札幌市清田区の町内会連合会でつくる「あしりべつ郷土館運営委員会」が管理運営しています。

明治43年 吉田善太郎の碑

  • HOME »
  • 明治43年 吉田善太郎の碑

明治43年 吉田善太郎の碑

はじめに
 大正5年(1916年)12月24日、吉田善太郎が55歳で逝去されています。
 しかし、それ以前の明治43年11月23日付けで吉田善太郎の功労碑が建立され、11月27日に除幕式が行われています。
 明治43年(1910年)は、善太郎が4月白石村会議員となり、49歳の時です。
 また、10月29日に、平岸連絡線(俗称アンパン道路)が完成し開通をみています。
 この道路敷設に関して、善太郎は、月寒村十九の土地209坪を寄贈しています。
 (「豊平町史」<P231>より、「道路敷地寄附受納の件 明治44年7月13日 豊平町長 吉原兵次郎」と記してあります。

1.碑の建立
 11月、月寒公園に「吉田善太郎功労碑(開拓餘光)」の石碑が建立されました。
 碑石は、彼を慕う青年たちが、コロ(細い丸太)を使って、手稲山から3日がかりで運んできたものと言われています。

 碑文は、下記のような内容となっています。
 碑文の解読には、「月寒史料発掘会」案を参照し、その基本案がとても重要で、この場をお借りましてお礼と感謝を申し上げます。「月寒史料発掘会」案が無ければかなり大変であったと思います。その後、私的に「碑文」を解読したものです。

2.「吉田善太郎功労碑(開拓餘光)」の碑文
 「吉田善太郎功労碑(開拓餘光)」の碑文を次に掲げて置きます。
 模写した碑文は、参考資料として後掲します。
 《 原 文 》 平成17年5月25日 碑撮影 筆者の模写に依ります。

 開拓餘光
 陸軍歩兵大佐従五位勳四等功三級稲村新六篆額 官幣大社札幌神社宮司従六位勳六等額賀大直撰文併書
見ざくれ盤石狩の曠墅遠く四方尓開希豊平乃な可れ登者仁郷曲を繞流この阿怜さと月寒乃丘二碑多てヽ此の佐と乎飛らき初免し吉田善太郎ぬし乃功を千代仁徒多盈てむぬ志は登しい万多五十路の境をいて祢と里人ら阿つく敬飛令名遠近に聞え多利あ者れ凡人尓盤阿らすかし楚毛怒し可いさ乎とは何そぬしか年まねくこころ徒くしヽ公共事業の上尓楚ハ阿ら者連た利ける主ハ可祢天よ利飛多ふるに新墾乃業耳心をく多き希留か明治二十年といへるころ与利鋭心ふ利於こしちから能可き里身乃起者み勉めい所し美或ハ道乎開きあるは溝をう加ち阿ら山の荊棘か里そ希田に畑尓飛ら支なして遂に百六十余町歩の美田を得させ里人ら可生業を盤賑者ヽし免た利け利かくて又主は身の己さ志介き中に毛かに可く尓おもひ免具らし或ハこの寒国尓毛左かえつ遍き稲種毛とめいてヽ里飛とに授希阿る盤学校於こして左との子等に物万那び乃多つき得し免或者郵便局長に任ら連或盤村会議員に選万れ阿留者農会乃会長に阿げら禮楚の際々尓国の多免世のためなし出てし事等尠から春な無加ヽ連ハ公よ利与美せら禮しことも一度ふ多ヽ飛尓盤阿ら春可能明治三十七八年乃役の後奉公義会乃会長として賞勳局与里金杯乎賜者利郵便局長登志天ハ勳八等に敍侍ら禮白色桐葉賞を賜者利志奈と主か功績能志流き程も志らるヽ那利希里こ登に明治二十九年といふ耳第七師團をこヽ仁置可禮そ能ヽち同三十九年といふ尓農商務省の種蓄牧場乎も万堂こヽ耳設けら流ヽ尓至里しことは専らぬしかな美奈らぬこヽろ盡志の賜と毛以ひ徒遍く此乃二事はしも里の左かえの弥ま須与春可なれ盤左と人らこそ利てぬし能いさをヽ称遍喜へるも理里な利とそ覺ゆるぬしかこ能人能鑑と茂奈利つ遍き事の数々公に聞えて去尓し明治三十二年三月登いふに勅定の藍綬褒章を賜者利其乃善行を嘉て多万へ利志ことは類満連なるた免し尓天畏志具毛かしこ美比利ぬしか身乃誉の美二盤あら左利希利那阿者れ聖の大御よ能於本衣恵い多らぬく万なく日尓希に榮ゆく月寒のさ登よ四方能千町田八束穂乃垂穂能いね乃与ヽ豊希倶登与飛ら川の萬代のな可れ止者に徒支せ寿ぬしか功績乎常志な遍耳傳へて与
   明治四十三年霜月二十三日新嘗祭奉仕理希流日

