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明治25年頃 「吉田用水」の開削

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明治25年頃 「吉田用水」の開削

「吉田用水」の碑
用水開鑿の事業を後世に伝えるため、開鑿30周年を記念して、大正8年10月に、川沿いの起点の場所に、記念碑が建てられました。
碑には、
 『開鑿 参十年 大正八年十月之建
 用水記念碑  功労者
 吉田善太郎君 諸橋亀吉君 山崎銀之助君 山本喜兵衛君』と、記されています。
 ※当時の白石用水組合の発案で建立されました。

(現在 記念碑は,札幌コカコーラ工場裏口門の右 側の箇所に移設されてあります。元は、取水口近くの河川敷に建っていました。)

はじめに
「吉田用水」は、吉田善太郎さんが、清田・大谷地に渡る水路を、近隣の諸橋亀吉さん・山崎銀之助さん・山本喜兵衛さん等の仲間と協力して開鑿した稲作の用水を確保するための掘割です。
後に「吉田用水」、あるいは「善太郎用水」「吉田堀」と呼ばれた灌漑溝(水路)です。

注:「吉田川」が近くに流れていますが、農業研究センター方面からの自然の川です。
 開削された用水路ではありませんから、「吉田用水」とは関係がありません。
 吉田善太郎さんの功績を讃えて命名された川名です。

1.「吉田用水」の開削された年度の諸説
◎明治24年説・・・「白石村誌」(大正10年4月10日発行)
  ※ 注:「白石区・厚別区発行の郷土史」では、明治24年説を採っています。
      「白石村誌」に準拠して書かれたものと推測します。
◎明治25年説・・・「北海道毎日新聞」明治28年3月10日付の記事
  「北海道史人名字彙」河野常吉編著(原本は北海道大学北方資料室)
◎明治27年説・・・「新札幌市史」第二巻「明治27年頃完成」
 開削には、測量をし、水系を定め、必要経費を確定し、住民(土地所有者)の許可を得て道庁に(文書)出願に至りますから、かなりの日数と準備が必要であったと思われます。出願に対して書類審査があり、道庁の許可があって用水路の開鑿工事が行われます。
 ※ 私見としては、最初の水路は、明治24年諸準備25年開削年と考えています。

2.「吉田用水」の長さ・経費等
明治28年3月10日付「北海道毎日新聞」の記事には、次のように記してあります。

  月寒白石両村の用水路と水田
札幌郡月寒村厚別(あしりべつ)より同郡白石村番外地に至る二千六百十三間の用水路は、明治二十五年道廳の許可を得て諸橋亀吉、吉田善太郎二氏が村民数名と協議の上、金二千六百余円を投じ殆んど二氏の自費を以て開鑿せるものなる・・・・・(以下略)

〇長さについては、「二千六百十三間」と、端数までの数字が示されています。
(2613間×1.8m = 4703メートル <約5キロメートル>となります。)
〇開削許可の年度を、「明治二十五年」としています。
〇費用の金額は、「二千六百余円」であったと記しています。
〇費用の負担者は、殆ど諸橋亀吉氏と吉田善太郎氏の2名による経費の負担でした。
〇村民数名(土地所有者と思われます。)と協議をしています。
碑に刻まれた、山崎銀之助さんや山本喜兵衛さんがおられたのでしょう。
〇用水掘割によって月寒、白石の水田は、250町歩(ha)になったと記してあります。
〇吉田氏は8,90町歩(ha)、諸橋氏は50町歩(ha)の水田を所有する事になりました。
(用水路が出来る以前から水田を所有していた事が窺われます。)
〇用水路の開削によって100町歩(ha)以上の水田が新たに開けました。
※ 最初の「大用水路」は、この様にして開削に至ったと思われます。
続いて、明治27年には、第2用水路が完成したと推測しています。

2.「吉田用水」の取水口と経路

大正5年測量 国土地理院発行の地図より

厚別川から水を引き込む「吉田用水」が波線で記載されています。
地図では、清田・北野を経て、大谷地まで明示されています。
水位を高くするため、出来るだけ上流から取水しようとした工夫が受け取れます。

取水附近には、厚別川に札幌軟石を積み上げ水位を高めて、出来るだけ多量の水を確保しようとしました。
しかし、洪水などで、軟石が流されることがたびたびあったそうです。
中央を蛇行して流れている川は、厚別川です。
(上が北で下流、下が南で上流)

3.水路について
 水路については、どの文書も、厚別川から月寒川へ達する用水路としています。
しかし、明治27年の諸橋亀吉さんの図面(左図1)を発見しました。
 (左図2)は、明治27年の諸橋龍蔵さんの土地です。
 3と4は吉田善太郎さんの土地です。ですから、完成当初は、厚別川から厚別川へ流れる掘割であったと言えます。距離からして妥当な長さです。
 函館本線を越えた土地は、排水に苦労していた時期で、用水まで配慮出来なかったと言えます。その後(明治30年以降)に、北郷地域などの要望が募り、月寒川の方へ流れ落ちる掘割工事が行われたものと思われます。

4.吉田用水の痕跡を探る

吉田用水路の痕跡は、現在も各所に目にする事が出来ます。

 北野通の北野中学校の向かい側に当たる場所に三角形のビルが建っています。
 その東側に当たる場所から掘りの跡を即見出す事が可能です。
 そこから連らなるように側溝(鉄製の格子の蓋)が続いています。
 一見何の変哲もない緑地帯や公園の中に側溝が敷設されてあります。
 あまり適した散歩道ではありませんが、ちょっと歩いて見て頂けたならば幸いです。

5.まとめとして
 機械力のない時代に、幅4メートル・深さ2メートル・延長5キロメートルの水路を、地主・小作人40~50人(吉田農場の小作人が多数加わって)がスコップ・島田鍬(しまだぐわ)を使い、4か月で完成させたそうです。工事は、3人くらいで抱えるような木の切り株やら、笹の根がいたるところにあって大変であったといいます。
 この用水路の完成によって、100町歩(ha)以上もの水田ができ、更に米作りが盛んとなりました。
 清田・大谷地の地域は、広い水田地帯となった事で、多くの農夫が入地しました。
 この用水路は水量が豊富で、日照りが続いても水枯れの心配もなく、稲はいつも青々としていたそうです。
 しかし、時代は移り変わり、昭和45年頃になると、清田・北野・大谷地の宅地化が進み、ほとんどの水田がなくなり用水が使用されなくなりました。
 昭和48年10月、用水組合は、最後の水田農家八十島勝義さんの離農と機を同じくするように解散したのでした。

6.現在の地図での 初期の「吉田用水」の水路概略(予想図)
現在の函館本線の引き込み線(貨物ターミナル)の箇所まで、用水路があったと言えます。

函館本線の箇所と流通センターの箇所は、諸橋亀吉の貸下げ願地でした。

国道12号線に接して、諸橋龍蔵の貸下げ願地がありました。

大谷地・北野付近には、吉田善太郎の所有地が広域に渡って存在していました。

旧清田通りに沿って用水路が開削されたようです。(大木・切り株が支障になったのか、かなり蛇行しています。)
現在のコカ・コーラ工場の東側駐車場の辺り(川が蛇行して此の辺りを流れていました)から用水を取り入れました。

記:きよた あゆみ

<本編>明治25年頃 「吉田用水」の開削

<外伝>吉田善太郎の農場(牧場)と邸宅

<外伝>明治25年頃 開削した「吉田用水」諸々のこと

<外伝>明治43年 吉田善太郎の碑

<外伝>吉田善太郎の名を冠した「吉田山」


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