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明治10年 クラーク博士との別れの地

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明治10年 クラーク博士との別れの地

1. クラーク博士との別れの地
 W・S・クラーク博士が、札幌農学校の教頭として明治9年に赴任し、明治10年に米国に帰国する事となります。その別れの地については、昭和25年に「クラーク記念碑」が建立されております中山久蔵の駅逓の地であるとの見解が一般的でした。
 しかし、異論が無かったわけではありません。
 そして、令和4年(2022年)6月1日に『新恵庭市史』が発刊され、その場所は、島松川を挟んで、北広島市側(中山久蔵の駅逓)ではなく、恵庭市側(元駅逓が所在した箇所)であるとの見解がなされました。<胆振国千歳郡島松村1番地、現在の恵庭市島松沢137番地>に設置された駅逓としてです。
 『新恵庭市史』の見解については、発刊された著書をご覧いただきたいと思います。その見解を是認する筆者が、多少の思いについて記したいと考えました。
 <注:上記写真は、現島松にある駅逓跡地に建つ「クラーク記念碑」です。>

2.「廣島村史」による、クラーク博士の決別の地
 まずは、「廣島村史」に記載されてあります、「クラーク記念碑」を転載します。
 「廣島村史」<P523> 昭和35年9月30日発行 より (原文ママ)

 (3)クラーク記念碑
明治一〇年四月一六日札幌農学校教頭、ウイリアム・スミス・クラークが、島松駅(中山久蔵宅が駅逓であつたため)における学生および職員と訣別した地に建てられたものである。
 クラークは、札幌学校の開校式より前、明治九年五月、東京へベンハルロー、ホヰラーの二教師とともに着任し、七月札幌へ赴任した。米国においては、マサチユセッツ州アマスト・マサチユセッツ農科大学長であつたのであるが、開拓使が在ワシントン吉田公使に人選を依嘱し、適任者として、同公使が交渉していたところ、懇望されて来任することになつたものである。来任についての条件としては「一二ないし一四カ月間(注:12か月乃至14か月)より長くは在留できないが、一カ年で二カ年分の作業をなすべし」とし、仲介者に対して「相当の方法を以て創立設備する農学校の、日本国有益の産業を開拓する為大稗益あるは、更に疑を容るるに及ばず、然れども、札幌学校、永久真に需要の学舎となるものにあらざれば、余において此校に関係候儀は、最も好まざることに有之候」と、その誠意を披歴したと、新撰北海道史に書かれている。
 農学校開校式は、明治九年八月であつた。この当時は、札幌学校と言われていたのであるが、九月に至り札幌農学校と改称した。クラークは、教頭の外、農場長を兼ね、予備科を督し、農、植物、英学を教授したといわれる。
 任期満了によつて退任したのは、前記のとおり、明治一〇年四月、調所校長は、クラークを送るに当り「マサチユセッツに著名なる正心修身の最も貴重なる種子を播殖せられし等、事々物々其功実に大なりとす。其発育して善良の果を結ぶを見んこと、蓋し遠きに非ざるべく、是れ実に余輩永遠の至楽」とのべ最大級の送別のことばを送つている。
 島松駅までは、学生、学校職員が送り、ここで、訣別したのであるが、訣別にさいし「青年よ大志を抱け」この含蓄ある言葉をのこしたのは、現在でも有名である。
 この地を記念して、昭和二五年一一月、同地にクラーク奨学会(発起人代表宮部金吾)らにより、記念碑が建てられている。この碑は山内壮夫によつて設計製作されたものである。昭和三一年九月には、北海道大学開学八〇周年記念式に招かれた、クラークの孫、シンシナチ大学教授、ウイリアム・エス・クラークが夫人同伴で来道してこの塔を訪れている。塔央には、クラークの顔部分の彫像と、BOYS BE  AMBITIOUSの英文字がありさらにその下に「青年よ大志を懐け」と彫られている。塔長は五・八米である。建立場所は字島松一番地。島松川をはさんで、恵庭町を望む地に建てられている。   碑の表面および裏面は次のとおりである。
 <表  面>
BOYS BE AMBITIOUS  W.S.CLARK 1877.4.16
  青年よ大志を懐け   ウイリアム・エス・クラーク
 <裏  面>
偉人クラーク博士、訣別に当り、千古の金言を叫びしは実にこの地なり
建碑、これを記念し、青年の奮起を望む。  昭和二五年一一月 クラーク奨学会
発起人代表 宮部 金吾  設計製作 山内 壮夫  石師 五十川 恵勇

