昭和41年 「里塚霊園」の開設
1.昭和40年より造成された「里塚霊園」
昭和51年9月30日発行の「清田地区百年史」(清田地区開基百年記念事業実行委員会)には、「里塚霊園」について、次のように記してあります。
札幌市里塚霊園 里塚四六八番地
面積 七二万平方米(約二二万坪)
現在までの墓碑 一三、〇〇〇基
沿革 昭和三八年六月二三日設置認可される。この霊園は札幌市の東南部都心より約一六粁のところにあり、このあたり一帯はなだらかな起伏の台地で、緑の芝生と樹木に固まれた、静かで明るい近代的な公園式墓地である。
昭和四〇年から造成を開始し、二〇ヵ年計画で大半は既にでき上がり、残部造成に力をそそいでいる。完成後は道内唯一の拡大(ママ)な公園墓地として名所の一つとなるであろう。
春から秋にかけて都心からのがれた市民の散策の場所でもある。
「清田地区百年史」<P180>より
昭和38年6月23日に墓地設置の認可がなされ、昭和40年から造成が開始されたとしています。20年計画の造営事業であったのです。
昭和51年には、「大半は既にでき上がり」とあり、墓碑が13,000基が造られ墓所としての役割を果たせる状態となっていました。
2.里塚霊園の火葬場建設のこと
平成19年10月21日発行の「創立10周年記念誌・みどりの里」(里塚・美しが丘地区町内会連合会)には、霊園の「火葬場」について、『里塚・美しが丘地区町内会連合会のあゆみ』には、<P55~>次のように記してあります(抜粋)。
平岸火葬場に替わり里塚霊園の建設に伴い関係住民の窓口として「火葬場特別委員会」を町連内に設置する。
昭和56年/1981年
火葬場建設について火葬場特別委員会からの報告によると、昭和55年7月から建設予定地に隣接する17町内会の住民に対して説明会を開催することや関係会議や協議を得て、次の条件を付すことで建設に同意した。
その条件は「清田分区計画の確立、羊ケ丘通の早期開通、公共施設の誘致促進、上下水道の早期整備、総合運動公園の建設促進、老人施設の建設と子ども球技広場の設置」である。
昭和59年/1984年7月 里塚霊園竣工する。
昭和55年からは、「平岸火葬場」に替わり「里塚霊園の火葬場」建設に伴う協議が始まり、昭和56年に付帯条件を付すことで建設に同意しました。
そして、昭和59年7月に、里塚霊園(火葬場)が竣工したのです。里塚霊園の火葬場建設は、昭和56年から昭和59年まで、約3年がかりの工事となりました。
3.市のHPに見る里塚霊園のこと
運 営 : 札幌市 霊園管理事務所 Tel 011-881-2110
所在地 : 里塚468番地外 総面積 : 670,479平方米
墓所区画数 : 26,200区画 開設年度 : 昭和41年
造成期 : 1期1号~6号・2期1号~4号・3期1号~4号・
4期1号~6号・5期1号~6号 となっています。
昭和40年から造成が開始され、昭和41年には墓所の区画がなされて、墓石の設置が始まった事となります。
但し、「シンボルタワー」は、老朽化して廃棄処理されて現在は無くなっています。
4.里塚霊園の火葬場の大規模改修こと
昭和59年に建設された火葬場は、その後、20年以上休むことなく火葬場としての機能を果たしてきました。しかし、老朽化が進んだため、平成19年6月から平成21年3月の竣工まで2年間をかけて大規模改修を行いました。(休業期間が、1年10か月です)
市のHPには、「大規模改修では、建物の内外装を改修し、空調、衛生、電気、火葬炉の各設備を全面更新するとともに、高齢の方や障がいのある方に配慮し、誰にでも使いやすい施設となって生まれ変わりました。」と記してあります。
所在地は、札幌市清田区里塚506番地です。
