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清田区「山部川」の語源について

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清田区「山部川」の語源について

はじめに
 「清田地区百年史」(昭和51年9月30日発行)には  (P107より)

 山部川は、この厚別川の支流でヤマベの多い川として名づけられたもので、現在上流にヤマベの人工養殖場がある。

 と、「山部川」と呼ばれるようになった理由について記されてあります。

 「とよひら物語 古老をたずねて」(平成4年3月発行)<石田 豊>のお話(P122)より

 山部川なんかには、よく釣りに行きました。ヤマベがたくさん釣れたからこの名前がついたんですよ。

 と、「山部川」と呼ばれるようになった理由について話されております。

 山部川については、「やまべ」という魚を通して日々の生活に潤いをもたらした川であり、地域の川に対する愛着によっての銘々であったとの回想です。

 ところが、「山部川」の由来について、いくつかの著作や河川事業課HP等で、語源を『アイヌ語の「ヤム・ペ」(冷たい川)からつけられました。』としています。
 その語源は、適切なもので確かな事なのか、疑問に思い探ってみる事にしました。

1.古書に見る「山部川」の記述
<江戸時代の記述>
〇安政5年(1858年)村山家資料 「イシカリ御場所里数小名書上 覚(いしかり おんばしょ りすうしょうめい かきあげ おぼえ:※石狩場所の里数と場所の名前を書き上げた覚書(メモ)のこと)」では、「アシユシヘツ(本流)」・「ホンアシユシへツ(支流)」と記しあり、「ヤム・ペ」の記載はありません。
〇松浦武四郎の安政6年(1859年)「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(ぼご とうざい えぞ さんせんちり とりしらべにっし:※戊午は、つちのえうま(安政5年)で安政6年に出版)」に、「ホロ アシュシヘツ」「ホン アシュシヘツ」の記載はありますが、「ヤム・ペ」「山部川」の記載は見えません。

<明治時代の記述>
○明治13年自4月至9月 「取裁録 山林願(しゅさいろく さんりんねがい)」には、「ホロアシヽヘツ」・「ホンアシヽヘツ」とあり、地域の川の名称が明治初期以降、踏襲された名称で記載されてあります。
 「山部川」としての支流の名称の記載はありません。
 ※アイヌ語では、余程大きな支流でない限り、本流と支流については、「ホロ」「ホン」を付けて表す事が多いように思われます。
〇明治15年頃の「月寒村之図」には、真栄川を「字フタマタ沢」、山部川を「字三ツ股沢」と和名で記してあります。山部川の記載はありません。
〇明治18年1月刊行「開拓使事業報告」の中には、「厚別川」に関する記載は多数ありますが、「山部川」の支流に関する記載を見つけ出せないでおります。
〇明治20年(1887年)の「アイヌ語地名の命名法」B・H・チェンバレンには、語彙(ごい)の中に「アツウシベツ」がありますが、「厚別」の事であるかは不明であり、山部川の記載もありません。
〇明治24年3月発行「北海道蝦夷語地名解(ほっかいどう えぞご ちめいかい)」永田方正著には、「ポンハシウシュペッ」・「ポロハシウシュペッ」と記してあり、山部川の記載は見えません。
〇明治25年(1892年)北海道庁地理課 20万分の1図<札幌>には、「幌厚別川」の記載ですが、山部川の記載はありません。
〇明治29年(1896年)陸地測量部 5万分の1図 <清田><石山>には、室蘭街道にトンネウシナイ(トンネ川)・ラウネナイ(三里川)・野津幌川(大曲川)の名が見えますが、山部川の記載は全くありません。
〇明治42年(1909年)<部分修正測図>陸地測量部 5万分の1図<石狩國(いしかりのくに) 札幌郡札幌区>には、山部川の記載はありません。
〇明治43年1月印刷「月寒 歩兵第二十五聯隊(れんたい)製図」ですが、この地図は地域の地図ですから、山部川があってもよさそうですが、記載は見えません。
〇明治44年(1911年) 「北海道詳圖(しょうず)」中村信以には、厚別(地域)・厚別(駅名、外に朱で「アツベツ」)・厚別川・厚別瀧の記載はありますが、厚別(地域)・厚別(駅名、外に朱で「アツベツ」)・厚別川・厚別瀧の記入があります。しかし、「山部川」の記載はありません。
〇明治44年1月28日発行 「札幌區史(くし:区史)」伊東正三編纂には、「アシュツヘツ」「ホン アシュシヘツ」「ホロ アシュシヘツ」とあります。しかし、「山部川」の記載は見えません。

 明治時代の文献・地図には、「ホン アシュシヘツ」の記載はありますが、「山部川」についての名称が記されていません。そのような事から、語源についての記述もありません。

<大正時代の記述>
〇大正5年(1916年)国土地理院 2万5千分の1図 <地図で見る札幌変遷Ⅱ>には、山部川の記載がありました。(漢字表記での初見と思われます・・・)
 ※カタカナ表記であるならば、アイヌ語からの可能性があるのですが、そうではないのです。

続いて昭和期の「山部川」の記載を見てみます。
<昭和時代の記述>
〇昭和34年3月31日発行「豊平町史」の巻末の添付地図(豊平町内地図)に、「山部川」と記載されています。厚別川の支流の事なので、語源の説明は勿論ありません。
〇昭和40年7月発行「札幌アイヌ地名を尋ねて」山田秀三著<「札幌東南郊略図(※札幌の東南で郊外の地域(豊平・月寒・輪厚・島松など)の略図)・P149」>の図に、「山部川」(漢字表記)と記載されています。アイヌ語による語源の説明はありません。
〇昭和46年5月24日発行「郷土史あしりべつ」のP8に、「山部川」と記載されています。アイヌ語による語源の説明はありません。