 と、記されてあります。昭和25年当時、恵庭側に老朽化した「駅逓」の建物が所在したにも関わらず、旧中山久蔵の駅逓(「恵庭町を望む地」に碑が建立されました。
 その様な事で、クラーク博士との決別の地が誤解される結果となったと思われます。

3.恵庭市側にあった「驛遞」
 それでは、決別をした明治10年頃、島松川を挟んで恵庭側に在った「駅逓」とは、どの辺りに所在し、どのような状況にあったのか、また、中山久蔵の居宅はどこに所在していたのかを資料を基に見て行きたいと思います。
 島松川は、当時、石狩國と胆振国の境界となっていました。
 石狩國(広島側)には中山久蔵が住まいし、胆振國(恵庭側)に駅逓所・郵便所が設置されてありました。どちらも地域を島松と呼称されていました。

(1)「北海道新道一覧雙六」(明治7年1月頃発行)<函館中央図書館所蔵>より
 「北海道新道一覧雙六」は、「札幌本道」の造成の監督であった平野弥十郎が製作を発案し、安藤廣丞による画(錦絵)により、凾舘の一本木を振り出しに森村へ、海路を経て、室蘭から札幌の開拓使本廰を上りとする沿道各所の風景を描写した「新道」の雙六です。
 完成した道路の各所の様子が直に感じられる絵図となっています。
 〇嶋松布(志ま満つふ)・・・現在の「島松」です。
 右側の添書きには「嶋松布石狩國札幌郡従室蘭廿八里十三丁 札幌創成橋迠五里廿八町十五間」と記してあります。
道路を挟んだ2つの建物は、「駅逓所」と「郵便所」と思われます。
絵図の関係から、手前が「郵便所」で、向かい側が「駅逓所」と考えられます。

(2)「新道出来形絵図」(明治6年頃)<北海道大学北方資料室所蔵>より
 左図は、「新道出来形絵図」の「島松」周辺を描いた箇所です。
 図には、「嶌松布」と記してあります。
 島松周辺の道路と家並みが描かれています。
 もう少し、絵図(島松川の辺り)を拡大してみます。(絵図では、上がほぼ北です。)
◎「新道出来形絵図」
明治6年(1873年)
北海道大学北方資料室 所蔵
「嶋松布3701番~3888番(従是癸酉開路発業)1」<図類261(2)28-1>より

 

 明治6年に道路造成が行われたため、(従是癸酉<みずのと とり・明治6年>開路発業)と記してあります。図の中央に、「里程標」(六里塚)が立っています。もう1本は、「従是南膽振國千歳郡従是以北石狩國札幌郡」の「国境標」であると推測します。
 「新道出来形絵図」は、「嶌松布(島松)」の開削した道路の様子を描き彩色を施し、地域の状況が即理解できるような、丁寧な仕上がりになっている貴重な史料と言えます。

 <絵図の解説>
 道路は、明治6年、開削されたばかりの「札幌本道」(函館~札幌まで)です。
 絵図の左側(西側)は、札幌へと向かい、右側(東側)は千歳方面へと向かいます。
 川の左側・道路の北側・高い山の麓に在る1軒の家が、中山久蔵の居宅でした。
 川の左右に数軒の家並みが見えますが、「札幌本道」工事を行った際の人足小屋や板庫及び仮設の病院と思われます。その後、小屋等は移設されました。
 「驛遞所」は、札幌本道沿いに松林と柵と門のある大きな家(絵図の道路の北側)です。
 「駅逓所」の向かい側に在る家屋が「郵便所」(絵図の手前・南側)でした。

