明治初期 厚別川の下流域の状況
~ 大谷地・川北・山本地域等のこと ~
1.「西蝦夷地石狩場所絵図」(北海道大学北方資料室所蔵)より
下図は、「西蝦夷地石狩場所絵図」(北海道大学北方資料室所蔵)で、部分を筆者が模写したものです。(多少正確性に欠ける事をご容赦ください。)
時代は、北海道大学北方資料室の説明では、「幕末」となっています。
ですから、大凡、江戸末期の状態が、このような川筋となっていた事が推測されます。
清田区(アシリベツ)の周辺の状況としては、下流域の「沼」(現在のもえれ沼)が非常に大きく記されております。
「モエレヘツトウ」と「モエレヘツフト」が記されて、豊平川へと流れが続いております。
豊平川の流れは、「サッポロ(伏古札幌川)川筋」「モエレヘツトウ川筋」「ツイシカリ川筋」の3つの流れがあったように地図では窺われます。
ところで、文化3年(1806年)「遠山村垣西蝦夷日記」遠山景晋(かげくに)・村垣定行(さだゆき)の中に、豊平川の川脈が、サッポロ川筋からツイシカリ川筋の変わった年代が記されてあります。
「遠山村垣西蝦夷日記」より、津石狩川(ついしかり)について
文化3年(1806年)の日記の記録から、その4,5年前にサッポロ川が切替わったということが分かります。この事から、川筋が変ったのは、享和元年(1801年)乃至翌年(1802年)となります。
しかしながら、完全に変わったのではなく、豊平(トエピラ)の箇所辺りで多少堰き止められて、川の流量が大きく変化したのだと言う事が、この地図から推定できます。
2.「北海道全図(河川図)」
同じような状況が、「北海道全図(河川図)」<幕末>にも見られます。
参考のために掲載して置きたいと思います。
「北海道全図(河川図)」幕末 手書き彩色 軸物(筆者の模写図・部分)
(北海道大学北方資料室所蔵)
「北海道全図(河川図)」について、「北海道大学北方資料室」の説明には、「輪郭は、伊能・間宮の沿海実測図にもとづき経緯度線を有す。河川は非常に詳細で内陸まで川筋のアイヌ地名を多数のせる。漁業の種類その他多くの記号を有するが、凡例を欠く。松浦武四郎の『東西蝦夷山川取調図』の一種か。」としていています。
ところで、先の「遠山村垣西蝦夷日記」には、次の様な記述があります。
サッポロ川の川筋がツイシカリ方向に変わってから、4,5年も経過しているのに、サッポロ川の川幅が14,5間あり、ツイシカリ川の川幅は5間ばかりであったようです。
この事は何を意味するのでしょうか。推測の域を出ませんが、川筋が変化した後も豊平川の流れが完全に止まったのではなく、その後も小舟が通れる水量がシノロ方面へ流れていたと思われます。(メムや伏流水が、サッポロ川筋へ流れていたと推測できます。)
3.厚別川(アシュシュヘツ)付近のこと
先の「西蝦夷地石狩場所絵図」を清田区に関係ある部分的を拡大して再掲いたしました。
厚別川(アシュシュヘツ)付近のアイヌ語関係の事柄について簡単に記して置きます。
〇ノフロ(ヌプロヲチ)は、野幌川のこと。
〇チエ(キ?)シャフ(チキシャフ・チキシャップ)は、月寒川のこと。
〇シ・チキシャフは、本流ノ月寒川。モ・チキシャフは、小さな月寒川で、望月寒川。
〇タカウナイ(タカヲマナイ)は、鷹(和名)巣ノ沢で、ラウネナイ川と思われます。
現在、うらうちない川と共に、月寒川の支流となっています。
〇トヱヒラ(トイピラ)は、トイ(切れる・裂ける)ピラ(崖)で、崖崩れる処。
〇モイレ(モライ)は、遅い流れ、静かで、ヘツは川。トウ(ツ)は、沼。
モイレヘツトウは、静かな流れの沼を意味します。
〇トウハロ(トーパロ)は、沼の入口。
〇ツイシカリの、ツは沼、ツイシカリは、回流するで、回流する沼の意となります。
〇サツホロとチキシャフの間に、ツイシカリが記されてあります。
