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清田区の文化財 厚別神社の「旧本殿」

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清田区の文化財 厚別あしりべつ神社の「旧本殿」

1. 神社の造りについて

 神社の造り(構造)は、大きく、本殿(ほんでん)・幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)より形成されています。

 左図が、その位置関係となります。

 本殿は、「神様」が居られる社殿で、拝殿は、「本殿」を拝するための社殿です。
 幣殿は、拝殿と本殿との中間にあり、参詣の方が、幣帛(へいはく)や献上物をささげる社殿となっています。
 幣帛(へいはく)については、布帛(ふはく)・金銭・酒食など神前にささげる供物(くもつ)を意味しています。「幣帛」の別称として、「御手座(みてぐら)」がありますが、神に奉納する物の総称で、布帛・紙・玉・兵器・貨幣・器物・獣類などの供え物で、同じく供物を指します。

2.本殿のこと
 神社で最も重要な建物は、祭神・神霊の鎮まります本殿(神殿)です。
 古い形式の神社には、特別な建築物(社・祠)は無く、高い山・磐(いわ)などの、神様がお降りなる場として囲まれた聖域(神籬)があるだけの所(地域)があります。
 時代が流れ、次第に建築物(社・祠)が据えられるようになり、その後、本殿は玉垣や廻廊で囲まれ、神社の創始の時期により、様々な建築様式が発生し現代に至っています。

 北海道では、神社の歴史が浅いので、個人で祀った小さな祠から始まった場合が多く、その後、地域の協力で本殿と拝殿(幣殿を含む)を備えた社が少しずつ各所に広まりました。

 清田区には、三里塚神社(当初は 八幡神社)・有明神社(当初は 公有地神社)があり、近隣では、瀧野神社(当初は 器械場神社)・月寒神社・豊平神社・白石神社・大谷地神社・信濃神社などがあります。
 信濃神社の旧本殿が、厚別神社旧本殿と相似しておりますので、参考にしていく事とします。

3.信濃神社の旧本殿

写真は、旧信濃神社です。

「厚別開基百年史」
昭和57年8月25日発行
<P49>より

 写真の説明には、信濃神社創建当時(明治31年)と、記しています。

 本殿は、現在「北海道開拓の村」に移設されてあります。

 この写真には、本殿・拝殿(幣殿を含む)が写ってあり、当時の神社の配置が窺えます。
 旧信濃神社は1897年(明治30年)9月に建てられたと伝えられています。
 現在「北海道開拓の村」にある本殿は、信濃神社(札幌市厚別区厚別中央4条3丁目)に所在したものを、昭和53~55年に復元して「開拓の村」に移設しました。

 「北海道開拓の村」の説明板の表示には、次のように記してあります。

  「旧信濃神社 (きゅうしなのじんじや)」 (43)
間口が2本の柱で構成される、「一間社流造」という様式で、神社によく用いられる。旧所在地は、長野県諏訪地方の出身者が多かったので信濃開墾地と呼ばれ、神社を建立するにあたって、郷里の諏訪大明神の御分霊(ごぶんれい)をいただき、信濃神社と命名した。

 

4.「一間社流造り」について
 旧信濃神社の社殿(本殿)は、間口が2本の柱(向拝柱)で構成されています。
 一間社流造り(いっけんしゃながれづくり)」という様式です。
 「流造り」とは日本の神社建築様式の一つで、屋根が正面に向けて流れるように造られていることから、そのように称されています。
 正面の柱間が一間(柱が2本)であれば「一間社流造り」で、三間(柱が4本)であれば、「三間流造り」となります。
 流れ造りは、階段の部分などを風雨から守るため、屋根が前面に延ばされていると思われます。後方の屋根も流れ造りで、本殿全体を守る造りとなっています。
 床(土台部分)は、高床式となっており、本殿そのものを保護すると同時に、高貴な雰囲気を醸し出す様式のように思われます。

 「北海道開拓の村」にある「旧信濃神社」の様子

<本殿について>
 向拝(こうはい)は、本殿の前面で、屋根が正面の階段上に張り出した部分を指します。
 参拝者の礼拝する所となり、「階隠 (はしがく) し」、「御拝 (ごはい)」とも言います。

5.記録による本殿・拝殿の大きさ
 神社の記録は、沿革として、様々に記されているのですが、本殿・拝殿の記録が残っているものが、近隣の神社では少ない状況です。
 例として記して置きます。

 北海道の明治初期の神社の建物は、簡単な祠(ほこら)から始まり、氏子(住人)が増えるに従い、祠をしっかりとしたものにすると同時に、拝殿をも据えて参拝できるような計らいを行っていったようです。
 地域の住民の人数により、また、地域の盛衰が神社の建立に深く関わっていた事をうかがう事が出来ます。
 本殿・拝殿の大きさは、各所で異なった状況にあったという事です。

 本殿の内側には、内陣(ないじん)と外陣(げじん)があります。
 内陣は、神社の本殿内部において神体を安置する場所を指します。
 外陣は、本殿の神体、本尊安置の場所である内陣の外側(扉の外側)を指します。
 左図では、本殿の中央右側が内陣で、中央より左側が外陣となります。