 ※ 裏面の内容は、未詳です。
 ※ 碑の下部に、篆額されたと思われる文字が存在する可能性があります。
 (現在、カビによって黒ずみ判読不可能で、風化によって剥落もあります。)

3.「吉田善太郎功労碑(開拓餘光)」の譯讀文
  《 譯 讀 文 》

 開拓餘光
陸軍歩兵大佐従五位勳四等功三級稲村新六篆額 官幣大社札幌神社宮司従六位勳六等額賀大直(ぬかが ひろなお)撰文併書
見ざくれば 石狩の曠墅遠く四方に開け 豊平のながれとはに 郷曲を繞る この阿怜さと月寒の丘に碑たてヽ此のさとをひらき初めし吉田善太郎ぬしの功を千代につたえてむ ぬしはとしいまだ五十路の境をいでねど 里人らあつく敬ひ 令名遠近に聞えたり あはれ凡人にはあらずかし そもぬしがいさをとは何ぞ ぬしが年まねくこころつくしヽ公共事業の上にぞ そはあらはれたりける 主はかねてよりひたぶるに新墾の業に心をくだきけるが 明治二十年といへるころより 鋭心ふりおこし ちからのかぎり身のきはみ勉めいそしみ 或は道を開き あるは溝をうがち  あら山の荊棘かりそげ 田に畑にひらきなして 遂に百六十余町歩の美田を得させ里人らが生業をば賑はヽしめたりけり かくて又主は身のわざしげき中にもかにかくにおもひめぐらし 或はこの寒国にもさかえつべき稲種もとめいでヽ里びとに授け あるは 学校おこしてさとの子等に物まなびのたつき得しめ 或は 郵便局長に任られ 或は村会議員に選まれ あるは農会乃会長にあげられ その際々に国のため世のためなし出でし事等尠からずなむ かかれば公よりよみせられしことも一度ふたヽびにはあらず かの明治三十七八年の役の後 奉公義会の会長として賞勳局より金杯を賜はり 郵便局長としては 勳八等に敍侍られ白色桐葉賞を賜はりしなど 主が功績のしるき程もしらるヽなりけり ことに 明治二十九年といふに第七師團をこヽに置かれ そのヽち同三十九年といふに 農商務省の種蓄牧場ををも またこヽに設けらるるに至りしことは専らぬしがなみならぬこヽろ盡しの賜ともいひつべく 此の二事は しも里のさかえの弥ますよすがなれば さと人らこぞりてぬしのいさをヽ称へ喜へるも理りなきとぞ覺ゆる ぬしがこの人の鑑ともなりつべき事の数々公に聞こえて去にし明治三十二年三月といふに 勅定の藍綬褒章を賜はり 其の善行を嘉てたまへりしことは類まれなるためしにて 畏志くもかしこみひり ぬしが身の誉のみにはあらざりけりな あわれ聖の大御よのおぼえ恵いたらぬくまなく 日にけに榮ゆく月寒のさとよ 四方の千町田八束穂の垂穂のいねのいよヽ豊けくとよひら川の萬代のながれとはにつきせず ぬしが功績を常しなへに傳へてよ
   明治四十三年霜月二十三日新嘗祭奉仕りける日