こちらは、ツイシカリメムと思われます。此のメムからの流れがツイシカリ川を形成していたと推測されます。
琴似川・発寒川は、湧水によって川筋が出来上がっています。
〇ヒトイ(ピトイ・ヒトヱ)は、泥土ノ小塊の在る処の意です。
以上、簡略に記しましたが、多岐にわたる解釈は省略させて頂きました。
4.「ツイシカリ」について
「ツイシカリ川」(「トイシカラ」「ツイシカリメム」)の成り立ちについて、永田方正は下記のように言及しています。
永田方正著「北海道蝦夷語地名解」の解釈を参考にしたいと思います。
下記の「トイシカラ」は、「ツイシカリ」のことです。
「北海道蝦夷語地名解」(明治24年発行)による語の解釈 (ローマ字の発音表記は省略)
上記の、「ヌプロチベッ」は、「ノホロ」「野津幌川」のこと、「ハシウシュベッ」は、「アシュシュベツ」「厚別川(あしりべつ川)」のことを意味しています。
「野津幌川」と「厚別川(あしりべつ川)」との間に、「トイシカラ」<「イシカラ(回流する)」「ト(沼)」>が存在していたと著者は記しています。
「トイシカラ メㇺ」について、現在の東高等学校の傍に沼があり、その付近の湧水が川筋となり、石狩川に注いでいたように記しています。
以上の記述から、豊平川が「ツイシカリ川」筋に変化した後は、湧水が飲み込まれるように、豊平川と一本化して行ったと理解できます。
5.明治29年頃の厚別川の流れ
下記の地図(国土地理院)は、明治29年頃の厚別川・野幌川・豊平川その他の流れの様子です。河川の川筋がはっきりとしてきたと思われます。
清田区の北野、白石区の大谷地に跨る「吉田用水」が、明治25年頃に開削されています。
用水を開削する際に、大谷地地区の土地には排水路が図面に記されてありますから、排水路を掘割する事で、水田として利用可能になった事が判ります。
湿地の状態の土地を耕作地とするため、地域住民が掘割し、泥炭・湿地に排水路を設けて通常の土地状態にするよう労力を投じたのです。(暗渠の箇所もあったのです。)
大谷地地区より北側の山本地区の古老のお話を紹介します。
「白石歴史ものがたり」(昭和53年発行) <P88・P358参照>より
山本地区は一面泥炭の湿地帯で、現在のような美田になるとは、誰一人想像もしなかった。まあいわば見捨てられた地帯であった。(中略)雨が降ると春から秋まで、毎年のように水害があり、その上冷害に見舞われると収穫皆無の事も珍づらしくはなかった。
冬は冬で寒中これ又水害に見舞れて悲惨を極めた。さすがの開拓者も入植後十年余りで、大正十一年頃までに、旧い人は夜逃げするようにして去って仕まったので、殆ど新しい人と入れ変った。その頃の人が、苦しさを耐え忍んで現在の美田を造り上げた。今は概ね二代目の人が中堅となって活躍している。 (以下略)
漸く一面の湿地帯が排水に依って、住まいする土地・米作地帯となったのです。
山本地区についての経過については、「厚別開基百年史」に詳細が記載されてありますので、転載をしておきます。
「厚別開基百年史」(昭和57年発行)<P59>より「山本地区」
厚別地区の中で一番遅く開けた所である。この地区も一面泥炭の湿地帯で、今のような立派な美田になるとは、当時を知っている者のほかは、誰しもが予測されないところであった。しかし、将来を見通す政治家は、この地区を放ってはおかなかった。すなわち明治四十一年、小樽の山本久右衛門が払下げを受け、翌四十二年から私費を投じて、「山本農場」の開墾に着手したのである。
まず明治四十三年に、北海道の将来に期待して来道した明井オ次郎が入地。続いて翌四十四年に扇原利作、松浦三次郎、向平初太郎、高力清次郎、堤福蔵、円野忠左衛門、岡田庄助。同四十五年には美勢仁三郎、青木伝吉、石戸谷庄之助が入地した。年号が大正になった同二年に高力留次郎、増田利作、続いて佐藤竹蔵、高橋寅造、高橋万助等が、それぞれ小作として入地したが、ひどい泥炭地で排水溝もないため、造田に大変な苦労を重ねていた。
