札幌市清田区の町内会連合会でつくる「あしりべつ郷土館運営委員会」が管理運営しています。

清田区を流れていた「一里川」について

  • HOME »
  • 清田区を流れていた「一里川」について

清田区を流れていた「一里川」について

はじめに
清田区には、多くの川が流れていますが、里程を冠した川と言えば「三里川」と「二里川」がありますが、その他に、地域の方々が呼称した「一里川」があることが、「平岡町内会 創立五十周年 記念誌」(平成26年3月2日発行)の畔原(あぜはら)清彦氏の寄稿により分かってきました。

 そこで、畔原清彦氏による「一里川」の川筋を順次訪ねてみたいと思います。
 初めに、「平岡町内会 創立五十周年 記念誌」の「平岡の原風景」を転載致します。

        想い出 ~ 人々の記憶 ~
    「平岡の原風景」                畔 原 清 彦
(前略)
 一里川は公認された名称であるかは定かでありませんが、現在の平岡中央公園付近の道路脇に掘られた側溝が出発点で道道厚別滝野公園通と平岡循環通の間にある通りに沿って平岡わかば公園付近を径由し北野緑地に通じていました。昭和40年以前頃までは、東南の広い範囲の平坦地からの雪解け水、雨水、それに暗渠等の排水が主な水流となる小さな川であったと思います。          (以下略)

1.「一里川」の川筋について
 畔原氏による「一里川の水路」は、次のような経路です。
 平岡中央公園付近(平岡4-2)平岡わかば公園付近(平岡7-1)北野緑地へ

 平岡中央公園付近が出発点で、道路脇に掘られた側溝としているところから、湧水があった箇所ではなかったようです。人の手に依る排水路であったように記されています。
 そして、流れ込む北野緑地ですが、現在は「さくら川」と呼称されている川となります。

 「さくら川」筋は、東西の2つに分かれています。
 東側の川筋は平岡地域から北野緑地の「さくら川」へ、西側の川筋は北野地域から北野緑地の「さくら川」へと流れるような水路です。
 東側の川筋の先端は、畔原氏の記した通りに、わかば公園の西側に所在しています。

 

 一里川の流れは、「さくら川」東側の先端に流れ込んでいたと思われます。

2. 「さくら川」の東側の先端部の箇所について
 「さくら川」の東側の川筋に、平岡地域からの流れ込みがあったことが分かりました。
 その「さくら川」の先端部の場所を特定してみたいと思います。
 昭和36年(1961年)を基にした「札幌市清田区地形復元図」(地形分類図)から位置を求めると、現在の「道道真駒内御料札幌線」の東側、平岡7条1丁目10付近(オートバックス<株>の東側)に当たります。
 「札幌市清田区地形復元図」から類推すると、この辺りに湧水の拠点があり、浸食されて深い堀状の地形が形成されていたようです。「一里川」は、その地点向かって地域の水が集中して流れ込んだことが想像できます。

3.地図に依る「一里川」の地形について

 左図は、大正5年の国土地理院の地図です。
 この地図を見ると、平岡中央公園付近から平岡わかば公園付近まで、ほぼ平坦な状態です。
 川筋が形成されていたとは考えられません。
 本流の「二里川」「三里川」の浸食と比較すると、土地の状態は、ほとんど川を形成する程の浸食が認められません。

4.「平岡樹芸センター」周辺の土地の状況
 「ひらおか今昔 散策マップ」には次のような土地の様子が記されています。

(前略)
 今は亡き坂東智-さんの手記によると、この樹芸センターに近い、現在の地番では(平岡)3条、4条、6条の1丁目から2丁目にかけての一帯は、非常に水はけが悪く雨が降ると水浸しになるので、そこに住む人々は排水溝を完備するのに大変苦労されたようです。

 との述回があります。
 また、「平岡はよく水の湧くところであった。」として、「共同で側溝堀に汗を流していたようです。」との苦労話をされております。
 側溝堀は、湿地であった土地を少しでも乾燥した普通の状況(地面)にしたいとの思いで「暗渠」を張り巡らせるための作業があったと思われます。
 人力による作業ですから、長年に渡って続けていたと思われます。

 現在の地図での、「二里川」を記してみました。
( 右側の大きな二里川の本流 )
平岡イオン西側の池 ⇒
平岡中央中学校   ⇒
平岡中央小学校   ⇒
平岡地区会館   ⇒
平岡北公園の辺り ⇒
平岡三角公園 ⇒
大谷地わらび緑地  ⇒
        厚別川

( 左側の小さな二里川の支流 )
・北野台小学校の北側 ⇒
 北野緑地(さくら川)

・平岡わかば公園付近 ⇒
 北野緑地(さくら川)

北野緑地(さくら川)で合流し、
 二里川本流と合流  ⇒
 大谷地わらび    
        厚別川

 「二里川」の本流の源は、現在の「平岡南公園」の湧水に依るものです。
 (年代は特定できませんが、「札幌市清田区地形復元図」によると、国道36号線の南側にも湧水の形跡があり、イオンの森の方へ流れていた痕跡を見出すことが出来ます。)
 平岡南公園の湧水の流れは、昭和の年代まであったのですが、上下水道が地域に完備され湧水の水脈が枯渇したり、水脈を導管により地下に埋没したことにより、「二里川」の流れを下流域でしか見ることが出来なくなりました。