 明治43年11月27日 午前11時より 碑の除幕式が行われました。

 明治43年11月29日付「北海タイムス」に除幕式の模様が掲載されています。
 また、明治43年12月1日付「小樽新聞」に掲載されました。
 除幕式の模様について前記2紙より概略を記して置きます。

 当日の来賓者は、稲村新六大佐(歩兵25聯隊々長)以下将校二十名・岩岐種牛牧場長・月寒小学校長等々四百余名の参会があり、発起人井田・渡邊の二名によるものでした。
 夜来の降雪尺余に及び寒風骨を徹するものがありましたが、除幕式を挙行しました。
・ 十一時頃より、碑石の前で、神官祓式
 (注)碑石は、高さ台石とも二丈三尺(二十三尺 → 約690センチメートル)
・ 除幕は、吉原町長及び吉田氏次男正雄氏の手により行われました。
 一般見物人のために、三俵の餅播きを行いましたが、余興の相撲撃剣は、風雪のためこれを見合わせました。
 除幕の後、月寒小学校運動場に式場が移されて、式が続けられました。
 〔月寒小学校運動場での式 〕
・ 建設委員長の工事報告がありました。
・ 官幣大社札幌神社宮司従六位勳六等額賀大直(ぬかが ひろなお)氏により碑文の朗読が行われました。
 (注)額賀宮司は、(明治10年8月11日生~昭和36年1月24日没)
 「北海道神宮史下巻・平成7年9月1日 北海道神宮発行」によると、第九代宮司となった方です。
・ 月寒・白石両村有志の祝詞、東代議士による祝電の朗読がありました。
・ 吉田善太郎氏の答辞にて除幕式を終えています。
・ その後、酒宴に移りました。
・ 宴半ばにして稲村連隊長の吉田氏に対する万歳三唱が行われました。
 一同起立して唱和し、再び宴を続けましたが、その後も列席者は、二百名の多きに達するほどで、歓談笑語各処に盛んでありました。
・ 午後3時頃散会となりました。(式は、「実に近来の盛況なり」とあります。)

4.参考の「北海タイムス」と「小樽新聞」

明治43年11月29日 「北海タイムス」より

明治43年12月1日  「小樽新聞」より

5.吉田善太郎記念碑 開拓餘光の模写図
 平成17年5月25日 筆者(草之)が撮影の後、模写を施す。
 〔吉田善太郎記念碑 開拓餘光〕場所:豊平区月寒西2条4丁目 月寒公園内

   上記が、吉田善太郎の頌徳碑「開拓餘光」の模写図です。

6.月寒公園の説明板

 月寒公園の吉田善太郎功労碑の横にある説明板には、次のような内容で、善太郎の功績を記しています。

【吉田善太郎功労碑】

 