この時、小池嘉一郎(注・明治十九年信州開墾に入植)が開拓当時の経験から、部落民の先頭になって、その指導に当り、排水溝掘りに協力、ついに完成をみたのである。
この時、嘉一郎は自ら赤飯を炊いて持参し、山本部落民と共に心から完成の喜びをわかち合ったという。この排水溝が、今の山本大排水に発展したことは言うまでもない。また、この地区を「本田」と称していたが、昭和九年四月山本厚三の姓を取って、「山本」と改称し、これを機会に独立したのである。
山本稲荷神社境内に建設されている「謝恩之碑」文中に、「経営途上偶々我等小作人より自作農創設実施方希望墾話せる処、氏は時代の推移を逸速く洞察其の意のある処を了とせられ物心両面の莫大なる損失をも不顧只管農家将来の幸福を念願昭和十九年末、道内農家開放の先駆をつとめ農場全域の模範的開放を実施せられたり。山本氏の美挙により自立せる我々農民は以来十有余年氏の意志を継承愈々発奮揮身の努力を傾け遂に全地域の成墾を見ると共に、農家経済も亦漸く安定するに至れり」(一部省略)とある。
「本田部落」後の「山本地区(農場)」は、現在の厚別高校の北側、厚別川と野幌川に挟まれた地域です。現在は、厚別町山本と呼称され、山本川が中央に走り、山本処理場・オートリサイクルセンター・老人保健施設・厚別山本公園などが所在しています。
〇大正5年国土地理院の地図では、「厚別原野」となっています。
厚別川と月寒川に挟まれた地域は、「大谷地原野」となっています。
「大谷地原野」は、後に、「北郷」「川北」地域として、この地も発展して行きました。
〇昭和10年国土地理院の地図では、「原野」の状態となっていますが、稲作の出来る田圃が広がっています。
〇昭和25年国土地理院の地図では、「原野」から稲作の出来る田圃がかなり広がりを見せています。
排水によって、次々と田として変貌を遂げて行きました。
次いで、厚別の「川下地区」について記したいと考えましたが、山本地区と同様な状態であったため、「暗渠排水発祥の地」の記念碑を掲げ川下地域の対応に替えます。
左記は、
「暗渠排水発祥の地」の碑 (昭和19年当時)
<碑の文面> 正面
昭和十九年十一月二十八日
北海道■■(土功)組合聯合會 仮建立
<碑の文面> 側面
明治二十六年中澤八太郎札幌郡白石村大字白石■(村)字厚別川下ニ地ヲ相シ 水田耕作中明治二十九年泥炭湿
地改良ニ暗渠排水施■(設)ノ必要ヲ感ジ郷里 長野縣有賀村ヨリ用具ヲ求メ竝木ヲ以テ水田一町歩ニ之ヲ施行
セリ 是本道ニ於ケル農家施設暗渠排水ノ嚆矢トス
注:■( )は、筆者の仮の補足です。
「厚別開基百年史」
(昭和57年8月25日発行)<P105>より
この碑は、現存していません。
発祥記念碑は最初、昭和16年(1941)に建立されましたが,昭和37年(1962)に台風のため破損しました。そのため、現在の石碑は昭和53年(1978)に,中沢八太郎氏の孫の中沢敏弘氏によって自宅の庭に建立されました。
現在の碑は、札幌市厚別区川下2条8丁目に設置されています。
以上の様に、川下地区では、明治29年頃に「暗渠排水」の施行が行われています。
暗渠排水の方法は、水田の畦道に沿って、幅約40cm、深さ約1mの深い溝を掘り、更にその底に水の落ち口として、幅約15cm、深さ約30cmの細い溝を掘りました。
その後、水の落ち口となる溝の上に割り板を被せ、その上に柴木・雑草などを敷き詰めて蓋をし、最後に土を被せたものでした。
「白石歴しるべ」では、明治28年から2年かけて約1町歩(1ha)の土地に施行したとしています。早い段階の「暗渠排水」の施行となっています。
6.明治政府による排水路の整備
(1)開拓使の治水
