あしりべつ郷土館に行ったことはありますか。清田区民センター(清田区清田1条2丁目5-35)の2階にある施設で、清田区のこれまでの歴史が豊富な展示資料とともに詰まっています。
あしりべつ郷土館は、昔の清田区地域(昔は「厚別=あしりべつ」と呼んでいました)の歴史と暮らしや農業などの営みが分かる施設です。
昔の住居を再現した展示もあり、そこには清田で昔使われた台所用品などもたくさん展示されています。昔のストーブや身の回り品なども、実際に清田区地域で使われていたものが展示されています。
昔の清田区地域は農業地帯でした。当時、この地域で使っていた稲作や畑作の道具、林業の道具、商業や畜産などの道具も豊富に展示されています。
また、清田の移り変わりを示す航空写真が5つ展示されています。昔は水田や畑、林などが多かった清田区地域が、次第に住宅が建ち、道路ができ、都市化していく移り変わりがよく分かります。
昨年9月6日の大地震で、清田区ではかつての川や沢を埋め立てた所を中心に液状化が発生しました。里塚や美しが丘では家が傾き、損壊するなどの大きな被害が出ました。
郷土館に展示されている航空写真から、かつての川や沢の位置や様子がおぼろげながら読み取れます。
郷土館の運営は、清田区内の5つの町内会連合会でつくる「あしりべつ郷土館運営委員会」(問い合わせ先:☏011-885-0869)が行っています。
運営経費は、町内会を通じて清田区民1世帯あたり年50円を負担して捻出しています。あしりべつ郷土館は、清田区の地域住民が自主的に運営管理している施設なのです。
清田区地域は明治2年(1869年)、今の清田小学校敷地内に「木村」という人が駅逓(旅人の宿泊や運送に便宜を与える施設)を営んだという記録があり、このころから清田の歴史は始まります。
明治6年(1873年)、清田小学校付近に岩手県人の長岡重治一家が入植、開拓の鍬をふるいました。清田開拓の始まりです。
長岡一家の写真が郷土館に展示されています。また、当時、掘立小屋に住みながら厳しい自然と闘い、開拓していった様子を描いた絵も、郷土館に展示されています。
長岡重治は、今の清田小学校校庭あたりで寒地米の赤毛種による稲作を試みたといいます。
明治20年ごろから、北陸地方から大量の入植があり、開拓が本格化しました。用水堀もでき、明治25年ごろから厚別川(あしりべつ川)流域では水田づくりが活発になったといいます。
厚別川の大洪水に見舞われることもありましたが、先人の方々の並々ならぬ努力で、清田は農業を主産業に発展してきました。
昭和18年ごろから、電灯がつきはじめ、昭和19年には厚別地域(あしりべつ地域)が、清田、北野、真栄、平岡、里塚、有明の6つの字名になりました。
戦後もしばらくは農業地域として発展してきましたが、昭和40年ごろから都市化の波が押し寄せるようになり、札幌市のニュータウンとして発展し、美しい街並みが広がる住宅地として今日に至っています。
あしりべつ郷土館は昭和58年(1983年)、旧清田出張所の建物を使って開館しましたが、老朽化のため平成14年(2002年)、今の清田区民センター2階に移転し、今日に至っています。
毎日10時から16時まで開館。管理人が一人常駐しています。月曜日は休館です。入館は無料。展示物は地域の人たちの寄贈によるものです。
小学校の地域を知る学習などで、「この郷土館をもっと活用してほしい」という声が、区内の町内会連合会などから出ています。大人の方も、子や孫とあしりべつ郷土館に出かけてみてはいかがですか。
「ひろまある清田」より転載
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