 この碑は、生前の吉田善太郎の業績をたたえて、大正2年11月(※明治43年11月との説もあり)、地元の有志をはじめ、多くの賛同者の手によって建てられました。
 吉田家は旧士族で、代々南部藩に仕えていましたが、明治維新によって藩が廃止されたため収入が途絶え、生活することが困難になっていたことから、44戸の月寒組開拓移民団に加わって、北海道に移住することになりました。
 吉田善太郎は、父善治の6男1女の長男として、文久元年(1861)4月17日、岩手県南岩手郡上田村で生まれ、移住してきたときは10歳でした。
 農業の経験に乏しい吉田親子にとっての開墾作業は、まさしく闘いそのものでしたが、旧士族の誇りを捨てず、堅実に耕地を広げ、炭を焼いて売り、雑役を拾い、ひたすら資力の蓄積に励みました。
 明治14年父善治亡き後、長男善太郎は弱冠20歳の家長として一家を支え、資力を活用して農業開発の努力を惜しまず、独立心のある小作農には土地を譲り、多くの自作農を輩出させました。
 善太郎の業積のなかで特筆されるのは、清田から北野、大谷地、下白石を経て月寒川に至る、延々6kmに達する水田用水路を造りあげたことです。
 善太郎は、郵便局長をはじめ多くの公職を務め、大正2年の大凶作のときは、所有地を抵当に資金をつくり、それで救済事業を起して農民を助け、多くの人々の敬慕を集めました。
 現在、月寒公園にある善太郎の碑石は、彼を慕う青年たちが、コロ(細い丸太)を使って手稲山から3日がかりで運んできたものといわれています。
 善太郎は、明治の気骨を失うことなく、強固な信念をもって生き抜き、町政の発展に大きく寄与し、数多くの業績を残しましたが、大正5年11月、55歳の生涯を終えました。
   ~出典:とよひら物語 碑をたずねて 札幌市豐平区役所編~

 注として:
1.吉田善太郎の生年月日を文久元年(1861)4月17日生としていますが、文久元年(1861年)4月14日生と思われます。
2.碑の建立月日については、碑文には建立月日を明治43年11月(霜月)23日と記しています。また、新聞記事では碑の除幕式の日時を、「明治43年11月27日午前11時より 碑の除幕式が行われまた。」としています。
 「とよひら物語 碑をたずねて」では、大正2年を建立年としていますが、碑が建てられた年は、明治43年11月と思われます。
3.吉田善太郎の死去の年月日を、説明板では大正5年11月と記してありますが、新聞記事では、「大正5年(1916年)12月24日午前9時札幌病院にて卒去せりとの報あり」と記してありますから、新聞記事に従いたいと思います。

7.(付則として)阿部與之助の碑
 月寒公園の「吉田善太郎の碑」の近くに、「阿部與之助の碑」が所在しています。
 その碑について、少しだけ記す事と致します。
 「阿部與之助の碑」は、盛り土があり、その上に建立されてあります。
 周囲も広いのですが、碑もかなりの大きさとなっています。
 さっぽろ文庫65「札幌人名事典」1993年発行より、彼の人物像を紹介致します。

■ 阿部与之助(あべ よのすけ)
 天保13・12~大正2・6
 商業、豊平開祖の一人。山形県南平田村で生まれる。家は貧しく三男でもあり、若くして岩内に渡って漁家や商家に雇われ、明治6年札幌に居を移した。8年白石で農業を試みるが失敗した。志村鉄一(札幌の開祖)から間口一〇間奥行三〇間の土地を豊平に買い受けて住居を構え、小さな店を開いた。うどん玉、もち、酒など食料品の販売は成功し、地域の発展にも尽力した。9年には部落伍長となり、その後村総代人をつとめるようにもなった。財力をつけて木材雑穀商となり、土地開墾事業にも力を注いだ。一方30年から大正元年までかけて、精進川ぞいに二二〇町歩の大掛かりな植林を行い、本道の模範林として表彰をうけたりもしている。与之助の所有地は一四〇余町歩にのぼり、旧豊平町一円に及んでいた。このため道路改良のための土地の寄付も多く、また学校の増改築での寄付も、豊平小・平岸小・白石小など多くにおよんだ。

 碑文については難解な漢文となっていますが、記しておきます。(平成28年当時)
 碑文の文字は、風化が心配されましたがまだ十分に判別できる程度にあり、筆者が模写を試みて文字化してみました。

