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吉田善太郎の名を冠した「吉田山」

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吉田善太郎の名を冠した「吉田山」

はじめに

 左図は、大正5年測量の国土地理院の地図です。
 地域は、白石区大谷地周辺となります。現在の国道12号線の南側に位置し、地下鉄南郷18丁目駅の西側と言えます。
 「文」の学校の記号が見えますが、「札幌市立大谷地小学校」です。
 大谷地小の西側に「吉田山」と記した箇所について記す事とします。

1.「吉田山」の銘々について 
 「吉田山」は、吉田善太郎の名を冠した山となります。善太郎と親しい間柄にあった月寒歩兵第二十五聯隊の稲村新六連隊長(明治42年<1909年>4月1日~<明治44年>1911年12月27日)が軍用地寄付などのお礼の意味で当時の地図作成の陸軍参謀本部に上申し、5万分の1の地形図(大正5年測量の国土地理院発行の地図)に記載されました。
 しかし、地域周辺が住宅地になるとともに、現在は地形図から消えています。
 銘々された「吉田山」は、現在の本通南・北17丁目・18丁目、南郷通南・北17丁・18丁目にまたがる付近にありました。「吉田山」の以前の名称は、「柏山」と呼んでいました。
 柏の木が繁茂していたからです。地域には、「柏」の文字が入った町内会館・バス停・浴場等がありました。戦後になっても、「吉田山」「柏山」の両方の呼称が用いられています。
 昭和33年、その辺り一帯を造成し、道営住宅団地とする建設が始まりました。
 現在の道営白樺団地です。「吉田山」を造成したため、今は小高い丘に変貌しています。

2.吉田善太郎の住居 

 吉田善太郎について身近に感じられるものとしては、白石区栄通18丁目7の住宅の一角に<白石・歴しるべ>「吉田善太郎居住跡」の掲示板が設置されてあります。
 「吉田山」にほど近い所に在るのですが、今は人通りも少なく樹木の陰になり、ほとんど気付く人がいません。

 往年の吉田善太郎の邸宅は、池に面した2階建ての大きな家で、しゃれた洋館風の造りであったと伝えられています。(大正15年に、吉田善太郎の邸宅が火災で焼失しています。)

  <白石・歴しるべ>     吉田善太郎居住跡
 吉田善太郎は、文久元年(1861)4月14日陸奥国(岩手県)上田村に生まれ、明治4年(1871)4月、数え年11歳の時、北海道開拓使からの移民募集に応じた父に従い全家渡道、札幌郡月寒村東10番(現 豊平区月寒中央通7丁目)に移住した。明冶21年(1888)4月、この地に入った。住居は池に面した2階建ての大きな家であった。
 明治24年、月寒村厚別(現清田)の地主から依頼を受け、用地の解放と2万円を投資して、北野~月寒川に至る灌漑用水路を開削し、「吉田用水」または「善太郎用水」といわれた。明治26年、所有地を寄付して大谷地簡易教育所(現大谷地小学校)を設立し、明治30年3月からは、大谷地や月寒の丘陵地を牧場として、牛の品種改良に尽力した。明治32年3月藍綬褒章受章、38年勲8等に叙せられ白色桐葉章受章、大正5年(1916)12月24日没した。亨年56歳

 掲示板の文末には「明治32年(1899年)3月藍綬褒章受賞、明治38年(1905年)勲8等に叙せられ白色桐葉章受賞、大正5年(1916年)12月24日没した。享年56歳。」と、記してありますが、時代の流れとともに関心が薄れていくことを感じます。

3.字ガンビー山(吉田山)について

 左図は「札幌近郊地図 月寒村之図」です。
<請求番号 番外33の8>」 (北海道立文書館 所蔵)
 この「月寒村之図」の真下に当たる箇所に、則ち月寒川とアラヲ川(現ラウネナイ川)の落合の箇所に、「字ガンビー山」と記してあります。
 「月寒村之図」の作製年代は、明治15年頃となります。