4.島松の「駅逓」について

 島松川を境界として、石狩國(いしかりのくに)札幌郡と膽振國(いぶりのくに)千歳郡とに区分されていました。「膽振國千歳郡島松村」は、現在の恵庭市で、「石狩國札幌郡島松村」は、現在の北広島市です。
〇「駅逓所」の経緯について、概略を記して置きます。
 駅逓は、当初、「膽振國 島松」恵庭市側に在り、その後、明治17年に中山久蔵が駅逓の管理を請負い、「石狩國 島松」北広島市側に移りました。
 島松駅逓の初代取扱人は、山田文右衛門(代理 植田礼助)でしたが、明治8年(1875)に駅逓取扱を辞退し、8月に山口安五郎が2代目の管理人となっています。しかし長続きせずに明治10年(1877)3月9日付けで、靏谷(つるたに)新次郎が3代目駅逓取扱人(中山久蔵が請人)となって任に就き、その後、明治17年(1884)8月に中山久蔵が4代目の取扱人となり、明治30年の駅逓廃止まで管理を続けていました。
 (途中、明治21年、駅逓制度により官設駅逓から自由営業に変更がありました。)
 そんな経緯がありましたが、昭和25年に、クラーク博士の記念碑を建立したため、島松の駅逓といえば、中山久蔵の駅逓と認識される事となりました。

 中山久蔵が駅逓を正式に取扱うようになったのは、明治17年からとなりますので、明治17年以前の駅逓及び中山久蔵について、少し追って見る事とします。

5.明治4年頃の島松と久蔵の動き
 明治4年、中山久蔵は、仙台から白老を往来する生活から、苫小牧に入植をしますが、地質が火山灰地のため農業に不向きで、島松(恵庭側)に移住します。44歳の時でした。
 「農業篤志中山久蔵翁事績」には、明治4年に久蔵は、「於是所在来ノ小屋壹棟金五円ヲ以テ勇払郡會所植田甚蔵ヨリ買求ルコトトナシ・・・」と記しています。
 恵庭の「小屋」を勇払会所の植田甚蔵より、金、五円で買い求めています。その住まいした島松(恵庭側)の小屋について少しだけ経過を記して置きます。


 また、明治3年、米沢藩の宮島幹が、札幌から函館に向かう途中、この「小休所(小屋)」に宿泊しています。島松の情景を「北行日記」に書き留めていますので転載します。
 明治3年頃は、森林の中の侘しい「空家」に留守番のアイヌの人が居たようです。
 米沢藩の宮島幹「北行日記」明治3年(1870年)著作より

  明治三年九月十三日 晴       (前略)
 一帯の深林にして所々平坦なる処に芦原あり。漸く島松に至る。川あり。橋四、五間馬にて渡る。渡れば従是東、胆振国千歳郡高知藩支配所なり。空家弐軒あり。一両年前迄は住居せし由なれども、今は石狩へ転住せし由、土人壱人留守居す。此処にて昼飯す。汁もなし。湯を貰い相用い、札幌より七里、是よりは平坦にして路至てよろしく萱原或は深林所々にあり。・・・・・              (以下略)

  注:当時、胆振国千歳郡は、開拓使の管理ではなく、高知藩が支配していました。

 「北海道志」(P244)には、「(明治三年十二月)島松ニ漁人ノ空家アルノミ」と記され、冬場は、無人の空き家となっているような状況でした。
 そして、林顕三が、明治6年頃の様子を「北海紀行」に描いていますので記して置きます。

  林 顕三 著「北海紀行」 如蘭堂 明治7年(1874年)出版

   明治六年六月十一日 晴              (前略)
白老郡垂舞(タルマイ)農中山久蔵なる者当地に来り、地味宜しきを見て農耕を起し家屋を営み、昨年は麦八十俵其他大小豆、瓜、麻、野菜の数幾許を得たり。其頃は未だ近在に人家ある事なし。当時漸々出稼小屋を営み、茶店等の備をなせり。就中此頃建築掛土工人夫新道伝信機の為め、百名許も天幕を用い或は仮屋を営みて此辺に屯集せり。之が為に十五、六軒も仮店を設け酒食餅肴諸品を商い、或は下賤の売婦類を置き頗る賑へり。近々より此処を駅馬会所に定めらるる由。右中山なる者衆に先立ちて開墾の作業をなすにより、奇特の趣き書取を以て客冬開拓使より金四十円を賜りし由。  (以下略)