下記は、供用開始の平成21年(2009年)4月現在の施設です。
新築/着工 : 昭和57年(1982年)8月
竣 工 : 昭和59年(1984年)6月
供用開始 : 昭和59年(1984年)7月
大規模改修 : 着工 / 平成19年(2007年)6月
竣工 : 平成21年(2009年)3月
供用開始 : 平成21年(2009年)4月
区域区分 : 市街化調整区域
構造 : 火葬棟 / 鉄骨鉄筋コンクリート造
待合棟 / 鉄筋コンクリート造
階 数 / 火葬棟 地上2階、地下1階
待合棟 : 地上2階
敷地面積 : 約23,970平方メートル
建築面積 : 6,108平方メートル
延床面積 : 8,560平方メートル
(火葬棟5,085平方メートル、待合棟3,475平方メートル)
最高高さ : 14.1m(火葬棟GLより)
火葬炉数 : 30基 告別室 : 2室
収骨室 : 8室 特別控室 : 30室
駐車台数 : バス32台、乗用車60台、身障者用3台
令和2年のパンフレットには、「火葬炉概要」として次のような記述が付記されました。
〇火葬炉形式 : 台車式(直上再燃焼炉付台車式寝棺炉)
〇燃 料 : 灯 油
〇排気方式 : 排気ファンによる強制排気方式(1炉1系列)
〇排気ガス処理方式 :偏芯流式再燃炉 + スクリーンフィルター
〇火葬炉設備 : 富士建設工業株式会社
改修によってかなり利便性が高まりました。
大規模改修により施設機能がレベルアップしました。
〇 会葬者控室を、椅子・テーブルを備えた和洋折衷型に改修
〇 待合棟にエレベーターを設置
〇 人工肛門の方(オストメイト)もご利用できる多目的トイレに改修
〇 玄関前のひさしを大きくし、雨や雪にあたらずに出入りできるよう改修
〇 お帰り口の進入道路幅を拡大
5.里塚霊園の造成工事のこと
「ゼンリンの住宅地図
昭和45年 豊平区」より
昭和40年から造成が始められて5年目の状況です。
墓石がいくらか建てられているようです。石材店が墓石の販売のため開業をしていました。
「整地中」という地図の中の文字が、これからを物語っています。
「ゼンリンの住宅地図
昭和49年 豊平区」より
昭和49年になっても、それ程の進捗が感じられない状況にあります。
それでも、少しずつ墓地面積が広がりを見せています。
「DIGITAL ROADMAP 札幌道路地図2003版」(株)チセイ堂より
北広島市の大曲川・真駒内御料線・国道36号線に囲まれた一帯が大きな墓地区画として昭和59年(1984年)7月に「里塚霊園」が竣工し完成しました。
一番南側の奥に当たる箇所に「里塚火葬場」が設置されてあります。また、中央部には、「メモリアルタワー」を設置し、方向確認をしやすいように設計が施されていましたが、老朽化のため廃棄処理されました。
6.「里塚霊園」に入植した開拓団」のこと
「里塚霊園」一帯は、戦後の開拓団によって開墾が進んだ地区です。戦前より土地所有者が所在したのか未詳です。但し、月寒25聯隊の「厚別演習場」が近くに在り、必要な土地については接収された模様です。
近隣に「厚別神社」に寄附された「植林地」が在ったのですが接収されています。
戦前は、「厚別演習場」の周辺一帯には、塹壕や弾薬庫が各所に在ったとの古老の方のお話があります。土地は、起伏のある状態の地形であったようです。
この土地は、戦後になって入地した「里塚右実行組合」によって、開墾されました。
注:「里塚右」の地域は、現在の国道36号線の南側で、千歳(本州)方面に向かって右側となる里塚の周辺を指示していました。
「豊平東部農業協同組合30年史」(豊平東部農業協同組合設立30周年記念事業)
昭和55年9月15日発行・編集 豊平東部農業協同組合<P35>には、次のような記載があります。