開拓使が最初に着手したのは、豊平川の流木その他河流障害物を除いて水はけをよくすることでした。即ち明治4年早くも豊平川・伏籠川筋の流木・沈木約六千八百間を除き、既設溝渠の浚渫排水も行っています。
それ以前には、所謂大友亀太郎によって慶応2年(1866年)に掘削された「大友道(堀)」と称された掘割があり、「吉田掘」は、明治3年(1870年)に吉田茂八が請負った掘割です。「寺尾掘」は、明治3年に寺尾秀次郎が手掛けた掘割となります。
(2)明治20年開削の「新川」について
新川は、琴似川や発寒川などの流域の治水と周辺地域の湿地の排水・耕地化などを目的として1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて「琴似川小樽内川大排水路」として開削されました。
水路は、北22条西13丁目付近(競馬場付近)から石狩湾まで、全長約13キロメートルの掘割の河川です。川筋は、現在、北区と西区の区界となっています。
主な合流河川は、琴似川・琴似発寒川・中の川(追分川)・軽川・手稲土功川(樽川)・濁川を経て、石狩湾へ注いでいます。
(3)創成川等の掘割
北海道庁時代になった明治19年(1886年)から23年(1890年)頃までに、札幌附近の主な排水河川切替工事を行いました。その際琴似川から茨戸まで直線に堀さくして琴似新川と称えました。その後創成川・琴似新川の拡張改修工事をしばしば行いましたが、その工事は川巾をおよそ24尺(約7.2m)とし、玉石で護岸工事を施したものでした。また篠路口から茨戸までは、明治28年(1895年)北垣長官の時代に銭函・花畔間の長さ4里・巾2間の排水運河と共に、もっぱら水運に供するための札幌・茨戸間の運河(創成川運河)長さ3里、巾4間の掘削に着手し、数か所に水門を設け、明治30年(1897年)10月に完成しています。
7.谷地眼(やちまなこ)のこと
大谷地や川北・山本地域に在った谷地眼の事が古老によって語られています。
「白石歴史ものがたり」 <P198>より
棹を入れるとどこまでもズブズブとささつて行く、大昔からの植物の堆積によって生じたものであろう。一見沼の中の眼のように、まことに気味の悪いものであった。
明治三十八年、川下から選出された村会議員小池喜一郎は、道路開さくが認められ、丈余の草原に直線道路を計画したが、この怪物の谷地眼にはばまれ、ここを避けて曲らざるを得なかったということである。
現在はバスも通り川北町となっているが、道路の曲ったのはこの谷地眼の怪物に、にらまれたからであった。
<ばけ沼> 大谷地の柏山の裾野、昔の白石小学校大谷地分校の隣に、少年時代を過した確井清松さん(本郷通六丁目七十六オ)は、六十数年前の思い出を語ってくれた。それは大正二年(一九一三年)である。
厚別川の大黒橋までの間に、清流の小川が二つあって、上流ではヤマベが沢山釣れた。函館本線の近くに行くと、一面よしの茂った湿地帯があり、その中にパケ沼があった。二M位の板をはき、よしをかき分けて中に入り、フナやウグイがよく釣れた。水田はその近くに広がっていた。
<浮き島> 大谷地附近や山本方面に行くと、茂ったあしの中に沢山の沼があって、島が浮いていたので浮き島と呼んだ。風の方向によってあちこちに移動した、夢の浮き島である。南郷通六丁目の柏与次郎(七十六オ)さんはそう言って笑った。
今はその跡形も少く市街になっている所が多い。 (山本の水害参照)
国土地理院 大正5年地図 「大谷地原野」の地図
湿地帯とは言っても、単なる浅瀬のよしやあしの原ではなく、沼があり、深みがあり、茂った葦のかたまりと思われる浮島があちこちに浮遊していたようです。
乾期や雨期によって、その様相は様々に変化したことが想像されます。
このような広い湿地帯を現在は見る事は出来ませんが、「大谷地」という名がそれを物語っているように思われます。
8.まとめとして ~水害との闘いの日々~
「白石歴史ものがたり」