 明治5,6年当時の島松は、「札幌本道」が開削された事により、100名程の土工夫が住み込んで、かなりの盛況が感じられる状況となりました。そこで、山田文衛門は、明治6年に中山久蔵の居宅(小屋)の箇所に、旅人止宿所(宿泊所・後の駅逓所)を建てるため、設置申請を提出したところ許可が下り、「旅人止宿所」の建設を進めました。
 駅逓の営業は、明治6年12月7日で、先に記した「駅逓」の始まりとなりました。

 その頃の中山久蔵に対する開拓使の対応を「明治12年 地価創定請書」より転載してみます。土地(宅地・耕地)や家屋が付与されて、大きな動きがありました。


 「創定請書」の記録から、広島の地と恵庭の地に家屋が建てられています。
 建物は、65坪・289坪の下付された宅地に壱棟と記されています。
 左図は、「明治12年 地価創定請書」(道立文書館所蔵 簿書3148)です。
 中山久蔵に2箇所の宅地と家屋が下付されていますが、特例と言えます。
 家屋の建設月日は、明治4年8月と記してあります。明治4年に、久蔵が入手した「小屋」を、開拓使が建直をしたのか、新築したのか、詳細は未詳ですが、8月には恵庭の地に久蔵は住まいした記録です。

 さて、山田文右衛門は、中山久蔵の住まいした恵庭側の箇所に「人馬継立所設置之案」(「旅人止宿所」)を提出しますが、申請許可が下りる以前から「駅逓」の設営を順次進めて、開業にこぎ着けています。山田文右衛門の場所請負人の立場が有り、許可が出されたようです。
 許可の日付は、「新広島町史」では、明治7年2月付けの認可となっています。
 その事により、中山久蔵は、明治4年に移住し住み付いた恵庭側から、明治6年に広島側へと住居(小屋)を移築する事となりました。
 「明治12年 地価創定請書」に記してあるところから、移設や家屋増設(明治7年)などは、開拓使によって配慮されて行われた事となります。
 そこには、山田文右衛門・勇払郡會所の植田甚蔵・島松の駅逓代理となる植田礼助等が、場所(會所)請負人の立場を利して、中山久蔵の移設に関して納得が行くよう事を運んだものと考えられます。

6.明治13年頃、島松に居住していた中山久蔵
 「取裁録 山林願 明治十三年自四月至九月」(北海道立文書館 所蔵)より
 下図は、山林の伐木願に添付された図面を部分的に拡大したものです。
○山夏第四十五号の図面より
(道立文書館 所蔵
簿書03863)
願高:雑木 百五拾石
願地:島松山林
願年月:明治十三年六月廿五日
願人住所:浦川通廿七番地
願人:小宮 與吉
代(人)岩城重次郎

 図面には、「シマヽツフ川・郵便所・驛逓所・中山久蔵家・新道・街道ヨリ凡十三町・此辺雑木立・此邊伐木願地(朱書)」と記してあります。
 中央の「新道」は、明治6年に開削された「札幌本道・札幌新道・室蘭街道」です。
 図面の右方が札幌方面へ向かう道となり、左方が千歳方面へと向かいます。

 納屋を含めて9棟の家屋が細かく図面に書き込まれてあります。
 尚、「郵便所」は、45坪以上あった(林嘉男著「ふたつの駅逓」より)ようですから、「驛逓所」は、それ以上の大きな構えであった事が推察されます。
 「中山久蔵家」は、シマヽツフ川の西側・新道の北(下)側に記してあります。
 「郵便所」は、シマヽツフ川東側・新道の南(上)側に記してあります。
 「驛逓所」は、シマヽツフ川東側・新道の北(下)側に記してあります。
 この図面を基にすると、明治13年当時、郵便所・驛逓所が、島松川の東側(胆振郡)に設置されていたという事です。現在の恵庭市に所在した事になります。
 中山久蔵の居宅は、造りがしっかりとした物となっている雰囲気を感じさせます。