 碑文の研究される方は、正確を記すために現地にて模写を再度お確かめください。

阿部與之助の碑文 「表懿徳碑」 上記部分

 左写真は、阿部與之助の碑です。

 この碑の全文が掲載された文書をかなり当たりましたが探し出せませんでした。
 時代が過ぎて、興味や関心のある方が余り居られないのか、碑に関する文書が見当たらないのが残念でした。
 そこで、筆者に依る模写を試みました。多少漢字の誤りがある事が考えられます。ご容赦ください。
 参考としていただければ幸いです。
 訳読文については、差し控えさせて頂きます。

 注:背面には「大正元年十一月落成之 有志者」と刻まれています。

 下の絵図は、阿部與之助の商店を版画にして刷り込んだ冊子からの様子です。
明治二十年五月 出版
  「札幌繁榮圖録 全」
  <P40> より
与⅂(カネ与) 八木味噌 荒物商
札幌豊平村一番地
  阿部 與之助
店構えが大きく繁盛しているようです。

 現在、豊平区において、阿部與之助を取り上げても、余り知る人がいないような状況となっていますから、札幌市民に広く知られる事はありません。明治・大正期において、公共事業には率先して財を投じた方でした。豊平小学校・平岸小学校・白石小学校の教育に力を注ぎ、札幌市の発展に尽力されたという事を、多少なりとも知って頂けたならばと思います。

記:きよた あゆみ(草之)

  <付記>  ◎阿部與之助氏の碑文の譯讀(概要)