 その後は、決まったかのように、厚別川の真栄地区の支流を「山部川」と記載されています。
 「山部川」の川名の記載は、大正期にありますが、昭和30年代過ぎになってようやく一般化され、記されるようになったようです。

2.富良野市の川名「山部」の語源について
 ところで、清田区の山部川のことではなく、富良野市の川名「山部」を記した著作があります。

 「北海道の地名」山田秀三著 (1984年10月31日発行)<P71>より
 昭和59年発行の著作です。記された年代等を配慮しながら内容を考察ください。

  山 部  やまペ
 富良野市南部の川名,地名,駅名。山部川は富良野川の西支流で,それから出たらしい名であるが意味は忘れられた。北海道駅名の起源は「古名をヤマエといったともいうが意味は不明である。むしろヤㇺ・ベ(冷たい・水)が訛ったものでないかと思われる」と現在の形の方から考えた説を書いた。
 松浦説では「ヤマイ」で,明治29年5万分図では「ヤマエ」である。似た地名では沙流川中流にヤㇺエがあり,永田地名解は「yam-e。栗を・食ふ」と訳した。もしかしたらこれと同じ,あるいはヤマエ(yam-a-e 栗を・我ら・食べる)ぐらいの名だったかもしれない。

 と記載されています。(尊敬する)山田秀三先生におかれても、単純な回答ではないのです。
 「山部」の語源そのものについての説明ですが、現在の形からの説としています。
 月寒(ツキサップ)を(ツキサム)から考えるような形です。(何か、受け入れ兼ねます。)
 他の説を取り上げて自説についても書かれています。不明な部分、意味不明な部分等があり、様々な諸説が出そうです。山田氏が執筆されたとする本を紹介します。

「北海道 駅名の起源」(昭和4年<1929年>4月1日日発行)<P92>より

  山 部 駅  ( やまべ)
所在地  (石狩國)空知郡山部村
開 驛  明治三十四年四月一日(北海道鉄道部)
起 源  この地は、むかし「ヤマエ」といつたともいうが意味は不明である。
     むしろ「ヤㇺ・ペ」(冷たい・水)が訛ったものでないかと思われる。

 との記載がされています。仮説を提示しながらも、山部の語源を不明としています。

 (山田秀三氏の主張は、大きな説得力があります。この「山部」に関する説について、山田氏の<意味不明>な疑問点が独り歩きするような弊害が生じたのではと感じます。)

 「駅名の起源」(昭和25年<1950年>12月15日日発行)<P77>より

  山 部 驛  ( やまべ)
所在地  石狩國空知郡 山部村
開 驛  明治三十四年四月一日
起 源  古名を「ヤマエ」といつたともいうが意味は不明である。
     むしろ「ヤㇺ・ペ」(冷たい水)が訛ったものでないかと思われる。

 との記載がされています。内容は同じです。もう1冊紹介します。
 永田方正著の「北海道蝦夷語地名解」についてです。

 「北海道蝦夷語地名解」(明治24年3月発行)永田方正著 <P229>より

  日高國 沙流郡(ひだかのくに さるぐん)
Yam e   ヤㇺ エ  栗ヲ食フ   松浦地圖(ちづ)「ヤメ」トアルハ急語ナリ

 との記載がされていますが、日高の「ヤムエ」で、別の地域についての記述です。
 山田秀三氏の仮説(富良野)である論を当てはめるのには、難しいと思われます。
 1つの解釈・事例・参考としていただきたいと思います。

3.「山部川」の語源のまとめ
(1) 清田区の「山部川」は、明治期には見当たりません。
 明治13年自4月至9月「取裁録 山林願」(地域の名称を多数記載してある)においても、明治20年頃「蝦夷地名録」全三巻 白野 夏雲(しらの かうん:※歴史家、札幌神宮(北海道神宮)の神主をされた方)(北海道の語源)にも当たりましたが、山部川の記載を探し出すことが出来ませんでした。
 古地図・古文書等々においても、明治期に名付けられた形跡は見当たりません。
大正期頃に名付けられたものと思われます。
(2) 「山部川」の銘々が大正期であれば、アイヌの人々があしりべつの地域に居られて名付けたとも思えません。(語源そのものを辿ること自体、意味を持たないのではないかと考えます。)
 清田には多くの川がありますが、厚別川の支流(ホン アシュシヘツ)であるため無名の川であったと思われます。トンネウシナイ(トンネ川)は、例外の川であると言えます。
 地域住民があしりべつに永住し、川との関りが増えたことによって三里川・二里川・清田川・山部川等の川に呼称が付けられていったと考えるのが自然です。
(3) 「山部」についての山田秀三氏の仮説には、納得できる部分もありますが、氏自身が不確定であると考えておられる(躊躇している・決定的でないと懐疑的になっている)部分もあり、断定的ではないと受け取りました。
(4) 「山部川」については、「北海道 駅名の起源」の『「ヤㇺ・ペ」(冷たい川)が訛ったものでないかと思われる。』の部分を多数の方に読まれ、すんなりと清田区に当てはめて一人歩きした感が否(いな)めません(※否定できません)
(5) 結論として
 アイヌ語は、地域の特色(地形・風土など)によって名付ける事がほとんどです。濁った川や谷底の川などがありますが、冷たい川は、特色ある名付けであるとは思えません。
 地域の人々のお話の中にあります「やまべが多く生息し、よく釣れるので、そのように命名した。」とする住民による銘々が妥当であると考えます。

 「山部川」の銘々の1つの提案として置きます。今後の研究を待ちたいと思います。
 検証をよろしくお願いいたします。

記:きよた あゆみ

<本編>清田の地名「厚別(あしりべつ)」について

<外伝>「厚別」アシリベツの表記について

<外伝>清田区「山部川」の語源について


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