昭和23年9月に17名の組合員で作られ、当時里塚右実行組合と称していましたが、昭和47年現在の呼称となりました。組合員は開拓者の集まりで島松の軍属が多く、燕麦、黍、豆類、馬鈴薯等が作られ、冷害の年には全員で薪炭備林の木を切り、販売をした事もありました。集会には開拓補助住宅が使われていました。昭和38年に公園墓地がこの地に設けられることが決まり、7戸が離農、その後里塚霊園の完成を見ています。酪農なども今はなく、ブロイラー花卉などが作られています。
組合員数8名(54年・3月)
「里塚右実行組合」の里塚霊園付近の土地の入植は、昭和21年頃から始まり、昭和23年に組合が結成された経過が記されてあります。
里塚霊園となった土地周辺は、開墾がされない状況にあったため、「開拓団(開拓者)」が入植する事が出来たのです。
「豊平東部農業協同組合三十年史」(昭和55年9月15日発行 P151)より
「開拓団」の世帯人数の記載があるので記して置きます。
戦後間もない昭和26年頃の清田区の人口です。 ※「部落名」は、「字名」のことです。
厚別(あしりべつ)地区の人口が2000人に対し、424名の開拓団の人数でした。
「豊平東部農業協同組合三十年史」では、「開拓団」は、戦後に開墾のため移住して来た人たちで、戦前の開墾者と区別しての人口の記載となっています。
上記の「里塚右」は、後に「里塚南」地区と呼称された地域です。現在の国道36号線の南側から里塚霊園周辺地区に当たります。昭和47年に「里塚南」と改称されました。
(参照:「清田地区百年史」 P331より)
左図は、あしりべつ郷土館所蔵の「厚別一帯連絡図」です。
明治29年から明治34年頃に作製された地図です。
当時、開墾できそうな土地は、すべて登記がなされて、個人名義になっていましたが、里塚霊園の箇所は全く手つかずの状態です。
かなりの開拓困難地であったと推測されます。
7.里塚霊園(墓地)に所在する墓碑
〇平野弥十郎 氏・・・ 札幌市清田区里塚468番地(5期1号614番)
文政6年(1823)1月28日生~明治22年(1887年)10月6日歿
「札幌本道」土木工事請負人(責任者)であり、開拓使に依頼された「新道出来形絵図」や平野弥十郎企画の「北海道新道一覧雙六」(明治7年1月)が刊行されている。
〇永山武四郎 氏・・・ 札幌市清田区里塚468番地 (5期1号522番)
天保8年(1837)4月24日生~明治37年(1904年)5月27日歿
明治4年陸軍大尉、明治10年西南戦争で大隊長、明治21年北海道長官に就任する。
明治29年第7師団師団長、明治36年貴族院議員を歴任する。
〇佐藤昌介 氏・・・ 札幌市清田区里塚468番地 (5期4号856番)
安政3年(1856)11月24日生~昭和14年(1937年)6月5日歿
札幌農学校の1期生、明治19年札幌農学校教授、明治27年札幌農学校校長に就き、明治40年東北帝国大学農科大学長、大正7年北海道帝国大学総長を歴任する。
等の人々が眠る墓地となっています。
8.「里塚霊園」斎場の配置図
多くの待合室が整えられています。
身障者にとってもお年寄りにとっても動きやすいように配慮されています。
斎場は、かなり横に長い形状の建物となっております。
上記は2階で、下記は1階の配置です。
斎場という言葉は、どうしても「縁起でもない」と言われそうですが、誰しもが冥土への旅を歩んでおります。お友達や親せきの関係で斎場を訪れた方もおありでしょう。
いずれは清田区ですからお世話になる可能性があります。
ちょっと触れたくない、近寄りたくないと感じておられるでしょうが、幾分なりとも里塚の斎場・霊園に関心を持って頂ければと思い、経緯等について記した次第です。
記:きよた あゆみ(草之)