7.明治13年 松林哲五郎著『北海紀行』
 明治13年頃の島松について、松林哲五郎の『北海紀行』の記述を参照してみます。
 『北海紀行』「第四冊 札幌の部」松林哲五郎著 平成22年4月発行 <P66>より
 (旧暦)明治十三年(1880年)三月十六日 (注:新暦の明治13年4月25日)

 十六日 晴  (注:植苗村を出発・昼食は千歳駅・宿泊は島松駅) (前略)
 島松には畑が少しあった。そこは谷のような所で風が少なく少し暖かい場所である。
郵便局があり休泊所が在り、そして私は『中山久蔵』という開拓者の家の旅宿に泊まった。それは随分良い宿であった。漁村に開墾所有地が(を)沢山見かけた。それは嶋松村より一里余手前である。島松は戸数五戸ばかりで駅逓もある。  (中略)
 現在はこの家以外に旅宿が無く、開拓の官吏たちもみなこの家に泊まる。始めは茅舎で粗末であったが、だんだんに畑も出来お金もたまり家を造り替えた。そして農業に一生懸命努力した。今は、畑も相当所有している。         (以下略)

 松林哲五郎の『紀行』には、中山久蔵の「旅宿」として、「駅逓」と記していません。
 文面には「郵便局・休泊所・駅逓」と記されて仕分けした表記となっています。
 しかし、「現在はこの家以外に旅宿が無く、開拓の官吏たちもみなこの家に泊まる。」としています。駅逓所は、明治10年の雪害や明治11年の熊・狼の害などにより、なんとか経営を続けていたものの、思わしくなくなり、明治13年頃より、中山久蔵が代わって家屋を「旅宿」(「駅逓」と区分)として対応するようになったようです。
 注:島松の中山久蔵の「旅宿」の宿泊費は、七十銭でした。

8.明治十四年「島松驛略図」について
 明治14年当時、島松村は、戸数が5戸で、人口が28人の小さな村でした。
 ところが、明治天皇が北海道を御巡幸され、島松が昼食處となりました。
 明治十四年「島松驛略図」 行在所の略図  (図面の上方は、南側です。)
「御巡幸雑書類 明治十四年」
(簿書A4-129)より
(道立文書館 所蔵)

 この図面は、明治14年北海道を天皇が御巡幸の際、島松にて休憩をとられ、昼食された際の略図面です。
 下図は筆写の模写図です。
(筆者の解読であり、検証をお願い致します。)

 図面には、「島松驛略図・嶌枩川・札幌之方・室蘭之方・石狩國・膽振國・御昼御行在所・中山久蔵・驛遞所・郵便・板庫・改良厨房・田地・井戸・臣下便所(朱書)・會食所(朱書)・賄方(朱書)・臣下馬置(朱書)・御便所之処(朱書)」と記されてあります。
 橋は、明治6年に架橋された時は、長さ3間、幅2間1尺でしたが、明治13年に改修され、長さ6間、幅2間3尺となっています。 (「開拓使事業報告・土木」より)
 石狩國・膽振國の境界の標柱は、島松川を渡った胆振側の橋の傍に在ったように、図面では示されています(「新道出来形絵図」と同じです。)
 「石狩國・膽振國」と記された左側に、柱を意図するような□(國境の柱)が明確に記してあります。札幌本道の「郵便所」側になります。
 中山久蔵宅の川を挟んだ恵庭側には「駅逓所」と記されており、駅逓所の向かいには「郵便(所)」が所在していたことが解かる図面となっております。
 中山久蔵の居宅が「行在所」となったのは、自宅を改修増築し、天皇をお迎えできるよう十分な配慮がなされた事によるものと言えます。(「行在所として26坪、住宅は62坪7合5勺の平家で、建築費は実に1,350円を要したりと謂ふ」と「廣島村史」に記しています。)
 一方、「駅逓所」は天皇ご巡幸に際して、様々な対応の任務を担っていました。
 「駅逓所」には、一行の騎馬を置く事が出来るよう数百頭の臣下馬置を確保しています。
 また、札幌本庁駅逓課からの御巡行文書は、全て島松駅逓所取扱人靏谷新次郎宛てであり、御一行の食事の賄い、会食所・臣下便所(郵便所の空き地に設定)など、多くの処遇・配慮をしていたことが伺えます。(御巡幸雑書類 明治14年)
この「駅逓」は、『ふたつの駅逓 クラーク博士は恵庭で叫んだ』(林 嘉男著・2007年3月発行)の研究調査では、「駅逓」の構えが、木造柾葺平屋で、一棟建坪100坪以上の造りであったとする古文書を提示しておりますから、相当な大きさの宿泊施設となります。
また、「駅逓」の最盛期(明治10年頃)には、備馬が35頭前後おり、経費に対して官費の支給(月給・手当金)があり、開拓使との連携で運営していました。

