明治15年頃 「月寒村之図」と厚別(あしりべつ)

「北海道新道一覧雙六」の錦絵  (函館市中央図書館 所蔵)

月寒村・・・現在の「豊平区月寒地域・・・国道36号線沿い」「石狩國札幌郡従室蘭三十三里 札幌創成橋迠壱里五町十五間」と記してあります。

はじめに
 清田区の始まりは、明治4年に現在の月寒中央地域に岩手県の人々が移住した事に始まります。
 岩手県人44戸185名が、幅40間ずつに仕切られた土地に入植し、鍬が入れられました。

 「月寒村」は、最初の移住した頃、「千歳道」と呼ばれていました。
 開拓使の岩村通俊判官の命により、明治4年5月25日に「村名御改正」となりました。
 改名した札幌の各村は、以下の通りとなっています。<「細大日記」より>

○明治3年の移住の村 庚午一ノ村 苗穂(ナヘホー)村 庚午二ノ村 丘珠(ヲカタマ)村 庚午三ノ村 円山(マルヤマ)村
○明治4年の移住の村 千歳道 月寒(ツキサッフ)村 麻畑 平岸(ヒラケシ)村 「月寒村」は、明治4年当時、望月寒川から島松川までの範囲としていました。

1.「月寒村之図」(推定:明治15年頃の地図)より
 「月寒村之図」は、北海道立文書館に所蔵されてある貴重な地域図面です。
 地域住民が当時呼称していたと思われる各所の「地名」が付されています。
 その図面を模写し、多少彩色を施した図です。参照にして頂ければ幸いです。
    「札幌近郊地図 月寒村之図 」          筆者:模写・彩色図

(北海道立文書館 所蔵)

☆ 記された事柄を列挙すると次の様な内容となります。

● 望月寒川(豊平村との境界)と望月寒橋・厚別器械所街道・精進川
● 月寒村の開墾の状況(戸別ごとの様子)・札幌越新道(安政4年開鑿の道)
● 月寒川と月寒橋・室蘭街道(明治6年開鑿の道)・月寒山
● 厚別器械所(明治13年~明治19年)・煉瓦所(明治13年設置)
● アラウツナイ川(現:うらうちない川)とアラウツナイ橋
● アラウツナイ川の水源字高尾臺(現:羊が丘展望台付近・下方に四望台206mがある。)
● アラヲ川(現:ラウネナイ川)とアラヲ橋・開墾地・川の落合
● ポンアラヲ川(現:吉田川)と二里塚橋・西月寒官林・川の落合
● ラウナイ川(現:トンネ川)とラウナイ橋(カクサボシ橋)
● 字フタマタ沢(現:真栄川)・字三ツ股沢(現:山部川)
● 南厚別(アシシベツ)官林(現:真栄・有明)<明治12年頃測量>
● 厚別川と厚別橋・字フルツホヤ(厚別川支流・現:小川)
● ホロノッポロ川(現:三里川)と三里塚橋(現在は道路の下の配管)・野地(谷地)
● 陸軍御用地・月寒(後の山鼻屯田兵村公有地)<明治13年頃測量>
 ※現在の北海道農業センターの土地の一部・約214万坪
● 陸軍御用地・平岡里塚上野幌(後の山鼻屯田兵村給与地)<明治14年頃測量>
 ※図面左下の四角いの土地・約140万坪(ホロノッポロ川と記載の土地)
● 白石村境界・月寒村境界 <明治14年頃測量>
● ホロノッポロ川(現:三里川支流)とホロノッポロ橋(現在は道路の下の配管)
● 野津[幌]川(現:大曲川・ノッポロ川)と野津[幌]橋(大曲橋・現在は撤去)
● 白石村字ガンビー山(ガンビは、白樺の樹皮)白樺や柏の木が繁茂している山。

 この「月寒村之図」の作製年代は、図中の様々な建物や区画の配置を考慮すると、明治15年頃(道立文書館の年代)か、それより1年乃至2年後の図であると推測します。

※厚別(あしりべつ)は、月寒村の中心部より離れた箇所に所在していました。
 距離としては、2里半(10キロメートル)程離れたところです。
 土地の開墾状態は、月寒の中心部と比べると、まだまだ開けていなかったと言えます。

2.広島村(現在の北広島市)の誕生
 明治26年12月16日 広島村が置かれ、大曲・島松等が月寒村から分離する令が出され、明治27年2月10日 広島村戸長役場が置かれ開庁します。
 「月寒村」が大きすぎたのでしょう。「広島村」が「月寒村」から分離独立し誕生しました。
 広島村は、ノッポロ川(大曲川)から島松川までを範囲としていました。

3.月寒村・平岸村等の家屋について
 明治4年の移住者の住宅は、南部(青森県)野辺地や羽後(秋田県)能代等から移入した桧(ひのき)の切り込み材で造られました。農家の大きさは、2間半×6間の15坪が標準の広さで、屋根は四寸勾配で造られ、長さ1尺のまさぶきでした。
 家屋の用材は船で石狩川からサッポロ太やシノロ太まで運ばれ、そこからいかだに組みフシコサッポロ川を上って札幌の中心部の創成川の岸まで搬送してきたのです。
 まだ、家屋を建てる技術者(大工等)が少なく、早急に建てなければならない札幌市街や移住者の住居に対応するため、現在で言うプレハブ式の住宅としたのです。

開拓使によって建てられた農家の概略は左図のような造りでした。決して広い住居ではありませんが、炉・流し・居間・座敷などがあり、移住者にとっては、ほっとする場所となりました。( 「豊平町史」・参照 )

 

「新道出来形絵図」明治6年(1873年)「島松布」付近

(北海道大学北方資料室所蔵)

「嶋松布3701番~3888番 (従是癸酉開路発業)1」より

※「月寒村」は、当初「望月寒川」から「島松川」までの広い地域でした。
※黄色の2本の柱は、里程標(六里塚)と札幌郡と胆振郡の境界標識と思われます。
 癸酉(みずのと とり)は、明治6年の事で、「札幌本道」が開削した年です。

記:きよた あゆみ