと推察します。厚別演習場は、殆ど開墾のない原生林であったと思われますから、設置には割合適した場所であった事が考えられます。
(3)「弾薬庫」と「三角兵舎」について
 「写真で見る札幌の戦跡」(2001年12月28日発行)を参照すると、弾薬は馬車で運ばれたとしています。弾薬の壕は、交通には利便性がある道路沿いに設定したようです。
 「弾薬庫」は、地下壕にもあったようですが、「三角兵舎」(片屋根・高さ約5mと3m・広さ10m×20m程の建物)にも弾薬を木箱に詰めて積み重ねて置いたとの記載があります。
 「三角兵舎」は、野原の中に在っても、目につかないよう土を掘り下げ、窪地のような状態の箇所を造り偽装工作を施していたようです。

 以上ですが、ほとんど知られていない、平岡・里塚地域にあった「戦跡」を記しました。
 「弾薬庫」と「三角兵舎」の場所の特定には至りませんでした。記した内容も推測の域を出ませんので検証が必要です。関連する何らかの情報を得たいと願っております。

 記:きよた あゆみ

<本編>明治18年頃 清田にあった「学田地」と「厚別演習場」

<外伝>「学田地(厚別演習場)」であった「真言宗 至勢山 観霊院」

<外伝>「学田地(厚別演習場)」の境界を示す不思議な風景と径

<外伝>「厚別演習場」の境界を示す径  その2

<外伝>厚別演習場(平岡)の弾薬庫のこと

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