北海道文化財保護協会は7月20日(土)、まち歩き講座「時計台とクラーク博士」を札幌市時計台(札幌市中央区北1条西2丁目)とその周辺で開催しました。

時計台で講師を務めた了寛紀明さん(左)と田山修三さん(右)

 

文化財講座の様子=札幌時計台2階ホール

 あしりべつ郷土館(札幌市清田区清田1条2丁目、清田区民センター2階)運営企画委員の了寛紀明さん(郷土史研究家、元小学校長)と田山修三さん(北海道文化財保護協会副理事長、元小学校長)の2人が講師を務めました。

 この講座は、北海道文化財保護協会と札幌市時計台が主催して開いた文化財講座で、小学生を含む市民20人が参加しました。

さっぽろ時計台

 はじめに、了寛さんが時計台2階ホールで、札幌農学校(現北海道大学)と時計台にまつわる話や、札幌農学校初代教頭クラーク博士の足跡についての話をしました。

 了寛さんの話で興味深かったのは、クラーク博士が札幌を去る際に見送りの学生たちに「青年よ、大志をいだけ」と有名な言葉を発した場所はどこか(北広島か恵庭か)という問題です。

 クラーク博士は明治10年(1877年)4月、任期を終え札幌の地を離れます。学生たち(農学校1期生)は6里塚のある島松沢まで見送り、ここでクラーク博士は「青年よ、大志をいだけ」と発して、颯爽と馬に乗って去って行ったと言われています。

国指定史跡「旧島松駅逓所」=北広島市

 通説では、今の北広島市島松(島松川左岸)の国指定史跡「旧島松駅逓所」がその場所とされています。クラーク記念碑(昭和25年建立)もこの「旧島松駅逓所」のそばに立っているので無理からぬことではあります。

クラーク記念碑

 しかし、この駅逓は、明治初期、島松に入植し寒地稲作を興した中山久蔵の駅逓で、島松駅逓としては2代目でした。

 最初の駅逓は、明治6年(1873年)、札幌本道(現国道36号線)の開通とともに、島松川右岸(恵庭市側)に建てられました。クラーク博士一行が訪れた明治10年当時、島松駅逓と言えばこの初代駅逓でした。

 駅逓とは、開拓期の北海道で宿泊や人馬継立、郵便などの業務を行った施設。

この案内板の後ろに最初の島松駅逓があったと記す案内板=恵庭市

 学生たちとの別れの地は島松駅逓だったといいますから、それは北広島の駅逓ではなく当時恵庭側にあった駅逓が「別れの地」だった可能性が高いと、了寛さんは当時の歴史資料や古地図などをもとに指摘しました。

 島松駅逓はその後、明治17年(1884年)、中山久蔵が駅逓の管理を請け負い、島松川対岸の北広島側に移ったとのことです。中山久蔵は明治30年の駅逓制度廃止まで駅逓管理を続けました。

 なお、恵庭側の駅逓の建物は、駅逓でなくなった後も存続していましたが、昭和28年(1953年)、火事で焼失しています。

 恵庭市が2022年に発刊した「新恵庭市史」は、クラーク博士と学生の別れの地について、「北広島側(中山久蔵の駅逓)ではなく、恵庭市側(最初の駅逓)である」と、通説とは反対の見解を示しています。

 はたして、実際はどうだったんでしょうか。

本陣跡地まで歩きながら途中、昔の創成川や明治初期の札幌の話をする了寛さん(右端)

 さて、了寛さんからクラーク博士の話を聞いた後、参加者は時計台を出て明治初期、開拓使本陣と呼ばれる建物があった場所(札幌市中央区南2条東1丁目)まで歩きました。クラーク博士は、この本陣に居住していました。

クラーク博士の居住地跡地で説明を聞く参加者=南2条東1丁目

 本陣があった場所は、二条市場の北側一帯で、今ではすっかりビルなどが建ち並んでおり、本陣の説明板(クラーク博士居住地跡「開拓使本陣跡」)が歩道脇に立っています。説明板前で参加者は、田山さんと了寛さんから本陣とクラーク博士の話を聞きました。

 クラーク博士は札幌を去る際、この本陣前で記念写真を撮り、ここから学生たちと共に出発し、札幌本道(現国道36号線、清田区内は旧道)を通って「別れの地」島松に向かいました。

(注)了寛さんは、レポート「明治10年 クラーク博士と別れの地」をあしりべつ郷土館ホームページに発表しています。くわしくは、こちらからご覧ください。