郷土史家の了寛紀明氏が公明党札幌清田総支部夏季研修会に招かれ、明治以降の清田の歴史を語る

講演する了寛紀明氏
公明党札幌清田総支部夏季研修会が9月26日(金)、清田区民センター(清田区清田1条2丁目)で開催され、郷土史家で「あしりべつ郷土館」企画運営委員の了寛紀明さんが清田区の歴史について講演しました。

竹内孝代市議
はじめに清田総支部長の竹内孝代市議が小中学校のエアコン設置問題や冬の除排雪体制などの市政報告を行いました。
続いて、了寛紀明さんが登壇。了寛さんは、清田区地域は明治時代から昭和19年(1944年)まで、「厚別」と書いて「あしりべつ」と呼んでいたこと、昭和19年に「厚別」が清田、真栄、北野、平岡、里塚、有明に変わったことなどを紹介しました。
これは、今の厚別区に居住する人たちが昔、自分たちの住む地域を「厚別」と書いて「あつべつ」と呼んだことから、区別しづらくなったことなどが要因とのことです。
もともと、アイヌ語のアシリベツ(「魚を獲るしかけのある川」の意)の当て字だった「厚別」を「あつべつ」と読むようになったのは、明治27年(1894年)、函館本線に厚別駅が設置され「あつべつ駅」と呼称するようになったからとのことです。
今の清田区の人たちは昔、「厚別」とかいて「あしりべつ」呼称し、今の清田小学校、清田中学校は昭和47年(1972年)まで、厚別小学校、厚別中学校と書いて、それぞれ「あしりべつ小学校」「あしりべつ中学校」と呼んでいました。
今も「厚別橋」は「あしりべつ橋」と呼び、厚別神社は「あしりべつ神社」と呼ぶのが正式です。厚別川も清田区内では「あしりべつ川」と呼ぶ人が多いです。

あしりべつ郷土館を見学する参加者
了寛さんは、このほか開拓使が開削した札幌本道(国道36号のルーツ。清田区内は今の旧道)や、明治期の吉田用水(清田―北野―大谷地)造成による水田地帯への変貌、さらに昭和40年代以降、宅地化が進み、農村から住宅街に変貌してきた清田区の歴史について、平易に解説しました。
研修会の後、参加者は清田区民センター2階のあしりべつ郷土館を見学しました。「こんなに素敵な施設があるのを初めて知りました」と言いながら、昔の先人たちが使った道具類などを見学し、清田の歴史に思いを馳せていました。