 その他に、平岡中央小学校の西側や平岡地区会館の南側、及び、平岡8条3丁目付近からも湧水があったと思われます。

 「二里川」は、地形的に「厚別川」と「三里川」に挟まれた状況にありますから、地下に水脈が出来、地域の各所に湧水がある地盤であったと推測します。

5.「一里川」の痕跡を探る
 それでは、平岡に所在した、さくら川へ流入した「一里川」について、その水路を探っていきたいと思います。
 昔の地域の地図を調べてみると、「ゼンリンの住宅地図・札幌市(南部郊外編)・昭和45年度版(1970年版)」に辿り着きました。

 注:住宅地図は、前年の調査により、翌年度に出版されます。ですから、1969年頃に地域を調査した図面であると思われます。
 そこには、「一里川」と思われる水路が記されてありました。 以下の地図を参照ください。

左側に「厚別川」が流れています。
中央が、「二里川」支流の「さくら川(北野緑地)」です。
右側が、「二里川」の本流となります。
上部の「茶色の直線」は、「東北通」となります。
斜めの「茶色の直線」は、「道道厚別滝野公園通」です。

「厚別滝野公園通」の西側が「北野地域」です。
「高倉左輔牧場」がありました。

「厚別滝野公園通」の東側が「平岡地域」です。

「厚別滝野公園通」と「平岡循環通」の中間に当たる通りに「水路」が所在しています。

 「二里川」の支流の「さくら川」のの地点に注目ください。
 「さくら川」のの地点から、水路が南に伸びています。人口の水路のようです。
 「中央バス平岡営業所」の辺りまで来て、直角に折れ曲がり少しだけ伸びています。
 この直線の水路が「一里川」と呼称された掘割(流路)であったと推測しました。

6.現在の地図に当てはめると

 「道道滝野ご料札幌線(厚別滝野公園通)」の東側、元北野通(中央バス平岡営業所)の北側は、「陸軍地」から「山鼻屯田給与地」となった土地です。総面積が、140万4000坪あり、明治27年7月30日に付与されています。
 現在の「平岡地域」を含む、平岡公園・平岡公園東地域・里塚緑ヶ丘地域・上野幌地域などを取り込むほどの膨大な敷地を有していました。

 現「厚別滝野公園通」は、境界を「零号線」と記され道幅が4間に設定されていました。
 「平岡循環通」は、境界を「二号線」と記され、道幅が2間に設定されていました。
 「厚別滝野公園通」と「平岡循環通」の中間の「一里川」となった道路は、境界を「一号線」と記され道幅が2間に設定されていました。

 この「一号線」の境界路に、「一里川」が掘割されたと思われます。給与地とは別に、道路用地が設定されておりましたから、掘割をする際には、土地所有とは関係なく水路を開削することが出来たと思われます。
 そして、「一号線」の境界路を掘割された地域の方々が、「一里川」と呼称されたのでしょう。「二里川」に沿うように流れが出来たのですから、そのように名付けたことに納得がいきます。分かり易い名称のように思います。
 多くの人に呼称されなかったのは、本来の川ではなく、「掘割」で造った水路だった事によるもので、一般化されなかったのは今となれば残念です。

7.まとめとして
 「住宅地図」での「一里川」の出発点は、「平岡中央公園」の傍に所在していました。
 その近隣には、「平岡樹芸センター」も東側に在るという状況です。
 終着の地点は、「二里川」の支流の「さくら川(北野緑地)」へと向かっています。
 「平岡わかば公園」が近くにあり、畔原氏の記された状況となっています。

 ※北野緑地の「さくら川」は、いつ頃から、そのような名称となったのかは定かでありません。北野団地が造成され、それに伴って北野緑地が整備され「さくら川」という呼称が付いたのであれば、「一里川」の呼称が先となります。
 「一里川」の終着の地点を支流の「さくら川」としたのですが、地域の方々は、「さくら川」を含めて、もっと下流の「二里川」の本流の合流点までを、そのように呼称したとも考えられます。(厳密に区分していたかどうかはと判りませんが・・・・)

 畔原氏が「公認された名称であるかは定かでありませんが・・・」と前置きをされていますが、地域の方々が平岡の発展のために労力を傾けた掘割が、軟弱な地盤を住みよい土地へと変えて行く水路として、「一里川」と(愛称として)呼称されたのだと思います。
 「昭和40年以前頃までは、東南の広い範囲の平坦地からの雪解け水、雨水、それに暗渠等の排水が主な水流となる小さな川であったと思います。」と記していましたが、40年代になっても、その水路の跡があったという事になります。

 平岡地域には、「三里川」「二里川」ばかりでなく、「一里川」が揃い踏みするように、所在していたという事をここに記して置きます。

記:きよた あゆみ(草之)

<付記>
 畔原清彦氏によると、「二里川」の支流の「さくら川」について、「当時、そのような川名を聞いたことはありません。」と話されておりました。
 畔原清彦氏は、平岡に長くお住まいされておられる方です。ですから、「さくら川」は北野第1団地(事業年度・昭和44年~昭和47年)を造成した際に銘々されたと思われます。
 昭和40年代後半頃に、銘々された可能性が大きいと推測します。
 (そして、現在、「さくら川」の川名は、余り広く知れ渡っていません。)
 「一里川」の川名は、分かり易く、親しみ易い川名となっております。
 今後、開墾当時から平岡地域に住まいされた方々が銘々された「一里川」とする方が良いのではと考えたりもしました。
 しかし、時代の流れの中で、最早「一里川」を目にする事はありません。
 里程を基にした川名が、清田区に3つ揃って在った事を、明記して置きたいと思います。

<本編>昭和40年代 平岡を流れていた二里川

<外伝>清田区を流れていた「一里川」について


最近のトピックス

リンクサイト

アーカイブ

PAGETOP
Copyright © あしりべつ郷土館公式ホームページ All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.