 明治天皇は、この日千歳にお泊りになりましたが、千歳に「駅逓所」が在ったにもかかわらず、千歳村の新保鐵蔵が経営する旅館に宿泊されております。
 事例としては異例の事ではなく、日程の中での行在所について、「駅逓」(天皇の対応を行うための御泊り處)ではない宿泊所を設定した事例があります。

9.明治14年「明治天皇御巡幸記」について
 「明治9年同14年御巡幸記」河野常吉編の中に、明治14年9月2日、月寒村を御巡幸した際の様子が記されてあります。この日の項を転載する事とします。

  (明治十四年) 九月二日 晴
 本日御發輦に付六時五十分調所開拓大書記に謁を賜はり、又従六位伊達邦直移住以来開墾に勵精し寄特の故を以て特に謁を賜はる。七時行在所豊平館御發輦、杉宮内大輔御陪乗、御行列は、札幌御着輦の時に同し         (中略)
 十一時二十八分同郡島松駅御晝行在所中山久蔵宅へ御着輦、久蔵へ行在所新築の廉を以て金三百圓、御紋付三つ組銀杯並に御晝行在所を勤めしより金貳拾五圓を賜はる。此の地戸数五、稲田能く生育す。午後一時三十分御發輦。午後二時二十七分千歳郡漁村官設御小憩所御着輦、御膳水井主佐藤倉吉へ金五拾銭を賜はる。此の地戸数二十五、農業を營て、又官設牧場あり、三時十分御發輦。
 午後四時二十五分御泊行在所千歳驛新保鐵藏宅御着輦、警部六名、巡査四十名行在所並に駅の内外を警衛す。               (以下略)

 「明治9年同14年御巡幸記」河野常吉編 道写本102(北海道大学北方資料室蔵)

 「廣島村史」(昭和35年9月30日発行)には、「明治天皇御巡幸」に際して、「供奉総人員、約八百名、馬匹ノ数、数百頭ニシテ」と記していますから、かなりの隊列でした。
 その隊列が、明治天皇の輦の先導や警護などの役目を担い、現国道36号線(清田区の箇所では、旧国道36号線)を粛々と歩を進められたのでした。
 行在所となった中山久蔵宅について、「当道御巡幸書類」では、次のような記載がされてあります。中山久蔵の人物についての文献は数多くありますので、1例のみ記して置きます。
 「当道御巡幸書類 明治十四年」(簿書A4 / 161) (道立文書館 所蔵)

○御晝行在所島松             中 山 久 藏
島松驛(漁(イザリ)村迄壱里半)戸數五、人口貳拾八、郵便局、驛逓所アリ本驛ハ明治七年之ヲ置ク小川アリ架橋是レヲ石狩、贍振両國ノ境界トス中山久藏ハ管内ノ一力農ナリ生國ハ河内國ニシテ明治四年是ニ移居シ専ラ農業ヲ勵ミ山間卑濕ノ地ヲ拓キ稲田ト成ス毎歳能ク熟シ一段ノ収穫二石ヲ下ラス

 以上のような島松の行在所・中山久蔵についての記載がなされてあります。
 明治23年、久蔵は、行在所と指定された事を記念して、裏庭の丘の上に、高さ一丈六尺、幅六尺の記念碑を建立し「駐蹕處(ちゅうひつのところ)」の三文字を刻しております。

