明治37年 清田区にあった「山鼻屯田給与地」
図には、「白石村大字白石村字野津幌」と「豊平村大字月寒村字厚別」にあった、「山鼻屯田給与地(公有地を含む)」について記してあります。
右側3分の1が白石村野津幌で、左側3分の2が月寒村厚別(清田区内)に位置しています。
黄緑の7か所が「公有地」で、残りの170か所が「給与地」に当たります。
総面積が、140万4000坪と記してあります。
はじめに
屯田兵と言えば、明治時代に北海道の開拓と北方警備に携わった元幕府の武士です。
屯田兵の制度としては、明治7年(1874年)に設けられ、次の年に実施されています。
明治37年(1904年)には廃止されていますから、かなりの時が流れています。
そして、屯田兵が住まいした村とは、遠く離れた厚別に「屯田給与地・公有地」がありました。
しかしながら、この屯田兵村の給与地・公有地が清田区に1箇所でなく、数か所ありました。
今では、ほとんど知られる事なく地域住民の方がお住いの土地となっておりますから、それを少し掘り起こしてみます。
ここでは、平岡・里塚地域に在った「山鼻屯田給与地」について記したいと思います。
1.上野幌・平岡・里塚地域の開墾に関わる図面(明治15年)
左記の一葉の「図面」は、願い地に添付した図面です。
その中に「陸軍御用地」と記してあります。
この土地の状況を記すと、「御用地」の場所は、東は野幌川(大曲川)・西は厚別川・南は室蘭道(現在の旧国道36号線)・北は鉄道線(函館本線)に囲まれた地域のやや南に位置した所に、「陸軍御用地 百四十四万坪」(140万4千坪の誤り)の土地があったことが判かります。
現在の場所でいうと、上野幌・平岡・里塚に及ぶ一帯の地域です。
この土地は「陸軍省」の所有する敷地となります。「陸軍省」は、明治5年に明治政府によって「海軍省」とともに設置されました。「陸軍省」は、明治15年に屯田兵に関する管轄を行う事となり、明治23年「屯田兵土地給与規則」によって土地の給付を始めます。
2.屯田兵村と屯田兵へ土地給与
明治23年9月6日、「屯田兵土地給与規則」が施行され、屯田兵は一戸当たり1万5千坪の土地が給与されました。(下士官には、5千坪が増給され、将校によっては、その他にプラスの土地給与があり、5千坪・1万坪・1万5千坪等、格差を付けての給与地となりました。)
兵村には兵員と同戸数分の公有財産地(戸数×1万5千坪)が給与される事となったのです。
上記の「所有地区域連絡図」は、山鼻村の屯田兵の各戸に給与された土地区画地図となります。
「札幌南法務局出張所」の「旧土地台帳」には、全戸ではありませんが、現在も山鼻兵村の方々の名前が列記された土地台帳が保存され閲覧する事ができます。
尚、山鼻兵村には、この土地の他に札幌市内に給与地や公有財産地がありました。
先の「土地給与規則」によって、1箇所乃至2箇所で1万5千坪を得た人や、他の土地を合わせて既定の土地を得た人など様々な対応が見られます。
3.「所有地総区域實測連絡圖」(山鼻屯田給与地)の概要
「所有地総区域実測連絡図」は、給与地170区画と公有地7区画に分割されています。概算で1区画当たりの面積は、140万坪÷177区画 = 平均で7,909坪となります。道路用地・川敷地等を勘案すると、1区画当りの土地面積は約7500坪となる計算です。
山鼻兵村への給与年月日は、明治25年4月10日、服役満期年月日は、明治37年3月となっています。この土地は、当時かなりの荒蕪地であったため、服役満期の明治37年以後、山鼻兵村の多くの方は、この土地の開墾を行うことなく移住者に売却する人がほとんどでした。
その後、土地開墾のため艱難辛苦を重ね、三里川沿いの米作りや平岡の畑作・稲作が徐々に進んでいきました。しかし、開墾の難しい土地も多く、戦後の昭和40・50年代に入っての土地造成によって上野幌・平岡・里塚地域の発展を見ることとなりました
4.「所有地総区域實測連絡圖」(山鼻屯田給与地)のおよその位置関係
図は、上がやや北です。
・右上角は、上野幌2条6丁目
(雪印種苗センター付近)
・左上角は、大谷地病院の北角
・左側縦の道路は、真駒内御料線
<白石村と月寒村の境界>
・中央右の通りは、東栄通り
・中央左の通りは、東北通り
・右下角は、里塚緑ケ丘3丁目(ホクレンショップ付近)
・左下角は、中央バス平岡営業所の北角
5.「所有地総区域実測連絡図」による区画設計について
○南北の長さは、約1177間(2120m)・東西 約1216間(2189m)の大きさです。
○南北に区画が12分割され、西側・零号線(道路)から11号線まで11区画でした。土地の巾は、100間巾で、11号線から12号線までの1区画だけが50間巾となっていました。道巾は、零号線(真駒内御料線)と12号線は4間巾で、その他は2間巾でした。
○東西には3分割され、村境界の東北通(東栄通)は、30間の道巾で、平岡中央通は、4間巾で設定されていました。東西の道は、上記の2つの道以外に計画されていません。ですから、現在もその名残が道路の各所に残っています。
○「給与地」の四方を囲む道路は、4間巾となっていました。
○この給与地を南東から北西に斜めに縦断しているのが、ラウネナイ川(俗名三里塚ノ沢)です。三里川の西側には、この他に二里川が流れていました。どちらの川も掘りの深い川でした。
上記のような区画設計による「山鼻屯田給与地」の状況でした。
記:きよた あゆみ