(昭和53年発行)
<P85>より
「恐しかった白石の水害
白石村が札幌市に編入された年の昭和25年7月31日、厚別川下流の水害風景。」
左の写真は、
「白石歴史ものがたり」(昭和53年発行)
<P86>より
昭和25年、「大水害の水害復旧工事」で、地域は、厚別川下方面との説明があります。
厚別川の下流(原野)地域となる長さは、函館本線から豊平川合流までの距離が4~5kmとなります。その幅は、厚別川口と野津幌川口との間は凡そ2km程、厚別川口と月寒川口との間は凡そ2km程となります。ですから、約20haの下流(原野)地域に入植した人々の開墾は、水害との闘いであったと言えます。
まだ、河川の工事が本格的に行われていなかった時代ですから、自然との闘いの中で、水田を開こうとした心意志・熱意に頭が下がります。
月寒川(含・望月寒川)・厚別川・野津幌川の下流一帯は、雨期や雪解け期には、かなりの流量が豊平川に流れ込む状況にあったでしょう。その水量を十分に受け容れるだけの川幅や川底ではなかったため、当然、地域一帯は、洪水状態となり、下流域ですから行き所を失った水は、周辺一帯を覆い浮遊する事となったのは当然の事と言えます。
当時、月寒川の下流域であった箇所(米里地域)には、「逆(さかさ)川」と称された川名が付くほどの状態にあったのです。
乾期であっても湿地帯ですから葦の生茂る土地柄です。川が増水すると、手の付けられない様相を呈して、浮き島があり深みありの状況にあったのです。
その地の造田作業は、萱よし原でしたから、「よし草」の根を一本一本取り除くため、大きな下駄を履き、膝(時には胸まで)まで没するぬかるみでの作業となり、想像を絶する苦心惨澹・艱難辛苦の造成となりました。(伐木の造田作業とは一変していました。)
古老の語る、『道路の事でしたら山本地域ほど酷く苦労をした所はなかったと思います。道路に火山灰を撒いても一冬過ぎると水で流されるし、馬で火山灰を運ぶにも道路が悪く、山本の河川を使用したもんです。春さきは足の踏み入れる所がないぐらいでした。それで川の堤防を廻って通学したものでした。(「厚別開基百年史・<P229>より」)』
厚別川の下流域は、河川工事(川の直線化・浚渫・河川敷の設定・築堤防等)により昔語りとなりましたが、生活するにも開墾するにも困難な湿地帯であった事を今一度振り返って見るのも、歴史を堀り起こす上で大切な事と思われます。
現在、地域名は「厚別区」となっていますが、各所に「大谷地・川北・川下」とある名称は、川と切り離せない地であった事による名付けとなりました。
尚、「厚別(あつべつ)」としての地域名は、明治27年(1894年)8月1日に、札幌~野幌間に「厚別(あつべつ)駅」が新設された事によって普及・定着して行きました。
漢字と読みが一致していますから当然の成り行きでした。
但し、本来は「厚別(あしりべつ)川」に依るものでした。川との関連です。
<追記として>
松浦武四郎や江戸末期の古文書に見える「厚別川」(上流から下流まで)は、「アシュシヘツ」とし、厚別川の川下を「アシュシヘツフト」としています。
その後、「アシュシヘツ」は、明治初期「アシシヘツ・阿鹿別・芦別」等となり、更に「厚別(あしりべつ)」と変化しています。「厚別川」の名をもって地域名としていました。
明治3年、清田の地区に設置された「小休所」は、「アシシへツ小屋」との記載があります。
また、滝野の「あしりべつの滝」は、「明治7年4月14日真写 アシシヘツ水源大瀑布 高さ五丈位、巾は二丈五尺位」(船越長善 画 北海道大学植物園・博物館 所蔵)と記しています。
言葉は、時代と伴に変化しますが、「札幌本道」(明治6年開削・函館~札幌)筋の地域には、現在も「あしりべつ橋」「あしりべつ神社」等があり、「厚別(あしりべつ)川」の名称を引き継いでおります。
記:きよた あゆみ(草之)