 「ガンビー山」についてですが、通常は「ガンビ」で、白樺の樹皮のことです。
 「白樺の樹皮」(カンバのジュヒ)から「ガンビ」と呼ばれました。「ガンビ」は、とてもよく燃えるので、焚き付けとして 使われました。通称が「ガンビ山」だったかどうかは未詳です。測量士に依る仮称だったと推定しています。明治15年頃、周辺には人家が少なく、白石村に移住した人々の薪を採る山だったのかも知れません。

4.明治43年製版・歩兵第二十五聯隊製圖 <月寒>の図
 明治43年製版・歩兵第二十五聯隊製圖の<「月寒」の図>にも「吉田山」の記載があります。左図が、その地図です。
 大正5年以前に既に、「吉田山」の銘々があったという事になります。
 何時「吉田山」との呼称になったのかはついては、連隊長との関係で、明治42、3年頃と推定されます。その後、昭和30年頃まで、「吉田山」として地図に載っていますが、地域の人々に「柏山」とも呼称されていました。「吉田山」の山中に「工兵路」が南北に設定されています。
 「工兵路」は、歩兵第二十五聯隊の工兵が使用する道と言う事になります。
 「吉田山」の境界は未詳ですが、演習地(軍用地)の時期が長く続いたようです。

5.大正の終わり頃の柏山地区
 「白石の語り部たち」(1998年出版)<P18>より  注:上が西側・右が北側

 大谷地分校の前を「吉田用水」が流れ、大谷地分校の西側に、「柏山」と記されています。
 「堺通」(現、栄通り)の右側に吉田と記してあるのは、吉田善太郎の邸宅です。
 「堺通り」は、白石村と月寒村の境界となっていました。
 「中央を走っているのが、北海道鉄道会社線(旧千歳線)」との説明があります。
 大谷地駅が設置され、直ぐ傍に、吉田清(善太郎夫人)経営の雑貨店がありました。
 清田の人たちも、近くに駅が出来たので、利用したようです。

6.吉田商店のこと
 大正15年8月21日、苗穂~沼ノ端間が全通し、辺り一面が田圃ばかりのその真ん中を、汽車が黒煙をはきながら走ることになりました。

     辺り一面が水田地帯の大谷地 (「白石村誌」より)
 ほとんど商業施設らしきものがなかった地域でしたが、千歳線が設置され「大谷地駅」が出来たことにより、大谷地駅に向かう通りの左側に「吉田商店」(大谷地駅を利用する人々を目当ての商店)が開店しました。日用品を扱う雑貨店でした。
 「吉田商店」は、「吉田善太郎邸」や「吉田山」に程近い所に所在しています。
 当初大谷地駅は、「貨物専用駅」としての開業でしたから、どれほど利用されたかは分かりません。それでも乗降客はあったようです。また、「吉田商店」の需要についての詳細は知り得ませんが、日用品の必要な物が傍にあるということで繁盛したらしいのです。
 乗降客ばかりでなく、地域の人々も結構「吉田商店」を利用したということです。
 尚、「吉田商店」は、現在の白石サイクリングロード沿い、栄通19丁目の「冒険公園」の南側に位置して在りました。

7.昭和47年札幌市区制地図による
 左記の地図は、「昭和47年札幌市区制地図」です。
 地図の右上(北東)に。「柏山」「北柏山」「かしわ学園」が記されてあります。

 この頃になると、「吉田山」の呼称は消え、「柏山」の地名も地域に残っている状態となっています。

 栄通17丁目町内会元会長 宮地英雄氏による寄稿には、「昭和の初期ごろまでは、現在の栄通十七丁目一帯は、柏の木が繁茂し、私有地であったが、月寒二五連隊の夜間演習場、又は歩兵の塹壕構築作業場でもあった台地です。」と「東白石地区連合会 二十周年記念誌」に記しています。
 また、古老の話として、『「柏山人道橋」の南側辺りを昔から「柏山」と呼び、月寒川の東側の丘などに柏の木が多くあったことに由来する。この古い地名は、橋の南にまっすぐ繋がる市道バス路線柏山線や付近の公園の名前にもなっている。なぜか町内会では「山」の字を外して「柏」と称し、地区会館もこの名前にしている。』と、語っておられます。
 注:「柏山(跨線)人道橋」について
 旧国鉄が、昭和43年(1968年)に貨物ターミナル駅とともに、「跨線橋」を整備しました。昭和61年(1986年)JR平和駅が開業します。その事で、住民の要望を受けて、平成14年(2002年)10月17日に改修(架け替え)され設置されました。長さ294m・幅3.5mの「人道連絡通路」のことで