 「表懿徳碑(ヒョウイ トクヒ)<偉大な徳を表す碑>」
世ヲ観ルニ、財ヲ捐(エン)スル者、大率己ノ為ナル。其ノ己ノ為ノ者宿望既ニ達スルナリ。初メテ財ヲ捐スルトハ異ナリ、初メテ功ヲ挟(ハサ)ミ、若キ阿部與之助翁、真ニ罕(マレ)ニ其レヲ以テ、翁ハ豊平村ニ寓スル也。
明治九年、始メテ近隣ノ任ニ就キ、明治二十二年ニ之ヲ辞シ、明治二十五年再任サル。
而シテ、明治三十五年三月、是ノ間、主トシテ質実ニテ徐ニ公事ヲ営ミ、村ヲ衛ル為、戸ヲ捐スル。又、古衆ト協心シテ駐輦場ヲ新設シ、庠序(ショウジョ・学校)ノ新設増築ヲナシ、防災機関ヲ備エ、道路ヲ開通シ、橋梁ヲ重修スル。此ノ如ク則チ、其ノ居村ニ局(カギ)ラズ、隣村ニ於テモ亦然リナリ。唯、本末ノ差有ル尓(ノミ)。
其ノ他、連合ニヨリ渠ヲ穿チ、農会等凡ソ百公事ニ及ビ、財ヲ捐セザルコト無シ。
(明治)三十五年四月村制ガ施行ス。豊平・平岸・月寒、併セテ一村ト也。
越明年(明治)三十六年十月、村会議事堂ヲ建テンガタメ供スルナリ。
是ニ由リ、藍綬褒章ヲ賜ハル。時ニ明治三十七年五月三日ナリ。
是ノ歳(明治)三十七年九月、彰善会ノ頌有リ、翁ノ人ニ為シタルヲ知ル可キナリ。
豊平ニ焼屍窯有リ、一民ノ有スル小窯ノ為、不完ノ人意不稱ニテ、村ノ為之ヲ購セント欲スレド、奈村ハ是ニ於テ貲微(シビ)ナリ。
邑ハ正ニ宮城ナリ、某謀之翁、翁曰ク、苟(イヤシ)クモ公益、則チ、財ヲ捐スル何有ラン。某(ナニガシ)ヲ諮(ハカ)ルノ村會、會ヲ擧ゲテ、快ナリト呼ブ。
翁ハ莞爾(カンジ・微笑ミ)シテ、一千圓ヲ出スナリ。事在ルハ(明治)三十八年八月、既ニ(窯)改築ス。規模ハ大キク加エ功構(普請)ス。法有シ使人ハ満意ナリ。
其ノ一年間亦、(翁ノ)貨ヲ収メテタ額ハ實ニ一千五百圓也。
識者、大ニ稱スル明治四十三年、豊平(村)ノ一部、札幌區ニ属ス、窯ハ亦區ノ為ニ今有ル。戸口日ニ加ワリ其ノ収スル所多クニ随ヒタレド、其ノ(翁ノ)徳ノ大ヲ謂フ可キナリ。翁、藍綬褒章ヲ賜ハルノ後、尚、進ンデ大公益ガ加ワル毎ニ此ヲ濟ス有リ。
学校及ビ道路・橋梁等、新設重修之事ニ財ヲ捐スルハ倍蓰(バイシ・数倍)シ、公益ニ注時ガ不啻(トドマラ)ズ、神社・佛閣亦然リナリ。
官衛役所ニヨル賞詞賜盃ハ枚擧ニ不遑(フコウ・イトマナシ)、其ノ此ニ至ルハ、室橋夫人ノ内助ノ勞ガ、亦、與(翁)ニトッテ有力ノ若キナリト。
初メテ村制ガ施行ス。衆ハ宴ヲ張リ翁ヲ迎エ、且、金盃ヲ贈ルナリ。
後ニ、部属(行政区域)變更スルナリ。村會ハ亦金盃ヲ贈リ其ノ徳ニ感謝スルナリ。
而シテ、衆ト與翁ノ交情和気藹々タルハ此ノ如シ。蓋シ、敬イニ因リテ翁ハ挟功無シ。
嗚呼、己ノ為ノタレ彼ハ、翁ノ為ス所ヲ見、其ノ感果(カンカ)ヲ奈何(イカンセン)。
頃日、宮城昌章君、茂木幸助君、佐藤吉蔵君ノ三氏、来リテ謂フテ曰ワク。
衆ト相謀リ、翁ノ懿徳ヲ叙シ傳エシ碑ヲ建テル事ヲ欲ス。善哉。擧也。
君子成人ノ美况ノ若シ翁人カナ。余之知ル翁ハ二十餘年カナ。
此ノ素、文ニス可キヲ辞シ即諾ニ非ズガ、而シテ、(翁ノ)頌詞ニ曰ク。
明治三年此ノ遐荒(カコウ・未開ノ地)ニ来タル。
困衡『困心衡慮・こんしんこうりょ』 、既ニ、十年星霜。
業は稍緒ニ就キ、聊サカ小康ヲ得ル。 是ニ自ヨリ財ヲ捐ジ公益ニ譲り維グ。
時ハ大キク運ブ。 事開クニ随ガイ戸加ワル。
(戸)加ワルニ髄ガイ理ニ髄ガイ、財ヲ俟(マ)ツニ非ザルヤ。
徐ニ時ニ應ジ、楽生涯ニ似タリ。 終始一貫シテ使人咨嗟(シサ・賞賛)ス。
謙譲維先シ、百事相共ニス。
令望(レイボウ・よい評判)聚身シ、廼(スナワ)チ、尊用ニテ見ラル。
宛(サナ)ガラ尚絅(ショウケイ・慎ミ深ク)然トシテ人皆誦ズル所ナリ。
後世ノ子孫謹ンデ此ノ頌ヲ視ルベシ明治四十五年歳次(時節)、壬子(ミズノエネ)夏六月仲澣(中旬)。
  豊洲山崎益(ススム)撰(文ヲ選ビ)併書及篆額<石碑上部ニ篆文>

  ※筆者草之の訳読にて、十分に再検・吟味ください。

<本編>明治25年頃 「吉田用水」の開削

<外伝>吉田善太郎の農場(牧場)と邸宅

<外伝>明治25年頃 開削した「吉田用水」諸々のこと

<外伝>明治43年 吉田善太郎の碑

PAGETOP
Copyright © あしりべつ郷土館公式ホームページ All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.