6.「あしりべつ神社」の旧社殿(本殿)について

 明治18年、清田緑地内に小さな祠を建立しましたが、大正6年5月、氏子の増加により、有志の方々の寄付を基に、現在地に新社殿が造営され、本殿が遷座しました。
・社殿様式   神明造
・昭和5年9月に公認の神社と認定される。
・昭和21年8月に宗教法人となる。
 以上は、左記写真他、「豊平町史」より

 写真の記録には、拝殿だけが写り、本殿の様子を窺う事ができません。
 本殿・拝殿の大きさの記録はなく、未詳の状況となっています。

7.「あしりべつ神社」の旧神殿(本殿)の構造

 新神社の右手に小祠が設置されてあります。
 この小さな祠が、昭和45年以前の旧神殿(本殿)です。
 造りは、一間社流造り(いっけんしゃ ながれつくり)となっています。
 先にも記しましたが、正面の柱間(はしらま)が一間のものを「一間社」と称しています。
 屋根の形が、流れ造りなので、「一間社流造り」となります。当時としては、通常の神社の形式でした。
 新社殿を造成する際に、旧本殿を移設しましたが、拝殿は残さなかったものと思われます。
 旧本殿の造りとしては格調があり、立派な祠となっています。但し、造られた当初のままかというと、屋根が銅板葺きになっていますので、改修されたものと思われます。

 写真は、やや正面・やや正面右側・右側の側面
左側側面・裏面ということになります。

 本殿の外形のほぼ全体が掌握されるよう写したつもりです。

 下の部分は、コンクリートによって固められてあり、当時の高床(土台部分)の状況が分かりません。

 年月により、風化して、基礎部分・木部が腐食したものと思われます。


 各部分を少しご覧いただきます。


 屋根の裏側の造り、柱と各所のかざり、裏側の屋根の造り、高床部分の造り等です。
 本殿の下に石の柱が所在しています。
 心御柱(しんのみはしら)と思われます。
 心御柱は、社殿の中央にある柱を指しますが、建築構造上、特に役割ないような柱ですが、本来は神の依代(よりしろ)<神が依り付くところ>であったと考えられています。

 屋根の造りと本殿の左右の縁です。
 正面の柱(向拝柱)と本殿を繋ぐ梁を「海老虹梁(えびこうりょう)」と呼んでいるようです。海老の形をしています。

 正面の向拝柱2本は、15センチ角(5寸角)の材料を用いたようですが、年月の為に、計測すると14センチほどに柱が細っていました。
 柱と柱の間隔は、1間社ですから1間(180cm)あると考え計ってみました。
 柱の中心から中心までの間が、丁度1間ありました。あしりべつ神社の旧本殿は、これで明確に「1間社流造り」であったという事が出来ます。

 但し、風雨に晒されて劣化した高床(土台)を、コンクリートでしっかりと固めたため、下部の部分が見えない状況となっています。
 旧本殿の本来の大きさは、コンクリートの土台上から下へ15cmから20cmほど深い箇所まであったと思われます。
 また、階段も腐食しており、何回か改修を行った可能性を見出す(切り込みの跡が見える)ことが出来ます。
 歳月による劣化は、どうする事も出来ません。しかしながら、このように保存をして「旧本殿」を拝することが出来る幸せを感じます。
 新本殿と隣り合わせるように、所在してある「旧本殿」を大切したいものです。

8.旧神殿(本殿)の構造の外寸

 厚別神社は、明治18年、清田緑地内に小さな祠を建立しましたが、大正6年5月、現在地に新社殿が造営され、本殿が遷座しました。
 ですから、旧本殿は大正6年に造営されたものと考えられます。

 しかし、現在の屋根は「銅板葺き」となっています。大正6年当時に銅板葺きにしたとは考えられません。当初は「茅葺(かやぶき)」ないし「檜皮葺(ひわだぶき)」であったと思われます。
 篠路神社の屋根は、茅葺ですから、一般的な「茅葺」であったと推定しています。
 材料については、檜材が用いられているようです。管理が行き届いていた事で、雨風に耐えて現在の状態を保っております。部分によっては、腐食があり補修されたと推測します。
 昭和45年に、現神社が創建された事で、旧本殿を保存するよう図らったと思われます。
 その際に、先にも記しましたが、屋根の部分の改修や高床の柱下部分をコンクリートでしっかりと固めることにしたのであると思います。
 現状は、本殿の下部が不確定です。本来は、柱下部分がもう少しあり、その下に礎石があったと考えられますから、下部は15cmから20㎝ほど長かったと推定できます。
 多くの神社が、本殿を再建する際、旧本殿・拝殿を残さない事が多い中に在って、配慮されて残して頂いたと敬意と感謝の気持ちでいっぱいになります。

 この神殿(本殿)の周りは、大きな樹木が生い繁り、昔日の多くの人々の思いや願いを成就させた、時を超えた空間となっているように思われるのです。

 本殿を参拝なさる際には、どうか旧本殿をも、慈しみに満ちた哀愁や郷愁を感じながら・・・
 ご参拝頂きたいと願っております。

記:きよた あゆみ(草之)

<本編>明治18年 厚別(あしりべつ)神社の創建

<外伝>厚別(あしりべつ)神社の「碑」について

<外伝>清田区の文化財 厚別神社の「旧本殿」

<外伝>昭和45年 厚別青年会と「清田会館」


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