8.道営白樺団地の建設と大谷地小学校の廃校問題
 札幌市の土地区画整理事業が進行している最中に、大谷地地区には道営の白樺住宅団地が建設されました。周辺は田んぼで、小高い山の丘に忽然と住宅団地が出現したのです。
 場所は、大谷地小学校の西側、吉田山(柏山)の頂上付近一帯となります。
 (現在の南郷通17丁目北1~6周辺に当たるところです。)
 「北海道庁建設部住宅課」の資料よると、昭和32年度より建設が始まり、ブロック造りの長屋建208戸が出来上がったのです。
 昭和32年度建設開始の住宅は20棟(116戸)、昭和33年度建設開始の住宅は13棟(92戸)、計33棟の建設でした。内訳は、四戸長屋5棟・六戸長屋18棟・八戸長屋10棟の計208戸もの大きな団地でした。

 団地造成のため、この附近で農業を営んでいた大沢氏等7,8名の土地が売却され実現しました。また、この団地造成には、伊藤作一道議会議員・奥山武雄氏が中心となって推進されました。

  ・建設された「道営白樺団地」    「北海道庁 建設部住宅課」 資料より

 ところで、この「道営白樺団地」造成には経緯がありました。それは大谷地小学校の廃校問題を解消するためだったのです。
 昭和26年(1951)当時,本通商業地区や南郷地区が開けて,白石小学校は、33学級で児童数が約2,000名にもなり,教室不足が起き,本郷小学校の新設が決定しました。
 すると、大谷地小学校の児童数が少ないため、新設の本郷小学校との統合により廃校にするという提案が札幌市教育委員会より出されました。
 その廃校問題に対して、住民の総意により「存続起成会」が設立されました。陳情書を札幌市長に提出し,再度に渡り陳情交渉を行いました。起成会会長は,松下松五郎氏です。
 (その他に学校沿革誌には西内寅吉氏・長浜万蔵氏の名が載っています。)
 それは、昭和33年(1958年)まで続けられました。丁度、道営白樺住宅団地が建設された年まで約7,8年間、陳情交渉が行われました。
 ちなみに当時の大谷地小学校の児童数等は,以下の通りとなっています。
 昭和26年(1951)129名 3学級  起成会発足・陳情交渉
 昭和27年(1952)130名 3学級  陳情交渉
 昭和28年(1953)110名 3学級  陳情交渉
 昭和29年(1954)101名 3学級  陳情交渉
 昭和30年(1955)108名 3学級  陳情交渉
 昭和31年(1956)108名 3学級  本郷小学校が新設・陳情交渉
 昭和32年(1957)120名 3学級  陳情交渉・道営住宅団地建設
 昭和33年(1958)126名 3学級  道営住宅団地建設・起成会解散
 ※ 昭和33年まで、児童数・学級数により、複式学級の小規模校でした。
 ※ 昭和32年に、南郷17丁目に道営住宅団地の建設が開始され、道営住宅団地の人口増が見込まれ廃校問題が解消しました。そこに至って、大谷地小学校存続起成会が解散したのです。
 ※ 道営住宅団地建設による児童数増は,以下の通りとなっています。
 昭和34年(1959)199名 6学級
 昭和35年(1960)223名 6学級
 昭和36年(1961)249名 7学級
 ※ 昭和34年より、1学年1学級、計6学級の単式学校となっています。
 その後も,大谷地地区が大きく開け、児童数が急増することとなりました。

9.「道営白樺団地」について
(1)附近見取り図 (現在の南郷通17丁目の周辺となります。)

「道営白樺団地」

敷地面積は、35,754㎡でした。
33棟の団地

 

(2)旧住宅の配置図

 施設整備状況は、幼児遊園地⇒2ヶ所(1,001㎡)・物置⇒は各戸専用・し尿処理⇒汲み取り・雑排水処理⇒公共下水道・給水⇒上水道・ガス⇒LPガス。
 1種住宅(簡二) 専用面積 39.66㎡  家賃 7,600円
 2種住宅(簡平) 専用面積 29.75㎡  家賃 5,000円
 1種住宅は、二階建長屋で団地の中央部に4棟が建てられました。
 残りの住宅は、すべて2種住宅・平屋建ての長屋で29棟が設けられました。