10.明治17年の頃
 明治17年、札幌県驛逓係は、何事にも前向きで人の為に様々な対応の出来る中山久蔵に島松駅逓を託すことを決定します。それは、8月16日付けでの発令でした。
 駅逓が中山久蔵に移管されたのは、札幌本道筋の旅人の減少で、経費が掛かり過ぎ、廃止する事を避けるために依頼したものと思われます。下記がその任命書となります。
 明治10年の経費(官費の支給額)が272円でしたが、明治14年には150円、明治15年には25円の支給にまで下がっております。
 「札幌本道」(函館から札幌まで徒歩、森・室蘭間が海路)は、明治6年に開削されましたが、小樽港に着き、札幌までの徒歩(明治13年、手宮札幌間・汽車開通)の距離が大幅に短いため、移住者の旅程となって行きました。

 中山久蔵
島松驛逓取扱申付候事
但補助トシテ當当分之内壱ケ年
金百三拾圓給與候事
明治十七年八月十六日

 札幌縣 驛逓係

 

 中山久蔵については、厚別(あしりべつ)地域、現清田区にも大きな影響のあった人でした。記録では、明治15年、稲のもみ(籾種壱俵 糯米種五升)が長岡重治に配布があり、清田の稲作の端緒となり、水田開発が盛んに行われるようになりました。久蔵は、厚別(あしりべつ)分校(明治25年頃、大曲に移転の際)の設立に関わる土地の寄附(2反歩)など、篤志家として厚別にとっても地域の発展に寄与した方でした。

11.「諸種の事情」を探る
 クラーク博士が、明治10年に米国に帰国する事となりますが、一行26名との別れの地については、中山久蔵の「居宅」ではなく、島松川の恵庭側に所在した「駅逓」であったと想定されます。その根拠となる理由について推論を含めて記したいと思います。

 当時、「駅逓」は島松の恵庭側に在り、中山久蔵の居宅は普通の「民家」でした。
 一期生の大島正健氏「クラーク先生」著(昭和22年)では、「中山久蔵宅」ではなく「駅逓の家」となっています。恵庭の「駅逓所」で別れたという事になります。

 昭和9年頃、大島正健・佐藤昌介・宮部金吾ら有志が「碑建設の地」を探りましたが、著書「宮部金吾」(1953年・宮部金吾博士記念出版刊行会編)では、「・・・当時とは地状が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭を建てた。」としています。
 著書に記された、宮部氏の選定の理由の「諸種の事情」は、未詳で明瞭でありません。
 札幌農学校の一期生は、聡明で人格者でもあり、時の逸材として様々に活躍した人物と言えます。(絶大なる信頼のおける方々ばかりです。)
 その方々が、昭和9年に碑を建てるに当たり、恵庭側の「駅逓所」周辺に至り、年月を経て老朽化した駅逓であった建物を再確認し配慮したのでしょうが、立地(敷地・余裕・景観・美観等)として思わしくなかったのでしょう。
 「諸種の事情」とは、それに対して、駅逓の在った中山久蔵の裏手の丘の上からは、島松川や千歳に向かう道路が見渡せます。そのような事で中山久蔵の丘を、碑を建立するには適格の地として決定されたのだと推測します。

 また、施設として、先の明治天皇ご巡幸の際に、「臣下馬置」を「駅逓」の箇所に設定していますが、クラーク博士を見送った一行の26名の馬匹を留め、餌や水の対応が出来きる人材・用地は恵庭の「駅逓」以外に考えられません。
 後年、一期生の佐藤昌介氏(初代北海道帝大総長・男爵)は、「島松駅逓で別れた」と回顧しております。(『新恵庭市史』令和4年6月1日発行より)
 その他の根拠となる事由もありますが、佐藤昌介氏の回顧により、ほとんど恵庭側の「駅逓」であった事が確定的となっています。

 碑はついに久蔵の駅逓の丘に建てられました。ところが、クラーク博士の「碑」が中山久蔵の「元駅逓」に所在する事によって、悪意はないのでしょうが、誤解を生む結果となったと言えます。碑が「駅逓」に存在するのですから、それは至極当然の事であると思われます。
 (碑の建立後の昭和28年、恵庭に残された旧駅逓所・建造物が焼失しています。)
 本来の恵庭の駅逓が消え失せ、「別れの地」を恵庭の島松駅逓所ではなく、中山久蔵の「駅逓所」であったと是認される過程を踏んでいったのです。