 「白樺団地」の名は、「当時、道の住宅課建設係で監督主任をされていた二木喜多男氏が、白樺の木をこの団地周辺に植えて命名されたことによる。」としています。
 (「ガンビ山」の銘々が、昭和32,3年頃になって復活したことになります。)

 この団地が造成されたことによって、周辺部が動き出し、農家も市街化を目指して急いで土地を手放しはじめ、土地区画整理事業のきっかけとなって行きました。

   航空写真による昭和36年完成の「白樺団地」です。
 ブロック造り長屋建、平屋及び二階の208戸が出来上がりました。
 その後、周辺に道職員住宅アパート・医大アパート・道公住宅も建てられました。

(3)現在の「道営白樺団地」
 昭和54年、栄通18丁目に「道営栄通り団地」の建設が行われ、昭和55年3月24日「道営白樺団地」建て替えの承認が得られました。
 昭和55年11月「道営栄通り団地」(5階建て2棟)へ70戸が引っ越しました。続いて、昭和55年度に「道営白樺団地」の66戸の除去と、新たに4棟120戸の建設が始まりました。昭和56年度には106戸が除去されて、2棟60戸の建設、昭和57年度36戸が除去され7棟113戸が建設されました。
 昭和57年に4階・5階建ての住宅363戸の完成をみたのです。
 左図は、現在の地図での「道営白樺団地」の位置図です。

 「道営白樺団地」は、元吉田山、地域の人々によって、「柏山」と呼称された小高い丘の南部を造成して造られました。

 吉田山の半分ほどが団地となった事になります。

「道営白樺団地」の配置図 ( 合計13棟 )


高層住宅に建て替られた「道営白樺団地」

 昭和32年度建設の「道営白樺団地」から、昭和54年建設「道営白樺団地」に生まれ変わりました。尚、現在は、名称を「白樺 道営住宅」と呼称されています。

10.「吉田山」「吉田」と冠されて呼称された地域の箇所
 明治25年頃、開削された「吉田用水」は、大きな事業により、「吉田」が冠されています。
 また、現在も、白石区には「吉田山公園」(南郷20丁目南)・「吉田山2号公園」(本通19丁目南)があり、清田区・豊平区には「吉田川公園」(月寒東3条19丁目)が、地域の地名の中に残されています。造成に冠した工事としては、
・ 昭和33年に、「吉田山」の一部が「道営白樺団地」として建設が始まりました。
 (現在の「道営白樺団地」は、昭和54年の建替による住宅団地となっています。)
・ 昭和39年から昭和42年まで、「吉田山第二区画整理事業」が行われました。
 (本通南17・18丁目、南郷通17・18丁目の区域)
・ 昭和39年から昭和42年まで、「吉田山第三区画整理事業」が行われました。
 (本通南19丁目~22丁目、南郷通南北19丁目~22丁目の区域)
・ 昭和44年から昭和49年まで、「吉田山第一区画整理事業」が行われました。
 (本通南13丁目~16丁目、南郷通南北13丁目~16丁目の区域)
 その他、「吉田山」の名称が付けられている箇所は、「白樺道営住宅」から大谷地小学校の南側を通り、清田通を縦断し、南郷20丁目の北と本通20丁目南の間の道路を「市道吉田山2号線」と称し、「道営白樺団地」の西側の通りを「吉田山道営住宅線」(幅10.91m)として現在もその名称を留めています。
 清田区には、「吉田用水」の他に、「吉田川公園」の傍を流れる「吉田川」(水田に利用されましたが自然の川です)は、往時の功績の尽大であったことを物語るように、今も「吉田」名を冠して流れております。

                           記:きよた あゆみ(草之)

<本編>明治25年頃 「吉田用水」の開削

<外伝>吉田善太郎の農場(牧場)と邸宅

<外伝>明治25年頃 開削した「吉田用水」諸々のこと

<外伝>明治43年 吉田善太郎の碑

<外伝>吉田善太郎の名を冠した「吉田山」


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