 一言付け加えて置きます。碑に関して、中山久蔵氏(大正8年死去)は、一切の関与・責任はありません。後の史実家の果たすべき役割であると思います。
 (北大名誉教授宮部金吾博士などの方々の思いは、大切にしたいと願っております。)

 只々、史実は史実として記し、その条項だけははっきりとさせたいと思い、ここに筆者なりにまとめてみました。ご批正・ご検証・ご意見をお願い致します。

 <付記として>  昭和25年11月25日付け 北海道新聞(札幌版)より

  クラーク博士の精神よ永遠なれ  島松村に記念碑
クラーク博士の教育精神を復興しデモ、ストで荒れ果てた学園に光をともそうというボーイズ・ビイ・アンビシャス運動(B・B・A運動)が高まり近くクラーク記念碑の建設、クラーク奨学会の設置、クラーク学生会館の建設などクラーク博士にちなんだ一連の計画が実を結ぼうとしている
◇クラーク記念碑 クラーク博士が札幌農学校の学生たちにボーイズ・ビイ・アンビシャス(青年よ大志をいだけ)という言葉を残して離札した千歳郡字島松はクラーク博士決別の地として有名だが、この地に記念碑を建て本道学問発祥の地として記念しようという考えが昨年北大名誉教授宮部金吾博士により提案され、その後福田道知事、伊藤前北大学長らの協力によりこの計画が進められていたがこのほど準備が完成、すでに山内壮夫氏製作によるクラーク博士の像もでき、北大生たちのアルバイトにより地ならしも終って、近く除幕式が行われるはこびとなった   (以下略)

 昭和25年当時、北海道新聞の記者は、クラーク博士と札幌農学校の学生たちとの「別れの地」を、現「中山久蔵の駅逓」と認識していたようです。恵庭側の駅逓について、それほど深く調査することなく(北大名誉教授宮部金吾博士などの方々を信頼し切って)記事にしたと思われます。その後、多くの広報誌や雑誌、新聞記事は、決まったように中山久蔵の駅逓を「クラーク博士との別れの地」としています。

 今後、「馬上のクラーク博士像」の建立を「中山久蔵の駅逓跡」の地に計画していると聞いています。僭越ながら、出来れば再調査をして ・・・・・
〇明治6年12月に恵庭側に、駅逓所が設置され、旅人や馬の対応が出来ていた事
〇明治10年、クラーク博士が米国に帰国の際、恵庭側に大きな駅逓所が在った事
〇広島側の中山久蔵の駅逓の発令は、明治17年8月であった事  など
 (そして、中山久蔵氏の対応の経過と業績を記して・・・)
 恐縮ですが、その内容を整理した上で、北広島市の方々に配慮しつつ、各々の事実を明示し、「馬上のクラーク博士像」の建立をして頂きたいと願っております。

記:きよた あゆみ(草之

 中山久蔵の「水田溝掘開設経金拝借願」 簿書7949より 模写図

 「明治十六年 札幌縣公文録 勧業課 農務係 樹藝 第三號」の中に、月寒村六拾壱番地 平民 中山久蔵の「水田溝掘開設」の記録が残されています。

 注:上図の上が西となります。中央に、嶌松川が流れています。川の北側に中山久蔵の居宅があり、川の南側に駅逓所・馬車會所・郵便所が記されています。
 北側が札幌への道であり、南側が千歳への道となります。

 中山久蔵の「水田溝掘開設経費金拝借願」拝借願の提出月日は、明治15年10月であり、明治16年7月18日に許可がおりました。
 願い図面には、「島松駅逓」の北側に「馬車會所」が記されてあります。
 明治13年頃より、中山久蔵が「駅逓所」に代わって居宅を「旅宿」として対応するようになったようですから、「駅逓」の営業については行っていなかったと思われます。
 しかし、「駅逓所」は、「馬車」の取扱いだけは対応はしていたようです。


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